「農産物」カテゴリー記事一覧

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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回まで、「新編相模国風土記稿」で大住郡の産物として取り上げられた野菜や穀類について見て来ました。大住郡や相模国の代表的な産物として一覧に加えられた点については、前回見た様に多少疑問の残る点もあるのですが、一方で地質などを勘案すると、確かに主要な農産物として栽培されていてもおかしくない面もありました。そこで今回はもう少し時代を下った頃のこれらの作物の栽培事情を見てみます。


平塚小唄(ホックリ節)-上-(相州平塚芸妓連中)(YouTubeより)
「白秋全集」の第一・二(大山詣で)・五(裏町の鳥居)の連が歌われている
因みに「」で歌われているのは
第十一(火薬廠)・六(腕骨祭り)・十五(誕生池)連
(その2)戮豇(ささげ)や甘藷について紹介した際に、それらが地場の名産として歌われている俗謡を2種類ほど紹介しました。もう少し時代を下って、昭和3年(1928年)には北原白秋の作詞、町田嘉章の作曲で「平塚小唄(ほっくり節)」が作られています。YouTubeに作曲の翌年に吹き込まれたと思われるSPの再生風景を収めた動画がアップされていましたので、参考までに張っておきます。歌詞は全部で15番まである長いものですが、このうちから今回の話に関連しそうな箇所を引用します(白秋の没後から73年が経過していますのでJASRAC的にも問題無いと思いますが…)。

相州平塚(さうしうひらつか) コイナ、

つるつるおいも、ホラエ、

()かへして、

かへして、かへして、()がほきる

ほつくりほつくり、ほつくりよ、

わら()でほつくり十三()

須賀(すか)西瓜(すいくわ)も、コイナ、

すぐ(はな)ざかり、ホラエ、

()えな、()んべか、

()んべか、()んべか、()(よめ)に、

ほつくりほつくり、ほつくりよ、

わら()でほつくり十三()

(「白秋全集30 歌謡集2」1987年 岩波書店 37、40ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、連番号は「白秋全集」の順序に従ってブログ主が計数したものを追加)



「ほっくり節」という別称はその特徴的な囃子から来ていますが、勿論これは甘藷の食感から来ていることは言うまでもありません。この囃子(段を下げた2行)は15連全てで繰り返し登場します。その他、第一連の歌詞には甘藷にまつわる様子が面白おかしく歌われています。平塚に東海道線が開業した後、駅周辺には芸妓のお座敷が多数出来たのですが、この歌もそれらのお座敷で歌われる小唄として、平塚町の料理屋組合が白秋に依頼して出来たものです。「白秋全集」の解説に引用された初出誌「若草」の白秋の小序にも、各地方からの委嘱に応じて作詞したことが記されています(504ページ)。白秋は神奈川県内では三崎や小田原に住んだ時期もありますが、平塚に直接降り立った経験があったかどうか、作詞の依頼を受けた当時に平塚についてどの程度の知識を予め持っていたかは詳らかになりませんでした。「平塚小唄」に歌い込まれた土地の名産や名所・景観については、委嘱元から多少なりとも示唆を受けている可能性は高いでしょう。そうした名産の中に、上記の様に須賀の西瓜も含まれている訳ですが、甘藷については全連で繰り返される囃子に「ほっくり十三里」と繰り返される通り、特に平塚の地と結び付けられて印象を強調されています。

100 views edo 114.jpg
2代目歌川広重
「名所江戸百景」中の
「びくにはし雪中」
("100 views edo 114"
by 歌川広重
- Online Collection of Brooklyn Museum.
Licensed under
パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・
コモンズ
.)

平塚の名産となった甘藷について、(その2)でも引用した「大野誌」では

…またこの時(注:享保年間)から栽培されていた甘藷が後に八幡藷(やわたいも)と称せられ、形のよい紡錘形をし、外皮は僅かに黄色味を帯びたきれいな白色、肉は甘味多く煮沸すると黄色となつて固くしまり、口にすると「ほくほく」して、殊に大正年間から昭和のはじめにかけて東京横浜の人達や近在の人達に親しまれていた八幡種である。この甘藷は川越藷が「焼いも」として重用されたことに対し「ふかしいも」として珍重されていた。

(上記書534ページより)

と、同地の甘藷が「八幡種」として知られる様になったことを記しており、更にそれまで輸送コストの折り合いから近傍での消費に留まっていた甘藷が、明治20年(1887年)の東海道線の開業によって京浜地方に販路を確保したことから、飛躍的に作付面積を増やして行った経緯が比較的詳しく解説されています。因みに、同書では相模国に広まった甘藷の起源について、薩摩国から八幡村に持ち込まれたのが最初とする見解を紹介しています。

実際、中郡の甘藷の生産については昭和28年(1953年)にまとめられた「神奈川県中郡勢誌」(中地方事務所編)でも

作付面積は昭和十四年には一、三〇〇町歩程度であつたが、戦時中及び戦後の食糧問題解決の爲めに重要な役割を果し、國民の饑餓を救い、又家畜飼料として、或は工業方面のアルコール及びでん粉原料として新しい分野を廣げ、漸次作付面積を增加して昭和二十年には一、四〇〇町歩位迄に增加し二十三年には一、六三六町歩となり、十年前に比して四割增加し二十年前に比して二倍近く增加している。之れを町村別に見ると、大野町の二二五町歩を最高とし、國府町一〇八町歩が之れに次ぎ、神田村・大根村・二宮町等も比較的に作付が多い。

然るに昭和二十五年統制が廃され自由販賣となつてから、作付は激減して一、三八九町歩となり、量よりも質の方向に移行し優良品種の栽培、早掘甘しよの普及に力を注ぎつゝある。本郡の主なる栽培品種は沖縄一〇〇号・大白・農林一号・関東二十二号・関東二十四号等である。

(上記書132ページより)

と、第二次大戦後まで大野町を中心に盛んに栽培されていたことを記しており、この地方の産物の主力としての地位を保っていたと言えそうです。

「風土記稿」で取り上げられた大住郡の一連の野菜・穀類のうちでは、甘藷は比較的土地と結び付いて語られる側面が大きく、特に時代が下って交通の発達に合わせてその価値を認められていった作物だったと言えそうです。なお、西瓜については統計上は園芸作物の中に埋もれてしまっていた様で、名産として取り上げる記述の裏打ちとなりそうなものを見出すことが出来ませんでした。



もう1点、今度は「秦野市史 通史3 近世」に記された、秦野市を中心とした「ビール麦」の栽培の推移について、同書を引用しながら紹介します。同書では第6章第4節に「落花生とビール麦」と題を付して同市内の代表的な作物の近代の歴史を記しており、その後半が「二 ビール麦の栽培」の記述に充てられています(602〜613ページ)。

ここで「ビール麦」と称されているものは裸麦のうち特にビール醸造に適した品種を指しています。その栽培開始の経緯については秦野市内に十分な記録を見出すことが出来ないとしながらも、「神奈川県農会報」を軸に次の様に解説しています。

ビール麦であるゴールデンメロン種の大麦は明治初年に政府の手によって導入が試みられ、十年代を通じて各地の篤農家の手で試作が行われたことがある。しかしこの地の栽培は直接これらの残存物として農民の手で作られたものではない。『農会報』四四号(明治四十一年十二月刊)によれば、県農会役員がビール会社に働きかけ、買上量の契約を得て後、郡農会を通じて栽培農家を決めるという手続きを経て、明治四十年秋播種する形で始まったことが明らかである。県農会というのは明治三十三年六月公布され、翌年四月施行された農会法という法律に基づいて結成された農業者・農地所有者の団体で、町村・郡市・県・国と積み上げる形の組織を持つものの県段階の組織である。…

県農会の下山幹事と磯貝技術員は明治四十年十月一日に東京目黒の大日本ビール株式会社工場(創立明治三十九年三月)を訪ね、工場長との間に四十一年産大麦ゴールデンメロン五〇〇石を取引するという協約を結んだ。その後三日高座郡農会、五日中郡農会との間に各郡五〇〇石の取引を約束した。この結果、会社との協定を一〇〇〇石に改定している。この協定に応ずるため高座郡では四村四〇名が二〇町のビール麦の耕作をし、中郡では五村一四〇名が一七町五反の耕作をすることになったのが、会社との契約の下で、ビール麦耕作をする始めとなる。中郡五村は国府村・吾妻村・金目村・大根村・岡崎村であり、秦野市内七町村中大根村は契約栽培の第一年度から加わっており、その耕作人員四〇名、作付面積は五町歩であった。郡計一七町五反の二八・六パーセントが秦野市内に作付けられたのである。

