「道中記・紀行文」カテゴリー記事一覧

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藤沢・四ツ谷の「海鳴り」:「中空日記」より

以前、「中空日記」(文政元年、香川 景樹著)で取り上げられた生麦のツキノワグマについて記事にしました。今回は、その「中空日記」のもう少し先に進んだ辺りの記述を見てみたいと思います。

Totsuka (5765899000).jpg
歌川広重「狂歌入東海道」より「戸塚」
広重は戸塚の絵図として
大坂上の松並木の風景を繰り返し描いている
(By 歌川広重 - Flickr
The Sandiego Museum of Art collection,
パブリック・ドメイン, Link
生麦で熊を見た一行はその晩は神奈川宿で一泊し、翌日は戸塚宿を越えて藤沢宿まで進んでいます。神奈川を遅くに発ったこともあって、戸塚宿を過ぎた辺りの松並木の中で日が暮れてしまい、弟子が「あはれにもけふの命をまつかねに鳴のこりたるきりきりすかな」とキリギリスの鳴く様を詠んでいます。文政元年10月25日はグレゴリオ暦で1818年11月23日、念のため同日の月齢を計算すると24.4ですから、太陽太陰暦の日付が示す通り下弦の月も過ぎており、この日の晩はあまり明るくはなかったであろうと考えられます。藤沢宿に到着後に歌を書きつけたのかも知れませんが、道中で歌を詠んで書き留めたのだとすれば、暗い松並木の中で敢えて歩を止めて、提灯の明かりを頼りに筆を走らせたのでしょうか。

神奈川〜保土ヶ谷宿は1里9町、保土ヶ谷〜戸塚宿は2里9町、そして戸塚〜藤沢宿が2里、合計すると5里半(約22km)で、1日に10里(約40km)は進んだとされる当時の平均的な道中から考えると、この日は相当にゆっくりした道行きであったことが窺えます。歌を詠む都度歩みを止めながらの道中では、1日の行程が短くなるのも道理ではあったでしょう。

藤沢宿に到着した頃の様子は書かれていません。この紀行文では基本的に旅の途上で歌に詠んだ風景などを書いているので、宿に着いた後は体を休める方に専念していたのでしょう。翌26日の記述は次の様になっています。

廿六日、藤沢をたつ、空くもれり、しはらくきてよつやの里にやすむ

朝たちてとへはよつやとこたへけりみしかき冬の日影なるかな

海のいたくなりひゝくは、雨になるにやといへは、よねひる女ともいふ、かみ

の方にてなる時は日よりに侍り、下の方にてなるときは雨ふり侍

り、さらは今 なる声は、たゝ向ひの沖中にきこゆめり、いかゝはと皆いふ

てりくもりしくるゝ頃の海なりは中空にして定めなきかな

ひきち村をすく

かへりこん春やひきちの小松原今ひとしほの色そへてまて

(「奈良女子大学学術情報センター 江戸時代紀行文集」より)


東海道五十三次之内藤沢四ツ谷立場
歌川広重「東海道 五十三次之内」(蔦屋版東海道)中
「藤沢 四ツ谷の立場」
左端に現在も残る道標が描かれており
藤沢方面を見た構図であることがわかる
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Public domain.)
四ツ谷(現:藤沢市城南、羽鳥)は東海道から柏尾通り大山道が分かれる追分で、立場や茶店で賑わう地ではありました。とは言え、藤沢宿の江戸方の見附からでも四ツ谷までは1里(約4km)もありませんので、宿を出てからそれ程の距離を歩かないうちに、早速最初の休憩をとったことになります。幕末に描かれた歌川広重の「東海道五十三次之内」(蔦屋版東海道)の「藤沢 四ツ谷の立場には、この追分に建ち並ぶ茶屋の風景が示されていますが、一行は大山道が分かれるこの追分の風景に何か感じるところがあって足を止めたのでしょうか。ここでは大山に纏わる歌は掲げられていませんが、もう少し先の「浜の郷」(現:茅ヶ崎市浜之郷)では遠方に見える大山を題に2首詠まれています。四ツ谷で詠まれた歌が「朝たちて」と始められていることと考え合わせると、四ツ谷に到着した時点ではまだ日があまり高くない時間帯であったと考えられます。

