「産物その他」カテゴリー記事一覧

中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。
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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編のみに記された中原御殿にまつわる産物を取り上げます。今回取り上げるのは「雲雀(ひばり)」です。



中原御殿蹟(中心十字線の位置)付近の地形図
数値地図25000(土地条件)」を重ねて表示
砂丘地帯の中に設けられたことがわかる
(「地理院地図」)
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」(再掲

「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、中原御殿蹟について次の様に記しており、こちらでも中原御殿が「雲雀の御殿」の別称を挙げています。しかし、その別称の由緒について特に記している訳ではありません。無論、雲雀が産物であることを記した箇所も他にありませんので、「風土記稿」で「雲雀」を産物として明記しているのは、実質的に山川編のみということになります。

◯御殿蹟 宿の中程より西の方九十六間を隔てあり、廣七十八間袤五十六間、東を表とす、四方に堀幅六間、あり、是は古御鷹狩等の時、御止宿ありし御旅館蹟なり、慶長年中の御造營按ずるに、村内山王社傳には、元年御造營とあり、北金目村の傳へには、十四年に建させらると云、一決し難し、されど豊田本鄕村、淸雲寺の傳へに、四年二月十日此御殿に御逗留ありといへば、元年と云を得たりとせんか、當所の民、庄右衛門が先祖小川某、此邊の地理に精きを以て、御殿御繩張の時、御案内せしと云傳ふ、中原御殿と稱し、一に雲雀野の御殿とも唱へしなり、東照宮此御旅館に渡御ありし事、諸書に所見あり、…其後廢せられし、年代詳ならず、今は御林となれり、其中に東照宮を勸請し奉る、上下二宿の持、御宮の傍に、老杉一樹圍一丈五尺許、あり、御神木なり、

(卷之四十八、大住郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)


百鳥図「ひばり」等
増山雪斎画「百鳥図」より「ひばり」(中央上部)
囀りながら上昇する様子を描いている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園禽譜「雲雀」
毛利梅園「梅園禽譜」
(天保10年・1839序)より「雲雀」
文字の方向に合わせ画像を回転
こちらの絵も揚げ雲雀の姿を描く
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

一般にヒバリは「揚げ雲雀」の季語が示す通り、春先に田畑の中に作られた巣から離れた場所まで歩き、そこから垂直に飛び立ち、周囲に良く通る声で囀りながら天高く上っていく様が良く知られています(リンク先にWikimedia Commons上の音声ファイルがあります)。江戸時代にも松尾芭蕉の「永き日も囀たらぬ雲雀かな」(続虚栗)や小林一茶の「うつくしや雲雀の鳴きし迹の空」(七番日記)など、多数の俳人が雲雀の鳴き様を句に詠んでいますし、「和漢三才図会」をはじめとする江戸時代の本草学の文献でも、「告天子」の別称と共にその鳴き振りを書き記したものが多くあります。以下で引用した「本朝食鑑」では、雲雀を飼育して懐かせることで鳴き声を楽しむことが出来る旨の記述があります(現在は愛玩目的での飼育は禁止されています)。

しかし、「風土記稿」に記されている通り、中原御殿は徳川家康が鷹狩に訪れた際の宿泊施設であり、別に雲雀の鳴き声を楽しみに訪れていた訳ではありません。とすれば、その御殿に「雲雀」の名前が別途付いているのも、やはり鷹狩の方に関連があると見た方が良いでしょう。では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。

現在ではいわゆる「鳥獣保護法」によって、所定の狩猟鳥獣以外は狩猟することが禁じられています。ヒバリは狩猟鳥28種のうちに入っていませんし、ましてヒバリを食べたことがあるという人も殆どいないと思われます。しかしながら、江戸時代には食用とされることがあったことが、「和漢三才図会」に食味について記されていることでわかります。

鳥肥羽老脛弱故捕者多其味甘脆骨軟ニシテ面脚共

(卷第四十二「鷚」、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開)


また、貝原益軒の「大和本草」では、「告天子(ヒハリ)」の項で食味については触れていませんが、その末尾に効能を記しており、やはり食用や薬用として用いられることを示しています。

更に、「本朝食鑑」では雲雀についてより詳しく書き記しています。同書では「雲雀」は「原禽類」に分類されていますが、「原禽類」の中には鷄や雉、山鳥といった、比較的食用として多く用いられていた鳥も含まれている点に、人見必大の見解が窺えます。今回も東洋文庫の翻訳版から引用します。

味は甘脆で、(あぶら)は浅く、骨は軟らかく、脛・掌も食べられる。これを上饌に具している。近世(ちかごろ)、官家では、鶴・(がん)に劣らずこれを極めて重く賞しており、江都(えど)の官鷹(幕府の鷹匠の鷹)に()らせて、上都(きょうと)に奉献させている。その他は、品階に従って、順次、列侯に賜う。公家の鷹も、これを()って、全国四方に餽送(おく)っている。各家でも非常に賞美され、樊籠(とりかご)に畜養される場合もある。(ただ)、脛・掌が細弱(ひよわ)(くじ)けやすいのが弱点で、そのため、籠の中に砂を盛り、(もぐさ)()いて防備している。もし羽の中に虫を(わか)すと、砂を浴びさせる。鶉の場合もやはり同様にする。高さ数十尺に作った竹籠の上に、それに応じて長く(つく)った網を張っておくと、雲雀は、能く馴れれば、舞い鳴き、網籠の中を頡頏(とび上がりとび下がり)し、終日(のど)をころがし円亮の声で鳴いて倦まない。それでこれは官中の翫弄となっている。

(「本朝食鑑2」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫312 240ページ、注・ルビも同書にあるものはそれに従い、一部ルビを追加。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら。以下の本書の引用も同様)


途中から食用の話から囀りを賞翫する話にすり替わっていますが、さておき、前回の「成瀬醋」の時と同様、やはり幕府の事情に触れる機会のあった必大らしく、雲雀が将軍の御鷹によって捕獲され、賞味されていたことが記されています。「本朝食鑑」では更に引き続いて

〔気味〕甘温。無毒。

〔主治〕久泄、虚弱。

〔発明〕今俗で一般に、「雲雀の性は平、肉は浅くて病にあたらないので、病人に食べさせてよい」といわれている。の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、肛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。しかし必大(わたし)の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、脛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。これは、体は微小とはいえ、勢いの健やかな(ため)である。そもそも、体が軽く、勢いも健やかなものは陽であって、能く昇るのである。春の気を得て長じ、冬の気に遇って衰えることから、雲雀が昇陽であることが知れるであろう。それで、気を昇提して、能く泄痢の虚極を調えるのである。してみると、気実の病にこれを食べさせると、発熱動血し、知らず知らずのうちに不治の(ながわずらい)を生じるであろう。気虚の病にこれを食べさせると、症に拠って治るであろう。凡そ禽類で、家に馴れ水に遊ぶものは、たとえ有毒とはいっても、烈しくはない。山に棲み、野に宿するものは、有毒ならばいよいよ(さか)んで、人体に害を遺すものである。