(602〜603ページより、…は中略)


ここで名の挙がった「大根村」は明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、大住郡落幡・真田・南矢名・北矢名・下大槻(うち真田は現・平塚市、残りは現・秦野市)の各村が合併して成立した村です。従って、「風土記稿」で大麦の産地として名の挙がった下大槻村を域内に含んでいることになります。但し、この時契約を結んだ農家が大根村のどの地区に位置していたかは不明ですし、作付られた面積もそれほど大きなものではありませんでした。勿論、農家の選定に当たって「風土記稿」の記述が参考にされた可能性はかなり薄いでしょう。因みに同じく「風土記稿」で大麦の産地として名が挙がっていた上大槻村は、同年に曽屋村と合併して秦野町となっていました。


ただ、神奈川県がビール麦の産地として名乗りを上げた際に、最初に作付に応じたのが高座郡と中郡(明治29年・1896年に大住郡と淘綾郡が合併)であったという点は、やはりこれらの地域が麦作には向いた地域として認知されていたと言って良さそうです。また、作付に応じた村々の名前を見ても、この2郡の比較的広い範囲が適作地であったことが窺えます。

もっとも、作付開始当初の実績はあまり思わしいものではなかった様です。

…実際に受渡された数量は中郡分は、予約の五〇〇石(一〇〇〇俵)を大きく下廻っていた。八月二十六日二宮駅、二十七日平塚駅で受渡の行われた中郡分は六二一俵(三二六石九斗余)であり、高座郡分は一〇七三俵(五五〇石七斗余)である。中郡で大きく下廻った原因となったのは、大根村についての格付についての記述などを通じて、ほぼ知ることができる。大根村の出荷は予約七五石に対して三五石にすぎなかったが、これは耕作者が品質の劣ったものは不合格になると考えて、自家で消費して出荷しなかったためだとしている。そのため出荷分中の二五石五斗は一等に格付けされている。

取引は一升重による格付けの上、容量(石)当たりの価格に差等をつけてあったが、なお耕作者の間には不満があった。「ゴールデンメロンは搗き減りが少ないので、自家用に好適であるだけでなく、目方が重いので石数取引では儲けが少ない。その上に品質検査を厳重にされたのではとても引き合わない」という言葉を引いて、取引に重量取引に近づくよう手心を加えたことを記している。

この両郡の出荷不足分は予約のなかった都筑郡より七七石余を買い入れてこの年の県農会と大日本ビール会社との取引を終えている。

(604ページより)


農家の側にとってもこうした契約が初めてのものであったからか、当初の条件は農家にとってあまり有利とは言えないものになっていた様です。とは言え、売却益の利幅は一般的な市場価格に比べて大分高額ではあった様で、翌42年からは県内の他の郡でも広くビール麦の作付が行われる様になったことを「秦野市史」は記しています。

大正時代に入ると契約先に横浜のキリンビールが加わり、ビール需要の増加に従って神奈川県内全域での契約栽培量も増加を見た様です。その頃はまだ中郡の作付は神奈川県内で突出したものとはなっていなかった様ですが、昭和に入ると飛躍的に作付が伸びてきます。

昭和に入ると四年以後また『県農会報』により資料が得られるようになる。県計でみると昭和四年の一万九五〇・五石に始まり、六年一万八七三九石、七年九〇二〇石、八年一万一六九三石、十年二万二五一九石、以後十三年までほぼこれを前後する額で、十四年には三万一三八二・五石となっている。中郡の昭和四年は三六一九石であり、対全県比率は三三パーセント、大正末年の契約高の三・六倍に増加している。その後の中郡の販売高の増加は六、七年にやや減少するが、十年に一万三九六九石となり、十三年までほぼこの水準でいき、十四年には一万七〇三三・五石となっている。県の合計に対する中郡の比率は十一年にもっとも高く六二・九パーセントであるが、七年以後常に五〇パーセントを超えている。大正期には中心産地とはいえなかった中郡が昭和十年前後からは神奈川県内における最大の産地となっているのである。…

中郡内の町村別数量は同じ資料では得られないが、『横浜貿易新報』に一年度の例がある。昭和九年八月二十六日号ののせるところである。一~三等級に分けて各町村の販売量をのせるが、中郡内一四町村合計は一万二二八石七斗、この年は県農会報の数字を欠くが、八年の中郡計六三四八石五斗と十一年の一万三四三二石五斗の中間年として信頼してよい数字であろう。八年、十年の平均九八九〇石五斗よりやや多い数字である。この年、現秦野市内旧六町村は、すべてビール麦を販売している。その合計は七六一五石五斗、郡計の七四・四パーセントにあたる。昭和四年以来中郡の販売量が急激に増加するなかで、郡計の三分の二を秦野地方で販売しているのである。この量は八年、十年の平均県産額一万七〇九三・五石に対して四四・六パーセントにあたる。県ビール麦販売額の四四パーセントを秦野地方で販売している。秦野地方六町村のなかにも販売量には差がある。郡計に対する比率の高い順に町村名と比率を示すと、東秦野村三二・ニパーセント、西秦野村一七・九パーセント、北秦野村一〇・ニパーセント、南秦野村一〇・一パーセント、秦野町六・九パーセント、大根村六・九パーセントとなる。最初にビール麦作付をした大根村が最下位となっている。

(607〜608ページより、…は中略)


大麦は当時もまだ米と共に主食の1つとして盛んに栽培されており、ここに記されているのは飽くまでもビール麦の契約栽培に限っての話ですが、そうした中で秦野盆地の町村がビール麦の栽培に特化していく傾向が見て取れます。かつての下大槻村を含む地域が比率の点で下位に沈んでいったと記されているものの、総量が伸びている最中のことであれば、作付が減ったというよりはより広域に展開されていったために相対的な順位が下がっただけでしょう。こうしたビール麦の作付が広まったことで、同地の麦畑の景観は他の大麦畑とは少し変わった景観になった様です。

在来種の通常の大麦が、穂につく実が穂の稈を中心に六方向に並んで着き、穂を上方から見ると六角形にみえる。この性質から六条大麦と呼ばれる。それに多くの品種が丈が短く、稈は太い。これに対してゴールデンメロン種は、相対する二列の実だけが結実し、他の四列は退化して実らない。穂の軸から二方向だけに実がつくので、その形から矢羽根麦などともいうが、二条大麦と呼ばれる。在来大麦より丈が高く、比較的稈も細く、穂に長いのげがあるので、風に揺れやすい。収穫高中のゴールデンメロンの比率が高いだけに、秦野地方の五月から六月にかけての時期には人目をひく作物だったのである。昭和五年の農業恐慌以後急激に作付面積が増えて、畑裏作の主要作物となったのである

(608ページより)


その後、北支事変に始まる戦争激化に伴って農業生産も食用増産に切り替えられて行くのですが、「神奈川県中郡勢誌」によれば、第二次大戦後に再びビール麦の契約栽培が始められ、戦前同様に盛んに生産されていた様です。

古くより各ビール会社と契約栽培が実施されていたが、最近に至り、換金作物としての有利性が認められ、四五〇町歩の作付で戰前を凌ぐ狀態である。昭和二十六年からは、朝日ビール会社に三、八一〇石(原石)日本ビール会社に六、四一〇石の契約が結ばれ、その他每年採種圃產種子一〇〇石内外を縣外に移出し、次第に神奈川のビール麦として認められつゝある。主なる產地は、東秦野村・西秦野村・南秦野町等で、中部山ろく地帶に作付が多く、麦総作付の約九%を占めている。品種は昭和二十六年よりG六十五号に一定された。

(上記書130〜131ページより)


もっとも、その後は高度成長期の市街化や他の地域の原料に圧される形で減産し、現在はその様子を見ることはなくなりました。

色々と引用が長くなりましたが、特に甘藷や大麦についてはこの地域の主力の作物として広い地域で後年まで生産が続けられていたことは確かです。「風土記稿」の大住郡の野菜・穀類の記述も、適作地の広がりを示唆したものとしては妥当なものであったと言えるでしょう。
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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回まで、3回に分けて「新編相模国風土記稿」の大住郡の産物で取り上げられた穀物や野菜について見て来ました。


