「植物」カテゴリー記事一覧

「七湯の枝折」の一輪草(うめばちそう)

なかなか復帰に向けて状況が改善しませんが、差し当たり書き上げたものをアップします。

「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から、前回は「米つつじ」を取り上げましたが、今回は「一輪草(うめばちそう)」を取り上げます。


「七湯の枝折」産物の図2
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色
右側に「一輪草(うめばちさう)」
(沢田秀三郎釈註書より・再掲)
「七湯の枝折」の産物の図では、山椒魚箱根草に続いて「一輪草(うめばちさう)」が挿画とともに紹介されています。その挿画の大きさも「山椒魚」や「箱根草」と同等のものとなっており、以降の産物についてはもっと小振りな挿画になっていることから、それだけ当時の箱根では注目されるべき草花と考えられていたことが窺い知れます。但し、この花が見られるのは「芦の湯に限り生す」と、箱根七湯の中で最も標高の高い(標高850m前後)場所に位置する芦之湯のみであることが記されています。

もっとも、「近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也」と記していることからは、この花が箱根だけではなく、他の地域でも賞翫されていたことが窺えます。以下で引用する「大和本草」の記述も、そのことを裏付けています。

Anemone nikoensis 5.JPG
イチリンソウの花
(By Qwert1234 - Qwert1234's file,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
Umebachisou.JPG
ウメバチソウの花
GFDL, via Wikipedia

ただ、気になるのはその表題に「一輪草」という表記と「又梅草梅花草ともいふ」あるいは「うめばちそう」という表記が共に記されていることです。確かに「イチリンソウ」と「ウメバチソウ」の花は御覧の通り大変良く似ていますが、現在ではこれらは別の種の植物であり、更には植物分類上も別の科に属していることが知られています。従って、「七湯の枝折」のこの表記を、現在「イチリンソウ」あるいは「ウメバチソウ」として知られている植物と、どの様に関連付けて解すべきかが課題と言えます。


そこでまず、「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)から「ウメバチソウ」と「イチリンソウ」の記述を抜き書きしてみます。

  • ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb.(上記書798ページより)

    花茎は高さ10〜15cm、葉は円い心形で円頭、花は9〜11月、白色、仮雄しべは15〜22裂する。北海道、本州、四国、九州、東北アジアに分布、県内では丹沢、箱根の草原や湿地に生える。かつては丘陵地にも生えていたようで、古い標本では、川崎市多摩区登戸(1951.8.26 大場達之 KPM-NA0020550)、青葉区鉄町(1953.9.27 出口長男 KPM-NA0081124)、横須賀市須軽谷(1966.10.7 小板橋八千代 YCM10406)がある。また1984年に横浜市港南区舞岡町の谷戸(標高70m)で生育地が確認された(田中徳久 1911 FK(30): 301)。中山周平(1998 柿生 里山今昔 朝日新聞社)は1946年10月に川崎市の柿生(片平の中提谷戸)で写真撮影やスケッチをしたが、そこは1996年に学校建設により消滅したと記している。「神植目33、神植誌58、宮代目録」では低地の生育地に横浜や大船をあげている。県内の低地に分布していたものは絶滅したものが多く、「神奈川RDB」では減少種とされた。

  • イチリンソウ Anemone nikoensis Maxim.(上記書698ページより)

    根茎は横にはい、所々少し肥厚する。根生葉は長柄があり、1〜2回3出複葉、小葉は長さ2〜5cm、根生葉を出さない根茎の先に花茎を立てる。総苞葉は有柄で1回3出する。花茎は20〜30cm、花は1個、萼片は5個、早春に現われ、初夏には枯れる早春季植物。本州、四国、九州に分布、林縁や林床に生える。県内では丹沢、箱根、三浦半島を除く地域では広く分布するが少ない。


ウメバチソウ、イチリンソウの分布図はそれぞれの記述の次のページに掲載されています。これらを見ると、ウメバチソウの場合は箱根・丹沢・三浦半島に分布を示す記号が付けられているのに対して、イチリンソウの場合は丹沢・箱根には分布を示す記号が付けられていません。こうした現在の分布からは、箱根で見られるのは「ウメバチソウ」の方であって「イチリンソウ」ではない可能性が高くなります。

箱根町のサイトでも「ウメバチソウ」は紹介されていても「イチリンソウ」は紹介されていません。その他、箱根の植物をまとめた幾つかの書物でも、「ウメバチソウ」は掲載されていても「イチリンソウ」が掲載されているものは探した範囲では見当たりませんでした。江戸時代まで遡った時には「イチリンソウ」が生息していた可能性を完全には排除できませんが、これらの地域に過去にイチリンソウが生息していたことを裏付ける史料は今のところ見当たらないので、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちそう)」は「ウメバチソウ」の方を指している可能性の方が高いと考えておくのが妥当でしょう。

そうなると、江戸時代には「ウメバチソウ」や「イチリンソウ」はどの様に認識されていたのか、「七湯の枝折」上でだけ混用されていて、当時の人たちにもこれらが別の植物であったことが良く知られていたのか、それとも当時の人々には両者の違いがあまり理解されていなかったのかが疑問点として浮かんできます。この点を考えるのは容易ではありませんが、差し当たって幾つかの本草学の文献に当たってみることにしました。

まず、「大和本草」にはこの2つの植物についてそれぞれ次の様に記されています。磯野直秀氏によれば(リンク先PDF)、この「大和本草」が「うめばちそう」について記された初出ということになる様です。
  • 梅バチ(卷七)

    小草にて花白し好花なり盆にうへて雅玩とすへし花のかたち衣服の紋につくるむめばちのことし叡山如意カ嶽にあり攝州有馬湯山に多し俗あやまりてこれを落花生と云落花生は別物なり

  • ()(卷七)

    葉はツタに似て莖の長二寸はかり冬小寒に始て葉を生じ立春の朝花忽ひらく一莖に一花ひらく花形白梅に似たり夏は枯る他地に植ふれは花の時ちがふ

(何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名・地名を除いてカタカナをひらがなに置き換え)


ここでは「一花草(いちげそう)」という名称になっていますが、その解説の内容から見て現在のイチリンソウを指すと見て良さそうです。どちらも梅に似た白い花をつけるものの、花期が異なることを記しています。「梅バチ」は比叡山や有馬温泉に多いとしていますが、関東の分布について触れられていないのは著者の貝原益軒が基本的には西で活躍した本草学者だったからかも知れません。

注目されるのは、どちらもその欄外に「和品」と記されていることです。実際はウメバチソウは日本以外でも北半球に広く分布していますから、必ずしも日本の固有種ではない筈なのですが、益軒としては漢籍にこの植物に該当する記述を見つけられなかったということになるでしょうか。他方のイチリンソウの方は本州・四国・九州に分布しており、こちらは日本の固有種です。

一方、「和漢三才図会」には「梅鉢草」の項があり、そこには次の様に記されています。

梅鉢草(むめばちさう)

俗稱(  )本稱未詳

今以梅花衣服之文ンテ梅鉢故名

△按梅鉢草四五寸葉略團厚少シテ而靑色帶ミヲ三月開白花單葉ニシテタリ梅花風樓草夏雪草梅鉢草一輪草之花皆似タリ一輪草葉似風樓草葉三月開單白花

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


ここでは「一輪草」と花が良く似ていることが記されています。言い換えれば、著者の寺島良安も「梅鉢草」と「一輪草」が別の植物であることを認識していたことになります。しかし「和漢三才図会」にはこの「一輪草」に該当する項目がありません。「一輪草」については「梅鉢草」の項目の末尾に簡略に示されているのみということになります。そして、「本称未詳」と記されているということは、「和漢三才図会」が手本とした「三才図会」は勿論、それ以外の漢籍、つまり中国の文献に該当するものを見出せずにいたことを示しています。

これら2つの書物の記述からは、江戸時代初期には既に「うめばちそう」と「いちりんそう」が、それぞれ秋と春に花をつける別の植物であることを識別していたことが窺えます。但し、「うめばちそう」が漢籍に該当するものがない、あるいは該当するものが見つからないでいるという見解をもっていたことになります。「七湯の枝折」でも「但し秋草にて仲秋の比をさかりとす」と記しており、その特徴からはやはり「うめばちそう」と呼ぶべき植物であったことになります。

これらに対し、「大和本草」や「和漢三才図会」よりは時代が下る「本草綱目啓蒙」では、ウメバチソウに該当しそうな項目を見出すことが出来ません。イチリンソウに該当しそうな項目としては、訓に「大和本草」でも取り上げられた「いちげそう」を含んでいる次の項目を挙げることになります。実際、イチリンソウが「本草綱目啓蒙」に掲載されているとしている植物図鑑のサイトも存在しています。

佛甲草

總名マン子ングサ ツルレンゲ イツマデグサ ステグサ丹波 イハマキ同上 ノビキヤシ雄泉州/雌大和本草 子ナシグサ雄大和本草/雌勢州 ハマヽツ雄紀州播州/雌豫州 イミリグサ雄豊後/雌豊前

