「東海道」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】その14補足:小田原大海嘯にまつわる史料2点

以前明治35年(1902年)9月の「小田原大海嘯」についてこのブログで取り上げたことがあります。これに関連して、ネット上で公開されている史料を2点ほど見付けたので、補足として紹介しておきたいと思います。

1つは「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されている「明治三十五年九月二十八日神奈川県下暴風海嘯被害記事」です。奥付によれば「神奈川県測候所」が同年の11月14日付けで発行したもので、全28ページほどの簡潔な冊子ですが、非売品とされており、この冊子が何処に向けて配布されたものかは不明です。検索出来た範囲内では、神奈川県立図書館や県下の公共図書館では蔵書しているところはない様です。

以前の記事では「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)を引用しましたが、特に天気図や浸水地域図はこの冊子のこちらのページに掲載されている図と良く似ており、恐らくこの冊子を参照して作成いるものと思われます。この冊子にはまた、9月26日午後10時から29日午後11時までの気圧・気温・風向・風速・雨量・天気のデータ被害の一覧表が掲載されています。この一覧表も、「神奈川県災害誌」に掲載されているものと共通です。その他の著述部分も共通する部分が多いので、恐らく「神奈川県災害誌」がほぼ全面的にこの冊子に依存して該当箇所の記述を進めたのでしょう。


また、この冊子には「附・明治三十五年九月五六両日 神奈川県下小田原以西沿海激浪記事」と題し、小田原大海嘯の直前にやはり小田原沿海を襲った高潮被害についても併せて記されています。この時もやはり死傷者を出す災害となったことは以前の私の記事でも触れましたが、記事ではこの高潮の原因となった台風(この冊子では単に「低気圧」とだけ記されていますが)が8月31日頃に小笠原諸島を経て本土へと向かったものであったこと、そして来る台風に備えて小田原沿岸では急遽防波堤の修築を試みていたものの、功を奏しなかったことが記録されています。

もう1つの史料は、「土木学会附属土木図書館」で公開されている「土木貴重写真コレクション」です。ここには「小田原大海嘯」の被災各地の20枚の写真が掲載されています。

「土木貴重写真コレクション」に見える地名
「土木貴重写真コレクション」に見える地名
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この20枚が撮影されたとする地点をおおよそで地図上でプロットしました。複数枚撮影された地点もありますので、全部で12地点に留まっていますが、相模湾西側の幅広い地域に及んでいることがわかります。

これらの写真の中には鉄路が写っているものが少なくとも6枚(他に「山王原」2枚目にも線路らしきものが見える)含まれています。このうち、「国府津橋」(今の「親木橋」か、地形から西から東を見る構図)と「酒匂村」の2点は小田原電気鉄道のものでしょう。馬車鉄道から電気鉄道に切り替わったのが明治33年(1900年)ですから、その翌々年に損害を出したことになります。他方、「石橋」(2枚)「吉浜」「土肥村門川」の3点に見える軌道は「豆相人車鉄道」のものでしょう。この鉄道は明治28年(1895年)に熱海〜吉浜間で開業、翌年小田原までの延伸を果たしましたが、これは小さな客車を人が押して進むというものでした。どちらも海岸近くを進む江戸時代からの街道に併用軌道として敷設されていたため、高潮を被りやすい地域を進む区間が長くなり、その結果被害箇所が増えたと言えるでしょう。

特に「酒匂村」や「門川」の写真では、鉄路があらぬ方向にねじ曲げられているのが見て取れます。傍らの電柱(恐らく架線柱兼用)も同じ方向に倒れかかっていますから、架橋部分で高潮の強い水圧に押されて曲がってしまったものと思われます。「石橋」の1枚目の写真では路盤が大きく削られて線路が宙にぶら下がってしまっており、他にも地盤を削られたと思われるものや、家屋が歪んでしまったものが多数見られることからも、当日の高潮の威力が窺い知れます。

当日の様子を描いた「小田原大海嘯全図」と共に、この災害の実情を伝える貴重な写真と言えるでしょう。




2015年9月のストリートビューに見える
江の島弁財天道標
P.S. 以前お伝えした遊行ロータリー交差点の「江の島弁財天道標」ですが、先日新たにガイドが設置されたそうです。