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
今回取り上げている町村の位置(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの作物が何故「新編相模」で大住郡の、引いては相模国の産物として取り上げられたのかを考える上で、もう1点見ておくべき史料があります。「新編相模」の編纂に当たっては、まず各村々から「地誌取調書上」という村明細帳を提出させています。今回の一連の穀類・野菜に関連して名前の挙がった村や町のうち、「地誌取調書上」が伝わっているのは平塚宿のみですが、その文政8年(1825年)5月の書上には、

一土地相応いたし候産物無御座候

(「平塚市史2 資料編 近世(1)」74ページより)

と記されています。「新編相模」の大住郡の図説や山川編では甘藷・越瓜・西瓜を平塚宿の産物として記していますが、その平塚宿からは当初、同地の産物として挙げられるものはない、と昌平坂学問所に報告している訳です。従って、図説や山川編の平塚宿の産物の記述は、「地誌取調書上」よりも後の何らかの機会に、別途情報を得て付け加えられたものであったことになります。

無論、「新編相模」には「地誌取調書上」に記されたものがそのまま採用された訳ではなく、この書上を元に各村や町を地誌探索に巡回した結果も踏まえて編集が成されています。また「新編相模」の大住郡の項が記されたのは天保11年(1840年)と、「地誌取調書上」が提出されてから15年もの時間が経っていました。ですから確かに、その間に更に追記すべき情報を昌平坂学問所が現地から得ていた可能性は充分に考えられます。

とは言え、以前も取り上げましたが高座郡福田村の地誌取調書上である「地誌調御用内改帳」(文政7年・1824年)には

一土地相応之作物 里芋・麦作之類

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 784ページより)

と記されていたのに、「新編相模」では里芋や麦が福田村や高座郡の産物として取り上げられることはありませんでした。また、地誌取調書上以外にも、例えば前回取り上げた「楳澤志」で梅沢の名物とされていた越瓜(更には梅や鮟鱇)も「新編相模」では取り上げられていませんし、足柄上郡宮城野村の産物として地元が推していた蕎麦も、村の産物の中には名前が載ったものの足柄上郡の産物としては数え上げられずに終わりました。つまり、他の郡では地元が産物として考えていたものが「新編相模」上では必ずしも記されていない例が多いのに、大住郡の野菜や穀類については逆に地元から当初報告がなかったものを後から追記するという、逆の動きになっています。それでいて、その大住郡の産物として挙げられた個々の野菜や穀類には、それに足るだけの由緒などが存在したことを裏付けることが出来ず、一体どうしてこの様な郡による扱いの違いが生じたのか、なかなか説明し難い状況にある訳です。



こうした状況が生じた事情を考える上では、「新編相模」が成立するまでの経緯を考えてみる必要があると思います。そのためにはその編集過程で書かれたり集められたりしたものについて、更に関連する史料を集めて読み解くべきなのですが、現時点ではまだその様な史料を見ておりません。ですから、以下は飽くまでも現時点の私なりの個人的な推論に過ぎません。今後の調査に向けての差し当たってのまとめということでご勘弁下さい。

まず、「新編相模国風土記稿」の性質について2つほど確認しておくべきことがあると思います。1つは、「新編相模」の中では産物に関する記述は、残念ながら主要な項目と呼ぶには余りにも文量が乏しく、むしろ傍系に属する記述であったと言わざるを得ないことです。「新編相模」の中で最も紙面を割いて書かれているのは、各村や町の「由緒」に直結するものであり、各村の寺社もその延長線上で語られています。この目的のために、村々に伝わる文書や、寺社の数多くの由緒や宝物について記すことに多大な労力を振り向けており、それらの量が多い村や町ほど文量が増えるという結果になっている訳です。

その結果として、産物の様に傍系に属する事項の記述は相対的に薄くなってしまう傾向が避けられず、恐らく調査や記述のために必要な労力も村や寺社の由緒に関するもの程にはかけることが出来なかったことが考えられます。産物の由緒にまつわる文書があれば、例えば波多野大根の際の香雲寺の文書を転記するといった形で文量を増やすといった例も見られ、特記事項があれば必ずしも簡略に留めるというものでもなかったものの、実際は大半の産物の記述が一文で簡潔に示されるに留まっており、その生産の実態などについては他の史料を探ってみなければ明らかになることが乏しいのは、これまで延々と紹介してきた産物の例を見れば明らかと思います。

100 views edo 046.jpg
歌川広重「名所江戸百景」より「昌平橋聖堂神田川」
昌平坂学問所は湯島聖堂に設置され
孔子の生地に因んでその名が付けられている
("100 views edo 046" by 歌川広重
- Online Collection of Brooklyn Museum.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
もう1点は、「新編相模国風土記稿」の場合、その編纂に当たった昌平坂学問所は江戸にあり、津久井県を担当した八王子千人同心も八王子に本拠があった、という点です。つまり、基本的には相模国の「外部」の人たちが相模国の地誌編纂に携わったことになります。これは、「新編相模国風土記稿」や「新編武蔵風土記稿」の編纂の切っ掛けになった「新編会津風土記」の事情と比較した場合、「新編会津」は会津藩主が命じて編纂させたもので、当地を治めている藩が統治に必要な情報を書き付けた様々な文書を直接参照できる環境にあったのに対し、「新編武蔵」や「新編相模」の場合はそうした統治に携わっていた領主とは直接関係のない外部の人間が行っている関係で、その様な統治文書の類を直ちに閲覧できる環境にはなかったという違いがあります。実際、武蔵国にしても相模国にしても、それぞれの国内はこれらの地誌が編纂された江戸時代後期には、幕領の大半は旗本に細分化されており、一部の藩領を除くと国内を統括的に治めている領主がいない中で、それぞれの領地に赴いて不案内な地の地誌を探索していたことになります。

無論、八王子からは津久井県は隣接する地域に当たり、八王子千人同心にとっても比較的近接した地区の探索ではあった訳ですし、また鎌倉郡玉縄領の梅干について触れた際に、同地の渡内村の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りしていることを紹介しました。これらの例の様に相模国に多少なりとも縁があったり土地勘があった人が関わった例がなかった訳ではありません。しかし、全体としてみればこうした事例はむしろ例外的であったと見て良いでしょう。

さて、「新編相模」の成立については、以前より何度か紹介している首巻・凡例に記されている次の年代が1つ手掛かりになると思います。
新編相模国風土記稿相模国図
「新編相模国風土記稿」山川編に収録された「相模國圖」(再掲)

一高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首巻・凡例より、雄山閣版より引用)

これに従えば、大住郡は「新編相模」の中では淘綾郡ともども一番最後に手掛けられたことになり、その前には愛甲郡と足柄上郡・足柄下郡が手掛けられています。また、高座郡や三浦郡については大住郡の編纂と同じ頃に改訂が施されています。

このうち、足柄上郡と足柄下郡はその大半を小田原藩領が占めていたのに対して、他郡では旗本や相模国外の藩に細かく分掌された村が大半を占める地域が多く、比較的まとまった地域を一手に掌握する行政機関が足柄上郡と足柄下郡以外には存在していなかったという点が特徴と言えます。江戸時代初期には中原代官の様な地方を包括的に統治する組織もあったのですが、時代が下ると中原代官が解体されてしまい、所轄としていた幕領が旗本などに振り分けられてしまい、「新編相模」の頃には地域を俯瞰的に治める統治者がこれらの地域からいなくなっていた、という事情があります。大住郡の統治の移り変わりについては、平塚市博物館の「ひらつか歴史紀行」に図が掲載されています。