雄名イチゲサウ大和本草 テンジンノステグサ藝州 ステグサ紀州 シテグサ豫州 ツミキリグサ筑前 チリチリ南部 タカノツメ勢州龜山 ホットケグサ同上山田 ホトケグサ同上内宮 子ナシカズラ和州 江戸コンゴウ防州 ミヅクサ阿州 セン子ンサウ讚州 ヒガンサウ泉州 マムシグサ伯州 イハノボリ同上 ナゲグサ越後 マツガ子江州彦根 カラクサ同上守山

雌名イチクサ三才圖會 マンネンサウ同上 コマノツメ勢州 イチリクサ津輕 フヱクサ秋田 コヾメグサ防州

路旁陰處林下水側に多く生す雄なる者は苗高さ六七寸叢生す葉細くして厚く末尖り長さ八九分黃緑色三葉ごとに相對す莖を切り捨て枯れす自ら根を生す四五月梢に花を開く五瓣黄色大さ三分許多く枝に盈て美し苗は冬を經て枯れず

(後略)

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種命以外のカタカナをひらがなに置き換え、書き込みは原則省略、強調はブログ主)


もっとも、この「仏甲草」については中国語では「マンネングサ」を指すことになる様なので、小野蘭山がこの項に日本国内で見られる、そして「大和本草」が指摘する「いちげさう」を宛てた点については少なからず疑問の余地があります。その様なこともあってか、イチリンソウを「仏甲草」と表記した例は今のところ他に見出すことが出来ません。実際、黄色の花が咲くとしている点もイチリンソウの特徴とは合っていません。また、雄花と雌花がある様にまとめているなど、この項目での「いちげさう」以外の日本国内各地の和名のまとめ方についても、果たしてこの通りに解して良いかは検証が必要と思います。

「畫本野山草」より「一里ん草」
橘保國「畫本野山草」より「一里ん草」(右)
次のページに解説があり
「梅花草」と似ていることが記されている
但し「梅花草」は「畫本野山草」には採録されず
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
因みに、江戸時代初期の花譜である「花壇地錦抄」(伊藤伊兵衛(三之丞) 元禄8年・1695年)には、「うめばちそう」と思われる項目は掲載されていないものの「いちりんそう」については

一りん草 花しろし小草なり一本ニ一りんつゝ花咲

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、合略仮名は仮名に展開)

と記されており、「大和本草」の記述ともども江戸時代初期にはその存在が知られていたことがわかります。

こうして見て行くと、江戸時代には「うめばちそう」と「いちりんそう」を、花期の違いで識別するだけの知見が存在していた可能性の方が高そうです。とすると、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちさう)」という表記の混乱は、箱根山中での呼称一般に生じていたものが反映し、それを後で訂正したものか、あるいは「七湯の枝折」上でのみ表記を取り違えたことになりそうです。ただ、実際はそのどちらであったのかは、まだ明らかではありません。箱根について、特に芦之湯について書き記された他の史料に、この植物が登場する例があるかどうかを探す必要があり、今後の課題ということになります。

箱根七湯志より梅草
「箱根七湯志」より「梅草一名一輪草」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
コントラスト強調)
なお、幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)には「うめばちそう」について

梅草一名は一輪草ともいへり莖一つに花一つなり形花梅花のごとし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と記した上でうめばちそうの線画を載せています。しかし、この線画は「七湯の枝折」の挿画と良く似ており、恐らく「七湯の枝折」を参照して筆写したものと考えられます。線画周囲の空白の大きさからは、永好自身がウメバチソウを見ていれば何らかの追記が試みられたのではないかとも思われるものの、彼自身がこの花を見ることは叶わなかったのかも知れません。

「ウメバチソウ」については現在は神奈川県の2006年版レッドデータブック上で絶滅危惧ⅠB類に指定されています。県内で見掛けるのはますます難しい花になりつつあるのは確かな様です。

ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb. (ユキノシタ科)

県カテゴリー:絶滅危惧ⅠB類(旧判定:減少種 V-H)

判定理由:神植誌88および2001の調査では14地域メッシュで採集された。このうち11地域メッシュからは1995年以後の確認がない。地域メッシュ単位で79%の減少と考えられる。定量的要件Aより絶滅危惧ⅠB類と判定される。

生育環境と生育型:湿地や湿った草地に生える多年草

生育地の現状:不明

存続を脅かす要因:自然遷移、草地開発

保護の現状:県西のものは国立公園、国定公園、県立自然公園内

県内分布:(横浜市青葉区、相模原市緑区、箱根町、秦野市、南足柄市、川崎市多摩区、山北町、横須賀市、湯河原町)

国内分布:北海道、本州、四国、九州

(上記書103ページより、県内分布については地域を示す記号を市町名に置き換え)

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「七湯の枝折」の「米つつじ」

昨年の5月頃に、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から「釣鐘つゝじ」を取り上げました。今回は同じ「七湯の枝折」に掲載されたもう1つのつつじである「米つつじ」を取り上げます。

米[酋阝]躅 明ばん山ニ多く生ス

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより、字母を拾えない文字については[ ]内にその旁を示す)


「つつじ」の表記がここでは妙なことになっていますが、箱根町教育委員会のこの本の注では「躑躅(つゝじ)」とのみ記していますので、ほぼ誤記と見做して良いと考えているのでしょう。今回は、和名の「ハコネコメツツジ」以外は「米つつじ」とひらがなに展開して表記することにします。

「箱根七湯図絵」芦のゆ
歌川広重「箱根七湯図会」より「芦のゆ」
南から北を見る構図になっており
「明礬山」はこの絵の左上から右手中程にかけての
稜線の膨らんだ辺りに位置することになる
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
画像を正位置に回転)
「明ばん山」については以前も何度か登場しましたが、箱根七湯のうち最も標高の高い芦ノ湯の北寄りに位置する「山」で、当時この地で明礬の精製を行っていたことからこの名があります。「米つつじ」はこの様な所に生息していたと記すものの、この植物についての具体的な特徴については何も記載がなく、また絵図も添えられていません。

「釣鐘つゝじ」の時にも当時の本草学や花譜などの書物に、この種に該当する記述が見られるかどうか探してみましたが、結局の所見当たりませんでした。今回の「米つつじ」の場合も「釣鐘つゝじ」で確認した書物をひととおりあたってみたものの、残念ながらこちらもそれらしき記述を見つけることが出来ませんでした。このため、当時の人がこの植物をどの様に見ていたのか、手掛かりが乏しいのが実情です。「七湯の枝折」と並んで箱根の当時の地誌とも言える「東雲草」(雲州亭橘才著 文政13年・1830年)にも、「米つつじ」に関する記述は見られませんし、更には「七湯の枝折」を参照しつつ更に独自の調査を書き加えようとしていたと見られる幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)でも、産物の項に「米つつじ」はありません。「七湯の枝折」の記述も詳細とは言えませんし、「米つつじ」は地元で存在は知られていてもさほど注目されてはいなかった、というところなのかも知れません。

「米つつじ」の存在がより広く認知される様になったのは、明治時代に入ってこの植物の研究が始められてからです。「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)ではその研究の経緯について次の様に記されています。


ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.; Tsusiophyllum tanakae Maxim., Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8(1870)の基準産地は箱根

落葉または半常緑の低木で、茎は倒伏して地面をはうようにして、多数分枝し、高さ60cmに達する。葉は楕円形または倒卵状楕円形、小型で長さ4〜12mm、やや質厚く、密に互生する。表面は伏せた毛があり、裏面の脈上および縁辺に褐色の毛がある。花は6〜7月、花冠は白色、筒状鐘型で外面に毛がある。雄しべは5本、花冠から突き出ない。葯は縦裂し、花糸に毛がある。本種はコメツツジあるいは同一系統の祖先より火山裸地に適応、分化した種と考えられ、箱根に分布の中心がある。北は秩父山地から南は御蔵島まで分布し、ブナ帯の風当りの強い岩場に生える富士火山帯の特産種、フォッサマグナ要素の代表種である。1870年にロシアのマキシモウィッチが、花が筒型で葯が縦裂する形質を重視して、新属新種Tsusiophyllum tanakae Maxim.として記載した。のち大井次三郎(1953)は葯の縦裂はツツジ属中の異端種にすぎないと考え、ツツジ属に併合する学名R. tanakae (Maxim.) Ohwiをつくった。しかし、杉本順一(1956 植研31:63-64)はこの学名が台湾のアリサンシャクナゲR. tanakai Hayataに使われていることを指摘し、R. tsusiophyllumを提唱した。また最近、高橋・勝山ら(1992、1998)はハコネコメツツジとオオシマツツジの雑種とされたコウズシマヤマツツジについて研究し、それを裏付ける成果を発表した。本誌ではツツジ属に含める説を支持する学名を採用した。なお「植物の世界63:92」に、永田芳男は本州産でハコネコメツツジとヤマツツジの自然雑種を見出し、カラー写真で紹介している。ハコネコメツツジは箱根町のシンボルとして、天然記念物に指定し保護している。

