「小ネタ」カテゴリー記事一覧

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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)
所在地の住所は逗子市沼間1丁目
(「Yahoo!地図」より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。
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【小ネタ】将軍の炭風呂を沸かすのに必要な炭の量は?

前回までの「新編相模国風土記稿」に記された炭についての話を受けて、小ネタを少々。相模国には全然関係ありませんが。

Haichi1.jpg
江戸城の門と櫓の配置(内郭)
「西丸大奥」の文字が中央やや左手に見える
(By 甲良若狭 Tateita
- 原書房「図解 江戸城をよむ」より投稿者が作成。
CC 表示-継承 3.0 via Wikimedia Commons
ものと人間の文化史71 木炭」(樋口 清之著 1993年 法政大学出版局、以下「ものと人間」)には、「木炭史話」と題したエピソード集が併録されています。ここには雑誌のために書いたものから文化史的なトピックを中心に選りすぐったものを収めていることが「はしがき」に記されています。

その中に「炭風呂」と題した一稿があります。今は「炭風呂」と書くと木炭を湯に入れる方を指す様で、Googleで「炭風呂」で検索してもヒットするのはこちらの方です。が、この場合は炭で風呂を焚く方で、江戸時代の江戸城大奥の燃料が風呂も含めて炭であったという話です。何とも贅沢な話ですが、煙が出ないこと、そして防火上の必要があってのことであったと「ものと人間」では書いています。確かに多数の人間が狭い空間で共同生活を営んでいることから、その配慮が必要であったことは理解出来ます。

江戸時代、江戸城大奥の燃料は、炊事も、風呂も、暖房も、すべて炭であった。それは炭の無煙、無焔性と、温度の持続性によって、大奥の清潔と防火を考えたからであった。

江戸城大奥は、将軍の私邸であり、正夫人の住宅でもあるが、ここは男子禁制で、上は老女から下は端女(はしため)まで、多いときは二〇〇〇名からの女子が長局に住んでいた。そのうち、将軍の側妾に当たる御中﨟(おちゆうろう)はもちろんのこと、御目見得以上の女はいずれも、自分の部屋(四室一組)で炊事や入浴をしていた。この燃料もすべて炭であった。こんなに大量の炭は、伊豆天城山の御用林で焼かれたが、六貫五〇〇匁俵で年に一〇万俵、六五万貫の炭を焼いて、その中から冥加として差出す御用炭と、勘定所が民間から買い上げる佐倉炭や佐野炭で賄われていた。その中でも炊事に次いで大きい用途は、浴用燃料としての炭の消費であった。

(上記書212ページより)


因みに、65万貫は約2437.5トンに相当します。長局の2000名以外にも江戸城には様々な人がいた筈ですから、上記の数字を単純に頭割りにする訳には行きませんが、それでも1人当たりの炭の消費量も相当なものだったことになるでしょう。

そして、将軍が連日食前に必ず入浴していたことを記し、その入浴の折の一連の様子を事細かく書き記していますが、浴槽については

湯は今でいう五右衛門風呂の構造のもので、湯槽は方形、総檜造、流し場も檜の厚板張りで、二方の窓はガラス板がはめてあり、いわゆるギヤマン風呂であった。それは将軍入浴中は庭から御庭番(世にいう忍び衆で、服部半蔵に率いられる伊賀衆、甲賀衆を指す)が警備していて、浴室内で不慮のことがあってもすぐ庭から見えるように考えてあった。

(上記書213ページより)

としています。ただ、浴槽の大きさについては記載がありません。なお、1回の入浴に際して使われたものは全て使い回すことはせず、御小納戸の所得として払い下げられるとしています。当然沸かした湯も将軍が入浴したらそれで抜いてしまうのでしょう。

個人的に気になったのは、この将軍の「炭風呂」を沸かすのにどれだけの炭が必要だったのだろう、ということでした。そこで、お遊びでざっくりと概算を試みることにしました。無論、計算に必要な値を全て推量しての計算ですから、精度は全く期待出来ませんが。

まず浴槽の大きさから不明ですが、流石に地位の高い人の入る湯ですから、一般的な浴槽よりはやや大きめと想定します。現在造られている五右衛門風呂の浴槽の大型のものに、満水で490リットルという製品をネットで見つけました。当時もこれに近い容量があったと仮定し、400リットルとして計算してみます。