腸・肫

〔気味〕いずれも甘温。無毒。近世は腸・(いぶくろ)・脛・掌、および諸骨を(しおづけ)」にして、醢醤(かいしょう)とする。あるいは、麹に和する(麹漬)こともある。どちらも味は甘鹹・香膩(肥えていてかおりがよい)で、その()さは言葉で言い表わせない。世間では珎(珍)肴としている。(けれ)ども、多食すると、温毒の害があるのではなかろうか。

(同上240〜241ページより)

と、肉も内臓も食べられること、特に内臓の塩漬けや麹漬けがとりわけ美味であることを力説しています。

この東洋文庫版の「本朝食鑑」にはかなり詳細に解説が付されており、これによれば、雲雀が宮中で饗宴に供された歴史は平安時代末期まで遡ることが、「兵範記」などの史料の引用を連ねて示されています(同書242〜244ページ)。この中では室町時代末期の料理書である「大草殿より相伝之聞書」からの引用が、江戸時代に比較的近い時期の雲雀の料理や食べる際の作法について詳しく記しています。

ひばりのつばめもり集養の事、めしにてもあれ湯漬にてもあれ、必ず膳の中にあるべし。又二の膳にも三の膳にも中に参るなり。本膳の中にある時は、てごしさいごしうんめいのさいを喰い候て、扨箸を膳にすみちがひに置きて、雲雀の盛物右の手にて取り、左の手を添へ、いかにもかんじて扇を抜き、我が右の方へ少しひらきて竝、其の上に実雀のくはへたる足を取りて、扇の上に置きて、やがて雲雀をば前の所へ置きて、左の手を添へ、右の手にて雲雀の頭をぬきて、台のそばにも又台の下にも置く。扨箸を取りて右の手にて雲雀の身を摘みて食ふ。其の後は箸にて集養ありたきほど食ふ也。又雲雀の足は御酒二へん程参り候て、足結ひたる水引を解きて、水引をば置き、先かた足賞翫して、又片足をば左の手に持ちたるもよし、扇の上に置きたるも苦しからず、さて後に集養有りたるもよし、時宜によるべし。水引は何となく本膳に置きたるも苦しからず。又懐中してもよし。其の後膳のくだり候時も其のまま置くべき事も候。そののちあつかひあるまじく候。

(同上243ページより)

この様な作法が細かく記されていることからは、官家で雲雀が食される機会はこの頃からかなり多かったものと思われます。

また、同じく「本朝食鑑」の解説でも引用されていましたが、以前椎茸を取り上げた際にその料理法を参照した江戸時代初期の「料理物語」では、

〔ひばり〕汁、ころばかし、せんば、こくせう、くしやき、たゝき

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

この様に調理法を列挙しています。今となっては具体的にどの様な料理なのか想像もつかないものもありますが、汁物にしたり串焼にしたりして供していたということになるでしょう。もっとも、ここに挙げられている鳥の多くが、今では食用とされることがないものばかりですから、今となっては具体的な料理をイメージするのが困難になっていると言わざるを得ません。


さて、「本朝食鑑」の記述でも雲雀が官家で供される食材であることが示されていましたが、そうした膳に供する鳥などを捕える江戸時代の鷹狩において、雲雀がどの様な位置付けにあったのか、長くなりそうなので次回はこの話から始めたいと思います。

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から、今回は山川編にのみ記された次の2品を取り上げます。

  • ◯醋大住郡中原上宿の民、造釀せしを同所の縣令成瀨五左衞門、年々公に獻ず、故に成瀨醋と稱せしとなり、後年其事廢せり、當所より江戸靑山に通ずる道に御醋街道の名今に存す、
  • ◯雲雀大住郡波多野庄邊及び糟屋庄の邊に多し、慶長の頃中原の御殿を、土人雲雀野の御殿とも稱せしと云う、

(卷之三、以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)



平塚市中原の位置(Googleマップ
平塚市御殿はこの西隣の地域
新番地表記によって江戸時代の村域とは変異がある
どちらも大住郡中原上宿・下宿(現:平塚市中原、御殿他)に縁のある「産物」ですが、大住郡図説ではこれらについては触れられていません。一方は調味料、他方は野鳥という、全く性質の異なるこれらの品を同時に取り上げる気になったのは、これらが「風土記稿」の産物一覧に収まった経緯が共通していると思われるからです。今回は先にその経緯を考えるところから話を始め、その後にそれぞれの「産物」について見ていくこととします。

高座郡渡内村(現:藤沢市渡内)の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りし、後に相模国内の徳川家康の由緒のある事績をまとめるべく天保10年(1839年)に「相中留恩記略」を著したことについては、以前玉縄の梅干について取り上げた際にも紹介しました。その「相中留恩記略」の「中原御殿蹟」の項には次の様に記されています。

中原御殿跡は中原上宿にあり。今御林となり、松樹生茂れり。長八拾間に、横六拾間程あるべし。四方に御堀蹟残れり。抑、当御殿は東照大神君様御放鷹のころ、御仮宿りに設け給ひし御殿にして、或は雲雀野の御殿とも唱へしとなり。こは此辺雲雀の名所なるを以てなり。当御殿へ度々成らせられし事は、其頃の書にも見えたり。其大略、…又、成瀬五左衛門殿、当所の御代官たりし頃、此地にて酢を醸し、江戸御城へ奉れり。其風味格別なるをもて、成瀬酢と呼び、御賞翫ありしとなり。今の江戸青山往来新道は、其ころ御酢運送ありしをもて御酢海道など呼なせリとなり。

(「相中留恩記略」1967年 有隣堂 校注編 44ページより、…は中略、強調はブログ主)


後で見る通り、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には多少なりとも記述が見られるものの、大住郡図説では取り上げられなかったこの2つの産物が山川編で「復活」したのは、この「相中留恩記略」の記述が影響している可能性が考えられます。

そこで今回は、これらの産物について現在明らかに出来る範囲で、「相中留恩記略」にどの様な点が評価されて採録されたのかを見ていきたいと思います。今回はまず、「醋」の方を取り上げます。


「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、かつて同地で醸造されていた醋について次の様に記しています。

古村民金左衛門と云者、醋を造醸せしを、時の縣令成瀨五左衞門重治、公に奉れり、故に是を成瀨醋と稱せられしと云う、何の頃か其事止て、今は造醸するものなし金左衛門の子孫今も村民たり、其家の傳へに、每年奉りし中、或年例に勝れて味美なりしかば、公より其製の例に替たると尋られしに今年は京師より製法に精き者を呼て、造らしめし由答え奉る、然るに當所の醋は、田舎の製を賞翫する所、京師の製法に倣ふは、却て賞翫を失へりとて、是より奉る事を止められしと云、今も當時造醸せし器を藏す、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)