(上記書1099〜1100ページより、強調はブログ主)


箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置
箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置(再掲
この植物の標本が箱根から持ち帰られたこともあって、以降の和名では「ハコネコメツツジ」と箱根の名を冠する様になりました。論文が発表された1870年は西暦で書かれているとあまり違和感がありませんが、和暦に直せば明治2年から3年、これほど早い時期に箱根でもあまり記録が見られなかった植物の研究が海外で公表されているとなると、この外国人が一体どういう経緯で「米つつじ」の標本を手に入れたのかが気になってきます。「米つつじ」が「明礬山」で見られると「七湯の枝折」が記していることと考え合わせると、これまで紹介してきたハコネサンショウウオ石長生の様な例とは異なり、江戸時代にも外国人の往来があり得た東海道筋からはかなり隔たっていますから、たまたま通りすがった道すがらに見出すといった経緯では標本を入手出来なかった筈です。今回はこの経緯をもう少し掘り下げてみます。

神奈川県植物誌2001」上では「マキシモウィッチ」と表記されていますが、一般にはドイツ語風に「w」を「v」の発音に読んで「マキシモヴィッチ」と表記されていることが多い様です。カール・ヨハン・マキシモヴィッチはロシア国籍のバルト・ドイツ人の植物学者で、幕末に日本が開国されたことを知ってその植物調査のために来日、滞在しています。彼と箱根の関わりについては、北海道大学総合博物館の2010年の企画展示の図録に解説されていました。

1861年 1月末に横浜に向けて箱館を出港したマキシモヴィッチと長之助は12月1日に横浜に着く。横浜周辺で若干の採集をした後、すぐ12月末に長 崎に向けて出港、翌1862年1月初めに長崎に着いた。長崎周辺で採集をし、この時に2回目の来日をしていたシーボルトに会ったとされる(井上 1996)。 しかしこの年3月末には早くも長崎を出港し、1862年4月初めには江戸に到着し、再び長崎に向けて出港する12月中旬まで江戸周辺や箱根、富士山で採集している。この年1862年の12月21日には再び長崎に舞い戻り、翌年1863年の12月末まで長崎に滞在し、採集は九重山、阿蘇山、熊本、島原などに及んでいる(井上 1996)。これら1862年の関東地方、1863年の九州では、物情騒然としている時期でもあり、長之助を派遣して採集させたことが多かったようである(ファインシュタイン 2000)。1863年12月末に長崎を出港して翌1864年1月9日に江戸に到着した。ヨーロッパへ旅立つのはその年の2月1日なので、1ヶ月余りで標本等の整理を行い、さく葉標本72箱を持ち帰ったという(井上 1996、須田 2010)。

(「マキシモヴィッチと長之助、宮部の出会いと別れ」高橋英樹著、「マキシモヴィッチ・長之助・宮部:北海道大学総合博物館企画展示「花の日露交流史—幕末の箱館山を見た男」図録」8ページより、強調はブログ主)


ここで登場する「長之助」とは須川長之助のことで、陸中の出身だった彼はちょうど函館に渡ってきたマキシモヴィッチと知り合って彼の助手として活動する様になります。従って、マキシモヴィッチは勿論、長之助も箱根をはじめとする関東はこの時に初めて訪れており、必ずしも一帯の地理に長けていたとは考え難い状況だったことになります。

彼らが箱根を訪れた1862年は文久2年に当たりますが、この年の旧暦8月21日にあの「生麦事件」が起きていることを考えれば、外国人が安易に地方へと入っていける世情ではなかったことは容易に察しがつきます。長之助を派遣することが多かったというのはそういう世情を考慮すれば理解できるところで、箱根へ向かったのは長之助だけであった様です。上記で引用した企画展示の図録には、この時に長之助が採集したというハコネコメツツジのタイプ標本の写真が掲載されています(同書35ページ、PDFでは40ページ)。なお、この頃は幕府が外国人が自由に旅行できる地域を制限しており、箱根はその地域に入っていませんでしたが、マキシモヴィッチの場合は植物調査という名目がありましたから、許可さえ得られれば彼も箱根まで入っていくこと自体は可能だった筈です。

上記の通り箱根に入っていった須川長之助もこの土地には不慣れであったでしょうし、元より外部の人間が村落に入っていくことには慎重な時代である上に、幕末のきな臭い世情も重なっていることを考えれば、当然地元の人々の案内なしに箱根で植物調査を行うことは不可能だった筈です。

とすれば、この「米つつじ」の存在について長之助が気付いた背景には、地元の人の手引きがあった可能性が少なくないと思います。具体的に誰が彼を案内したのか、そしてその案内者が「七湯の枝折」に「米つつじ」が記されていることを意識していたかは不明ですが、明礬山に長之助を手引きして「米つつじ」を紹介した人がいたのだろうと思います。


「Rhododendrae Asiae Orientalis」の該当箇所(Googleブックスより)
因みに、マキシモヴィッチがハコネコメツツジについて最初に紹介したのは「Rhododendreae Asiae Orientalis(東アジアのツツジ属)」という論文中でした。当時の慣習に従ってこの論文もラテン語で記されており、私もGoogleの翻訳サイトで概略の意味を掴むのがやっとですが、流石に「Hakone」などの日本語が記されている箇所は理解できます。

マキシモヴィッチが提唱したハコネコメツツジの学名には「Tsusiophyllum tanakae」と「田中」の名前が記されており、この論文でも日本の田中という植物学者の協力があったことを記しています。当時の植物学者として田中姓ということであれば田中芳男を最初に挙げることが出来ますが、実際に田中芳男を標本採集者と記している論文(リンク先PDF)も見つけました。これは北海道大学総合博物館の指摘と上手く噛み合いませんし、田中芳男の「富士紀行」で富士山や箱根を訪れたのは明治4年(1871年)、それ以前に関東各地に遠征しているのは慶応2年(1866年)にパリ万国博覧会に出展する昆虫の採集であったことから考えると、田中芳男が標本採集に直接関与したのかは良くわかりません。ただ、マキシモヴィッチが関東に滞在していた当時には幕府の参与であった田中芳男が、「ハコネコメツツジ」をマキシモヴィッチが発表するまでの間に何らかの形でマキシモヴィッチに協力していたことは確かです。例えばその役職からは、長之助が箱根に植物採集に出掛ける際に、往来に支障がないように手形を出すなどの支援をしていた、といったことも可能性として考えられると思います。

何れにせよ、マキシモヴィッチが「ハコネコメツツジ」を発表するまでの経緯は、それまでケンペル、トゥーンベリ、シーボルトらが持ち帰っていた植物とはやや異なる形でヨーロッパに持ち帰られ、新たに研究される様になったという点で、その標本採集の転換期にあったことを象徴する植物の1つであったと言うことが出来そうです。

マキシモヴィッチも上記の論文でこの植物が希少(planta rara)であることを既に記していますが、現在はハコネコメツツジは国のレッドデータブックでも、更には神奈川県のレッドデータブックでも「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されています。また、県のレッドデータブック2006年版ではハコネコメツツジ群落についても取り上げられています。

ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.(ツツジ科)

県カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類(旧判定:希少種)国カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類

判定理由:箱根と丹沢の標高1000m以上の風衝地岩場に生え、総個体数は1000株未満と推定され、定量的要件Dより絶滅危惧Ⅱ類と判定される。

生育環境と生育型:ブナ帯の風衝地岩場に生える常緑低木

生育地の現状:変化なし

存続を脅かす要因:園芸採取

保護の現状:国立公園、国定公園

県内分布:(箱根町、秦野市、松田町、南足柄市、相模原市緑区、山北町)

国内分布:北は秩父山地から南は御蔵島まで

文献:神植誌2001 pp. 1099-1101.