四ツ谷・引地の位置関係
四ツ谷・引地の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
もっとも、四ツ谷の立場の話に続いて「引地(ひきじ)村」(現:藤沢市鵠沼神明4丁目付近)で詠んだ歌が掲げられていますが、藤沢から京に向かう際には四ツ谷より先に引地を通過する筈ですので、ここは実際の順序とは異なってしまっていることになります。単に記憶違いによるものか、あるいは藤沢を発って四ツ谷に着いたと詠む歌の印象を強めるために意図的に順序を入れ替えたのか、その辺りの事情については「中空日記」の記述だけでは察するのは困難です。ただ、四ツ谷に着くまでにも引地で景色を愛でる歌を詠んでいる辺りからも、この区間でも相変わらず歩を速めることなく進んで来たのだろうという印象を抱かせます。事実、この日の宿泊地はわずか3里あまり先の平塚、翌日も5里に満たない距離を進んで小田原と、歩みは実にゆっくりです。


この四ツ谷の立場で、景樹は「よねひる女」、つまり「(よね)()る」、米糠を篩い分けていた茶屋の女性に、海鳴りの聞こえ方から雨が降るだろうか、と問いかけています。それに対して茶屋の女性たちが口々に説明したのは、「海鳴りが上の方から聞こえてくる時は日和が良く、低く鳴っている時は雨になるが、今日は中ぐらいの高さなので果たしてどうなるか」ということでした。


四ツ谷から海岸にかけての迅速測図(「今昔マップ on the web」より)

東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近
東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近(再掲)
街道の南側には水田が拡がっている
東海道分間延絵図:引地川右岸
東海道分間延絵図:引地川右岸(再掲)
こちらも水田の南に沼地の水田が見える

四ツ谷の立場は海岸線からは3kmほど隔たった場所にあります。今は国道1号線より南側は海岸線まで住宅などで埋め尽くされており、未利用地を見出すのは困難です。東海道筋にもマンションなどが建ち並び、街道筋から海を見通すのはまず無理です。明治初期の迅速測図によれば、四ツ谷の立場から海岸線の間には辻堂村の集落はあるものの、大半が松林と畑で占められていたことが確認できます。立場の標高はおよそ15m、緩やかな砂丘の上を進む東海道は周囲よりはやや高い位置を進み、水田が街道の南に拡がっていたとは言え、果たして当時も海を遠くに見ることはできたでしょうか。

ともあれ、四ツ谷の茶屋の女性たちの間では、その3kmほど離れた海から聞こえてくる海鳴りの「高さ」が当日の天気予報に使えると考えられていたことが窺えます。また、「中空日記」の記述の順序では先に問い掛けたのは景樹の方ですから、海鳴りの聞こえ方で天気を予測できるという考え方を、景樹も共有していたことになります。

「民家日用広益秘事大全」巻3「天気の善悪を見様」より
「民家日用廣益秘事大全」(嘉永四年 三松館主人著)
頭書の部分に「天気の善悪見様」が列記されている
全45項目中に音で天気を見たてるものは皆無
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この様な、音の他に雲や風などの自然現象、あるいはツバメや昆虫などの生物の行動を頼りに経験則に基づいた天気予報を行うことを、「観天望気」と言います。今でも「月に傘がかぶると翌日は雨」「山に笠雲がかかると雨」といった観天望気がよく使われていると思います。

こうした観天望気で多く用いられているのは、やはり雲や風、夕焼けといった上空の現象になるでしょう。それに対し、四ツ谷の茶屋の様に「音」によって天気を見たてるタイプのものは、それほど多いものではない様です。「天気予知ことわざ辞典」(大後(だいご) 美保(よしやす)著 1984年 東京堂出版)には数千件に及ぶと見られる観天望気の例が掲載されていますが、音によって気象を見たてるものは、
  • 227〜229ページ「音から雨を予知」:71件
  • 264〜265ページ「音による雨晴の予知」:7件
  • 333ページ「音による風の予知」:13件
など、全体でも100件を超えません。相模湾の観天望気をまとめた海上保安庁海の安全情報のページには、全部で118件の観天望気が集められていますが、この中に音によって気象を見たてるものは含まれていません。音を使う場合、音源からの距離や地形なども大きく影響することから、ローカルな言い伝えになる傾向が強く、その分伝わっている例が少なくなっているのでしょうか。なお、神奈川県下の観天望気についてまとめられた出版物は、図書館のリファレンス・サービスを活用して探した限りでは、該当するものが見当たらないとの回答を戴きました。