次に、沸かす前の水の温度と、適温になった湯温がどの程度だったかが数字として必要です。これも井戸水を使うか、それとも地表水を使うかで変わってきますし、後者の場合は季節変動もありますから振れ幅がかなり大きくなります。江戸には神田上水や玉川上水といった上水道を使って地表水を配水していましたから、現在の東京の地表水の平均水温が必要ですが、あまり適切なものがないのでこちらに掲載されている東京都の年間の上水道の平均水温を使うことにします。これによれば年平均16.2℃となっていますが、概算なので小数点以下を外して16℃の水を沸かすと仮定しました。風呂としての適温はこれも人によって異なりますが42℃くらいとすると、26℃上昇させる必要があることになります。

すると、大元の定義によって400リットルの水は400kgであり、これまた当初の定義に従って1グラムの水を1℃上昇させれば1カロリーですから、26℃上昇させるにはおよそ

400kg×26℃=10,400kcal

の熱量が必要ということになります(今はそれぞれの単位を違う形で定義しますが、概算ということで簡略な方法を採っています)。次の計算で必要なので、カロリーをメガジュール(MJ)に換算すると約43.51MJという数字になります。

一方、必要な炭の量を求めるには発熱量が必要ですが、こちら(リンク先PDF)に各種燃料の単位発熱量がまとめられているので、今回はこれに従います。これによれば、木炭の単位発熱量が1kgあたり15.3MJとされています。因みに、木材(薪)の単位発熱量はこれより少し低く1kgあたり14.4MJになっていますから、価格はともかく重量だけを見れば炭とそれほど差はないことになります。

そして、炭の発した熱が全て浴槽の水に移る訳ではなく、その一部は周辺の大気などを暖めて逃げていってしまいますから、その分を割り引く必要があります。それには風呂釜の「熱効率」が必要なのですが、当時の五右衛門風呂の熱効率がどの程度だったのかも不明です。一応、ここに薪燃料を使った風呂の熱効率を55%として計算した例がありまので、今回はこの数字を仮に使って計算することにしました。

すると、

43.51MJ÷0.55÷15.3MJ/kg≒5.17kg

という計算が出来ます。繰り返しますが仮定だらけの計算ですから精度は全くありませんが、おおよその目安にはなるかと思います。先ほどの熱効率の数字を拝借したページでは、前提とした数値に多少の差があるものの、薪で風呂を沸かす場合の必要量として約6kgという計算結果が出ていますので、薪と炭の単位発熱量の違いを考えるとそれほど隔たっていないとは思います。が、当時の五右衛門風呂の熱効率が果たしてこの程度で収まったかはかなり微妙なところですから、その分を踏まえるともっと炭が必要だったかも知れません。また、警備のために外から見える様に、当時としては珍しくガラス張りになっていたという浴室は、熱効率という点ではあまり有利とは言えませんから、これも炭の必要量を押し上げていた可能性もあるでしょう。

先ほど引用した「ものと人間」では1俵を6貫500匁(約24.375kg)で計算していますので、今回の計算では1俵で将軍の入浴5回分弱といったところになります。年間で78俵ほどの量ということにになりますね。なお、大奥の風呂は全て炭で焚かれていたとしていますが、風呂の数は200を超えていた(200ページ)としていますから、その全てを沸かすだけでも大変な量の炭が必要になったことは確かでしょう。ただ、炭の場合は熾火にすることが出来る関係で冷め難いのが特徴ではあったので、将軍以外の風呂では幾らかメリットもあったかも知れません。また、こうした保温効果の良さが炭で沸かした風呂を最上のものとする見立てにも繋がっていた様です(214ページ)。

「ものと人間」では、一般的な武士や町民の当時の燃料代の占める割合について、文政8年(1825年)の「刑罪随筆」(橋本敬簡著)や「柳庵雑筆」(栗原信充著)を拠り所に、炭代が全所得の3%程度、薪が8%程度と算出しています(197〜200ページ)。これで炭や薪が何俵くらい買えるかが問題ですが、残念ながら精確なところを明らかにしようにも炭俵の容量も不統一で、また炭の品質や年代などによる価格変動が大きく、目安を示すのが難しいとしています(116ページ)。とは言うものの、武家や商家であっても燃料の基本は薪の方であったことがこの比率からも見て取ることが出来ますから、将軍以下大奥に詰める女中衆まで炭で沸かした風呂で入っていたという江戸城の炭の消費が、多分に当時の燃料消費の実情からかけ離れていたことは確かでしょう。