特記事項:Tsusiophyllum tanakae Maxim. Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8 (1870) の基準産地は箱根

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 114ページより、県内分布は記号で羅列されているものを市町名に置き換え)


ハコネコメツツジ群落 Rhododendron tsusiophyllum community (16044)

判定理由:国RDB(神奈川)、RD植物、原記載地、既報告、複合構成

存続を脅かす要因:園芸採取

県内の分布:丹沢・箱根のブナ帯の風当たりの強い岩角地に分布する。

特記事項:植物社会学的な植生単位(群集)としてはオノエラン—ハコネコメツツジ群集が報告されている。オノエラン—ハコネコメツツジ群集は箱根で記載された植生単位で(『箱根・真鶴』)、その原記載地としても重要である。種としては絶滅危惧Ⅱ類とされる。箱根の植分としては田中(1994)による現況報告がある。

(同書186ページより)

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「新編相模国風土記稿」植物・農産物・林産物のまとめ

「新編相模国風土記稿」の山川編や各郡図説に記された産物の一覧に沿って、ここまで農産物や林産物について個別に検討を進めてきました。まだ炭や木綿、絹といった産物が残っているのですが、これらは加工品としての側面も併せ持っていますので、実質的に一巡したところで鉱物類と同様に当座のまとめをします。

鉱物類のまとめでは該当する記事を一覧にしましたが、農林産物では対象となる記事の点数があまりにも多いので、「各郡の産物」と「山川編の産物」の一覧で「植物」「農産物」「林産物」の各項目を参照いただくことで代えたいと思います。

「新編相模国風土記稿」の農産物・林産物の分布
「新編相模国風土記稿」の農産物・林産物の分布
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

また、鉱物類では該当した村の位置をプロットした地図を作成しましたが、これも農林産物では対象となる村が多過ぎるため、代わりに各郡の図説や山川編で登場した産物を地図上に並べました。鉱物類でも西に偏る傾向がありましたが、農林産物でも同様の傾向が見られます。ただ、この傾向については大住郡の穀類・野菜を取り上げた際に、産物の取捨選択の基準が郡によってまちまちになっている傾向を指摘しました。足柄上郡と足柄下郡という、小田原藩領が大勢を占める郡が最も取り上げられた産物の点数が多くなっており、ある程度編集時の傾向が反映した結果と考えたくなる面はあります。

しかし他方で、高座郡、鎌倉郡、そして三浦郡については必ずしも良好な土地に恵まれてはいないという認識を昌平坂学問所は持っていた様です。特に高座郡については北部の相模野を中心に未開の地が多いことを図説中で強調しています。
  • 高座郡図説(卷之五十九 高座郡卷之一):

    本郡古は原野のみ多く、僅に瀕海及河傍の地開けて廣野の四邊に村落をなせり、夫より往々原野を開き今に至りて猶開墾を企る所あり…

    地の高低、郡の南海岸より東海道の左右は凡て低く平夷なり、夫より東北の方へ漸々に高く村落及び相模野の邊武藏の國境に至迄高燥にして土地平なり、又東方境川の邊は郡の中程より南方は低し、西方相模川に傍たる地は殊に低く所々水除の堤を設けたれど、水溢の患を免がれず、土症高燥の地は黑野土或は砂交れり、其餘は總て眞土にして是も砂交れる所あり、郡内陸田多く水田は三分の一なり、

  • 鎌倉郡図説(卷之六十九 鎌倉郡卷之一):

    陸田多く水田少し、用水には專、戸部川の水を引沃ぎ、鼬川・砂押川・境川等の諸流をも灌漑す、されど三分の二は山間の涌泉を引き、溜井を構へ、天水を仰て耕植せり故に旱損の患多し、土性は砂礫錯れる地多く、眞土是に次ぐ、野土糯米土は少し、農間の餘資、海邊の村々は專漁釣をなして江戸に運送し、鶴岡江島等の道側に、連居せる家は參詣の遊客に酒食及び諸物を鬻ぎ、東海道係る處は往來の遊客を休泊し、其他は採薪等を業とす、富饒の戸口は稀なり、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    陸田は水田より少しく多し、士地都て天水を仰て耕植すれば旱損を免れず、土性は眞土野土の兩種にして何れも砂交り、沃膄の土にあらざれども農業の他蠶桑及漁獵を專として生產の資とするにより民戸頗る豊饒なり、

(何れも雄山閣版より、但し一部判読の困難な文字について別途鳥跡蟹行社版を参照して補充、…は中略)


その点では、相模国の東側の農林産物が乏しくなる傾向が実際に多少なりともあったとも言え、その観点では「風土記稿」の産物一覧はある程度実態に沿っていたと見ることも出来なくはありません。とは言うものの、「風土記稿」の編集の傾向の影響と混ざってしまっているだけに、本当にこれ程までに産物の一覧に掲載される品目の点数に差が出る程のものであったかは、識別し難いところです。

「新横須賀市史 通史編 近世」第8章図8-2「産物の分布」
「新横須賀市史 通史編 近世」
図8-2「産物の分布」(p.340)
「新編三浦往來」に記された産物を
地図上にプロットしたもの
実際問題として、天保15年(1844年)に「三浦古尋録」を増補した竜崎戒珠によって書き記された「新編三浦往来」では、半紙判10丁の短い漢文体の文中に三浦郡中の産物が「風土記稿」の三浦郡の産物の点数の数倍も記されており、農産物も薩摩芋・自然薯・渋柿・梨・蜜柑・蕨・葱など、「風土記稿」の他の郡で取り上げられたものがかなりの点数含まれています。「新編三浦往来」は元来が寺子屋の教科書となることを目的に著された簡潔なものであるため、その生産量や質について具体的なことをこの文章から読み取ることは出来ませんが、少なくとも生産実績が少しでもあったものがかなりの程度網羅されていると見ることが出来ます。こうした産物のうち、「風土記稿」の三浦郡図説に採録されたものが一部に留まったのはどういう判断があったものかが課題と言える訳です。

こうして考えていくと、その根底にはそもそも「風土記稿」にあって「土地の産物」とはどの様なものを指すのか、あるいは「風土記稿」の執筆された江戸時代後期にあって「名産」とは何なのか、という課題があると思います。その判断基準として考えられるものとしては、
  • その土地での生産量が他の地域に比べても多いこと
  • その土地で生産はされるものが、他の地域で産出されるものに比べて品質が良いこと
  • 何らかの由緒書によって生産が裏付けられていること
などを挙げることが出来、実際「風土記稿」でも基本的にはこうした判断基準の一部ないし複数が考慮されていることはこれまで見て来た通りです。ただ、「風土記稿」ではこれらの基準をどの様に適用するかがあまり明確に意識されないまま、やや感覚的に産物の取捨選択が行われていたのではないか、という印象があります。

この点は、後に明治時代に入って「皇国地誌」を編纂する段階に至って、より明確な基準として新たに農産物等の各種の統計に依存する傾向を持った点と大きな違いがあると言えます。「皇国地誌」の残稿の多くでは、産物の欄は明治9年の産物調査の統計を充てる意図で空欄となっているものが多いのですが、「香蕈」で紹介した愛甲郡田代村の残稿では、凡そ明治9年1年に多少なりとも生産のあった農林産物や道具類が全て書き記されており、近代に入って編集を企図された地誌では「風土記稿」に見られた様な取捨選択が排除されていることがわかります。こうした傾向が他の近世と近代の地誌類についても言えるか、あるいは「風土記稿」や「皇国地誌」といった「官撰」の地誌と、より私的な地誌で違いが出るかどうかはわかりませんが、少なくとも「風土記稿」に関してはその点で近代以前に編纂された地誌の特徴が反映していると言えるのかも知れません。



鉱物類の個々の産物について取り上げた際には、その産出の裏付けをする上で各種の地質図を活用しました。江戸時代から現代までの時間であれば、少なくとも地中の地質分布が大きく変わる様な地殻変動はありません。大きな天変地異としては富士山の宝永噴火があったものの、火山灰が地表に厚く降り積もったことを除けば地下の地質分布を変えてしまう様なものではありませんでした。ですから、該当する鉱物の存在については現在の地質図で十分に検証が可能です。

これに対して、植物や農林産物の場合は同様の手法が使えるとは必ずしも限りません。中には高座郡の初茸や松露の様に、特定の地質に強く依存する植生(この場合は菌類であることから「植生」という言葉が妥当と言えるかは微妙ですが)を示すものもありました。しかし、必ずしも地質などに強く影響される植物ばかりではありませんし、特に近年は都市化によって植生が失われた地域も多いので、「風土記稿」に記録される産物の裏付けを何によって行うかは都度悩まされました。まして、農産物の場合は元より人為的に外部から植物が持ち込まれるケースが多く、更に時代の変遷によって栽培されなくなったものも多いので、当時の農事の裏付けとなる史料が必要でした。

自生する植物の場合は「神奈川県植物誌2001」や県のレッドデータブックを使って現行植生を追うケースも多くなりました。神奈川県はこうした植生調査の蓄積が大変に厚い地域であることが、今回の検討を行うに当たって少なからず役に立ちました。

他方で、農産物の場合は「農業全書」をはじめとする農書を参照するケースが増えました。江戸時代初期にまとめられた「農業全書」は、当時の人が適作地をどの様に選んでいたかを考えるヒントとしてはなかなか有益な手掛かりを与えてくれたと思います。出来ればもっと他の農書類、特に相模国や近隣で著された農書を閲覧した上で検討を加えるべきかとも思いましたが、これは将来機会があれば追補したいと思います。