四ツ谷の茶屋の女性たちに問い掛けた景樹も、一般的に天気の見立てを聞こえて来る音によって行えることは知っていたものの、地域によって見立て方が違うことを念頭に置いて、この様な質問を投げ掛けたのかも知れません。

四ツ谷の茶屋で言い伝えられていたこの観天望気を、現代の科学で裏付けるとしたら、どういう説明になるのでしょうか。音の伝わり方と気温の関係については、次の様な解説が良くなされます。

風も雲も無い冬の夜に、遠くの電車などの音が良く聞こえることがあります。夜は静かなので当たり前といえば当たり前なのですが、もう一つの原因として音の屈折があります。

昼間は太陽光によって地表が温められ、上空にいくほど温度が低くなります。夜になったときに風も雲も無い場合は放射冷却が起こり、地表が冷やされ、上空の空気の方が暖かくなります。暖かい空気層と寒い空気層が逆転します。(このような層を接地逆転層というらしいです)。

このため、暖かい空気中の音速の方が速いので、夜はうまい具合に屈折して遠くまで音が届きます。

(「わかりやすい高校物理の部屋」より)


瀬戸内の観天望気をまとめた第六管区海上保安本部海洋情報部のページでも、次の様に解説がなされています。

○川音が高く人声が近いと雨。<音の速さは暖かい空気の方が冷たい空気より速い。晴れた日の空気の温度は地上に近いほど暖かく、上に昇るほど冷たくなっており、音を出すと音はまっすぐ飛ばないで冷たい温度の方へ曲がって逃げる。曇りの日のように地上付近と上空の温度差が少ないときは上空に逃げず遠くまで届きやすい。)

(「観天望気(天気のことわざ)」より)


また、音の速度は湿度が上がった場合も若干ですが速くなります(参考:リンク先PDFの17ページ)。従って、湿度の異なる空気が隣接している場合にも、同様に屈折を起こす可能性があり、これも遠方での音の聞こえ方に若干ながら影響を及ぼすことになるでしょう。

ただ、音が聞こえるか否かではなく、聞こえて来る「高さ」を問題とする四ツ谷の観天望気の場合、この現象を「音の屈折」の様な現象によって科学的に説明し切るのは、かなり難しそうです。特に晴天時には高高度からの音が底高度からの音より大きくなる現象をどう説明すれば辻褄が合いそうか、調べた範囲では適切な解説を思い付きませんでした。「天気予知ことわざ辞典」に掲載されている音による観天望気でも、音の聞こえて来る高さが問題とされているものはなく、音の聞こえて来る方角が変わるものが比較的近いと言えますが、そのメカニズムについて解説されているものはありませんでした。


現在の四ツ谷の大山道標(ストリートビュー・再掲)
この観天望気が有効なのか、現地で確認してみたいところですが、今となっては、引っ切りなしに往来する自動車をはじめ、各種の騒音にマスクされて、3km先の海岸の海鳴りを四ツ谷交差点付近で聞き取るのは、殆ど不可能になっています。付近にお住まいの方であれば、深夜に車の流れが途切れ、周囲が静寂になる時間帯に遠方の海鳴りを聞くことが出来るのかも知れません。そうでなければ、四ツ谷の追分に残る大山道道標を兼ねた不知火像の前で、かつてこの付近の茶屋で遠方の海鳴りに耳を傾けながら当日の天気を相談しあったことに、思いを馳せるのが精々というところでしょう。

ところで、景樹はここで「中空にして定めなきかな」と詠んでいますが、奈良女子大の解題(レポート)では、「中空日記」という題との関係について、次の様に解説しています。