個人的には、こうした統治の実情の違いが「新編相模」の編纂に影響を与えた可能性があるのではないか、と考えています。小田原藩は以前漆について紹介した際に見た通り、「国産方」という地域の特産となるべき産品の開発に多大な労力を注いでいました。当然ながら、その過程で藩領内でどの様な産物が存在しているのかについては少なからず情報を集めていた筈で、藩を治める観点から有望なものを見極める作業も行っていたでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第2巻今井村御陣場跡図
雄山閣版「新編相模国風土記稿」今井村の御陣場図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
こうした小田原藩が統治のために持っていた情報を、昌平坂学問所がどの程度参照したのかを裏付ける史料はまだ見ていません。ただ、足柄下郡の部が成立したのと同じ天保7年(1836年)9月に、当時の小田原藩主であった大久保忠真の手によって、天正18年(1590年)の小田原戦役の際の徳川家康の陣場に石碑が建立されています(小田原市による紹介)。「新編相模」の今井村の項(卷之三十三 足柄下郡卷之十二)でこの陣場跡について絵図2枚と共にかなりの紙数を割いて紹介していること、そして建立の年と足柄下郡の部の編纂の年が符合するという事実からは、小田原の地誌編纂事業を目の当たりにして忠真も刺激を受け、家康の足跡を記念し世に広めるものを残すべきと考えた可能性を考えたくなります。そうであれば、忠真も昌平坂学問所の求めに応じて少なからず協力する様に指示を出していた可能性は高くなるでしょう。

そのためか、足柄上郡や足柄下郡の産物の記述には、それまでに完成されていた諸郡に比べるとかなり豊富な品名が並びました。これらの中には、蛤石など津久井県で見出されたものが手掛かりとなっていたと思われる品目もあるものの、寧ろ先行して提出された津久井県の産物を手掛かりに他の産物を探る上では、その地域に精通した人の手引が有効であった可能性もあります。山岳地帯では水田や畑を開き難い分、山で採れるもので生計を立てる村が多く、産物の多様さはそうした地形に根差した土地利用を反映した側面も少なくないとは思われるものの、各村からの報告をまとめる上では、より上位の統治機構である藩からの情報が大いに手助けになったのではないでしょうか。

こうした足柄上郡や足柄下郡の編纂を終えた後では、引き続き行われた愛甲郡や大住郡、淘綾郡の産物の一覧が当初あまりにも「貧弱」なものに見えたのかも知れません。このうち淘綾郡の場合は村数が極端に少ない上、土地が痩せているという認識が強調されていたので、産物の点数が少なくなるのも止むを得ないと考えたのかも知れません。しかし大住郡の場合は村数も多く、比較的広い郡域を抱えている上に、

土地平坦にして、西北の隅にいたりて山嶺あり、所謂大山・堀山等なり、されば村落をなすに便ありて、空閑の地少し、土性は野土黑眞土砂交れり、水田少く、陸田多し、水田、二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田、四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、

(卷之四十二 大住郡卷之一 雄山閣版より)

と、一帯の開墾が比較的早い時代に行われていたことを記しており、こうした土地の割に産物の記述が乏しいのは問題だと考えたのではないか、という気がします。そこで、改めて大住郡の幾つかの村に問い掛けをする機会を得て、その結果回答を得た品目を大住郡の一覧に書き加えたのではないでしょうか。

そういう目で見てみると、足柄上郡と同時期に編纂されていた愛甲郡についても、「新編相模」以外の記録がなかなか見出せない椎茸が記されており、その点に同様の傾向を読み取ることが出来そうです。但し、その愛甲郡田代村から提出された「地誌取調書上」(文政9年・1826年3月「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」)には「蚕・麦・小麦・粟・稗芋」が記されていたのに、「新編相模」にはこれらは同村の産物として取り入れられておらず、この点では大住郡とは産物の扱いが異なっています。因みに愛甲郡には一部小田原藩やその支藩である荻野山中藩の藩領もありましたが、田代村は旗本領の1つでした。

また、既に完成していた高座郡や三浦郡、更に鎌倉郡についても同様の疑問が持たれたことから、多少手を入れようと考えたのかも知れません。しかし、こちらについては追加の調査はあまり成されなかったのか、また地誌取調書上を見返して一旦却下された産物を「復活」させることは考えなかったのか、結局福田村の様な例でも産物の記述が戻ることはありませんでした。一方、鎌倉郡の部については特に記述が分厚くなっていることもあってか、これ以上追記がなされることはなかった様ですが、それでも山川編の段階で更に何か付け加えようという動きがあり、その結果として「鎌倉椿」や「」が追加されたのかも知れません。

その結果、全体として見ると、相模国の産物の取捨選択の基準が郡によってまちまちになってしまったのではないかと思います。無論、それぞれの村々の中ではこれらの品目が比較的積極的に生産されていた可能性は高い見て良いのでしょう。しかし、その一覧を統一的な基準で整理されたものとするには、昌平坂学問所の立ち位置や、「新編相模」の編纂にかけられる労力のバランスの範囲内では、なお十分に吟味し直す余裕を持てなかったのではないかと思えるのです。

もっとも、他方では編纂に掛けた時間の長さから、担当者の世代交代が影響した可能性も考えてみる必要もありそうです。「新編相模」の首巻の凡例の終わりには、総勢で27人の名前が記されていますが、その一覧の前に

一本州編纂開局より竣功まて、前後事に預りしもの、年次に随ひ、其姓名を左に擧ぐ、

(雄山閣版より)

と記されていることから見ても、年次によって携わった人々が入れ替わっていったと見るのが自然でしょう。であれば、担当者によって産物の取捨選択の基準が変わってしまった可能性を考えることも出来ると思います。

また、「新編相模」に先行する「新編武蔵」でも、武蔵国内には川越藩・忍藩・岩槻藩といった藩が存在しており、特に川越藩は比較的多数の村々を所領としていましたから、これらの藩が「新編武蔵」の編纂に影響を及ぼすことがなかったのか、今後「新編会津」共々読み進める機会を持った暁には、そうした観点から「新編相模」と記述面の比較を行う必要があると考えています。この辺りは相模国の域外のことになりますので、着手するのはかなり先のことになりそうですが…。


次回、明治時代以降のこの地域の甘藷や西瓜、大麦の生産について記してまとめとする予定です。

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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の産物一覧で取り上げられた大住郡の穀類や野菜について、個別に見て行きます。

4.葱


今でも葱は長ネギの他、ワケギの様な種(現在では長ネギとは別種と考えられていますが)や「九条ネギ」の様に地名を冠した種が知られています。「農業全書」の「葱」の項でもこれらの種がまとめて取り上げられています。
本草図譜巻四十五「葱」
「本草図譜」より「葱」
続く数ページで複数の品種が紹介されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

()ひともし

和名きと云う。きハ一字なる故、後世に、ひともじと云。わけぎ、かりぎ、ねぎなど云も、本名きと云故なり

(ひともじ)ハ、冬を大葱(たいそう)ねぶか>と云。春夏を小(そう)と云。春夏(ひともじ)ハ糞培手入次第に、いか程(かぶ)の内を分取(わけとり)ても、又もとのごとく数多くさかゆるゆへに、わけぎと名付るなるべし。大葱(おほねぎ)ハたねを取べき分ハ根のふかきを好まず。大かたに(つちか)ひ、よき程に肥しをき、三月よく実り、たねの黒き時取てよく干し、もみて取べし。二三日も筵などおほひ、少むしをきて取出し、日に干してうちとるもよし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 276〜277ページより、以下「農業全書」の引用は何れも同書より、ルビ・注は一部を除き省略、…は中略)


そして、栽培に適した土地については次の様に記しています。

◯苗地の事。(ひでり)にいたまざる、物かげのしめり気ありて、少ひきめなる細沙地(こすなぢ)を、よくこなし、(こゑ)をうち、乾しさらしをきて、四月(まく)べき前、猶も細かにこなし、(つちくれ)ちりあくたなど、少もなくして、(うね)のはゞ三尺バかり少深くがんぎを切、さて河の細沙と、灰とに、小便をうちさらし置たるにたねを合せ、をよそ一()の畠ならバ、たね三升ばかりの積りにて蒔べし。がんぎハ間をいかにもせばく切べし。

(277ページより)


「本草綱目啓蒙」の葱の項では

子ギ一名子ブカ筑前にてオホ子ギと呼ぶ古名き故に又ヒトモジと云圓葉内空く末尖り臭氣多し夏莖を抽て花を開く小にして色白く多く簇る後實を結ぶ色黒し葉四時枯れず常に食ふべし葉本根上色白し卽藥用の葱白なり武州の岩槻濃州の宮代の葱白長くして尺に近しこれをシロ子ギ濃州と呼ぶ又下野の梅澤上野の鹿沼にもあり皆名產なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え、以下の「本草綱目啓蒙」の引用も同様)