鉱物類の場合同様、農林産物についても、産出したものが何処で消費されたかを可能な限りで見てみました。その傾向は幾つかのケースに分類出来ると思います。

1つは江戸へ搬出されて消費されるケースです。やはり当時の一大消費地と言うべき性質を持っていた江戸を意識して生産されていたものとしては、を筆頭に、紫根香蕈(椎茸)など、江戸での販路に向けて生産されていたことを示す史料が見つかる産物が幾つかありました。特に椎茸の場合はその生産のための出資を江戸の商人が支出したことが記されており、江戸から比較的近い相模国が産地として有望視されていたことが窺えます。漆や樒の様に、産出する村々の収入源となることから、領主である小田原藩が貢税の対象としたり、その流通に関して様々に裁きを行ったりする局面も見られました。

これらに対して、生産地の近傍で消費される、あるいはそう考えられる品目も少なからずありました。例えば大住郡の穀類・野菜の多くは江戸時代に遠く江戸まで運ばれたことを示すものがなく、コストの面からも精々厚木などの近隣の町へと輸送されるのが精々であった様です(「大野誌」による)。流通先について明確な記録が見られないものの中には、流通先があまり拡がりを見せなかったものが少なくなかったのではないかと考えられます。

そして、その中間的な存在として東海道や鎌倉の沿道で道行く人たちに向けて商いする目的で栽培されていたと考えられるものも少なくなかったと思います。特に西瓜については道中記・紀行文中にその名が見られました。

こうした物の流れに、領主が関与した例としては、稲葉氏の時代の小田原藩が大和柿蜜柑を取り立てたり、柿渋の様に貢税として取り立てていたものを挙げることが出来るでしょう。稲葉氏の例では正月に向けて蕨や薯蕷(ヤマノイモ)、独活等を納めさせていた例もありましたし、蜜柑や青芋(里芋)の様に小田原藩や荻野山中藩から幕府への献上品となっていた例もありました。これらの中では足柄下郡塚原村が蕨を納める際に継立を使っていたことが記録に残っていますが、他の産物についても貢上に際して多かれ少なかれ当時の輸送体制が活用されていたと考えて良いでしょう。

変わったところでは大山信仰と強く結び付いていた山椒や、漁網の染料として用いるために房総半島などに送られた柏皮の様な例もありますが、こうした例を見て行くと、江戸時代にあっても生産物の輸送先は意外に多彩であったことが窺えます。勿論、こうした産物の移動に当たっては当時の街道が相模川や海上の水運とともに活用されていた訳ですから、江戸時代の街道の実態を考える際には、これらの産物の輸送経路としての側面を見てみることも必要なことではないかと思います。

農林産物については一旦の締めくくりとしますが、まだまだ史料を見足りていないことによる見込み不足や思い違いなども残っていると思います。引き続き関連資料を探して必要に応じて追記していきたいと考えています。
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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」に記された「石長生」と「慊堂日暦」(その2)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」で紹介された「石長生」について見て行きます。

今回はまずケンペルの「はこねぐさ」についての記述を確認するところから始めます。まず、ケンペルの生前に唯一出版された「廻国奇観(原題:Amoentatum exoticarum)」(1712年)中に登場する「はこねぐさ」の記述です。その第5章に「Plantarum Japonicarum」と題した日本の植物のカタログが掲載されていますが、その中にこの「はこねぐさ」に関する記述が含まれています。適切な日本語訳本を見つけられなかったので、同志社大学のサイトで公開されていたものから、ラテン語の記述を直接抜き出します。

Fákkona Ksa Adiantum celebre & medicamentosum montis Fakkona; caulibus purpureis nitidiffimis. Adiantum folio Coriandri; seu, Capillus Veneris.

(原書890〜891ページ、上記サイト中930〜931枚目の画像より)


Google翻訳でもこの文章は十分翻訳出来ず、特に「nitidiffimis」については訳語を見出だせませんでした。ただ、大筋では箱根山(montis Fakkona)中で採取した薬効が良く知られた草で、茎が紫色(purpureis)であるということ、そして、「Adiantum」からホウライシダの仲間と考えており、ここに「Capillus Veneris」という、後の「カッペレ草」「ヘンネレス」といった名称に繋がる名前が記されていたことがわかります。どの様な薬効があるかについては、この中では触れられていない様です。

次に、以前の記事でも引用しましたが、彼の「日本誌」(以下の本はその中の江戸への往参に関する部分が中心)から、箱根を通過した日の記述です。

この土地の草は、医師が特に薬効があると考えて採集するが、これらの中にはアディアントゥム(Adiantum)あるいはヴィーナスの髪という濃い紅色を帯びた黒色の、つやのある(くき)や葉脈のあるものが、たくさん見つかる。他の地方の普通のものより、ずっと効くと思われている。それゆえ家庭薬として貯えておくために、この山を越えて旅する人のうちで、誰一人それを採らないで通り過ぎてしまう者はない。この薬にはほかのものと比べられないすぐれた特性があるので、世間ではハコネグサと呼んでいる。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 164〜165ページより)


Beschrijving van Japan - titelpagina editie 1733.jpg
ケンペル「Beschrijving van Japan」扉(再掲)
("Beschrijving van Japan
- titelpagina editie 1733
"
by エンゲルベルト・ケンペル
- Kaempfer, Engelbert (1729年)
This file has been provided
by the Maastricht University Library
from its digital collections.

Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
こちらの書はケンペルの生前には出版が叶わず、後にケンペルの遺品を買い取ったハンス・スローンの手によって英訳本が1727年に出版されました。その後、この英訳本から仏訳本と蘭訳本が制作されて1729年に上梓されています。この蘭訳本はその後オランダ商館にも持ち込まれ、そこから長崎の通詞にも贈られた様で、安永7年(1778年)には三浦梅園が通詞吉雄幸左衛門の所蔵する蘭訳本を見たことが記録されています。

スローンの手元に渡ったケンペルの遺品は実際はその全てではなく、一部が遺族の手元に残ったため、この元になった英訳本には必ずしもケンペル自身の記述が全て含まれているということではない様です(以上、「江戸参府旅行日記」解説より)。ただ、江戸時代にはスローンが出版したもの以外には知られていなかった以上、ここに書き記されたものがケンペルの知見として当時知られていたものの全てと考えて良いでしょう。ともあれ、「はこねぐさ」の効能については「日本誌」でも具体的なことは記していません。そして、ケンペルはこの草が地元の人々によって薬草として利用されていることを観察しており、この記述と「廻国奇観」の記述を併せても、ケンペル自身が何らかの効能をこの草に見出したとは読み取れません。

さて、その点を踏まえつつ、松崎慊堂の「慊堂日暦」に登場するケンペルについての記述を見て行きます。日記ではケンペルの蘭書を廻る記録が何度か登場します。


「慊堂日暦」に最初にケンペルについての記述が登場するのは、文政7年(1824年)2月25日の項です。

◯ケンフル(アンモニタチス)

ケンフル、西洋人。アンモニタチス、印度七国ノ事ヲ記ス、同人作。此書ニ豊公ノ韓征ハ我ニ(あだ)スル趣向ト云。

(「慊堂日暦1」山田 琢 訳注 1970年 平凡社東洋文庫169 93ページより)

この日は「昧前(まいぜん)に平井簡夫宅に赴き、親事を議す。」(91ページ)と記した上で、かなり多数の付記が追加されています。「ケンフル」についての記述もその中の1つなので、あるいはこの平井宅で話題に上った話だったのかも知れません。この「平井簡夫」については委細がわかりませんでした。

「アンモニタチス」は「廻国奇観」の原題「Amoenitates Exoticae」から来ています。この頃には慊堂に近い所でこの本の解読が試みられていたことが窺えます。ただ、この時はそれ以上の話にはならなかった様で、その後しばらく日記には現れません。


次にケンペルのことが日記に現れるのは文政11年(1828年)正月3日の項です。

◯アンモニタチツ、余が看しところはこれなり。西学を習う者また読み得ず。羅甸語にて印度七国のことを書く。ケンフルは蘭語にて書く。この書は読むべしと云う。日本の事が主なり。

(「慊堂日暦2」山田 琢 訳注 1972年 平凡社東洋文庫213 148〜149ページより)


慊堂はこの時既に「廻国奇観」を見たことがあると言っています。「羅甸語」は「ラテン語」のことです。「廻国奇観」自体はその原題が示す通りラテン語で書かれています。流石に当時の日本にラテン語の素養があった人はいないと思いますので、解読するとなればラテン語から一旦オランダ語の訳語を探し出した上で改めて日本語に置き換えることになったでしょう。これに対して後半の「ケンフルは蘭語にて書く」はそのままでは意が通じ難いところですが、「日本誌」の方は上記の通り「廻国奇観」と違って蘭訳本が出版されていますので、「日本の事が主なり」という記述と併せて考えると、こちらを指しているものと思われます。

そして、その2年後の文政13年(1830年)9月8日には

近藤の家人来り、為めに前野頤庵に与うる書を作り、ケンフルの事を言い、これをその君(奥平老公)に達せんことを嘱す。その君がこの書を()んと欲するを聞けばなり。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 91ページより)