先にここに名前が出てくる「成瀬五左衞門重治」について見ておく必要があるでしょう。徳川家康が江戸に入った後、関東の広大な所領は代官頭らによって統治されていましたが、やがて彼らの死亡や失脚に伴って代官頭が消滅すると、代って在地の代官によって治められる様になりました。うち、相模国の大住郡・淘綾郡・愛甲郡の幕領は、同地の代官頭であった伊奈忠次の没後、中原に置かれた陣屋を拠点とする複数の中原代官によって治められていました。中原陣屋は中原御殿を中心とした一帯に展開され、本陣、役所、米蔵、牢屋などを備えていました。

成瀬家はこの中原代官のひとりで、五左衞門重治は慶長16年(1611年)から中原代官を勤め、寛永10年(1633年)に亡くなっています。従って、「成瀬醋」の献上が始められたのはこの在任中の20年あまりの期間のうちの何れかということになります。

この「成瀬醋」について比較的記述が厚いのは、人見必大(ひとみひつだい)が元禄10年(1697年)に刊行した「本朝食鑑」です。原文は漢文で書かれているのですが、今回は少々長く引用したいと考えましたので、東洋文庫の翻訳版を引用します。

〔集解〕酢は、諸州の家々で盛んに造っている。大抵(およそ)水の善いものを択ぶことが先決である。昔から和泉(いずみ)酢を上としている。当今も盛んに製造して、四方に贈り、都市で販売しているが、三年以上経ったものが一番よい。その色は濃い酒のようで、味は甘くて甚だ酸い。近代では相州の中原の成瀬氏で造られるものが第一等で、駿州の吉原善徳寺で造られるもの、同州の田中の市上(まち)で造られるものがこれに次ぐ。以上の三所の酢は、いずれも泉州の醋の法に基づいて、これにいろいろ工夫を加えたものである。

中原の醋法としては、仲秋の吉日に、まだ脱殻していない早(うるち)(せいろう)で蒸し、(さらし)()し、(つき)(ふる)って上白米とし、この一斗を(やや)硬めの飯に煮て酒飯のようにしたのを用いる。麹六升と水一斗八升とを(はか)り定めておき、先ず堅炭一箇、鉄釘一箇を縛り合わせて、(かめ)底に入れる。こうするのが造醋の厭法(こつ)である。次に飯を温いうちに甕に入れ、固く()き定めて、水が()き出さぬように注意する。次いで水を差し、次に麴を入れ、厚紙で覆うて内蓋とする。その上へ、木蓋で甕の口を掩い、さらに重ねて柿渋紙で木蓋の上を覆封する。外は左索(ひだりない)の繩で七回半縛り定める。この甕を日光のあたる処に置いて、動揺させぬように、また非常の物に触れぬように、雨露が内に透過(しみこま)ぬようにして、七・八日間をおく。天気快晴の日を()ち、甕蓋(かめのふた)を開くが、内の紙蓋を開かず、気を漏らすだけである。夕方には外蓋を掩い、渋紙を縛る。翌日の午前にも、また気を漏らす。もし雨天であれば、蓋は開けない。このようにして二・三十日ねかしてから、前のように開封すると、内蓋が沈んで酸味が出るようになっている。これは酸が醸成されたためである。しかし醋が出来あがったといっても、(かす)()してはいけない。翌春の二・三月になって醋の熟するまで()って、布嚢(ぬのぶくろ)に入れて汁を()し、滓を取り去るのである。五・六月になって、また淳の生じるを()って、瓶に入れ、緩火で一・二沸煮立たせてから滓を取り去って清澄にし、その甕を屋内の涼しい処に移して、半ば土に埋めておくと、秋の彼岸のころになってすっかり熟成する。これは、大抵(ほぼ)泉州・田中・善徳寺の法とは同じであるが、就中(とりわけ)、中原は修製の妙を得て、異香・奇味がある。他の企ての及ばぬものであって、その深秘のところは人に伝えられない。

(「本朝食鑑1」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫296 118〜119ページ、ルビも同書に従う。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら


和漢三才図会巻105「酢」
和漢三才図会 卷之百五より「酢」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
当時の相模国の酢が高く評価されていたことについては「和漢三才図会」でも記していますが、こちらは「中原」の名前を出していませんし、醸造法についてもごく手短にしか書いていません。それに比べると、「本朝食鑑」の記す醸造法はかなり仔細に及んでおり、しかも基本的には酢の名産地の醸造法が共通であるとしながらも、中原のそれには更に秘法が存在することを最後に書き加えています。因みに、この醸造法は現在の米酢のそれと殆ど変わりがなく、この頃には米酢の醸造法が確立していたと言うことが出来ます。

人見必大の父・元徳は徳川幕府に仕えた侍医であり、とりわけ小児科医としての名声の高い人物でした。そのため、将軍だけではなく諸大名などとも交流があり、「本朝食鑑」の出版に当たってはそうした伝手で資金援助を得ています。兄・友元も儒学者という家柄で、人見家は学者一家として高い地位にありました。こうした家柄と交流関係が、特に幕府に献上されていたという「成瀬醋」についての知識をふんだんに入手するのに有利に働いた可能性は高そうです。また、必大が「成瀬醋」をこれ程までに高く評価するのは、あるいは人見家でもこの酢を実際に用いる機会が多かったのかも知れません。


豊田付近は今でも田畑が拡がる地域
遠方に見えているのは大山
ストリートビュー
この「本朝食鑑」の記述に従えば、「成瀬醋」は基本的な所では和泉国などで醸造されていた酢の製法と大差のない米酢であったことになります。元より、酢は日本でも古代から醸造され、和泉国の酢はその頃からの歴史を有しています。その製法が時代が下って他の地域でも醸造されるようになっていたことになります。中原上宿・下宿は平塚宿周辺同様に砂丘地の上にあり、米の作付けにはあまり向いていない土地柄ですが、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には、北側に位置する豊田本郷の村民が中原御殿の前を開墾して移住して成立したことが記されています。この豊田本郷を中心とする一帯は広大な水田が拡がる米どころであり、醸造に必要な米はそちらから入手出来たでしょう。

但し、細部では「成瀬醋」なりのノウハウを有しており、それが独自の風味を生み出していたのかも知れません。中原の村民金左衞門が何時頃から、またどの様な経緯で酢の醸造を始めたのかは不明ですが、和泉国の醸造法と大差ないとされていることから考えると、あるいは成瀬五左衞門重治が何らかの伝手で手に入れた醸造法を金左衞門に指導して始めさせた可能性も考えられます。その後試行錯誤を繰り返すうちに独自のノウハウを蓄積したのでしょうが、何れにせよ、後に醸造を止めてしまった時にそのノウハウも失われてしまったということになりそうです。