遊行ロータリー交差点江の島弁財天道標 #藤沢キュン : 全部假的


今回はしっかりした内容の説明が付けられており、更に英語の説明が付記されました。

また、ストリートビューの方は2015年9月の撮影分が追加され、復旧された道標が確認出来ます。なお、交差点の形状が変更された影響で、前回までのストリートビューと完全に同じ場所で比較することは出来なくなっており、右のストリートビューは道標が見えやすい位置に移動させています。
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【旧東海道】記事一覧

「東海道」カテゴリを付けた記事の本数がかなり増えましたので、ナビゲーションしやすい様に一覧表を作ることにしました。この記事だけ、記事の日付を原則最終更新日に合わせる様にします(但し、最新の記事よりは古い日付に設定します)。なお、他の記事へのリンク集という性質を考え、この記事に限ってコメント欄とトラックバック欄を閉じました。

「東海道」カテゴリを付けてあっても、関連性の薄い記事はこの一覧に含めませんでした。

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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回から鎌倉郡を取り上げます。やはり分量が多いため、今回は東海道だけになりました。

今回も宿場の継立に関連する記述については以前まとめた記事に譲り、ここではそれ以外の記述を拾っています。なお、他の宿場の記述では最初に宿場としての共通の事項をまとめ、その後に宿内の各町の記述が続く、という構成になっているのに対し、戸塚宿ではその位置付けの違いからか、吉田町と矢部町の記述は戸塚宿の記述から独立して取り上げられています。この2つの町にも継立に応じた地子免の記述があるため、先日の記事にこの分を書き加えました。

また、吉田町が街道中で2箇所に分かれて存在する様になった経緯が記されていることに鑑み、以下の地図では吉田町・矢部町と戸塚宿の位置関係を色分けして表現してみました。

小名は1つでも街道筋に関連のあるものを含んでいる場合はその全てを書き出しています。必ずしも街道が係っていない小名が含まれていることに御注意下さい。今回も由緒にまつわる古典の引用は基本的に省略しましたが、「影取」の伝承にまつわる引用については意味が通り難くなるため、敢えて含めました。


東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)

東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
(以上どちらも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
東海道品濃村百一
(三十三)
村の東界に東海道係れり幅三間、
◯小名 △西之谷 △道喜谷 △淸水谷 △立野谷 △七次谷奈々都義也止 △荒井ノ谷 △とぶ谷 △谷宿谷 △椎ヶ谷 △瀧ヶ谷 △品濃臺
◯燒餅坂 東海道往還中にて平戸村の接地にあり下一町半坂側に茶鄽ありて熬糕を鬻ぐ、故に名づくと云へど【回國雜記】に蚤くもちひ坂の稱呼見えたるは果して此坂の事にして最舊き唱へなり曰、…又同じ記に摺子鉢坂の名あり曰、…記載の順次を考ふるに此近きあたりと覺ゆれど正しき遺名の考據なし、◯谷宿坂 燒餅坂の南にあり、小名谷宿谷の名に據りて此稱呼あり林羅山、… ◯品濃坂 谷宿坂の南にあり下二町、
◯一里塚 谷宿坂の南にあり雙堠なり、南、吉田町、北、保土ヶ谷武州橘樹郡の屬、の里堠に續けり、
平戸村百一
(三十三)
東海道西方村界に係る幅五間、
◯坂三 一は燒餅坂、一は谷宿坂、一は品濃坂と呼ぶ、皆東海道往還中にありて品濃村界に値れり、名義等彼地に據れば總て彼村の條に詳載す、
前山田村百一
(三十三)
村の巽界に東海道係れり幅三間、
◯赤關川 村の南界を流る幅三間餘南隣上柏尾村にては永谷川と呼ぶ、東海道の係る處に土橋を架す赤關橋と唱ふ此橋上柏尾村に跨れり、彼村の條併せ見るべし、
上柏尾村百一
(三十三)
東海道村の中ほどを東西に貫く幅三間、立場あり、字挑灯立場と呼べり、
◯小名 △赤關 △臺畑 △中ノ町 △鄕ノ前 △さがり下 △流市場出口 △大橋 △小橋
◯永谷川 東北村界を流る幅三間半前村[永谷上村]馬洗川の下流なり、東海道係る所土橋を架す長五間、赤關橋と呼べり赤關の名は、當村小名に因て起れり鄰村前山田にては此川名をも赤關と稱呼す、
下柏尾村百一
(三十三)
東海道南北に通ず幅四間半海道の中程にて西北に岐路を別つ、大山道と云ふ
◯小名 △市場 △宮ヶ谷 △臺 △池ヶ谷 △藥師下 △寺下 △幷木下
◯坂二 東海道に在リ、一は臺坂登一町、一は池ノ谷坂登一町十五間と云ふ
◯川 舞岡村より流れ來る小流なり幅三間半故に或は舞岡川など呼ぶ、東海道を横ぎれり、爰に土橋を架す五太夫橋と云ふ長三間半、ことは吉田町に詳かなり