と書いています。この本の入手について、具体的に手を打っていることが窺えます。

さて、問題は次にケンペルのことが登場する、同年の10月4日の記述です。少々長くなりますが同日と翌日の記述をひと通り引用します。

四日 晴、暖。微風は南方よりす。倉成孺人(じゆじん)は肖司を拉し来る。正斎〔近藤正斎〕の妾来り、ケンフル一巻を託す。この書は、寛永中に耶蘇教を禁じて後、西洋のケンフルひそかに薩摩より入り、口は唖となり足は()えたる状をなし、尻車(こうしや)指言し、西海より中州を経て関東に入り、凡そ七年にして還る。この書及びアンモニタチツ二書を録し、その国にて刻す。明和中に阿蘭(おらんだ)朝貢し、官医某君と語りその事に及ぶ。阿蘭は即ち二書を以て(おく)ると云う。アンモニタチツは、余はかつてこれを十束生のところにて()たり。ケンフルの一書は、ケンフル始めは羅甸語(らてんご)にて書けるを、イギリスにてイギリス語に訳し、また阿蘭にて訳す。今はじめて一繙するに、その書は読むべからず、而してその図凡そ四十七扇、その識るべきもの左の如し。

○程子周尺の所出、文集語類より検出すべし。

○算法通変本末・読古摘奇算法・田畝比類乗除捷法。三書は宋の銭塘の揚輝(ようき)輯す。咸淳の序、徳祐の序あり。明の洪武戊午、宣徳八年朝鮮にて覆刻す。養安院の蔵書。

○朝鮮尺、検出すべし。大槻士縄。

〇九章算術、戴氏遺書(たいしいしよ)中に収むる算書十種中に載す。

○弘決外典鈔、四巻、兼明親王が僧増賀の為めに作る。

五日 晴。渋井石門・神保元貞来る。講を廃して諸子とケンフルを閲し、夜飲して散ず。七日に谷墅に游ばんことを約して云う、巳時に感応寺にいたらんと。

(「慊堂日暦3」99〜100ページより、本文中強調はブログ主)


慊堂のケンペルという人物への理解が明らかに正しくないことがわかります。上記でも見た通り、慊堂は通詞とも付き合いがあり、ケンペルについても既に何度か情報交換したりしていることはここまでの日記の記述で明らかですし、更に以前ケンペルの本を他所で見たと改めて記しています。にも拘らず、オランダ商館付きの医者として公的に来日し、将軍にも謁見していた人物について、何故薩摩から密入国し、身体に多々障害を被る結果となったかの様な理解になっているのでしょう。

松崎慊堂自身が漢学者であったことから、後半に見るべき点として書き出した箇所は自身の知識に照らして理解していた部分ということになるでしょう。こうした読解を、果たして慊堂自らのオランダ語の素養でどれだけ成し得たのかは不明ですが、日記のこの箇所の記述からはそれほど高い能力があった様には思えません。ならば、付き合いのあった通詞にはオランダ語の力が当時としては十分あったでしょうから、彼らに尋ねるということも出来たのではないかとも思えます。しかし、その様な手段によって慊堂の理解が修正されなかったということは、慊堂の周辺の関係者からも、その様な情報がもたらされなかった可能性も考えなければならないでしょう。それはつまり、慊堂の周辺の人々も、多かれ少なかれケンペルについて必ずしも十分に理解していなかった、ということを意味しています。

現時点では同じ時期の他の史料での裏付けを行っていない段階なので、飽くまでも「慊堂日暦」1本で判断できる範囲においてということになってしまうのですが、この日記の記述からは、ケンペルという人物について、オランダ商館付きの医師として来日していたという事実が、江戸の学者の間でもあまり共有されていなかったのではないか、という疑いが出て来ます。

ともあれ、慊堂は翌日も門弟たちと共にこの本を読んでいます。そして、翌天保2年(前年末に改元されている)3月4日に

道夫〔二階堂道夫〕は小関三栄(本所横津軽邸の近所に住む)を携え来り、ケンフルを読む。余は病むこと甚だし、因って(さかずき)を挙げて、勉強してこれを聴く。

(「慊堂日暦3」140ページより)

と記されているのが、「慊堂日暦」に記されたケンペルについての最後の記録ということになる様です。これ以降没年までの10年以上の記述も簡単に探してみましたが、関連する記述を見つけることは出来ませんでした。因みに、同日の記録には「キリシタン」についてかなり長い書き込みがあり、恐らくはこの門弟2名との勉強の過程で話題になったのでしょう。



さて、慊堂の上記の様な日記の記録を考えた時、ケンペルという人物について、果たして当時どれほどの範囲に理解が広がっていたのかが問題になってきます。「江戸参府旅行日記」の解説によれば、「日本誌」の方はその後幾度と無く抄訳や全訳が試みられた様です。ただ、全訳は弘化年間まで下る様で、それまではいわゆる「鎖国論」として知られている附録が抄訳されたものが中心である様です。これも当時の史料を更に探らなければならないところですが、「慊堂日暦」の記述からは、実はケンペルの正体について正しく理解している人が、通詞など事情に明るい一部の人を除くとあまりいなかったと見るべきではないか、というのが現時点での個人的な見解です。

その様な状況を念頭に置いて考えた時、前回引用した一連の「石長生」あるいは「はこねぐさ」についての文献に見える「紅毛人」を、果たして牧野富太郎が書く様に直接ケンペルと結び付けて良いのか、という次の疑問が生じてきます。ケンペルについての当時の理解が十分ではないとしたら、当時の人々によって「紅毛人」と呼ばれている人物にケンペルが想定されているというのは不自然になってくるからです。

この疑問をもう少し考えるために、前回引用した文献に見える知見を、その出所をキーに少し整理してみます。大筋で、次の3系統の知見に分類できると思います。

  • 「石長生」の名に紐付く、「本草綱目」をはじめとする漢籍由来の知見
  • 「へねれんさう」など、ケンペルの「廻国奇観」に由来する知見
  • 日本国内の、生息地での呼称や生態、薬草としての効能などの知識。「はこねぐさ」もその点ではこちらに入る

これらの系統に属する知見が、ある書物では同じものとされているものが、別の書物では触れられていなかったり別物と看做されたりしているのが、この「はこねぐさ」にまつわる知見の「混乱」の元になっている様に見受けられます。

このうち、「へねれんさう」の系統はケンペル自身の「廻国奇観」の記述があるので、この文脈で「紅毛人」をケンペルに帰するのは妥当でしょう。「大和本草」は「廻国奇観」の出版よりも前に成立していますし、「和漢三才図会」も「廻国奇観」と同年に成立していますから、この本を携えたオランダ人が日本に着任するまでの日数を加味して考えると、この知識が「廻国奇観」を経由して日本にもたらされた可能性はまずあり得ないことになります。つまり、この知見はケンペル自身の口から直接日本人に伝わったものと思われます。但し、オランダ商館の担当者は頻繁に交代しており、ケンペルも僅か2年しか日本に滞在していませんので、別の後任医師らがケンペルの見解を引き継いで日本人に伝えた可能性も残ってはいます。とは言え、その場合でもこの知見の発端がケンペルであることは揺らぎませんから、牧野が『園芸大辞典』の補注で指摘した話には妥当性が十分にあります。

これに対して、「風土記稿」などで取り上げられている、江戸でこの草を産前産後の婦人に処方したとする話の方はどうでしょうか。この元になったのは、「本草綱目草稿」の記述からは小野蘭山が箱根で取材した話と現時点では考えられます。蘭山が何時頃箱根でこの話を取材したのかは良くわかりませんが、「小野蘭山年譜」(磯野直秀編 2009年 「慶應義塾大学日吉紀要・自然科学」No.46所収、リンク先PDF)に記された足跡から箱根を訪れているものを探すと、享和元年(1801年)9月に幕命を受けて採薬の旅に出た時が最初になる様です。この目的であれば、箱根の山中で薬草を探す過程で地元の人から「はこねぐさ」について聞き知ったのも納得がいきます。但し、蘭山はこの後も数度箱根を訪れていますので、彼が「はこねぐさ」について聞き知った機会はもう少し後になる可能性もあります。また、この年譜をはじめ、小野蘭山がケンペルの著述に触れた機会があったかどうかを探してみましたが、見当たりませんでした。

こうした経緯と、蘭山がその「本草綱目草稿」で「土人曰く」と箱根で聞いたことを記していること、更に同書でも「紅毛人」と書いていてケンペルに関連しそうな記述も見当たらないこと、そしてケンペルの当時の知名度が必ずしも高くはなかったことを考え合わせると、ここでの「紅毛人」は必ずしもケンペルを指すとは言えないのではないかと思います。また、ケンペル自身が書いたものを見ても、ケンペルはむしろ箱根でこの草が薬草として採取されているのを見ている訳ですから、小野蘭山の見聞とは食い違っています。従って、江戸で婦人の産前産後に処方したのがケンペルであるとする「新牧野日本植物圖鑑」の記述は、その点で妥当とは言えないと思います。