もっとも、「風土記稿」の記すところも飽くまでもかつての醸造家の言い伝えですから、風味を改善すべく京から名人を招いたのが結果的に仇になったとする話をどこまで史実として勘案するかは微妙なところがあります。実際、中原上宿に伝わる「大住郡中原宿万覚抜書」(天保10年・1839年)という文書には次の様な記述が見えます。

一成瀬酢之事、正徳年中留り申候、「享保十八(「 」朱筆)年相留申候ト有之、

一高七百六石六斗八升四合五勺

中原村高辻

高三百七石七斗六升八合

上中原村

斎藤喜六郎御代官所

高三百八拾弐石壱斗九升四合

下中原村

同 御支配所

高拾六石七斗弐升弐合五勺

若林六郎左衛門知行所

、先年御膳御酢差上申候付、朝鮮人御用相勤不申候処、享保八年ゟ御酢相止申候付、享保十二年年ゟ平塚宿助郷役一統相勤申候得共、此度馬入川船橋御用被 仰付候得、違背可仕様無御座候間被 仰付次第相勤可申候、然共、朝鮮人御用之儀初之儀御座候得者、隣村別前被 仰付被下候様奉願上候、以上、

享保廿一年六月

中原上下役人

堀江清次郎(成真)様御手代

平尾茂平太殿

長田用八郎殿

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 700〜702ページより、…は中略、強調はブログ主)


「大住郡中原宿万覚抜書」は中原上宿の名主家が備忘のために様々な文書の抜き書きなどを書き留めた覚書で、江戸時代の同地の地誌や歴史が一望に出来る史料です。ここでは2ヶ所に「成瀬醋」献上の廃止に関する記述が見られますが、最初の「享保18年」は2番目に書き写された文書の日付の関係から考えると誤りと見られます。その2番目の文書では享保8年(1723年)に「成瀬醋」の献上が停止されたことが明記されており、更にその結果として、それまで免除されていた助鄕などの役務を4年後の享保12年から新たに務めなければならなくなったことがわかります。因みにこの文書は、朝鮮通信使の江戸への通行に合わせて相模川に浮橋を架ける役務が中原上宿・下宿にとっては初めてのことであったため、どの様に対処すべきかを問い合わせている文書です。

以前梅沢の鮟鱇を取り上げた際にも触れましたが、こうした献上品が各地の大名や旗本等によって過剰な負担をしてでも幕府に届けられている実情を見て、徳川吉宗が享保7年(1722年)3月に献上品の節減を命じています。年代から見て、この「成瀬醋」もその一環で献上廃止に追い込まれたと見るのが妥当なところではないでしょうか。「風土記稿」の記す醸造家の言い伝えも、あるいは幕府側の献上廃止の動きを受けて質の向上を企てたところが却って裏目に出たということなのかも知れませんが、少なくとも主因という訳ではなさそうです。

また、この文書から「成瀬醋」の献上が中原上宿・下宿にとっては役務の免除という便益と結び付いていたことがわかります。こうした便益はかつての中原御殿を預かっていた中原陣屋・中原代官と関係が高いと見られ、それが「相中留恩記略」への採録へと繋がっていったと見ることが出来そうです。「風土記稿」編纂時には既に生産されていなかった「成瀬醋」を敢えて山川編の産物には含める判断がされたのも、やはり同じ理由からでしょう。

一方、成瀬家をはじめとする中原代官はその後子孫が世襲していましたが、元禄の頃には代官家は何れも没落などによって廃されており、享保の頃には既に代官職からの献上という裏付けを失っていたことも、献上廃止の背景として考える必要があるかも知れません。以前見た愛甲郡の5村からの炭の場合は、献上が廃止された後も諸役御免の方は幕末まで堅持されており、こうした扱いの差が生じた要因を考える上では、その酢に結び付けられて語られている中原代官家の存在が大きい様に思えます。


中原上宿付近の一里塚跡付近(ストリートビュー
右の電柱の脇に一里塚跡を示す標柱が立っている
「御酢街道 一里塚跡」碑
標柱の向かいの民家の塀の裾に埋め込まれた
「御酢街道 一里塚跡」の碑(2007年撮影)


中原道のルート(ルートラボ)
さて、「風土記稿」の方には記載がありませんが、「相中留恩記略」には献上に際して中原道を使って江戸まで運んでおり、その由緒からこの道が「御酢街道」の別名で呼ばれていることを記しています。平塚から豊田へ向かう南北の道沿いに展開していた中原上宿の中途で東に分かれる道筋が中原道ですが、その分岐点から程近い場所にかつては一里塚があり、現在はその場所の民家の塀の裾に目立たない形で「御酢街道 一里塚跡」と刻まれた石碑が埋め込まれています。既に製法を失った「成瀬醋」を再現することは望むべくもない今となっては、「風土記稿」にも記されている醸造に使ったという甕(現在は平塚市博物館蔵)と、この街道の別称が、かつて名を馳せたこの地の産物の数少ない証ということになるのかも知れません。


次回は「雲雀」について取り上げる予定です。

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「武甲相州回歴日誌」の箱根の記述を巡って

以前、明治8年(1875年)の小田完之(かんし)「武甲相州回歴日誌」(以下「日誌」)から、鎌倉周辺小田原周辺について記されているものを取り上げました。今回は箱根を巡る記述を見てみます。

明治8年の8月3日から15日まで、途中江の島で台風の影響で1日足止めを余儀なくされた以外は比較的速いテンポで各村を巡回して小田原に入り、そこで足柄県庁(当時はまだ足柄上郡・下郡などは足柄県の属でした)にも足を運んだり、小田原以南の海沿いの村々を巡ったりして18日まで滞在しています。これに対して、箱根山中の巡回には翌19日から23日までの5日間を要しており、ここまでの日程を考えると比較的多く時間をかけていると言えます。「日誌」からその経路を挙げると

十九日 晴。小田原ヲ出テ板橋田澤ノ山畑ヲミテ湯本ニ到宿ス。…

廿日 晴。朝七時湯本ヲ出テ険峻ヲ繞リ箱根宿ニ到リ投ス。須雲川畑宿等茶畑少々アリ。…

二十一日 晴。滯留。箱根ヨリ元箱根ニ到リ神社ノ境内山嶽ノ内ニ終日。…

廿二日 晴。元箱根ヲ出テ船ヲ命ジ、西シ新宮山下ヨリ姥子仙石原ヲ經テ宮城野二宿ス。…

廿三日 晴。木賀ヲ發シ山路ヲ盤旋シ小田原ニ來ル。

(「日本庶民生活資料集成 第12巻」1971年 三一書房 331〜333ページより、ルビ・傍注も同書に従う、…は中略、以下「日誌」の引用も同様)