と主に長葱について記し、「ワケギ」などについては続く「集解」の中で解説されています。ここでは名産の地名が幾つか挙げられていますが、その中にはやはり相州に属する地名は見当たりません。


伊勢原市小稲葉付近の地形図・土地利用図
(「地理院地図」より)
「風土記稿」では小稲葉村(現:伊勢原市小稲葉)で産するとしていますが、ここで言う「葱」がいわゆる「長ネギ」で良いのか、ワケギなどであったかは定かではありません。ただ、少なくとも同地の名前を冠する固有のネギがあった訳ではない様です。その他、同地の江戸時代の葱の生産について、裏付けとなる史料は見つけられませんでした。

ここは前回まで取り上げた平塚宿周辺の砂丘地帯からは北に外れた場所に当たり、相模川やその支流である歌川・玉川等の作った氾濫原に由来する低地が広がり、その中に自然堤防が点在する様な土地です。その点では「農業全書」が指摘する湿った砂地が適するとする条件に合っていると言えます。

5.越瓜


本草図譜巻五十三「越瓜」
「本草図譜」より「越瓜」
「あさうり」と「しろうり」の2種類の訓が記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「越瓜・豇豆」
「梅園草木花譜」夏之部より「越瓜」(右・再掲)
「越瓜」と「豇豆」が並んで描かれたのは
共に蔓草だからか
こちらも花だけで実は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

6.西瓜


本草図譜巻七十一「西瓜」
「本草図譜」より「西瓜」
訓は「さいうり」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻4「西瓜」
「梅園草木花譜」夏之部より「西瓜」(左)
これも花だけで実は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


「農業全書」では「瓜の類」として「甜瓜(あまうり)まくわ>/菜瓜(さいくハ)越瓜(あさうり)胡瓜(きうり)冬瓜(とうぐハ)西瓜(すいくハ)南瓜(ぼうぶら)絲瓜(へちま)瓠瓜(ゆふがほ)」(246ページ)がまとめて扱われており、

瓜に大小あり。小さき物甘く、大きなるハ淡し。甜瓜(てんくハ)甘瓜(かんくハ)と云、唐瓜といふ。夏月貴賤の賞翫する珍味たり。暑気をさり、渇きをやめ酒毒を解す。

(246ページより)

と、何れも夏場の暑気払いになるとしています。そこで、ここでもこの2つについては一緒に扱うことにしました。

そして、これらの瓜を植えるのには、次の様に砂まじりで水捌けが良く、但し水利の良いあまり肥沃ではない土地が適していると記しています。

◯瓜を(うゆ)る地の事。黒土、赤土黄色の少ハ沙交りて、光色ありて、粘り気すくなきがよし。さのミ肥たる(このま)ず。土性よく強く湿気ハなくして、(ひでり)に水を引に便りよきをゑらぶべし。土地肥(やハ)らかにして、ふくやかなるハ、よくさかへふとるといへども、味よからず。瓜を作るべき地は、前年(まへどし)に小豆を作りたるよし。其次は(きび)跡もよし。冬より耕し、雪霜にさらし、幾度もうちこなし置べし。

(247〜248ページより)


一方、「本草綱目啓蒙」では個々の瓜毎に項目が設けられ、個別に解説されています。「越瓜」の方は訓に「アサウリ」のみが記されていますが、本文中で「シロウリ」を含む他の訓について検討されています。

越瓜

アサウリ[京]

〔一名〕…

胡瓜(キウリ)に次て出形胡瓜より長大にして[尺に至る]刺なし青白色糟に藏め食用とす又生食熟食又可なり和州には シロウリ アサウリ 二品あり竪に筋あるを アサウリと云ふ豫州にては通してシロウリと呼ぶ讃州には クロウリと呼ぶあり皮色深く[青し]肉は白しなますに上品とす故に又モミウリとも云是田雞瓜なり…

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、一部手書きの傍注を[]内に収めて挿入、…は中略、後略)


西瓜

スイクハ唐音の轉なり サイウリ大坂

〔一名〕…

數種あり皮深緑色にして瓤赤く子黒き者は尋常の西瓜なり其子未だ熟せざる寸は色白し熟する寸は黒し又黒白斑駁なるあり玳瑁子と云奥州津軽には皮白く瓤黄子赤き者ありシロ西瓜と呼ぶ本草原始の月明瓜なり城州木津には皮黃にして瓤赤き者あり木津西瓜と呼ぶ勢州には皮瓤共に黃色なるあり下品とす北伊勢赤堀村の產は皮厚瓤黃にして子赤し上品とす赤ホリと名く又九州の產は瓤子共に赤し又ナガスイクハは濶さ五寸許長さ一尺皮淺緑色にして越瓜(アサウリ)の如し瓤赤して味佳なり京師の菜店にて南京と呼ぶ是西江志の雪瓜なり時珍の説にも長至二三尺と云り雲州筑州にて南京と呼ぶ者は尋常の形にして皮薄く瓤に粉ありて味沙糖の如しと云…

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

そして、これらの記述でも産地の名が登場しますが、それらの中には相州に属するものは含まれていません。

越瓜については「本草綱目啓蒙」でも粕漬けにしたり、そのまま食したりすることが記されているものの、相模国でどの様に食されていたのかについてはこれといった記述を見掛けませんでした。強いて挙げれば、大住郡ではなく淘綾郡の梅沢の地誌である「楳澤志」で、越瓜を同地の名産として挙げている文中に、

越瓜(しろうり) ()れのみ当村の名産にして(よき)味。瓜形隣里比なし、肉厚して大さ(かめ)の如し。四方()め、梅澤(ひしお)瓜と称す。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

この最後に「梅沢醤瓜」という名称が挙げられていることから、酒粕か別の調味料で漬けたものが食されていたことが想像される程度です。因みに、この付近の地形も以前取り上げた通りで、大磯丘陵の南端に細長く発達した海岸段丘や砂丘が伸びており、特に海岸沿いの砂丘地帯は「農業全書」の記す瓜栽培に向いた土地の条件に合っていた様に見えます。

他方、西瓜については、夏場の紀行文・道中記にその名前が時折登場するのを見かけます。明和8年(1771年)の旅日記「いせ参宮道中小つかい帳」(安孫子周蔵)では、

【明和八年七月十四日】

一、五十文 さ川(注:酒匂川のこと)、河越ちん

一、三十文 もち、あめ、すい瓜

一、五十文 四ノ宮ノ渡しちん、わき渡し也

(「藤沢市史料集(三十一)・旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」藤沢市文書館編 11ページより引用、強調はブログ主)

と、酒匂川と相模川の渡しの間の何処かで西瓜を買った記録があります。

また、天保15年(1844年)の「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」と題された足柄上郡雨坪村(現:南足柄市雨坪)に伝わる道中記では、これも7月の暑い盛りの帰路に2度ほど西瓜を買っているのを確認出来ます。

南足柄市雨坪の位置(Googleマップより)

一弐百文 藤沢宿巴屋孫左衛門 止宿

一十六文わら代

一百三十弐文 平塚ニ而西瓜

山神様江参詣

一五十文 なし 三ツ

一弐拾文 国府津鼻 西瓜

(「藤沢市史料集(31)」 65ページより)

この道中記は以前梨を取り上げた際にも紹介しました。平塚と国府津で西瓜に支払った金額に大きな隔たりがある理由は引用文だけではわかりませんが、複数人で旅をしていたとすれば、平塚では全員が西瓜を食べ、国府津では他の面々は梨を食べたのに対してひとりは西瓜を食べたのでしょう。


座間市新田宿の位置(Googleマップより)
また、天保10年(1839年)7月の「寿命院高野山道中小遣記録」と題された、高座郡新田宿(現:座間市新田宿)の道中記(「座間市史 2 近世資料編」648〜665ページ所収)では、山伏であった「寿命院」が高野山に向かう途中でしばしば西瓜を買い求めたことが窺えます。相模国内では新田宿を出た後梅沢の先と箱根権現に詣でた後の2回だけですが、それ以降も東海道を西に向かう途中で幾度も西瓜への支出が記録されています。瓜類が夏場の暑気払いに向いていることは上記「農業全書」にも記されている通りですが、寿命院が山伏という、治病や健康に関する当時の知識に比較的精通していたであろう身分であったという点からは、彼が遠路を進む上でバテを防止するために西瓜を積極的に食べる様に心掛けていた様にも思えます。