では、蘭山が箱根で取材したこの話はどういう経緯で言い伝えられていたのでしょうか。1つの可能性としては、ケンペル以外のオランダ人医師が江戸で「はこねぐさ」を婦人向けに処方した可能性も考えられます。ケンペルは元禄3年から5年(1690〜92年)の、正味2年しか日本に滞在していませんが、後任のオランダ商館医師が元禄年間に何度交代したかは不明です。その後任のうちの誰かが実際に江戸で「はこねぐさ」を処方したとすれば辻褄は合います。しかし、それであればこの話は箱根の山中よりもむしろ江戸で広く伝わっていても良さそうですが、その様な痕跡は見つかっていません。

むしろ箱根でケンペルのようなオランダ人が植物標本採集を繰り返す中で、箱根の人々とこの草について遣り取りを交わすうちに、やがて何かの切っ掛けで「紅毛人から教わった」という方向に話がすり替わり、「尾ひれ」がついてしまったと考えた方が筋が通りそうです。それを小野蘭山が聞きつけて自身の講義で披露したことで、弟子たちを経由してこの知見が広まった、そんなシナリオが考えられそうです。




さて、これだけでは文献相互の記述の成否を判断しているに過ぎません。地誌や郷土史を追求する立場としては、結局のところ当時の「はこねぐさ」の利用の実態に最も近い記述はどれなのかを選び出さなければなりません。「風土記稿」が記しているのは小野蘭山が箱根で取材し講義経由で伝えたものと考えられますが、これは現地での言い伝え以上のものではなさそうです。しかし、ケンペルが書き残したところから、元禄の頃から既にこの草の薬効は箱根で知られていたと見るのが妥当なところでしょう。

そして、それぞれの文献の成立事情を考えると、箱根に長期に滞在して編纂された地誌である「七湯の枝折」に記されている腫れ物に用いる用法が、同地で知られていた薬効としては最も近いものの様に思えるのですが如何でしょうか。この薬効については、小野蘭山の講義を何処かで聞いてこの草のことを知っていたと思われる「東雲草」の著者も、薬効そのものについては「七湯の枝折」と共通している点がその裏付けになり得ます。ただ、小田原藩士が記した「木賀の山踏」では「毛生え薬」にされているところを見ると、その薬効はあまり広く知られているものではなかったのかも知れません。

もっとも、小野蘭山がこの言い伝えを広めていなかったら、恐らくこの草がこれほど注目されることもなかったと思われ、ひいては「風土記稿」にこの草のことが記されることはなかったとも言えそうです。「七湯の枝折」にしても、この草を産物の冒頭「山椒魚」の次に挙げている点からは、この草が世に良く知られた存在であることを意識した結果と思われ、その評判はこの小野蘭山の講義経由のものであったとも考えられます。

また、日本での「はこねぐさ」を巡る知見は上記で見た様な「ブレ」を生じるものの、ケンペル自身がその標本を箱根で採取し、「はこねぐさ」の名とともに記録したこと自体は、今でもその著書と標本で確認できる紛れもない史実です。現在は「ハコネシダ」と呼ばれる様になったこのシダ植物について、過去の記録を遡って見る上では、彼が遺したものが重要な手掛かりの1つであり続けていることには、変わりがないと言えるのです。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」に記された「石長生」と「慊堂日暦」(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から「関連記事」としてリンクした記事は、この一覧を出発点として記事を書いたものばかりではなく、別件でまとめた記事をそのままリンクしているものも含まれています。足柄下郡の「石長生」もその1つですが、ケンペルの「江戸参府旅行日記」についてまとめた際のごく短い記述のみで、他の産物について書いた記事に比べると物足りない文量に留まっていました。

今回、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」を点検していて、このケンペルについての記述があるのに気付いたことで、「風土記稿」の「石長生」について改めて取り上げてみる気になりました。今回はどちらかと言うと試論と言うべきもので、更に妥当性を検証しなければならない話になりますが、私のメモとして公開します。


まず、例によって「風土記稿」の記述を確認します。
  • 山川編(卷之三):

    ◯石長生足柄下郡箱根宿の邊に產す、元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦人產前後に用て殊に効ある由いへり、是より箱根草と呼べり、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯石長生、箱根宿の邊に產す、元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦人產前後に用ゐて、殊に効ある由いへり、是より箱根草と呼べり、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)

山川編と足柄下郡図説の記述は、ほんの些細な送り仮名等の違いを除いて全く同一です。一方、箱根宿の項には

產物に山生魚及箱根草等生ず、

(卷之二十七 足柄下郡卷之六より、強調はブログ主)

とごく僅かな記述に留まっており、「石長生」の名もなければ「紅毛人」に関する示唆もありません。

Adiantum monochlamys hakonesida01.jpg
箱根草(ハコネシダ:Adiantum monochlamys、再掲)
("Adiantum monochlamys hakonesida01".
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.)
この草は現在は「ハコネシダ」と呼ばれています。ハコネシダについて「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)では

Adiantum monochlamys D.C.Eaton

常緑性、根茎はごく短くはい、茶褐色披針形の鱗片をもつ。葉身は3回羽状、小羽片は扇形で、辺に鋸歯がある。胞子嚢群は小羽片のくぼみにつく。本州(青森県を除く)、四国、九州; 朝鮮、中国、台湾に分布する。岩場や崖地に生育する。県内では三浦半島、丹沢、箱根、小仏山地に分布する。

(上記書46ページより)

と記しており、本種が箱根に限らず東アジアの比較的温暖な地域に幅広く分布する種であることがわかります。また、神奈川県内に限っても箱根だけで特異的に見られる種ではなく、西部の山岳地帯や三浦半島の丘陵部で見られるとしています。

神奈川県植物誌2001」では江戸時代の由緒について特に触れていませんが、「新牧野日本植物圖鑑」(牧野富太郎原著 大橋広好、邑田仁、岩槻邦男編 2008年 北隆館)では

4472. ハコネソウ(ハコネシダ、イチョウシノブ) 〔いのもとそう科〕

Adiantum monochlamys D.C. Eaton

本州以南の暖地の山中の崖、岩面等に生える常緑性の多年生草本。根茎はかたく短くはい、密に暗紫褐色から褐色でつやのある鱗片がついている。葉は接近して数本生え、葉柄は葉身とほぼ同長、約10〜15cm、光沢のある黒褐色の針金状でかたく、またもろく、基部には根茎と同様な鱗片がつく。葉身は卵状披針形、先端は鈍形、2〜3回羽状複葉となり、洋紙質で淡緑色、ことに芽立ちは赤紫色を帯びて美しい。羽片も葉身と同形であり中軸と羽軸とは共に黒紫色で光沢がある。裂片は倒心臓状三角形で下半部はくさび形で、イチョウの葉を小形にしたような形で扇状に広がる脈があり、基部には短い柄を持つ。上側のふちには細かいきょ歯があり、その中央が少し凹んだところに反り返った褐色の包膜に包まれて下面に胞子嚢群が1裂片に1個つく。〔日本名〕箱根羊歯及び箱根草は神奈川県箱根山で徳川時代中期に来朝したケンフェルが採集し、産前産後の特効薬といった事から当時の本草学界で注目されてこの名ができた。またケンフェルがオランダ使節の随員であった関係から「オランダソウ」の名もできた。イチョウシノブの名は裂片がイチョウに似ているからである。古く文雅の人達はこの葉の勢いのよいものを選び裂片だけをちぎってとり去り残った葉柄と羽軸とをたくさん束ねて小箒にしたのを玉箒といって机上用に愛玩したものである。全草を民間薬に使うことは上述のケンフェルから始まった。

(上記書1118ページより、強調はブログ主)

と、一般に用いられている「ケンペル」の読みとは異なっているものの、ハコネソウの名の由来がケンペルに依っていることを指摘しています。もっとも、牧野富太郎の編纂した植物図鑑にハコネソウの名が登場するのはこの「新牧野」が最初の様で、この指摘が牧野自身による文献調査によったものか、それとも他の近世の本草学などの研究者の指摘に従ったものかはわかりません。

因みに、ケンペルが箱根から持ち帰ったハコネシダの標本(リンク先PDF)は現在も保管されていますが、命名者のDaniel Cady EatonはアメリカYale大学の植物学者で、彼が命名に際して典拠にした標本がこのケンペルのものか、それとも他の標本かは確認出来ませんでした。

「七湯の枝折」産物の図1
「七湯の枝折」産物の図より「筥根草ノ図」(左)
原図は彩色(沢田秀三郎釈註書より:再掲)
今度は江戸時代の各種文献の記述を確認してみましょう。まず「風土記稿」の編纂に際して参照したと思われる「七湯の枝折」(文化8年・1811年)では

筥根草ノ図(石長生(はこねさう)

筥根山中に生すすへて湿瘡るいニ此悼を煎じて蒸しあらヘバ邪毒を去りかわかすとぞ茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく至て美事也是をすきや箒木に結ハせて用るに甚タ雅なる者也