この様に、箱根の内輪山に位置する各村をほぼ一通り巡って小田原に戻って来ています。

「武甲相州回歴日誌」の箱根山中の経由地・滞在地
「日誌」の箱根山中の経由地・滞在地
街道は江戸時代の道筋のもの
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
他の地域よりも日数を要している理由の1つには、やはり基本的には平野部の移動であったここまでの区間と違い、険しい山中の移動であったからということもあるでしょう。当時は箱根山中の道も少しずつ馬車に対応出来る様に改修が施され始めており、完之も

箱根道ノ險惡人ノ知ル處、近頃篤志ノ者稟請シテ湯本ノ東茶屋ノ處マテ、早川ニ傍テ平坦ニ路ヲ開キ人力車ヲ馳セ容易ニ湯本ニ逹ス。

(331ページより)

と記しています。とは言え、改修の対象となったのは専ら温泉宿への道でしたから、完之が巡回で使った経路にはまだ江戸時代までの道と殆ど変わらない箇所が多く残されていた筈です。因みに、完之はこの道中では基本的に徒歩で移動しています。

他方、完之のこの出張の目的の1つは植生調査にありました。「日誌」では全般にそうした側面の記述があまり多くないので、平野部と箱根山中で観察した植物の種数にどの程度差があったかは明らかになりませんが、それでも平野部よりは観察すべき植物は多かったと見て良いでしょう。

ただ、同時にこの出張では各村の農業の実情を視察し、必要に応じて村の有力者らの相談に乗ったりしています。そして、この箱根の山中はその点で課題の多い地域であったことが、「日誌」の記述から見て取れます。特に箱根宿の衰退の様子はかなり問題となっていた様です。20日の箱根宿の記述には箱根宿に差し伸べられた援助の経緯なども記されていますが、何れも成果が思わしくなく、その経緯に対する完之の苛立ちが見て取れます。

箱根宿ニ入ル。十一時駒左吾左衞門宅ニ到り驛亭ノ景況ヲ聞クニ、關門撤シテ往來少ナク衰微何極ラン。此地高山峻嶺水冷ニ霧深シ。作物更ニナシ、皆三島、小田原ヲ仰ク。百三十戸旅亭凡十戸計ノ外ハ雇夫馬夫ノ類雇錢ヲ目途トスルノミ。行路寂蓼ナレハ忽糊ロニ窘ス。近來料ラスモ洋人ノ屢婦女ヲ携來リ每戸宿ヲ投スルガ爲ニ稍利潤アリ、纔ニ活路ヲナスト。又曰ク稻田畑作渾テ盡力シテ種々經營スト雖ドモ、花開クモ結實ニ到ラス、氣候陰冷異常ナルヲ以也。縱令蘿(蔔)、牛芳等ヲ作ルモ一作ノミニテ跡ハ忽荒蕪トナリ培養手數料計算等當り難シト。予聞テ愀然之ニ久シ。

評ニ曰、箱根宿ハ德川氏關塞ノ爲ニ三島、小田原ノ兩方ヨリ五十戸ツヽヲ移シ、箱根本村ヨリモ移住シ諸侯ノ投宿ヲ要シ、每戸僥倖ニ永逸シ弊習甚多シ。今ニ到テ尙人情舊弊地力ニ食ムノ氣勢ナシ。馬ヲ養ハサルヲ問フ、馬ヲ養フ時ハ行旅ノ負擔ヲ運搬スル、簡便ナル時雇夫困窘スト云フ。自暴自棄ノ心ナラスヤ。今夫地力ヲ食ムノ心アレバ經綸ノ道果シテアルヘシ。埆瘠陰冷ノ地能ハサルト云者ハ蓋シ未夕策ヲ盡サヽルナリ。往古以來用材ノ多キ且梅、桃、櫻、海棠、杜鵑(さつき)花、(款)冬、玉簪花(ぎばつしゆ)等眼前生育シ、蜀葵秋海棠ノ色亦美ナリ。鷄犬相聞へ四時行レ萬物育シ、霧深ク水冷カナル地ハ天下ニ多シ。北海諸國ノ如キ心ヲ用テ經綸スレハ開作日二興ル。此地東山ノ土ヲトリ湖水ノ浅處ヲ埋メ、篠竹アルハ深ク掘起シ嚴冬ニ晒シ乾シ、春時モ取集メ火ヲ放テ之ヲ燒キ、三作ノ蕎麥ヲ種ル。又牛馬ヲ養フニ野草富足ヲ以テ刈草ヲ多ク貯へ厩肥ヲ作り、赤壚赤埴ノ下ニ布キ埋メ山中ノ硫黃土ヲ集メ、本函根山溫泉ノ末流ヲ汲テ之ヲ洒キ、馬鈴薯ハ勿論、雜穀、早稻、疏菜類ヲ作ルベシ。又石灰ヲ焼クベシ。又鷄ヲ多ク養テ洋人ノ需用ニ供シ、鷄糞ハ陰濕ノ地ヲ乾カスノ良效アリ。培養秘錄畜鷄ノ法ヲ折衷スベシ。石楠花ヲ植テ人目ヲ悅ハシメ、漆樹ヲ植ヘ又水冷カナル處ニ山萮菜(わさび)ヲ栽ルモ宜シカルベシ。

又聞ク柏木忠俊縣令トナリテ箱根驛ノ衰微ニ屬シ、逐ニ衣食ニ窮竭シテ退轉スルニ到ルベキヲ憐ミ、三百圓ノ私金ヲ貸付シ馬鈴薯五十俵ヲ買入レ山畑ヲ起シ之ヲ栽ヘシム。然ドモ驛夫等各々雇錢ヲトリ其金モ大抵紛散シ、一旦開發セシモ固ヨリ懇誠ヲ盡サス、忽篠笹叢生シ馬鈴薯モ遂ニ皆無ニ到リ、其後又三百圓金ヲ憫給シ牛ヲ牧セシム。然ルモ其金ヲ帶テ豪然横濱ニ滯留シ、逐ニ南部邊ノ牛ヲ買テ歸ル。前後費用困乏ニ到リ牛ハ借リ得テ歸ルモアリ。之ヲ箱根神社ノ裏山ニ放ツ。氣候ニ慣レス且手入行届カス漸々憔悴或ハ斃ルヽモノアリ、恐レテ他村へ托ス。遂ニハ債主ノ督促シ依テ其牛ヲ返ス等其儘從前ノ自棄自暴、更ニ奮發ノ氣力ナシ。豈輕薄ノ事ナラスヤ。

(332ページより)


以前も記した様に、箱根宿は東海道の継立を成立させる必要から、江戸幕府がお膳立てをして小田原と三島から人やものを運び上げて成立させていた街でした。そのため、その様な時代が終わって自活を求められる様になっても、外部から貸与された資金や種苗などを活着させることが出来ずにいた様子が綴られています。箱根宿の幕末から維新頃の動向についてはもう少し他の史料も宛てがって検証した方が良いと思いますが、少なくとも完之の目には永年こうした外部の援助に頼り切った経営に慣れてしまっているために、環境が変わっても自力で尽力しようという意識が足りない故と見て、まだ他にも作付を試みるべき作物が多々残っていることを記している訳です。