これらの例から見ても、暑い盛りに遠路を進む上で西瓜は特に道中で喉を潤す目的で買い求められることが多かったのでしょう。以前紹介した平野栄の「鎌倉紀行」(明治9年)では鎌倉の農地で西瓜が小麦とともに栽培されていたことを紹介していますが、これも同地を訪れる参拝客向けに振る舞うことを目的としてのことだったのかも知れません。

「風土記稿」では白瓜・越瓜については小稲葉・平塚・上下大槻村を、西瓜については平塚・上下大槻村を産地として挙げていますが、ここまでの穀類・野菜同様に関連する史料を見出すことは出来ていません。ただ、西瓜に限っては、明治10年の「第1回内国勧業博覧会」の相模国からの西瓜の出品者に、藤沢駅、三浦郡八幡久里浜村(現:横須賀市久里浜)とともに大住郡須賀村の名前が見出せます(因みに越瓜の方は武蔵国域からは保土ヶ谷駅岩間村からの出品を確認できるものの、相模国域からの出品はなかった様です)。この須賀村も平塚宿の南東に隣接しており、やはり砂丘地帯の上にある村で、地味が西瓜の栽培に適していたと言えそうです。


さて、ここまで大住郡の項で産物として取り上げられた6種類の穀類・野菜について見て来ました。何れも土地の地味を考えれば栽培に適しており、その土地の主要な産物たり得る条件があったことは窺えるものの、大住郡や更には相模国を代表する程の由緒などがある訳ではありません。次回はこの問題について、私なりに掘り下げて考えてみたいと思います。

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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続いて、「新編相模国風土記稿」の産物一覧で取り上げられた大住郡の穀類や野菜について、個別に見て行きます。説明の都合上、順不同で取り上げます。

2.戮豇


本草図譜巻四十三「豇豆(ささげ)」
「本草図譜」より「豇豆」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「越瓜・豇豆」
「梅園草木花譜」夏之部より「豇豆」(左)
こちらには実の生る様子は描かれていない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」ではこの漢字を使った上で「和名、佐々計(ささげ)」と注釈しています。今は「ササゲ」を食する機会が減っていることもあって、基本的には漢字書きにすることは少なく、強いて書く場合は平安時代の文献に現れる「大角豆」の字を宛がうことが多い様ですが、当時は「豇豆」などと書くことが多かった様です。

「農業全書」ではこの「豇豆」について次の様に解説しています。

凡て豇豆(さゝげ)と云ハ、本ハ(まがき)にはふ蔓さゝげを云と見えたり。 畠に(うゆ)る短きも、形味も皆よく似たれバ、同じくさゝげと云なり。 豇豆と名付るハ、紅色(あかいろ)多き故なりとも云なり。 (さや)かならず二つづゝ(なら)び生ず。

○畑に作る短き豇豆、三月初灰ごゑを少用ひて(うゆ)べし。 肥地ならバ、(こゑ)ハ用ゆべからず。 六月実るを収め、其まゝうゆれば、又八月実る物なり。 生長して後、つるのさきをつミ切べし。 其まゝをけバ蔓ミだれ合て多くミのらず。実をば朝露にもり取べし。日たけてとれバ実おつるものなり。是腎の穀なりと云て、性もよく賞翫する物なり。白さゝげ取分よし。又一種霜さゝげとて六月の末に(うへ)て、十月霜をおびて取あり。早き粟跡、又ハ早苗(わせ)の跡にも(まく)と見えたり。所によるべし。

…夏の菜の内第一の物なり。 家々に欠ずつくるべし。猶手入多し。小民なベて作る物にて人ミなしれる所なれば、くハしく記さず 沙地にをそく種れバ切虫きりてそだち難し、早く蒔べし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 201〜203ページより、以下「農業全書」の引用は何れも同書より、…は中略)


農業全書巻2「豇豆」図
「農業全書」の「豇豆」の挿絵では
垣根に這わせた姿が描かれ、本文と整合性が取られている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
豆の赤さが「豇豆」の名前の由来とも言われているとしていますが、江戸時代には赤飯を作る際に、武家では小豆の代わりにささげを使っていたということからも、その赤さが窺えます。最後の方で「農民が誰でも作るものでその栽培法は広く知られているので、ここでは詳しく記さない」と書いていることから、「農業全書」が執筆された江戸時代初期には既にポピュラーなものになっていた様です。そのことを裏付ける様に、「本草綱目啓蒙」では各地の異名・品種の名を多数列挙しています。さやの長さや中に含まれる種の数などが品種の命名に用いられることが多かった様です。但し、ここで挙げられている地名の中には「相州」に関するものは含まれていません。

3.甘藷


本草図譜巻五十「さつまいも」
「本草図譜」より「さつまいも」
「さつまいも」は「甘藷」の一種という位置付け
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「風土記稿」でも「俗にさつまいもと稱す」と記していた通り、今でもその名で知られた芋ですね。もっとも、「本草図譜」では「甘藷」に先に取り上げられたのは「あかいも」などと称する一種で、「さつまいも」はその別種という位置付けになっています。この辺りは現在の種や品種の区分と照らした場合にはまた位置付けが変わってきそうです。

「農業全書」では「甘藷」について「蕃藷(あかいも・ばんしょ)りうきういも>」と表記し、かなりの紙数を割いて詳しく解説しています。この芋が「琉球芋」あるいは「赤芋」と称され、薩摩や長崎で多く作られていること、また「農業全書」が記された江戸初期の時点では、まだ全国的に広まる前であったこと、そして著者の宮崎安貞が強く栽培を勧めていることが読み取れます。

此藷に二種あり。一種を蕃藷(ばんしよ)を云。一種を山藷(さんしよ)と云。蕃藷ハ其形丸く長し。山薬(やまのいも)の形に似たり。味(すぐ)れてよし。今長崎に多く作るハ此蕃藷なり。山藷ハ其形芋がしらのごとくにして味劣れり。

○蕃藷ハそのかたち大かた山のいもに似て色薄紫なり。皮うすく、内いさぎよく色白し。味山薬よリハ甘く(うるハ)しき食物なり。菓子にもなり、種々料理して宜し。多く作りて(はなハだ)民食の不足をたすけ、殊に其性よく、久しく是を食すれば命長し。第一其根過分に出来、(かならず)国所(くにところ)をも賑し、其能すぐれ、徳多く損なきものなりと、農政全書に其功を誉て(くハ)しく記せり。薩摩長崎にてハ琉球芋、又赤芋と云て多くつくると見えたり。(いまだ)諸国にハ(あまね)からざれども、南向の暖国にて、(こへ)やハらかなる地に、法のごとく作らば、(はなハだ)生長すべし。しかる故山薬の次に記す物なり。葉ハ朝がほに似て、根のふとさハ地により大小長短あり。蒸て食し煮て食し、生ながら料理し、色々用ゆべし。其性ハ冷なり。又秋根よく入たる時掘取、(きよ)く洗ひ、細かに切、精米のごとくして蒸さらし貯へ置、飯にして食し、飢をよく助く。是を藷糧(しよりやう)と云と記せり。唐のよき地にてハ甚多く出来るゆへ。是を飯にして常に食するにより、かくハ号するとなり。

(378〜380ページより)


上記の引用でも甘藷を細かく切り蒸して干したものを保存食として紹介する下りがありますが、更に、次の様に古代の唐の記事を引いて、旱魃や虫害に見舞われた際の救荒植物として非常に優れている点が強調されています。

◯又水年(ミづとし)にても旱年(ひでりとし)にても、五六月稲の苗(ことごとく)腐り枯て、はや稲ハうゆべき時分過たる時、藷をうゆれば少遅しといへども、多少によらず利を得ずと云事ハなしとも見えたり是ハ唐の地にてねバりけなく(すぐれ)て肥地なる故如比(かくのごとく)なるべし。

◯唐にて(いなむし)の災ある年に、万の青き物ハ残らず喰尽せども、芋の類ハ根までの災なく、風雨旱の難も本よりなきゆへ、五穀の外のうへ物に、是に及ぶ物ハなしともいへり唐にてハ(くハう)といふ稲むしあり。多き年ハいなむし天をおほふとて、空もくらくなるほどむれ飛て、田圃を食尽して、青き物すこしもなしと見えたり。此時ハ根をとる物ならでハのこらずとしるせり。