 ところで、この『中空日記』という作品を何度か繰り返して読んでいるうちに、ある一つの疑問がふくらんできた。――「中空」という語に景樹が込めた心情は何だったのか。

このタイトルが示すところのものは、何なのか、ということである。この日記のなかには「中空にして定めなきかな」と歌に詠んでいる箇所と、「夢路は中空にそたとるへき」と綴られた箇所の二回きりしか「中空」という語は出てこない。

 景樹よりも前の時代の先人たちは、和歌の中でどのように「中空」という語を使っているのか、『新編 国歌大観』を開いてみた。すると、「中空」には大きく分けて二種類の使われ方があるようで、“情景をありのままに詠んでいる”場合と、“心情を歌に詠み込んでいる”場合の二つに分けられる。前者の方は、「中空」という語が単に「空」としての意味を果たし、季節(特に秋)の情景や、月について等を和歌に詠んでいる。それに対し、後者は単にそれだけではない、含みのある使われ方がなされており、「雲」や「煙」などが詠まれ、「心の日かげ」・「ものおもひ」・「むなしき夢」・「かたぶきてゆく」・「ただよひて」、そして「身は浮雲」の如く、たよりなく、はかなげ、といった具合に、辛い心情や物憂げな気持ちを「中空」という語に託している。

香川景樹の『中空日記』本文を締めくくっている、「なほ夢路は中空にそたとるへき」という一つの文句が非常に印象深いのは、酷なまでの反対勢力の景樹批判に遇い、江戸歌壇制覇の望みも叶うことなく、失意のうちに江戸を発つこととなった景樹の心情が、この文句に凝縮されているからではないだろうか。

上記サイトより)


四ツ谷で詠んだ歌の「中空」は、解題で紹介されている2通りの使われ方のうち、「情景をありのままに詠んでいる」方に近いと言えるでしょう。もっとも、この歌を「定めなき」という言葉で結んでいる辺りに、何かしら移ろいやすい心情的なものを暗に含めたいと思ったのかも知れないとも感じさせます。この日は結局天気は下り坂で、日が暮れる頃には雨が降り始めるのですが、あるいはこうした下り坂の空模様に、末尾で再び「中空」が登場する際の雰囲気を、先取りして重ね合わせて見せたのかも知れません。
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生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
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江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」補足:「甲子夜話」の「遠足」の位置付け

先日寛政3年の江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」を取り上げた際に、「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」所収の「甲子夜話(かっしやわ)」(松浦静山著)からの引用を幾つか紹介しました。これについて本筋ではないことをごく手短に補足します。

「鎌倉市史」の「甲子夜話」の引用の冒頭は次の様に始まっています。

○又余録に載せ置し寛政の始め遠足を命ぜられしことを復録す。是等にてもこの頃の時勢を想べし。

(同書215ページより)


「甲子夜話」の一部を持って来ているとは言え、文章がいきなり「又」で始まっている点に少々違和感を覚えました。明らかに前段にあった何かを受けて話を始めているのですが、それが何であるのかが引用された文章だけではわかりません。あるいは前段にこの遠足・遠馬に関係することが何か記されているかも知れないと考えたので、元の「甲子夜話」を確認することにしました。今回確認に使ったのは平凡社東洋文庫に収められている「甲子夜話」正編です。

「鎌倉市史」に採録されていたのは巻三十五の二の章です。つまり、「又」が受けているのをその前の「一」の章ということになりますが、そこにはこうあります。

〔一〕寛政の御政は難有ことこそ多けれ。昔し記し置しを、後の思出にもと今又録す。此越中守とあるは、浴恩老侯御補佐のときなり。

町家之内、忠孝奇特(なる)者と相間候もの密に取調之上、越中守殿依御指図左之通御褒美被下候。

(「甲子夜話2」1977年 中村幸彦・中野三敏校訂 平凡社東洋文庫314 345ページより、強調はブログ主)