もっとも、耕作適地の有無を別にしても、専ら宿泊や荷継で生計を立てる人々が集まっていた宿場町では、そもそも農地との繋がりの極めて希薄な生活が営まれていたために、土地を耕す能力自体に乏しかった一面もあったのではないかと思われます。実際、仙石原村や宮城野村の辺りの記述では、箱根山中でも農業や山仕事が主体であった地域であっただけに、箱根宿に比べると状況はそこまで悪くはない様に見えます。完之の目には、まだ江戸時代からの農業を維持する以上の生産増強への動きは乏しいと見えていた様で、実際に一部の農家のみが牛を飼っている状況であった様ですが、完之の訪問から5年後の明治13年(1880年)に仙石原で牧場を開墾する許可を求めていることは以前の記事でも出てきました。

進テ壹里半仙石原ニ至ル。此地北山西山屏風ヲ列スルカ如シ、村家ハ山下ニ依リ向陽背陰南面ノ原野一望極リナシ。東南ニ山アリ。本宮山等ノ背面ナリ。滿野ノ牧草皆牛ノ尤喜フ草ナリト云リ。仙石村ハ每戸馬ヲ養ヒ雜穀ヲ作ル。稻種ハ信州ヨリ持來ルト。芝肥厩肥草木灰ヲ用ル多シ。屋根萱モ刈出ス人風古朴、皆是舊政府時分ノ人ノミ牛ヲ牧スル。如何ント云ヘハ他人ノ來り開ヲ待ツノ心卜察セラル。依テ故障ハナシト思ハル。四方熟覽シ東ニ出テ曠野ヲ經テ石逕盤囘シ崎嶇艱難日暮レテ宮城野字ハ木賀ニ至リ松坂屋ニ宿ス。宮城野ハ朝鮮稗靑芋等ヲ路傍ニ見ル多シ。河原ノ石砥質アルカト思フナリ。

(333ページより)


また、元箱根では箱根宿に配給された馬鈴薯を一部分けてもらい、こちらでは成育に成功させていることが記されています。仙石原での記述でも灰を多用していることが記録されていますが、元箱根でも地質を改良するために灰を土に混ぜ込んでいるのが注目されるところで、やはり火山灰土で酸性が強いと思われる土には然るべき対処が必要であったのでしょう。こうした知識はやはりある程度の耕作の経験が裏付けとして必要で、箱根宿にはそうした裏付けがなかったことが差となって現れたのではないかと思います。

畑尻卜唱ヘ小山ノ半腹自ラ畦ノ形狀ヲナシテ篠竹雜草薪料多シ。村家三十戸稍箱根驛ニ勝ル人情他カヲ恃ムノ氣少シクアルナリ。…

評ニ曰、…又川井卯三郎ナル者前年柏木縣令ヨリ箱根宿馬鈴薯付與ノ時、乞テ僅カニ種子ヲ受ケ十分ノ生育ヲ得タリ。其法山草篠竹ヲ芟集メ、火ヲ放テ燒灰トナシ山畑ヲ起シ、精細ニ土ヲ砕キ草木灰ニ人糞ヲ和シ、棒穴ヲツキ灰糞ヲ饒ニ入レ、馬鈴薯四ツ割ヲ壹箇ツヽ埋メ培フタリ。自餘蘿(蔔)、牛芳ヲ作ル。是又能生長ス。早稻ヲ作テ牡丹餅茶屋ニテハ餅ヲツキ近來湖魚ヲトル日ニ多シト。夫結香ヲ作リ馬鈴薯ヲ作リ蔬菜等迄モ經驗アリ。疑ヒヲ入レサルナリ。藥草モ多シ、取テ用ユヘシ。

(333ページより)


何れにせよ、箱根の農業振興が完之や足柄県の政務上の課題の1つになっていたことも、箱根山中で余分に日数をかけた理由の1つに挙げられると思われます。

ところで、元箱根では新たに温泉を引いているのが注目されます。

近況本宮山ノ半腹ヨリ熱泉ヲ引キ、元箱根ニ浴室ヲ開クノ勢アリ。筧竹百六十丁ヲ通シ開業シタリシニ、過日ノ雨ニテ崩壊又近日ニ修理シ愈成業ノ勢ヒ、願人ハ川井卯三郎、菅沼伊平太等銀主ハ靜岡縣士族人見勝太郎ナリト云リ。此地果シテ潤益ノ多キニ到ラン。

(333ページより)

やはり温泉を持っていることが宿泊客誘致の上で強みになるという読みがあったのでしょう。それまで「箱根七湯」と呼ばれていた温泉以外でも、外部からの出資者も巻き込んで湯場を開こうという動きが早くから起こっていたことがわかります。ただ、完之の役職や関心事に温泉はそれほど入っていなかった様で、木賀で宿泊した翌日には小田原までの温泉場をほぼ素通りしており、「日誌」にはごく簡潔にこれらの温泉場が栄えていることを書き留めるのみになっています。また、湯本までの道が温泉客を運搬する人力車のために整備されたことは記していても、その温泉については「溫泉ノ天助ヲ感ス」(332ページ)とひとこと書き付けた程度に留まっています。

幾らかまとまった記述が見られるのが姥子の温泉です。完之は次の様に記しています。

十時頃姥子ニ至ル。此地明礬ヲ製造ス。以前ハ盛ンニシテ今ハ衰フ。此溫泉ノ近傍水流酸氣アリ。溫泉能ク眼病ヲ療ス。又馬病ヲ治ス妙ナリトテ群旅來宿ス。

(333ページより)

箱根の明礬について以前2回に分けて委細を紹介しました。明治時代に入って明礬の精製にかかる労力が見合わなくなって衰退していったのですが、完之が訪れた明治8年時点で既に箱根では明礬精製を殆ど行わなくなっていたとしています。ただ、2年後の明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では明礬も出品されていますから、完全に明礬精製を止めてしまっていたと言えるかは微妙なところです。何れにせよ、元は明礬精製に使われていた温泉であるということが、完之の関心を引くポイントであった様です。

また、上記の宮城野村付近の記述の中に、早川の川底に見える石が砥石に向いているのではないかという指摘があります。実際には、この近辺では火打ち石が生産されていたことを以前紹介しましたが、完之が見立てたのはその黒色の石ではないかと思います。小田原付近では製塩の可能性についても記述していた完之は、他にも堂ケ島の辺りで砥石を生産していることを記す(333ページ)など、どうやらこうした鉱物類の産物にも少なからず興味関心を持っていたのでしょう。ただ、この行程で芦ノ湯や大涌谷付近を経由することがなかったためか、あるいは明礬同様にこの頃には既に生産が衰退していたためか、完之の記述の中ではこの地で生産されていた硫黄については触れられていません。