※字の「池ヶ谷」と坂の「池ノ谷」、当欄の「五太夫橋」と吉田町の「五大夫橋」は何れも原文ママ。

舞岡村
(三十二)
東海道北界に繋る、
吉田町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…萬治二年便宜のため、彼[戸塚]宿内往還の地を裂賜はりて村民多く彼所に移住す、故に今の村落は矢部町を夾ておのづから區別せるが如し、されば本村の地を呼て元吉田町と云ひ、或は吉田町の内元町とも字せり、…東海道東西に通ず幅四間、又鎌倉への捷徑あり大橋邊より南に分れ柏尾川堤上を經て、上倉田村に至り、本路に合す、
◯一里塚 東海道路傍にあり、雙堠なり、南方は原宿村、北方は品濃村の里堠に續けり、
◯柏尾川 西北の方矢部町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す長十一間大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄防あり高一丈、此餘東境に舞岡村より東海道を横ぎり北流して此川に沃ぐ小流あり幅三間許往還に値りて土橋を架す、五大夫橋と名く、相傳て東照宮當所通御の時石卷五大夫某旗下の士、七郎左衞門某が祖と云ふ、と云ふもの此橋邊に出て迎へ奉り、恩命を蒙りて中田村を賜へり、夫より橋名は起ると云ふ按ずるに、…
矢部町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…東海道村東を通ず幅四間、
◯柏尾川 東方吉田町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す、大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄あり高九尺、
戸塚宿九十九
(三十一)
當所及び隣村吉田・矢部兩町を加へ戸塚三ヶ町と唱へ、東海道五十三驛の一なり、古は富塚と書す、今の文字は正保の改に草創す、中古は町と稱せり…、專宿と書記する事は元祿已後の事なり、…戸数二百六十五數内、本陣、臺宿に一戸、中宿に一戸、脇本陣臺宿に一戸中宿に二戸、旅舍大十九戸、中小各二十戸あり、東海道東西に貫く幅凡四間許、鎌倉道中小名田宿より東に分れ、上倉田村に達す幅七尺、
◯小名 △上宿 △中宿 △臺宿 △天王町 △八幡宿 △田宿 △西ノ久保
◯坂二 海道中南にあり、一番坂登一町餘二番坂登三十町餘、と唱ふ、此餘間道の小坂三あり、矢澤坂登三十間宮ノ谷坂・和田坂登各一町餘、等名づく、
◯柏尾川 東界を流る幅五間、…鎌倉道の係る所板橋を架す長八間、高島橋と稱呼す、此餘天王橋・西久保橋・第六天橋・坂上橋など名づくる小橋あり、共に東海道中の小渠に架す、總て官の修理なり、
汲澤村百三
(三十五)
東海道村の南界を通ず幅四間餘、
原宿村百三
(三十五)
東海道村内の中程を貫く幅四間長廿町二十間、當所は立場なり、字臺と呼り戸塚宿へ、三十三町、藤澤宿へ一里三町
◯一里塚 双堠なり、塚上に松樹を植う、東方戸塚宿西方藤澤宿の里堠に續けり、
東俣野村百四
(三十六)
東海道東西に係れり幅凡五間、
◯小名 △殿久保 △大塚又甲塚とも云ふ、 △代官山 △下鄕地 △北原 △大谷 △比尻谷比茲利也都、 △上屋鋪 △中原 △草木佐宇母久 △中町 △堀込 △鐡鉋宿
◯坂二 一は堂坂古名は道場坂と云へり、遊行道場高座郡西俣野村に有し時、其道場への往來なればかく呼べり、今の地に移りてより唱を改むと傳ふ、一は赤坂と呼ぶ各登一町半幅五尺、