そして、全部で47名の名前が、忠孝者の褒美として与えられた銀の枚数と共に書きつけられています。静山はこれを受けて「ありがたきこと」と記しており、彼としてはその褒章の実情を記録したいという意図でこれを取り上げたことになります。そして、それを受けて「又」としている訳ですから、この遠足についても褒章を受けた者を取り上げたかったということになります。

「甲子夜話」に遠足の上位入賞者しか記されていないのは、あるいはそのためかも知れません。下位に沈んで褒美を受け取れなかった人たちには関心を持たなかったので、名前を省略してしまったとも考えられます。但し、同書ではこの遠足については「余録」に載っていたと記しています。この「余録」が具体的にどの様な書物であったかについては今のところはっきりしませんが、「甲子夜話」に遠足の表彰者が5名までしか書き付けられていないのは、「余録」が既にその様な記述になっていたからとも考えられます。


ただ、真意がどこにあれ、この様な形で当時の触書が伝わったことで、この遠馬・遠足の様子を考える上での貴重な記録になったことは確かです。こうした「甲子夜話」の記述の性格を考慮しても、それを補うために別途「宝暦現来集」を併せて収録した「鎌倉市史」の判断は、一層妥当なものだったと思えます。
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寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで
吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。

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「慊堂日暦」の箱根行き以外の道中の記録について

先日来読み返していた松崎慊堂の「慊堂日暦」について、大雑把ではありますがひと通り目を通し終えました。その際に目に止めたケンペルにまつわる記述を元にして、前々回前回の2回で「はこねぐさ」についてまとめた訳ですが、この日記を読み返したもう1つの目的は、「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)に記された6回の箱根の記録の他に旅の記録が、特に相模国を経由した際の記録がないかを探すことでした。今回はその結果を簡単にまとめておきます。

結論から先に言うと、慊堂はあまり積極的に旅をする人ではなく、湯治目的の箱根行き以外は基本的に主君に随伴して遠征したり、講義などの目的があって出掛けたケースに限られる様です。そのためもあってか、相模国内を経由した旅の記録は、上記の6回以外では文政12年(1829年)3月9日に江戸を発って大坂へと向かい、同年10月25日に江戸へ帰り着いた際の1回のみということになる様です。

この往復は、主君であった掛川藩主・太田資始(すけもと)が大坂城代として赴任するのに随伴してのものです。日記では前年の文政11年11月22日の項に「この日、主君は大坂城総督を拝す」(「慊堂日暦2」223ページ、以下巻号とページ数は何れも平凡社東洋文庫版より)とありますから、それから諸々出発に向けて手筈を整え、翌春に大坂に向けて発った訳です。因みに当初の出発予定は7日だったものが、9日に延期されています。

往路は東海道を経由していますから、当然この時も箱根を通過しているのですが、「報告書」ではこの1回は数え上げられていません。これは恐らく、この往路の道中の記述がごく簡潔で、箱根に関する記事が殆どないことによるものと思われます。実際、3月10〜11日の記述は

十日 晴。夜、小田原に宿す。富岡の女、十束の女はみな轎にて往き、途にありて甚だ困しむ。

十一日 陰。関門を()たり。吏は帯びるところの妻孥(さいど)を検す。三島駅本陣(樋口伝左衛門、父は林平。朝日与右衛門はその冠賓なり。依田善六の父左二兵衛は林平の弟なり)。

(「慊堂日暦2」242ページより)

と、箱根の関を越えた際のことのみが記されています。因みに「轎」とは駕籠の様な乗り物を指しますが、この時は主君に帯同した家来の家族も随伴していたため、箱根の関所ではそのうちの女子の改めを受けた、と記している訳です。なお、平時駕籠を使うことが多かった慊堂自身もこの往路で駕籠に乗っていたと考えられ、記述が簡潔なのもその表れと思われますが、その点に関する明記はありません。

同月14日には領地である掛川に着いたものの、翌日三箇野橋(袋井〜見附間、太田川)の落橋の知らせを受けて出発が1日延期され、大坂城に着いたのは23日でした。以後慊堂は同地に滞在しながら多くの人と会い、時には揮毫に応じたりしています。日記には「◯大塩平八郎。天満組屋敷与力(よりき)盗賊方」(「慊堂日暦2」245ページ、3月末尾)「◯大塩平八郎。号は洗心洞、三十七八歳。」(「慊堂日暦2」308ページ、9月13日)と2度にわたって記されていることから、この滞在中に大塩平八郎とも会ったのかも知れません。