他方、完之が本来植生調査に出かけて来ていたこともあり、箱根山中に生えている樹種や植物については折りに触れて記述されています。
  • 棕櫚樹ノ生木ヲミルニ地質ニ叶フ者卜察セラル。然ドモ餘□作モノモナシ、惜ムベシ。(19日、板橋村付近で:331ページ)
  • 社前ニ到ル。路左二喬樹森立ノ際厚朴ニ類シタル葉俗ニトチノ木卜呼フ。七葉樹也。函山ニ一株ノミト云ヘリ。聞說山西ニハ白苟藥、黃連(わうれん)、結香多シト。山路通シ難タキヲ以テ親シク之ヲ見ス。「コマ木」、「山カハ」、「ビンカ」、「モチノキ」、ネバノ木ノリヲトル諸種アリ。「チフリ」草トテ里人陰干ニシ疝積ノ藥ニ妙ナリト云。(21日、箱根神社付近で:332〜333ページ)
  • 右岸頭ニ異常ノ躑躅異常ノ杉樹アリ。一枝ヲ折取ル。(22日、姥子への向かう船上で:333ページ)

しかし、箱根山中で盛んであった挽物細工については大平台村に木地職が多いことを記しているのみです。また、各種の薬草についても、良く見ると何れも地元の人からの聞き取りを書き記しており、それほど重きを置いて調査している様には見えません。その背景には、完之が近代化を目指していた明治政府の役人のひとりとして、これらの産物を見立てていたことがあるでしょう。少なくとも、江戸時代から地元に伝わる「七湯の枝折」を基本に据えて見繕ったと考えられる「第1回内国勧業博覧会」の箱根からの出品物と比較すると、完之が書き付けたものは若干違って見えてくるのは確かです。その様なこともあって、「新編相模国風土記稿」で取り上げられた箱根の産物でも、上記で取り上げたもの以外には殆ど触れられず、芦ノ湖で鱒や「赤腹(ウグイ)」などを獲っていることを記すのみ(333ページ)に終わっています。

小田原に戻った完之の以降の足取りについては、後日改めてまとめたいと思います。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

浦賀の葦鹿:「新編相模国風土記稿」より

以前「新編相模国風土記稿」の各郡の産物一覧をまとめた際には、浦賀の「葦鹿(あしか)」を「変わり種」としてごく簡単な解説を付けました。と言っても、別途引用したのは「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(2003年 神奈川県生命の星・地球博物館編)だけで、当時の実情についてこれといって掘り下げた訳ではありませんでした。そこで今回は、もう少し史料を集めて改めて解説したいと思います。


まず、「風土記稿」の各部の記述を拾ってみます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯葦鹿三浦郡西浦賀分鄕の海中、海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして、其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯葦鹿阿志加◯西浦賀分鄕の海中海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 西浦賀分鄕(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    ○海鹿島阿志加之末陸より十町餘に在、二島相並ぶ一は長十四間半、横十間許、一は長十三間横七間葦鹿常に此島に上りて午眠す、故に此名あり、享保以後浦賀奉行より同心等に命じ鐵炮をもて打しむ、此獸冬月は頗多く、寒中は其肉味殊に美なりと云、又此島に續て笠島と云小島あり、常に水中に沒す

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編と三浦郡図説の記述の違いは「三浦郡」の3文字が入っているか否かだけであり(読点の位置の違いは雄山閣版編纂時に生じたもの)、事実上完全に同一で、冬場に特にその数が増え、肉が美味であることを記しています。他方、西浦賀分郷の項では「海鹿島(あしかしま)」の項でアシカが常に休んでいる島であることからその名が生じたこと、そして享保年間以降浦賀奉行が同心に命じて鉄砲で撃たせていたことが記録されています。

和漢三才図会巻38海獺
和漢三才図会「海獺」
訓は「うみうそ」で「あしか」はない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
和漢三才図会巻38海鹿
同じく「海鹿」
こちらには「あしか」の訓がある
(「同左」)

「風土記稿」ではアシカの表記に「葦鹿」の字を宛てていますが、この表記を何処から持ってきたものかはわかりません。「和漢三才図会」では上掲の様に「海獺」と「海鹿」の2種類の項を掲げつつも、両者は実質的に同じものであることを「海獺」の絵の下や「海鹿」の書き出しの部分に記しています。また、「本草綱目啓蒙」では「海獺」の項のみが存在し、「ウミヲソ」「ウミウソ」の訓に加え、筑前で「アシカ」の名で呼んでいるとしています。以下に引用する村明細帳でも「葦鹿」の表記は用いられておらず、本草学の表記に従うことの多い「風土記稿」にあっては珍しい例と言えそうです。

浦賀道見取絵図:燈明崎付近
浦賀道見取絵図:燈明台付近(再掲)
ここで登場する「海鹿島」ですが、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では、燈明台の置かれていた燈明崎からさほど離れていない場所に位置している様に描かれています。

地形図上の「海獺島」(「地理院地図」)
ズームアウトすると西北側に久里浜港が見えてくる

しかし、現在「アシカ島(海獺島)」として知られている小島は陸地からは大分離れて位置しており、むしろ久里浜に近い海上にあります。「風土記稿」の記述でも「陸より十町(約1.09km)餘に在」と記していることからも、「海鹿島」は決して陸に近い岩礁などではなかったことは確かです。「浦賀道見取絵図」を含む「五街道其外分間見取延絵図」では、道路とその近傍のものについては測量結果を元に距離関係をなるべく忠実に反映する様に描いていますが、より遠方の目標物に関しては必ずしもその限りではなかったため、「海鹿島」については図中に収まる位置に描いたのでしょう。

「海鹿島」が久里浜村の属ではなかった点は今の町名からはやや違和感がありますが、西浦賀分郷は現在の久里浜港のある入り江付近まで拡がっていましたので、その点ではこの小島が西浦賀分郷の内にあったのはさほど不自然ではありません。「風土記稿」に「二島相並ぶ」とある点、そして最長で14間半(約26m)という特徴は大筋でこの島の特徴と合っていますが、かつてはこの小島の上で多数屯していたというアシカの姿を見かける代わりに、現在では燈台と海上の気象観測のための無人施設が設置されています

ともあれ、当時はこの島に集うアシカを撃たせていたと「風土記稿」は記している訳ですが、この裏付けとなる史料としては、東浦賀が享保18年(1733年)5月に差し出した村明細帳を挙げることが出来ます。この村明細帳は浦賀奉行の交替に際して領内の各村から提出させたものであることが表紙に記されていますが、その中に