(382ページより)


こうした点が知れ渡ったことで、甘藷がやがて全国的に栽培される様になっていったのでしょう。「本草綱目啓蒙」では

本[琉球より薩州に傳へ享保年中]薩州より來る今は東國にも多く種ゆ土地を撰ばず沙礫にも繁殖す[大坂西国には年中貯あり]種る法は[宮嵜安貞の作貝原先生の序あり]農業全書に詳なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、手書きの書き込みについては必要に応じて[]内に挿入)

と、小野蘭山が講義した頃には各地に広まっていたことを記し、栽培法については「農業全書」の名を挙げていることから、同書がその栽培法の伝播に一役買ったことが窺い知れます。

さて、今回取り上げている大住郡の野菜・穀物については、前回の大麦以外は各村の項に一切記述がありません。大麦については記述が見られた上大槻・下大槻村についても、それ以外の作物については何も記しておらず、それらについての裏付けとなる史料が地元に伝わっていないことは前回取り上げた通りです。

ただ、平塚市に合併する直前に大野町(かつての中原上宿、中原下宿、真土、四之宮、八幡、南原、豊田の各村)が編纂した「大野誌」(昭和33年・1958年)には、次の様な記述が見られます。

俗謡に「四之宮かぼちやに八幡いも、真土は真土で豆どころ、中原灰土ささげよい」とあるのは、江戸時代中期から明治初年にかけての、当町の特産物を述べたものである。中原の普通畑に現在ささげを仕付たら、茎葉ばかりが繁茂してろくろく実が成らないのであるが、当時の特産物として中原にささげが挙げられているところを見ると、当時の砂丘地内部は現在より余程瘠せていたことがうかがわれるのである。

(上記書472ページより、強調ブログ主)


南原村・中原下宿付近の迅速測図
南原村付近の「迅速測図」。東に中原下宿があり、その南は平塚宿域内
(「今昔マップ on the web」よりスクリーンキャプチャ)
この記述中に出て来る「いも」は甘藷ということで良いと思います。これらの名前が各地の産物として歌い込まれた俗謡があるとしているのですが、惜しいことにこの俗謡の全体を記している訳ではなく、またどの様な歌であったのかが記されていません。「大野誌」では巻末に同地に伝わる俗謡や童歌などが採録されているのですが、この俗謡は入っておらず、また神奈川県下で採集された民謡などを集めた資料を見てもこの歌に該当するものが見つからないので、どの様な機会に歌われるものであったかについても不明です。

八幡村付近の迅速測図
八幡村付近の「迅速測図」
村名の「八幡」は平塚八幡宮を指すが
江戸時代には平塚新宿として別の村になっていた
俗謡の「八幡の森」は平塚八幡宮の森を指すと考えられるが
「いもの名物」は八幡村の方を意識したものか
(「今昔マップ on the web」よりスクリーンキャプチャ)
ただ、「大野誌」のこの記述は恐らく「風土記稿」の産物一覧を強く意識して書かれたものでしょう。「風土記稿」ではささげの産地として挙げられていたのは南原村(現:平塚市南原)ですが、「大野誌」の紹介する中原(上宿・下宿、現:平塚市中原上宿・中原下宿など)は南原村の東隣に位置しており、どちらも前回紹介した砂丘地帯の上にあります。その土地があまり肥沃ではなかったことが、ささげの栽培には却って向いていたとこの筆者は見ている様ですが、確かに「農業全書」の記述でも肥えた土地には施肥を施すべきではないこと、そして砂地に植えれば虫害を防ぎやすいことが記されていました。

また、「大野誌」巻末の「俚歌俗謡」の中には、

目白どこへ行く

目白どこへ行く、八幡の森へ、

いもの名物たべに行く。

(上記書1056ページより)

と、やはり八幡村(現:平塚市八幡)の名物として「いも」が歌われているものがあります。相模国の主要な産物の1つに数えられる程の名声を勝ち得ていたか否かはさておき、少なくとも地元では、甘藷が主要な産物として認識されていたことは確かな様です。


上大槻・下大槻付近の土地条件図
薄い水色は氾濫原、赤茶色が更新世段丘
(「地理院地図」より)
こうした事例がもう少し集まると良いのですが、「風土記稿」が甘藷の産地として挙げる「八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等」のうち、裏付けと言えそうなものが見つかったのは「大野誌」の俗謡だけでした。もっとも、上下大槻以外は何れも平塚宿に隣接する地にあり、前回紹介した様に砂丘地帯の上にある村々です。「農業全書」では

◯うゆる地の事。高き畠の細沙がちにて深きを、いか程にもよく耕し、(ねんごろ)にこなし、山薬(やまのいも)(うゆ)るごとくうゆべし。(ひでり)せバ水をそゝくべし。

(380ページより)

などと、砂地が向いていることを記していましたから、その点では確かに平塚周辺の砂丘地帯は甘藷栽培に向いていたと言えます。また、上大槻・下大槻では、金目川の両岸には氾濫原が広がっていて水田に利用されているものの、その外側には段丘が広がっており、この上であれば「農業全書」の指摘する条件に合った畑があったと言えそうです。

因みに、明治9年(1876年)の「全国農産表」では、相模国の「甘薯」の生産量は13,219,679斤(現在の単位に換算すると約7932トン)と記録されています。また、翌明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では中原上宿の他、藤沢駅(右上欄左から4番目、印字が極めて不鮮明)からの出品が確認出来、その生産量から見ても相模国内の甘藷の産地はかなり広範囲に広がっていたと見て良いでしょう。ただ、以前取り上げた通り藤沢宿の周辺も砂丘地帯が広がっていましたから、その点では平塚周辺の各村同様、この地帯も適作地であったと見て良さそうです。

残りの野菜については次回に続きます。

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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は大住郡の産物に取り上げられた野菜・穀類をまとめて取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯西瓜大住郡平塚宿、上下大槻村に產す、

    ◯越瓜和名、志呂宇里◯大住郡小稻葉・平塚・上下大槻四村より出づ、

    ◯甘藷俗にさつまいもと稱す、大住郡八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々より產するを佳品とす、

    ◯葱大住郡小稻葉村に產す、

    ◯戮豇和名、佐々計◯大住郡南原村より出づ、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯大麥上下大槻二村に播殖するを、最佳品とす、

    ◯戮豇佐々計◯南原村產、

    ◯葱小稻葉村產、

    ◯甘藷八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々の產を佳品とす、

    ◯越瓜志呂宇里◯小稻葉・平塚・上下大槻四村產、

    ◯西瓜平塚宿、上下大槻村產、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、適宜改行を挿入)


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
上記に登場する町村の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編」と「大住郡図説」の記述では、「大麦」が「大住郡図説」にのみ記述されていて「山川編」にはないという違いはあるものの、それ以外の内容は実質的に同一のものとなっています。

正直なところ、これらの産品に関してはどう取り扱うべきか、「風土記稿」の産物を調べ始めた頃から私の中では頭の痛い課題の1つになっていました。当時何処でも作られていたと思われるこれらの産物が、相模国を代表する産物として「風土記稿」に取り上げられた理由が見つけられずにいるからです。多少地質面で産地が限られてくるものも含まれているとは言え、少なくとも、この地から産するこれらの産物が当時の世に広く知られる存在だったということではない様ですし、それ以外の観点から相模国の代表的な産物として賞賛される様な存在だったことを裏付ける史料も、これといって見当たらないのも事実です。

しかし、調べを進めていくうちに、どうやらこれらの産物についてはある共通の課題がある様に思えてきました。そこで、今回はまず個別にこれらの産物の江戸時代当時の実情がどうであったかを確認した上で、この課題についてまとめて考えてみたいと思います。

その前に、「風土記稿」のこの記述中に数回登場する「平塚」については少々解説が必要かも知れません。勿論これは、東海道の宿場町の1つであった平塚宿のことですが、そこがこれらの農産物の産地の1つに挙げられている点に多少違和感を感じる人もいるのではないかと思います。