火災への配慮からこの様な措置になったということは、恐らくは家康が江戸入りした当初から炭を使っていたのではないのでしょうが、その防火対策による維持管理コストは大変なものになっていた様です。その割に江戸城も幕末まで幾度となく火災に見舞われ続けていたのですが…。
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【小ネタ】初物、悲喜こもごも

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新春に…という程に因むものでもありませんが、初物にまつわる触書を今年最初の記事にしましょうか。

武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)に伝わっていた寛保2年(1742年)6月付の触書が「神奈川県史 資料編7 近世(4)」に収められています。「生麦」と言えば幕末にはあの「生麦事件」の舞台となった村ですが、これはその100年以上も前の話です。

一ます   正月節ゟ    一あゆ   四月節ゟ

一かつを  四月節ゟ    一なまこ  九月節ゟ

一さけ   九月節ゟ    一あんこう 十一月節ゟ

一生たら  十一月節ゟ   一まて   十一月節ゟ

一白魚   十一月節ゟ   一あいくろ 三月節ゟ

一ほしとき 七月節ゟ    一かん   十月節ゟ

一かも   十一月節ゟ   一きし   九月節ゟ

一つくミ  九月節ゟ    一生しい竹 正月節ゟ

一生わらひ 三月節ゟ    一竹子   四月節ゟ

一さゝけ  六月節ゟ    一松たけ  八月節ゟ

一なすひ  五月節ゟ    一白ふり  五月節ゟ

一ひわ   五月節ゟ    一真くわ瓜 六月節ゟ

一りんこ  七月節ゟ    一なし   八月節ゟ

一ふとう  八月節ゟ    一御所かき 九月節ゟ

一くねんぼ 九月節ゟ    一みつかん 九月節ゟ

一ほうふう 二月節ゟ    一ねいも  四月節ゟ

一つくし  二月節ゟ    一葉せうか 三月節ゟ

一めうと  八月節ゟ

右品〻貞享年中・元禄年中も相触候通、此書付之通来正月ゟ商売可仕候、初出候節も直段高商売仕間敷候、前かたも相触候通、献上之品たりといふとも、各別高直商売仕間敷候、右之趣相背もの於有之、可為曲事者也、

右御触書寛保弐戌年六月御触有之候、

(上記書177〜178ページ「魚・鳥・野菜等売出時節定につき触書」より、変体仮名は適宜置き換え)


これも前回の触書同様の経路を経て各村々に通達されたものを、備忘のために村で書き留めたものでしょう。ただ、この触書が何処からどの様な経路を経て伝えられたものかについては書き留められなかった様です。

鳥類写生図「雉」
牧野貞幹「鳥類写生図」より「雉」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
キジの雄は繁殖期に高鳴きすることが知られているが
初物解禁は繁殖期を過ぎた9月(旧暦)とされている
要するにこれらの品々に対して初物解禁の時節を個別に定めて周知する触書ですね。個々の品々の名に濁点が殆ど記されていないこともあり、ちょっと見ただけではピンと来にくいものもありますし、今となっては殆ど膳に載ることがなくなったものも含まれています。特に野鳥類は殆ど食されることがなくなりましたが、雁・鴨・(つぐみ)などは何れも北方からの渡り鳥ですから、こうしたものに季節があるのは良くわかります。他方、今となっては栽培方法の変更などの影響で季節感を感じることが少なくなった品目も多数入っており、この一覧は当時の季節感を考える上でも参考になる史料と言えます。


江戸自慢三十六興「日本橋初鰹」
歌川広重「江戸自慢三十六興」より
「日本橋初鰹」
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)
既に貞享年間(1684〜1688年)、そして元禄年間(1688〜1704年)に同様の触書が廻されていることが記されていますが、どうやらあまり遵守されていなかったか、あるいは再び遵守されなくなって来た様で、これが少なくとも3度目の触書ということになります。もしかするとここに記されていない関連する触書が出回っているかも知れませんが、前回の元禄の触書から40年ほど経っていることになるでしょうか。