一あしか御用付御鉄炮衆御出被遊候節、人足漁船御用相勤申候

(「相模国三浦郡の村明細帳」青山孝慈著、「三浦古文化」第13号 1973年 所収 63ページより)

という一文があります。浦賀奉行が鉄砲衆を連れてアシカ狩りを行う際に、東浦賀から船と人足を出していたというのですが、現在の地形図で見ても1km以上離れた海上の島にいるアシカを陸上から狙うのは、射程距離200m程度とされる当時の鉄砲ではまず無理で、船で射程圏内まで接近する必要があったのでしょう。特に年月や時季については明記されていませんが、冬場の肉が美味であると「風土記稿」が書いていることから判断すると、毎冬に定期的に行っていたことになりそうです。

捕えたアシカは誰が食べていたのでしょうか。「徳川実紀」の「大猷院殿御實紀卷六十六」では、正保4年(1647年)4月3日の項に

けふ葛西二の江漁人得たりとて海鹿を獻ず。(日記、紀伊記)

(「新訂増補国史大系第四十巻」吉川弘文館 480ページ下段より)

とあり、当時の将軍であった徳川家光に対して東葛西領二ノ江村(現:東京都江戸川区二之江町他)の漁師が捕えたアシカが献上されています。同書の索引で確認する限り、アシカが将軍に献上された記録はこれ1件のみの様ですが、浦賀奉行が例年撃たせていた状況から見ても、武家にとっては「珍味」と言うべき存在だったのでしょう。また、この記録から当時は江戸の近海でもアシカの姿を見ることがあったことが窺えます。

漁師がアシカを食していた可能性についてはどうでしょうか。三崎の漁師であった湊左文という人が著した「相模灘海魚部」という書物には、相模灘で得られる海産物などをまとめた中にアシカの姿が描かれており、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」には彦根城博物館が所蔵する同書の写本の絵が掲載されています。この書物について国立研究開発法人 水産研究・教育機構 中央水産研究所の図書資料デジタルアーカイブでは「作成年不明」としていますが、彦根城博物館がこの写本を所蔵しているのは彦根藩が幕末に海防の目的で三浦郡の一部を所領とした時期(弘化4年・1847年〜嘉永6年・1853年)があったことと関係が高いと考えられることから、少なくともこの書物はその頃には写本を献上できる状態にあったと考えられます。この「相模灘海魚部」のアシカの絵について、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」では「尾が太く長く描かれているなど、不正確な絵であるが、ニホンアシカと同定される」(93ページ)と評していますが、確かに尾部の表現は実物とは若干異なっている様に見えます。

注目すべきはその右側に記された記事で、「味似伊留加(味イルカに似る)」と記されていることから、少なくとも著者の湊左文はアシカやイルカを食した経験があった様です。また、この記事の中では「魚網魚取食故漁人甚悪之」と記していることから、漁師からは「害獣」として認識されていたことがわかります。当時の実情からは漁師自ら鉄砲を持って積極的に捕獲する訳には行かなかったと思われることから、彼らの場合は漁の最中に網に掛かったりしたアシカを捕えていたのでしょうが、彼らもその様な経緯で得たアシカを食す機会はあったものと思われます。ただ、当時の漁師がどの程度の頻度でアシカを口にしていたかは良くわかりません。少なくとも、江戸時代を通じて一定数が生息していたと考えられるので、個体数を減らしてしまうほどの積極的なアシカ漁は行われていなかったのではないか、と個人的には考えています。


三崎の漁師である湊左文が、自らの漁場を離れて浦賀の近海まで乗り出していたとは考え難いので、彼がアシカを見かけていたのは洋上か三崎付近の岩礁の様な場所だったのでしょう。「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」にはこの浦賀の「アシカ島」の他に、「かつてニホンアシカが繁殖または休息のために上陸した小島・岩礁」と題した図を掲げ(93ページ)、地名から推察したと思われるかつてのアシカの生息地を列挙しています。このうち、神奈川県の沿岸では
  • 横浜市神奈川区(トド島)
  • 横須賀市久里浜(アシカ島)
  • 三浦市八浦(トドノ島)
  • 三浦市晴海町(トッド島)
  • 三浦市城ヶ島(アシカヶ入江)
  • 葉山町森戸(トットヶ鼻)
  • 葉山町森戸(トットノ島)
と、城ケ島をはじめ三浦半島沿岸の地名を多数挙げており、アシカの生息する海が多数あったことが窺えます。この中には三崎の対岸に位置する城ケ島の名前も含まれていますので、湊左文がアシカを見たりしていたのはこの付近でしょう。この一覧では他に、房総半島、伊東、伊豆大島の地名が挙げられています。


三浦市南下浦町毘沙門字八浦の位置(「地理院地図」)
「風土記稿」の三浦郡毘沙門村(現:三浦市南下浦町毘沙門)の項には

◯海 村南にあり、江戸迄海上十八里、海岸に白濱・八浦夜都宇良をそ・堂ケ島等の名あり、

(卷之百十二 三浦郡卷之六、強調はブログ主)

とあり、「トドノ島」の代わりに「をそ(獺)」の名が挙げられていることから見ると、こうした海岸の名称はその時々によって呼び替えられていたのかも知れません。

後にシーボルトが持ち帰った標本やスケッチをもとににして編纂された「日本動物誌」の中では、アシカは「Otaria Stelleri」としてその姿骨格などの図(リンク先は「京都大学電子図書館 貴重資料画像」)と共に紹介されました。シーボルトが持ち帰ったとされるアシカの標本がオランダのライデン・国立自然史博物館に所蔵されているそうですが、滞在していた長崎・出島で入手したものとされ、当時はこうした地域でも普通に見られる動物であったことがわかります。

こうした状況が変化していったのは、やはり明治時代の後期頃からであった様です。神奈川県の「レッドデータブック2006年版」では次の様に記されています。絶滅の原因については他にも乱獲駆除などを挙げることは出来そうですが、何れにしても人為的な側面が強く作用したことは間違いないところでしょう。

ニホンアシカ Zalophus californianus (Lesson)(アシカ科)

県カテゴリー:絶滅(旧判定:絶滅種B)国カテゴリー:絶滅危惧ⅠA類

判定理由:明治30年代頃までは、棲息の記録があるが、以降は全くみとめられない。

生息環境と生態:海岸部で休息・繁殖する姿が以前は認められたが、現在はない。

生息地の現状:繁殖や休息に利用していた岩礁海岸が開発と共に消失してしまった。

存続を脅かす要因:海岸開発、水質汚濁

県内分布:絶滅したため、なし

国内分布:不明

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 236ページより)


実はこの2006年のレッドデータブックのこの項では、末尾に参考文献として「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」が挙げられています。既に域内からは絶滅して久しい動物だけに、過去の記録を引き継ぐ以上に記述の厚みを増すことが出来なくなっていることが、こうした文献の参照関係にも現れているとも言えそうです。
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