「風土記稿」では平塚宿の範囲について

宿の廣袤、新宿を合て東西十九町五間餘、南北二十四町餘東、馬入村、巽、須賀村、南、海、西、淘綾郡高麗寺村、及大磯宿、乾、花水川に限、山下村、及郡内徳延村、北、中原上下宿、南原村、艮、八幡村、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)

と書いています。隣接する村の数を見ても、意外に広い地域が平塚宿の範囲内にあり、南は海に面し、ほぼ東西に進む東海道に沿って宿場が伸びていたにも拘らず、むしろ南北の方が長い地域になっていたことがわかります。

江戸時代の平塚宿の領域
江戸時代の平塚宿の領域(概要)
青線は旧東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャし、リサイズ
数値地図25000(土地条件)」を合成)
そこで、この範囲を大筋で「地理院地図」上で示してみたのが右の図です。平塚市博物館サイト内の「平塚・石仏めぐり-旧市内編- (4・旧平塚宿):旧平塚宿」に記されている

旧平塚宿というのは、現在の平塚一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目、中里、桜ヶ丘、上平塚、達上ヶ丘、諏訪町、富士見町、豊原町、唐ヶ原、撫子原、黒部丘、花水台、虹ヶ浜、董平、桃浜町、龍上ヶ丘全域と立野町、追分、大原、見附町、錦町、八重咲町、松風町、袖ヶ浜のそれぞれの一部の範囲です。

という記述と同ページの地図を頼りに概要を描いただけですので、必ずしも正確なものはありませんが、概ねこの地域が平塚宿の領域であったと考えて下さい。平塚宿は公儀の継立を勤めるに当たって1万坪(約3.3ha)分の地子を免除されていましたが、それはこの領域の中から、ということになります。

平塚宿付近の迅速測図
東海道の南北に、松林に挟まれて畑が散在している
(「今昔マップ on the web」より)
また、先ほどの図では「土地条件図」を重ね合わせてみましたが、平塚宿の領域のかなりの範囲を「砂丘」が占めていることが良くわかります。これは後ほど同宿が産出していたとする各産物の性質を考える上では重要なポイントになると思います。こうした砂丘の多くは「御林」として松林にされている地域が多かったものの、全てが林に覆われていた訳ではなく、東西に伸びる砂丘に沿って御林の間に畑があったことが、明治初期の「迅速測図」でも確認出来ます。

江戸時代の平塚宿を描いた浮世絵は、専ら京方の縄手道の向こうに見える高麗山(歌川広重:「東海道五十三次」保永堂版など)か、馬入の渡し(同:狂歌入東海道など)を描くものばかりでしたから、東海道の南や北に展開する御林や畑のイメージがあまりありませんが、実際はその領域の内部に少なからず林や畑を抱えていたことは、念頭に置いておいた方が良いでしょう。

1.大麦


「大麦」については「山川編」に唯一取り上げられませんでしたが、ここで名前の上がった上大槻村・下大槻村(現:秦野市上大槻・下大槻)の記述には含まれています。

  • 上大槻村(卷之四十九 大住郡卷之八):

    當村に播殖する大麥は、他に勝れて佳品なり、

  • 下大槻村(同上):

    當村の大麥も佳品なり、



上大槻・下大槻の位置(「地理院地図」より)
この2村は金目川と支流の水無川などが合流して秦野盆地から流出する「切れ目」の谷間に位置しており、上流側が上大槻、下流側が下大槻という位置関係になっています。

その2村で産出する大麦の質が良かったとしている訳ですが、大麦自体は当時どこの村でも作付けるものでした。江戸時代初期の農書である「農業全書」では次の様な表現で、稲作の終わった後に植えて田植えの前に収穫できる大麦を、稲の次に重点的に作付けるべき穀物と評していました。つまり、大麦は稲について「主食」と位置付けられる穀物であった訳です。

麦ハ秋うへて夏熟す。四時(しいし)しき>の気をうく。旧穀<こぞめのこめ>のつくる時いできて、民の食をたすけつぎ、新穀の出来る時に至る。されば稲に次で、五穀の中にて貴き物なり。此ゆへに、聖人是を重んじ、春秋にも稲と麦との損毛をバ書させ給へり。実に近世静謐にて、人民多くなりぬ、麦作のつとめ疎かならバ、食物乏しかるべきに、都鄙是を作る事専なるゆへ、麦の多きこと甚いにしへに勝れり。されバ今民のやしなひの助となる事、是に続く物なし。実にめでたき穀物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 151〜152ページより、ルビ・注は一部を除き省略)


本草図譜巻四十「大麦」
「本草図譜」より大麦
複数の品種が描き分けられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「大麦」
「梅園草木花譜」より「大麦」(右)
訓は「ふとむぎ」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

そして、この後かなりの紙数を割いて麦の作付に適した地味や播種から収穫までの手順について解説しています。因みに当時は「麦」とだけ書いている場合は基本的に「大麦」のことを指すことが多く、「農業全書」でも「大麦」のことを基本的に「麦」と書いており(但し裸麦についても麦の項で言及しています)、「小麦」については「小麦を種る事。地のこしらへ、其外大麦にかはることなし。(166ページ)」として「大麦」との栽培法の異なる部分を重点的に書き記しており、結果的に「大麦」の数分の1の文量で収まっています。「大和本草」でも大麦については「麦」とだけ記しており、

麥は五穀の中稻につぎて最民食を助く殊に夏の未舊穀の盡る時民の飢を救ふ民用に甚利あり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と、「農業全書」とほぼ同様の指摘をしています。

産品全国相模国
大麦 (石)5,035,709.675138,835.277
小麦 (石)1,645,111.56356,350.942
裸麦 (石)2,205,252.1647,318.797
小麦/大麦比 (%)32.6740.59

※「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より、全国相模国の該当項目を抜粋。

※産品名は現代の表記に置き換え。

※小麦/大麦比は小数点下第3位で四捨五入。

実際、当時の各種文書では大麦が小麦よりも多く栽培されていたことを示すものが多数存在しています。その全貌を俯瞰できるものとしては江戸時代が終わって間もない明治9年(1876年)の「全国農産表」が良いでしょうか。左にその中から全国と相模国の大麦・小麦・裸麦の生産量を書き出してみました。全国では小麦の生産量は大麦はおろか裸麦の生産量にも及んでいなかったことがわかります。相模国では「相州小麦」の名で呼ばれるほどに小麦が名産で、そのことを反映してか小麦の生産量の比率が全国に比して高くなっており、その分特に裸麦の生産が僅かなものになっていますが、それでも小麦の生産量は大麦の生産量の4割程度に留まっています。無論、この比率が江戸時代を通じて不変のものであったという訳ではありませんが、基本的には大麦の生産量が小麦を下回ることはなかったのではないかと考えられます。

これは、大麦は基本的にそのまま炊いて食するのに対して、小麦の方は基本的に製粉などの行程を経て加工する必要があった点が大きい様です。「本草綱目啓蒙」でも「小麦」について「小麥は飯に炊かず只磨して麵となす」と記し、そこに手書きで「能登には飯に炊くなり」と補注が記されているのに対して(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)、大麦については「苗小麥より大にして其米は專ら飯に炊き又麫となすべし」(同上)と、その調理法の違いを書いています。なお、「本草綱目啓蒙」では大麦・小麦それぞれについて、各地の呼称の違いを書き上げていますが、それらの地名の中には「相州」に関するものは含まれていません。

その他、江戸時代に記されたもので相州の大麦に良品があることを明記したものは、探した範囲では見つけることは出来ませんでした。例によって明治10年「第1回内国勧業博覧会」の出品目録で相模国域から出品された大麦を確認すると、鎌倉郡の平戸村(現:横浜市戸塚区平戸)と大町村(現:鎌倉市大町)、足柄下郡小竹村(現:小田原市小竹他)とともに、大住郡からは南矢名村(現:秦野市南矢名)の名前はありますが、上大槻・下大槻村の名前はありません。「秦野市史」でも

『風土記稿』の土産の項にのせるたばこ以外の作物名は上・下大槻村に大麦・甘藷・越瓜・西瓜の名がみえるが、これらは村方に残る史料で確認することはできない。

(「秦野市史 通史3 近代」112ページより)

としており、「風土記稿」がどの様な根拠でこの様な記述に及んだのか、確認する術が今のところ存在しないのが実情です。

これ以外の作物については次回以降に見ていきます。

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