※東海道中の坂ではないが、関連する由緒が書かれているため、ここに採録した。

山谷新田百四
(三十六)
東海道村の西界を達す幅三間より四間半に至る、立場あり、字影取立場と呼り藤澤へ二十六町戸塚へ一里十町村北に古道あり城廻村より、東俣道を横切、東俣野村に通ず、昔鎌倉より武州多摩郡木曾町、及び甲州邊への道と云傳ふ、
◯小名 △影取此所に纔の淸水流る、土俗傳て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影、池中に投ずるを喰ひしより、影取の名殘れりと云ふ、按ずるに五行傳曰、蜮如鼈三足、生於南越一名射影在水中、人在岸上影見水中投人影則殺之、故日射影、盖當所の池中に住るも、此類なるべし、 △下原 △上どんと △下どんと △杉並 △中町
大鋸町百三
(三十五)
高座郡藤澤宿三箇町の一なり、此地境川を隔て當郡に隷すれど宿驛に預る事は藤澤宿に屬したれば總て彼所に詳載す、四隣廣袤住民の戸数等も彼宿の條に併記したれば此には分記せず…東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、每年七月十一日に市あり、
◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
◯境川 南方郡界を流る幅五間より七間に至る東海道の係る所板橋を架す幅十二間大鋸橋と唱ふ、
西村百三
(三十五)
東海道村の東南を通ず幅三間、
◯道場山 諏訪社の後にあり、◯道場坂 東海道中にあり、

※藤澤宿の一里塚が大鋸町と西村に跨って存在した筈だが、記述はない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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「国立国会図書館デジタルコレクション」上の歌川広重の東海道画集

ふとした思い付きで手慰みにこんな一覧を作ってみました。どのくらい需要があるかわかりませんが、私自身にとってのメモを兼ねています。

国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「国図デジコレ」)に収められた歌川広重の錦絵については、これまでも何度かこのブログで記事を書く際に活用してきました。「東海道五十三次細見図会」については南湖の鮟鱇について取り上げた際に、藤沢以外の絵も含めて検討する際に「国図デジコレ」に収められているものを中心に、欠落分をネット上で探して参照したりしました。

「国図デジコレ」には他にも江戸時代の錦絵が多数収録されていますが、基本的には国会図書館に寄贈されたコレクションがデジタル化されているものの様です。今回は東海道についての修景作業等にに使えそうな作品ということで、初代広重の作品を中心に画集中の絵が比較的揃っているものを一覧にまとめました。各画集のサムネイルとしては日本橋の絵を使うことも考えましたが、江島道の検討の際に大鋸橋脇の道標の本数などについて検討した経緯もあり、その構図の比較にしたい意向もあって、敢えて藤沢の絵をサムネイルにしました。なお、広重の東海道に関するものとしては他に双六が数点「国図デジコレ」に収録されており、他にも東海道中のごく一部の風景を描いた錦絵が収められていますが、今回は一覧に含めませんでした。「東海道五十三対」については初代ではなく2代目の広重のもので、更に藤沢の絵については2種類描かれていますがどちらも広重以外の絵師が描いていますが、幕末期の東海道や周辺地の風景が多数描かれていることから、ひとまずこの一覧に含めておくことにしました。

将来、該当するものが「国図デジコレ」に追加された際には、この一覧に付け加えたいと思います。また、広重以外の東海道の画集や、東海道以外の画集についても、追って一覧をまとめられればと考えています。