そのくらい、「初物」には根強い人気があったということになるでしょう。当時のこうした風習を伝えるものとしては「初物七十五日」といったことが言い慣わされていたり、「女房を 質に入れても 初鰹」に代表される様な川柳の数々に詠まれた初物への憧れなどを挙げられるでしょうか。もっとも、「初物を食べればそれだけ長生きできる」という、当時の素朴な民間信仰が初物への傾倒を生んでいたとすれば、そのくらいにしてでも長寿は得たいもの、と思われていたということになりそうです。こうした風習の名残は、今でも箱根の「黒たまご」などの様に、延命の言い伝えと共に販売されているものに見られますよね。

ただ、それが初物の価格の極端な高騰を呼んだことから、幕府としてもこの様な触書を出して規制をしようとした訳です。初物解禁の日を定めただけではなく、初物であることを理由に高値で販売することを禁ずる内容になっています。また、それが庶民だけの話ではなかったことは、この触書でも「献上之品」という言葉が表れていることでわかります。献上品での初物の扱いについて、「徳川将軍家の演出力」(安藤 優一郎著 2007年 新潮新書198)では次の様な例を紹介しています。

この件については、(注:松平)定信に提出された「よしの冊子」にも次の記事がある。

諸家より献上物の内に、殊の外物入り、人夫もかゝり、殊により、人死出来候程の物御ざ候へども、献上に相成候後は、右の品も、何の御用にも立たず、拝領仕り候者共も、あまり賞翫(しょうがん)も仕らざり候物多く御ざ候よし。是等は、越中様の思召にて、諸侯・下民の難義仕らざる上にも、御不用なき様にも成りそふな事と、評判仕り候もの御座候よし。越前の生鱈(なまたら)抔取り候には、殊により、人死も御座候よし。其上、道中急ぎ人夫願い仕り候よし。諸家にも、右の類多くこれあるべきよし。しらべ候はゞ、皆相分り申すべきよしの沙汰、楊貴妃に媚びて生霊芝(茘枝)を献上し、人歩を多く損ね候咄も御座候(「よしの冊子」)。

死人を出していたのは、越前松平家の初鱈献上だ。当時、初物の人気は非常に高く、初鰹などはその象徴だった。日本海側の名産である鱈の場合、越前の鱈はその代表格であり、松平家では初鱈を手に入れるため、危険を冒し、鱈を取らせたようだ。そのため、死人まで出していた。

そうした犠牲を払って調達した鱈を、一日でも早く江戸に届けるため、松平家は急行便にすることを幕府に願い出たらしい。そこでも、犠牲者を出したのだろう。「よしの冊子」の記事では、中国料理のデザートとして知られる茘枝を楊貴妃に献上するため、多くの人夫の犠牲者を出した古代中国の言い伝えが紹介されている。

初鱈を献上していたのは、越前松平家だけではない。加賀藩前田家、若狭小浜藩酒井家、出羽庄内藩酒井家など日本海側の諸大名も初鱈を献上していた。よって、初鱈に限らず、一番乗りの名誉を獲得するため、急行便を願い出る大名は多かった。将軍への忠誠心というより、他の大名に負けたくないという競争心理が働いていたのだ。

(上記書158〜161ページより、…は中略)


初物が長寿に良いらしいという評判が先にあったのか、それともこうした大名家相互の沽券を賭けた競争が庶民の関心を更に焚き付けのか、あるいはそれらが両輪となって狂奔に近い状況を生み出していったのか、解釈は様々出来そうです。ただ、その挙句に死者が出る程にまでエスカレートしていたとなれば、幕府も重ねて規制に乗り出さざるを得なかったのも納得出来るところです。

また、「よしの冊子」は水野為長が松平定信に提出した世情の風聞をまとめた書ですが、定信が老中職にあった天明3年(1783年)〜寛政5年(1793年)頃のものですから、寛保2年の触書から更に40〜50年ほど経っていることになります。つまり、結局寛保2年の触書もそれまでの触書同様、やはりあまり遵守されていなかったか、あるいはまたしても遵守されなくなって来ていたことになるでしょう。そのくらい、当時の「初物」への憧れは根強いものがあった様です。長寿への願いの強さが裏にあるにしても、度を越せば…ということなのでしょうね。
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【小ネタ】「お年玉強請るの、禁止!」

年の瀬に因んで、もう1件正月に関連した文書を紹介して今年の締めにすることにしました。年末で図書館が閉まってしまったので、今手元に借り出している資料以外見られず、ごく簡単な紹介しか出来ませんが。