9月27日には主君の大阪城代の任が終了し、翌日には江戸に向けて出発していますが、雨季に川止めに遭うことを警戒したためか、この復路では東海道を経ずに中山道へと向かっています。この道中では「余は轎中にあり、ただ山を看るべからざるを苦しみ、」(「慊堂日暦3」4ページより)と書いていますから、やはり駕籠に乗っていて外の景色を見られなかったことが、道中の記述の簡素化に繋がったと見て良さそうです。途中木曽福島に数日滞在し、同地の領主に論語などを講義しています。また、慊堂は蕎麦が好物であった様で、日記には蕎麦を食したという記述が至る所で見られるのですが、同地で食した蕎麦について

十五日 …蕎麪(そば)条を進むれば甚だ佳し。ここに来ってしばしばこの味を享す、妙は言うべからず。

(「慊堂日暦3」6ページより、…は中略)

と、その味を賞賛しています。

下諏訪からは中山道ではなく甲州道中へと向かっているのは、少しでも江戸に早く着くための配慮でしょうか。通常の参勤交代とは違い、同伴した家来の数も多くはなかった様なので、沿道の施設が比較的小規模な甲州道中でもさほどの支障とはならなかったのかも知れません。何れにせよ、甲州道中を経由したことで復路は津久井県を経由することになりました。

甲州道中が相模国内を経由する区間はあまり長くなく、鳥沢を出発した一行は翌日には相模国を経て武蔵国に入ってしまいます。このためもあって、日記の記述もそれほどの文量にはなっていません。

二十三日 暁行して犬目駅に至れば天明(てんめい)なり。三十丁にて野田尻、一里にて鶴川駅、駅外の鶴川は左より来り、南行して桂川に入る。十八丁にて上の原駅、二十余丁にて諏訪村と曰い、関あれども呵せず。関の西を諏訪村と曰い、絹商駅あり。関外の下坂は頗る険しく、桂川は西より来り、猿橋に比すれば見るところ大を加う。小水が左より来るを界川と曰う、(かい)(さがみ)の界なり。界の東はすなわち津久井駅、石壁は嶄立(ざんりつ)し、桂水はこれがために屈曲し、反流するものの如し。路はまた曲屈して上り、上り窮まる処を関野駅(代官江川氏)と曰う。十六町にて吉野駅と曰い、駅は与瀬に距ること一里、駅外に間道あり、南して舟を桂水に下す。一村を経て、村外にて再び桂水を渡り、左行して崖を()ずれば険悪を極む。凡そ四丁にて与瀬に(いた)る。官道に比すれば近きこと六の四。与瀬よりまた山行すること半里、小原と曰う。小原より上れば小仏嶺、嶺頭より直ちに下れば、小仏駅を経て駒木野関に入るべし。余は南行すること五十町、高雄山寺に入って宿す。香廚(こうちゅう)は極めて草々にして、ただ一酌あり口によろし。

(みの)より(しなの)を経て(かい)に入り、千山万水、変態百出し、小仏嶺に至れば、すなわち山囲は忽ち開け、水勢は平流す。感じてこの詩をつくる。

中山の路千里、跛渉(ばつしよう)して高深に()む。折れて入る仙禽郡、回看す小仏岑。昂低(こうてい)の山に意あり、険易(けんい)の水に心なし。ただに峨漾(がよう)を窮むるのみならず、併せて世事を(そらん)ずるに堪えたり。