因みに、歌川広重の作品集という点では、「慶應義塾図書館デジタルギャラリー」中の「高橋誠一郎浮世絵コレクション」にかなりの点数がまとめられており、今のところ「国図デジコレ」に収録されていない「行書東海道」「隷書東海道」「美人東海道」「五十三次名所図会(竪絵東海道)」といった画集もこちらには含まれています。

表題著者年代藤沢のページ
東海道五拾三次
[保永堂版]
[歌川広重(初代)]
(解題に記載)
[天保年間]
(解題に記載)
「保永堂版東海道五十三次」藤澤
東海道五拾三次
[狂歌入り東海道]
一立齋廣重
[歌川広重(初代)]
[天保年間]「狂歌入り東海道」藤澤
東海道五十三次細見図会広重
[歌川広重(初代)]
(記載なし)
[弘化年間]
東海道五十三次細見図会:藤沢
東海道五十三次図絵
[人物東海道]
安藤広重
[歌川広重(初代)]
嘉永年間「人物東海道」藤澤
東海道風景図会一立斎広重
[歌川広重(初代)]
(記載なし)「東海道風景図会」藤澤
東海道五十三対
合本になっていないもの
歌川国芳
歌川広重(初代)
歌川豊国(3代)
(記載なし)「東海道五十三対」藤澤
東海道名所風景[歌川広重(2代)
他 全15名]
(記載なし)
「東海道名所風景」藤澤遊行寺

※各項目とも基本的には「国立国会図書館デジタルコレクション」に倣ったが、識別の助けとなる様に適宜注を[]内に補った

※配列は基本的に年代順としたが、記載のないもの、更に合作ものは後ろに置いた。同一年代の場合は表題の読み順とした

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藤沢橋の架橋にまつわる経緯

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

記事ネタがないので、正月恒例の箱根駅伝に因んで、コースになっている東海道の変遷にまつわる話題を取り上げます。

箱根駅伝の開催当初は、江戸時代からの東海道に近いコースを走っていました。第1回の箱根駅伝(四大校駅伝競走)が開催されたのが大正9年(1920年)ですから、関東大震災の3年前に当たります。

神奈川県内の自動車保有台数の変遷については、以前に大正4年大正12年の自動車所有者名簿を紹介しましたが、この時点では一部の地域を除いて自動車が頻りに行き交う状況ではなく、まだロードレースに当たって自動車交通への配慮がそれほど必要ではなかった時代です。

大正10年測図・大正14年発行地形図の遊行寺橋付近
藤沢橋の姿はまだ書き込まれていない(「今昔マップ on the web」より)
この頃は、藤沢の辺りではまだ旧来の道筋が東海道の本道として残っており、遊行寺坂を降りてきたところで枡形を2度折れてから遊行寺橋を渡り、更に右折して旧藤沢宿の街並みの中を走って行く道順でした。また、藤沢宿の外れには引地川が流れていますが、そこでも道筋は一旦現在よりも北寄りに進み、そこで一旦左に折れてから引地橋の袂で右に折れていました。従って、今よりも細かく折れる道を走り抜けなければならないコースだったことになります。当時は今ほどの速度では走っていなかったことが記録から窺えるとは言え、高速で走り抜けるにはなかなか厄介なコースだったと言えるでしょう。

大正13年(1924年)の第5回の駅伝は前年9月の震災後4ヶ月ほどしか経っておらず、まだ震災の爪痕が多く残っていた筈ですが、中止されずに決行され、記録も残っています。一部の区間で前年とはルート変更を余儀なくされた様ですが、具体的な影響ははっきりわかりません。

ただ、藤沢付近の曲折の多い道筋については、関東大震災以前から懸案とされていた様です。それが震災によって一帯が壊滅的な被害を被ったのを逆に機会と捉え、江戸時代からの曲折の多い道筋を多少なりとも変更して自動車が走りやすい道筋に変更する工事が敢行されました。その竣工に当たって書かれた記事にその経緯が記されています。