幕末の嘉永6年(1853年)の正月早々に、津久井県の村々にこんな御触が廻りました。

近来正月之内村〻おいて小児共寄集居、往還泥縄等引張往来之もの迷惑為致、銭ねたり取、飴・菓子抔買喰致を能事心得追〻増長、中ニ者右銭を元手致賭事携候族も有之候哉相聞、物貰同様之所業以之外成儀候、右畢竟親〻共養育方不宜ゟ起候事付、重右躰之儀いたす間敷旨、小児共急度申聞、村役人おいても精〻差止可申、此上廻村先ニ而右様之儀及見聞候得無用捨召捕、夫〻厳重取計致候条心得違之もの無之様、組合村〻小前末〻迄無洩落念入可申聞候、以上、

(嘉永六年)正月

関東御取締出役

以廻状申達候、別紙之趣早〻組合村〻へ致通達、高札場村役人宅前認張出し置、無違失相守可申、村名下令請印順達、留ゟ可相返候、以上、

正月六日

関東御取締出役

相州津久井県

日連村

中野村

右寄場役人

大惣代中

右之通り被仰渡候間、則篤を以申入候間、早〻通達可被成候、以上、

正月九日

右中野村

与頭

元右衛門

太井

小倉

葉山島

上下川尻村

三井

三ヶ木

青野原

右村〻

御名主中

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」513〜514ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え)



相模原市緑区三井の位置
この史料は津久井県三井村(現:相模原市緑区三井)に伝わる「御用留」、つまりお上からの通達などを後々のために書き留めておいた「手控え」の中に転記されていたものです。こうした御触は一旦中野村(現:相模原市緑区中野)や日連村(現:相模原市緑区日連)に届いた後、それらの村を拠点にして各々の組合村へと回覧されており、そのうち中野村が筆頭となっていた組合村の名が8つ記され(但し上川尻村・下川尻村は1村の様に記されているので実質7村)、ここに各村が印を捺して回覧されたことを確認する仕来りでした。この触書を高札場や村役人の家の前に掲げて周知する様に指示されていますね。差し出したのが「関東御取締出役」とありますから、恐らくは関東の方々の村々に向けて同様のルートを経て回覧されていると思います。因みにこの役人は、関東の村々の博徒などを取り締まる目的で江戸時代後期に創設された、言わば移動警察隊と言うべき存在でした。

東海道分間絵図より牡丹餅茶屋付近
「東海道分間絵図」より牡丹餅茶屋付近(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
東海道の茅ヶ崎や吉原で子供たちが宙返りなどをして見せて小遣いをせびっていた例を、以前何度か紹介しました。
江の島辺りでは少々煩わしい程に纏わり付いてくる例もあった様ですが、全体としてはさほど咎められている様子もなく、こうした状況が江戸時代の長期にわたって常態化していたのは確かな様です。ただ、この触書にある様な街道に縄を張って道行く人を引っ掛ける様な悪戯までは流石にしていなかったでしょう。


「近来正月之内」とあることから、恐らくは年明けの「お年玉」稼ぎなのでしょう。無理矢理にでも往来の足を留めさせても銭をせびる様になっていたとあっては「強請(ゆす)り」に近く、その挙句そのお金で買い食いをするだけに留まらず、賭け事(といっても子供同士のものでしょうが)にまで使う様になっていた、という事態が役人の耳に入った様です。賭け事の件は「相聞」とありますから、飽くまでも役人が聞いた限りではということでしょうが、何れにせよここまでエスカレートしては流石に見て見ぬ振りは出来ないということで、「もっときちんと躾をしろ」という御触が廻ったという訳です。

1853Yokohama 01.jpg
黒船来航を描いたアメリカのリソグラフ
("1853Yokohama 01"
by Lithograph by Sarony & Co., 1855,
after W. Heine - Library of Congress.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
嘉永6年、1853年と言えば、ペリー率いる黒船船団が浦賀に入港した年です。またこの2年前には「天保の改革」で一旦廃止された問屋・株仲間が再興されるなど、経済の混乱振りが際立つ様になっていました。この様な時期に出された御触ということもあり、こうした子供たちの素行に当時の世相の混乱ぶりが現れていたのかも知れません。もっとも、「関東御取締出役」という役人の立場故に殊更に事を大きく捉えている可能性もあり、こうした悪事が本当に子供たちの間で横行していたと考えて良いかどうかは、もう少し他の史料と重ね合わせて見る必要があります。