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 69ページより)

と、ここでは「石長生」の名が見えますが、「紅毛人」についての記述はありません。これに対して、「東雲草」(文政13年・1830年)では

はこね草

むかし此辺此草の能うを知らす。紅毛人(オランタシン)これを教と、彼国にてはカステーラヘンネシスーと云、腫物切疵に此草を生うにても亦黒焼にても胡麻の油に和く用ゆ誠妙也、一株大抵三四十本ほと茎は黒赤し、細き針かねに似る、そのたけ三四寸より八九寸に至る、岩上に生うす採る事土用中

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集」神奈川県図書館協会編 1969年 348ページより)

と、こちらは「石長生」の名はないのに対して「紅毛人」を「オランダ人」として紹介しています。因みに、この「カステーラヘンネシスー」については次の様に別の植物の学名が誤って伝わっていたとする指摘があります。

⑦『物品識名補遺』, 水谷豊文, 文政8年(1825)刊。

…みずごけ[コケ]:「へんねれす(➡③) =ぬりとらのお異名」(注4),…

(注4)『園芸大辞典』(誠文堂新光社)の「はこねしだ」項への牧野富太郎補注に,「ケンペルはハコネシダ(ハコネソウ)をホウライシダ Adiantum capillus-veneris と間違えていた。そこで, ハコネシダを「カッペレ草」「ヘンネレス」とも呼ぶ誤りが生じた」旨の記述がある。実際,『嘉卉園随筆』(1750年頃成立) の「箱根艸」項には「箱根艸 ....蛮名カツテイラ, 又ヘンネレス, 或はカツペレソウ」とある。しかし, それがヌリトラノヲの異名に転じた経緯は, まだ明らかではない。

(「日本博物学史覚え書XIV」磯野直秀 2008年 「慶應義塾大学日吉紀要・自然科学 No.44」所収 118&120ページより、…は中略、ひらがな・カタカナの濁点やスペースは適宜置き換え、リンク先はPDF)

「神奈川県郷土資料集成 第6集」では「東雲草」の著者である「雲州亭橘才」について「冊尾に主として俳句を掲載しているから橘才は俳人か。」(316ページ解題)と判じているのですが、こうした知識を併せ持っていたとなると、あるいは本草学などの学問を何らかの形で修めていた人なのかも知れません。とは言え、「カステーラヘンネシスー」と「capillus-veneris」では学名が多少変形してしまっているのは否めませんので、どの程度確乎とした知識を有していたのか、些か疑問を感じる点も残っています。

また、「木賀の山踏」(天保6年・1835年)では宮の下での湯治を終えた帰路の途上、塔ノ沢で

明れは卯花月朔日と也ぬ。…

夫より塔の沢にいたりぬ、此辺箱根草多し黒焼にして毛生薬とす又岩菜もあり。

(「神奈川県郷土資料集成 第6集」422&423ページより、…は中略)

と「箱根草」を「毛生え薬」と書いています。著者の竹節庵千尋は小田原藩士ですが、「七湯の枝折」や「東雲草」とは効能についての認識がかなり異なります。

倭漢三才図会卷98「石長生」
文政7年「秋田屋太右衛門」版の「倭漢三才図会」より「石長生」(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
では、本草学の書物の記述はどうでしょうか。まず、「和漢三才図会」(正徳2年・1712年成立)では「石長生」の項に次の様に記されています。

石長生

かつへらさう/へねれんさう/シツチヤンスエン

丹草/丹沙草

俗云加豆閉良草/又云閉禰連牟草

本綱石長生石巖葉似而細如龍須而澤勁莖紫色高尺餘不餘草(マヂハラ)四時不

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、表題の順序を適宜入れ替え、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現)

「かつへらさう」「へねれんさう」の呼称は上記の「嘉卉園随筆」の「蛮名カツテイラ, 又ヘンネレス, 或はカツペレソウ」に通じるものがあります(次の「加豆閉良草」「閉禰連牟草」はこれを漢字に置き換えただけですね)。しかし、挿絵に描かれた姿、そして「蕨に似ている」「色はヒノキの様」と記す特徴は、現在ハコネシダと呼ばれている植物の特徴とは合いません。特にハコネシダのハート型の葉の形が写されたにしては、あまりにも特徴が違うのが気掛かりです。そして、この記述の中では箱根や「紅毛人」に関しては触れられていません。「和漢三才図会」の巻ノ九十八は「石草」と副題が付けられ、シダ類の様に「石に生える草」が収められているのですが、この章の中にハコネシダに相当すると考えられる草は収録されていませんでした。

「大和本草」(宝永7年・1709年成立)でも「石長生」の項には

石長生(シノフクサ) 莖黑く或紫色細莖なり葉似又似四時不石岩又生山陰高尺許今按本草弘景時珍所説の石長生の形狀よくシノフに合へり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名と漢文の送り仮名を除きカタカナをひらがなに置き換え)

とあり、形状についての記述はほぼ「和漢三才図会」と共通です。そして、こちらには「シノフクサ」という和名のみが記され、「かつへらさう」や「へねれんさう」といった、「紅毛人」由来と思しき記述は一切ありません。時期的には「大和本草」の方が「和漢三才図会」よりもやや早く成立したことになりますが、どちらも中国の本草書を参照しているので、「大和本草」と「和漢三才図会」との間に直接の参照関係があるとは一概に言えないところです。

そして「本草綱目啓蒙」(口述:文化年間頃刊行)では

石長生

ハコ子グサ  オランダサウ武州[ヲランダばなしと云双子本にあり咄本]

クロハギ加州  ヨメノハヽキ江州

ヨメガハヽキ新挍正  ヨメガハシ甲州

イシヽダ駿州  ホウヲウハギ同上

イチヤウシノブ阿州 イチヤウグサ伯州

〔一名〕丹陽草本草原始

幽谷石上に生す春新葉を生する寸紅色にして美し一科に叢生す莖の高さ一二尺[許]黒色にして光りあり漆の如し上に枝义多く分れ义ごとに一葉あり形三角にして鴨脚(イチヨウ)葉の如し大さ三四分深緑色秋に至れば葉背の末に一つの小褐片を生す即其花なり葉冬を經て枯れず[春に至り新葉成長して旧葉枯る]已に落葉する者は枝を連て束て箒とす タマバヽキと名く然れとも甚脆くして折れ易し此草元祿中紅毛人相州箱根に於てとり得て産前後に殊効ありと云るに因てハコ子グサと名く然れとも箱根に限らず諸州山中に多し

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名を除きカタカナをひらがなに置き換え、手書きの追記は[]内に記した、強調はブログ主)

本草綱目草稿冊2p02-152(石長生)
「本草綱目草稿」より「石長生」の記述(右ページ中程)
本の喉に近い辺りに「紅毛人」に関する記述が見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

本草図譜巻33「はこねそう」
「本草図譜」(天保〜弘化年間)より「はこねそう」
前ページの解説は基本的に「本草綱目啓蒙」と一緒
一種として「ぬのとらのを」を挙げ
その異名として「カツヘレサウ」などの名を併記する
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
と、ここでは石長生が「はこねぐさ」や「おらんだそう」等の名で呼ばれていることを、他の多くの異名と共に掲げていますが、上記で出て来た「かつへらさう」「へねれんさう」や「しのふくさ」の名称は取り上げられていません。形態の描写はハコネシダの特徴を良く捉えており、まだシダ類が胞子嚢で増える知識がなかった時代故にその名を用いていないものの、秋に葉の裏に褐色の小さなものが出来ること、それがこの植物の「花」であると記しています。そして、ここでは「紅毛人」が元禄年間に箱根で採取したこの草を婦人の産前産後に用いたと記しています。但し、著者の小野蘭山はこの草が箱根以外の地でも普通に見られるものであることに気付いていた様です。この後に「石長生」の一種として越後の「カラスノアシ」などの種を列記していますが、上記の引用では省略しました。

この「本草綱目啓蒙」の元となった小野蘭山の講義原稿ノートである「本草綱目草稿」の該当箇所を右に掲げました。この箇所も御多分に漏れず判読の困難なメモ書きになっていますが、「紅毛人」に関する記述は中央の本の喉(綴じ部)近くに書き込まれています。この書き出しに「土人曰く」と記されていることからは、蘭山自身はこの話を箱根の地元の人から伝え聞いたことになりそうです。

少なくとも、年代順からはこの「本草綱目啓蒙」で取り上げられた「石長生」に関する記述が、以後の「東雲草」あるいは「本草図譜」などの記述に影響を与えている可能性が高く、「風土記稿」の記述もその点ではこの「本草綱目啓蒙」の系譜に入ると言って良いでしょう。しかし、こうして見て行くと、ハコネシダに関する江戸時代の見解が必ずしも安定していないことが窺えます。今回は特に各種文献からの引用が多くなってしまいましたが、これらと「慊堂日暦」の記述がどう関係するのかについては、長くなりましたので次回に廻したいと思います。

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