言ふ迄もなく本路線は所謂帝國の最大幹線たる東海道にしてこれが改良擴張は多年の懸案なりしが、大正八年内務省が全國道路政策の確立に際し時の内務技師牧博士は其計畫の資料として全國の國道行脚を實行せられ、本縣に於ても同博士の實地踏査を受けたるが其當時に於ては國庫の財源關係上急速の實施は期待し得られざるの狀態にありき。

然るに突如として襲來せる大正十二年九月一日關東地方の大震災は其慘害の絕大なりし丈却て本縣下に於ける國縣道改良事業の促進に絕好の機會を與へたるが、而も此の前古未曾有の大震害に直面せる本縣土木當局者は其難局を救治すべく絕大の苦心と努力を拂ひたるは勿論、別して高田土木課長は全く空前の難局に際し非常の英斷と大なる決心とを以て轉禍爲福の大計畫を樹立し以て道路改良に對する理想の一端を實現せられたるは全國土木行政家の等しく讃嘆せる處にして、多數縣民の感謝措かざる處なりとす。

(「藤澤町國道工事の概要」神奈川縣道路改良事務所長 網谷安次郎 「道路の改良」第七卷第九號 54〜55ページより「土木学会図書館」所収PDFより)


実際は高田課長が立案したとする道路改良事業は予算の都合で多少縮小せざるを得なかった様ですが、工事費に対して国庫補助が2/3ほど拠出され、大正13年度から実施されました。そしてこの時に遊行寺橋東側の枡形が解消され、藤沢橋が新たに架橋されたのでした。また、同じ工事で引地橋東側の曲折も解消されています。

一 路線は同町西富地先(ママ)行寺裏を起點として舊國道を一直線に字大鋸に至り同地先にて舊國道の屈曲部を抛棄し半徑六十間の曲線を以て右折し民地を貫通して同所に介在せる境川を横斷(藤澤橋架設)縣道藤澤鎌倉線に合し半徑六間の曲線を以て右折同縣道に沿ひ北進大鋸橋畔にて再び國道に合し…同町字石名坂地先に於て半徑百間の曲線にて左折し舊國道より分岐して民有地を通過し、起點より壹千二百五十間の處に於て在來國道に再會し同所を流斷せる引地川を經て(引地橋架設)更に一直線に北進し…

(「藤澤町國道工事の概要」56〜57ページより、「述行寺」は「遊行寺」の誤りと思われるが原文ママ、…は中略・後略)


こうして竣功した藤沢橋の委細についても「藤澤町國道工事の概要」に建設中や竣工後の写真と共に記されていますが(59〜62ページ)、鉄筋コンクリート製の下部にアーチを組み入れた構造とされ、橋面にはアスファルト舗装が施されました。この橋はその後70年にわたって使用されていましたが、平成2年(1990年)に折からの増水によって落橋し、平成4年に護岸工事と河底の掘削に合わせて再架橋されて現在に至ります。


現在の藤沢橋上の様子(ストリートビュー
ということは、大正13年の第5回の駅伝大会の際にはこの工事が竣工する前でしたから、恐らくはまだ旧東海道に沿ってコースが設定された筈です。あるいは翌年の第6回大会でも竣工が間に合っていなかったとも考えられ、そうすると現在の藤沢橋を通過するコースに変わったのは少なくとも第7回以降ということになる筈です。

他方、遊行寺橋(大鋸橋)も震災によって橋の中央に穴が空き、辛うじて徒歩でのみ渡れる状態になりました。翌年1月の駅伝の頃までには修繕が完了していた様で、震災復興後の写真(リンク先PDF)でも当時の遊行寺橋のポニートラスの姿が写っています。ただ、震災の数ヶ月後ではまだ仮橋だった箇所も多かった筈で、この回のコース設定ではそうした問題をどの様に解消したのか、気になるところです。

因みに、現在の箱根駅伝のコースでは、この藤沢橋を渡った先で国道467号線(かつての県道藤沢鎌倉線に相当)を渡り、その先で「湘南新道」と通称される県道へと進みますが、この区間は昭和36年(1961年)5月に新たに設けられた道路で、駅伝のコースもその開業に合わせて変更された様です。
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