この様な御触が出てしまったとなると、東海道筋で長年子供たちが続けてきた宙返りの稼ぎなども、併せて禁止とされてもおかしくはありませんが、実際の所はどうだったのかも気になるところです。機会があれば、またこれらの裏付けとなる様な史料を漁ってみたいと考えています。



今年の更新は以上です。多大なアクセスをいただきまして誠にありがとうございました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。
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【小ネタ】小田原藩の正月飾りの年貢免除について

「漆」の話の続きがまだ上手くまとまらないこともあって、年の瀬に因んだ話題を取り上げることにしました。まぁ、このの慌ただしい時期にあまり重い内容のものを書くのもどうかということもありますし…。

元禄2年(1689年)11月7日、小田原藩から村々に対してこんな触書が廻されました。

一蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより、強調はブログ主)


ODAWARA-CASTLE.JPG
小田原城復元天守
("ODAWARA-CASTLE"
by pyzhou - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
この年の小田原藩の藩主は大久保忠朝、それまで稲葉氏が治めていた小田原藩に加増の上で国替えされたのが3年前の貞享3年(1686年)で、その年に村々から明細帳を提出させて年貢などの実情を把握していました。その実情を吟味した上で、村の貢税の中からこの触書に記されたものについては元禄2年から免除と相成った訳ですね。これらのうち蜜柑や柿については「新編相模国風土記稿」の産物一覧にも登場する品目ですので後日改めて取り上げるとして、今回は2番めの項の正月飾りに絞って話を進めます。

そもそも各村が正月飾りをどの様に世話していたのか、集められた村明細帳を見て判断された訳ですから、実際その旨について書かれた明細帳は多数伝わっています。今回は「神奈川県史 資料編5 近世(1)」に掲載された村明細帳から、該当箇所を抜書きしてみます。

  • 足柄下郡宮上村(現:足柄下郡湯河原町宮上):寛文十二年八月明細帳

    一正月御かさりいも御かさり道具御江戸へ積(送)申候、運賃御礼銭共毎年出し申候、

    (同書449ページより、以下変体仮名は適宜小字にて表記)

  • 足柄上郡高尾村(現:足柄上郡大井町高尾):貞享三年四月明細帳(田畑指出し帳)

    一正月御(かざり)道具(者カ)御用次第納申候、

    一同御餝道具江戸廻舟賃、御礼銭銀八分五リン納申候、

    (同書453ページより、傍注は同書に従う、読みがなはブログ主)

  • 足柄上郡金手村(現:足柄上郡大井町金手):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一正月御餝道具江戸廻り舟賃(以下脱文カ)

    一殿様へ正月御礼三筋ゟ惣代名主壱人宛江戸へ罷越候、指上ヶ物組合之村ニ而出し申候、

    (同書460ページより)

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):貞享三年四月明細帳(差出帳)

    一正月御餝藁・牛房壱束半出シ申候、

    一正月御餝道具江戸廻り舟賃出申候、

    一殿様正月御礼三筋ゟ名主壱人ツヽ、惣名代江戸へ罷越指上物割苻次第出申候、

    (同書467ページより)

  • 足柄上郡苅野本郷村(現:南足柄市狩野):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一殿様正月御餝道具・藁・門松・杭木・牛房江戸廻り(運)賃・御礼銭・名主番路銭共出申候、但高下有之候、

    (同書476ページより)

  • 足柄上郡苅野一色村(現:南足柄市苅野):貞享三年四月明細帳(村指出シ)

    一正月御餝道具・御門松・杭木・牛房御配苻次第納申候、但シ御門松之儀、毎年御林ニ而山御奉行様御指図伐納申候、江戸廻り舟賃・御礼銭・名主路銭差出シ申候、但シ年ゟ高下御座候、

    (同書482ページより)

  • 足柄上郡皆瀬川村(現:足柄上郡山北町皆瀬川):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一正月御飾道具門ぐい・鬼打木・炭弐表、但シ江戸廻シ運賃高割ニ而納申候、

    (同書487ページより)

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):貞享三年四月明細帳(差出帳)