二十四日 早起すれば、寺の四辺はみな大木、木の間に鎌倉絵島を俯視す。禽声は啁哳(とうたつ)人間(じんかん)にて聞くところに非ず、寺僧に問えば知らず。寺北の飯綱祠は頗る壮厳、石階は百級に近く、香火は近郡の最たりと云う。山を下ること十余丁、右に降ることまた十余丁、琵琶瀑を観る。瀑は極めて小、高さは三丈ばかり、失心の人が来り浴すれば効あり。余は灌水癖あるも、早辰にて霜氷は地に満ち、地はまた陰峭、すなわち去る。北行すること十余丁、駒木野駅にいたれば、子肅は輿馬を整頓して()つこと久し。二里にて八王子駅、頗る繁盛、繭糸を売る者街に満つ。肉舗(三河屋)に就き野豕を食す。二里にて日野駅、玉川を渡り、二里にて府中に宿す。

(11〜12ページより)




原付で甲州街道を走ってみた(その28)与瀬-勝瀬-吉野
慊堂にとっては普段通り慣れない道筋だけに、往路に比べると甲州道中では多少文量が増えています。とは言え、基本的には宿場の名前とその間の里程を記すに留まっている区間が殆どで、相模国内では宿場の名称以外の記述は所謂「二瀬越え」の間道について触れているのが殆ど唯一となっています。もう少しゆっくり滞在することが出来ていれば、駒木野ではなく高尾山に宿泊した折の記述程度には委細が記された可能性があったでしょうが、結局相模国内は通過しただけのためか、漢詩を詠む際にも相模国のことに触れずに周囲の景観を詠み込んでいます。

この「二瀬越え」については、umegoldさんの動画による詳細なレポートがありますので委細はそちらに譲ります。その他、甲州街道の様子についてはumegoldさんの一連の動画が非常に詳しく解説されています。この区間の「新編相模国風土記稿」の記述については後日津久井県内の各村の記述をまとめる際に改めて取り上げる予定です。

他方、相模国を経由しない道中の記録としては、文政10年10月28日に佐倉藩へ出発したものがあります(「慊堂日暦2」127〜129ページ)。これは同藩主堀田正睦(まさよし)向けに講義を行っていたよしみから佐倉へ招かれたものの様で、往路は八幡から舟で中川関を経て白井で一泊し、29日に佐倉に到着しています。その後11月5日まで佐倉に滞在して同地の藩士などに会っていますが、その間に「印旛湖」(印旛沼のことと思われる)を訪れてその風景を賛美しています。帰路では千葉を経由して千葉寺や佐倉藩の海防所を視て、舟で江戸へと戻っています。

また、天保12年(1841年)6月15日には再び舟で江戸橋から木更津へ渡り、そこから陸路で富津へと向かっています(「慊堂日暦6」121〜122ページ)。18日には江戸へ戻ろうとしたものの、舟が出ずに22日まで滞在しています。帰る直前には浦賀奉行と会っていますが、この頃には浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わっていたために、その巡視の過程で房総半島に渡っていたものの様です。この木更津・富津行きが、松崎慊堂にとって事実上最後の「旅」となりました。




迅速測図上の「石経山房跡」付近
東側を南北に流れる沢が「羽沢」で水田になっていた
※地図の「不透明度」を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)
ところで、松崎慊堂は日記中で居宅について「荘」「山荘」などの表記を用いていました。と言っても江戸からさほど離れた場所にあった訳ではなく、現在の渋谷区広尾3丁目の辺りに広がっていた田畑の中に建てた荘で隠居がてら弟子に講義を行いつつ、桜田にあった児舎や主君などの元へも出掛けて講義をしていました。山荘の東側には「羽沢」が流れていて、そこには水田が開かれていました。江戸町奉行の支配下に当る地域でしたが、その外縁に近いこの付近は農村となっていた訳です。「羽沢」の地名は昭和22年の地形図でも確認出来ますが、その後は新番地表記の施行に伴って消滅した様です。

この農村も明治時代に入ると市街化が進み、現在の一帯はマンションなどが建ち並ぶ高級住宅街に様変わりして当時を偲ばせる様な景観の残る区画はありませんが、浅い谷地形の底にかつての羽沢に沿って「いもり川」と呼ぶ緑道が通っているのが、その名残と言えそうです。以前「はげいとう」のことを取り上げましたが、慊堂が時に様々な作物を植えたりしていたのも、こうした田畑の中であったということは、当時の景観を考える上では記憶に留めておくべきでしょう。
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