    一正月御餝藁・松竹、御林ゟ伐納申候、牛房・土芋・ひいらき・藪紺子(ママ)・大豆柄・串柿出し申候、

    一正月御餝道具江戸廻舟賃出し申候、

    一殿様江戸御礼三筋ゟ名主壱人宛惣名代江戸へ罷越、差上ヶ物御割苻次第銭出し申候、

    (同書493ページより)

  • 足柄上郡都夫良野村(現:足柄上郡山北町都夫良野):貞享三年四月明細帳

    一正月御餝道具門ぐい・鬼打木毎年納申候、

    (同書499ページより)

…いい加減キリがなくなってきたので以下は引用を省略します。「神奈川県史 資料編5」では、この後貞享3年付の村明細帳が
と9ヶ町村分が掲載されているのですが、このうち正月飾りに関する記述が「なかった」のが箱根小田原町のみで、あとは全部何らかの形で正月飾りの献上を行っていたことが記されています。もっとも、箱根宿の成立した経緯を考え合わせると、そもそも献上できる品を一切生産出来ない特殊な町であったためにこれらの献上を免れていたと言えます。従って、実質的にその様な制約のない全ての村が正月飾りの献上や名主の参上を行っていたと言って良いでしょう。村明細帳が伝わっていない小田原藩領の村々も同様であった可能性が高そうです。

江戸名所図会より「元旦諸侯登城之図」
長谷川雪旦画「江戸名所図会」
(初版天保5~7年・1834~36年)より
「元旦諸侯登城之図」
(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)
これらの正月飾りの運び込まれる先は小田原城下だけではなく、江戸屋敷が含まれています。江戸屋敷までは舟で運び込まれ、その舟賃も各村の負担になっていました。先代の稲葉氏は老中など幕府の重役を務める地位にあったため、相応の格式を対外的に示す目的で、かなり派手に門松などを江戸屋敷に飾り付けていた可能性が高そうではありますが、それにしてもこれほど多数の村々が参画する程のものだったのか、「毎年」という記述がしばしば見えるので各村とも例年年の瀬にこれを行っていたのでしょうか。村によっては「御配苻次第」と記されているので、割り当てが必ずしも毎年ある村ばかりではなかった様ですが、それにしても藩内の村の数を考えると、それ程多数の村が正月飾りの類を出していたというのは少々不思議な感じがします。

また、単に正月飾りを献上していたのみではなく、村の名主のうち「三筋ゟ名主壱人宛」、つまり小田原藩の東筋・中筋・西筋それぞれから1名ずつ「総名代」がわざわざ江戸まで正月の「お礼参り」に参上していたことも併せて記されています。そのために道中必要となる諸経費も名主が負担していた様です。ということは、これらの飾りも言わば「お歳暮」と呼ぶべき品々であったのかも知れません。ご祝儀という面もあったためか、「高割」つまり割増になっていた点も併せると、相当な負担を村々が負っていたことになります。


それらの品物の中に「牛房」という記述が複数箇所で見られるのはお節料理用でしょうか。確かに江戸時代には煮染めの牛房がお節の一品として定着していた様ではありますが。他に「いも」「串柿」といったやはりお節に使われそうな品目の名も含まれています。上記では引用を省略しましたが、新井村からは「海老」も献上されていたことが記されています。また、こういう用途であれば公儀ということで藩の御林の竹木を伐って使っていたことも窺えます。

それにしても、例年村々にこの様な対応を続けさせていたのは、その分量から考えるに、実際に必要があってのことと言うよりは、寧ろ大名などから将軍に対して行われていた「献上品」と同じ傾向が見て取れる様に思えます。何時頃からこの様なことが行われる様になったのかは詳らかではありませんが、上記村明細帳に1点寛文12年(1672年)のものが含まれていることから、少なくとも稲葉氏が治めていた時代には継続されていた可能性が高そうです。これらの品々を受け取った江戸屋敷が正月にどの様な状況になっていたのかがわかる史料がないか、また小田原藩以外の、特に親藩譜代など格が高いとされていた藩の正月飾りにどれだけ領内の村々が関わっていたのか、機会があれば探してみたいものです。

元禄2年の小田原藩の触書は、こうした実情を把握した上で村々の負担を考慮して廃止の判断を下したものなのでしょう。11月ということであればそろそろまた年明けに向けて手筈が動き出す頃で、その直前にストップを掛けたものと言えそうです。
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