「鉱物」カテゴリー記事一覧

神奈川県の「県の石」

先頃5月10日に、日本地質学会(以下「学会」)が全47都道府県の「県の石」を公表しました。


確かにこれまで都道府県のシンボルとしては花・木・鳥が中心で、他にシンボルカラーなどを制定している所もありますが、石をシンボルとして制定している都道府県はこれまでありませんでした。同学会の創立125周年に向けての記念事業の一環で、2014年から公募した候補から学会で組織した選定委員会が検討して選定したものとのことです。

全47都道府県それぞれに石・鉱物・化石の3部門で、その県に特徴的に産出する、あるいは発見されたものを選出しているため、全部で141種に増えています。敢えて3部門に分けている辺りに、学会としての拘りを感じます。神奈川県では
  • 県の石:トーナル岩
  • 県の鉱物:湯河原沸石
  • 県の化石:丹沢層群のサンゴ化石群
選定されました。


「トーナル岩」については以下の2つの博物館のサイトの説明がわかりやすいかと思います。

うち、「神奈川県立生命の星・地球博物館」のサイトで読めるものは「かながわの自然図鑑① 岩石・鉱物・地層」(神奈川県立生命の星・地球博物館編 2000年 有隣堂)の内容と同一です(15ページ)。なお、同書は今年2016年に改訂を施した新版が出版されていますが、今のところ私は未見です。旧版や上記サイトでは丹沢のトーナル岩の年代を「700万年前」としていますが、日本地質学会のサイトでは最近の測定結果に基づいて「500~400万年前」としており、この石が形成された過程も「丹沢が本州に衝突してからできた岩体と解釈されている」と解説していますので、新版ではこの点が書き替えられているかも知れません。ただ、丹沢山地が当初は島であったものが後に本州に衝突する過程を示す石であるという点には変わりはありません。


「湯河原沸石」が産出する「不動滝」の位置
(「地理院地図」)
「湯河原沸石」は地質学会によれば神奈川県内の地名を付された唯一の鉱物ということで、鉱物と産地が湯河原町の天然記念物に指定されています。湯河原の不動滝は温泉街に近い観光スポットの1つで、人が容易に入っていける場所に産地があるのも特徴と言えるかも知れません。


丹沢山地で見られるサンゴ礁の化石も、トーナル岩と同様に丹沢山地がかつては南の海にあったことを示すものであると言えます。


選定されたこれらの「県の石」を見ていると、少なくとも神奈川県の場合は地形の成り立ちを説明する上で鍵となるものが優先的に選ばれた印象があります。他の都道府県についても同じことが言えるかどうかは一概には言えませんが、少なくとも神奈川県の「県の石」は地質や地学の専門家としての見識が示された選定であるように思えます。

その分、根府川石や真鶴石、あるいは南足柄市の天然記念物になっている矢倉沢の蛤石などが選に漏れており、その土地の史料に見える石が入らなかった嫌いはあります。古くから知られていたり利用されていたことが記録に残るものであっても、その土地固有のものであったり地学的に特異なものと言えるかという点で、他に勝る石があったということになるのかも知れません。無論、この点については学会からのコメントにもある様に、シンボルとして選ばれなかったものにもその土地の地質や成り立ちなどを語る上で重要なものもあることは言うまでもないことです。私も今回の選定に異存がある訳ではありません。

ともあれ、今後これらの「県の石」が果たしてどの程度世間に認知されるかが課題でしょう。最近はジオパークなどの形で地学への関心を高めようという動きが大きくなってきていますので、そうした動きの中でこれらが有効に活用されて浸透していくかが鍵かと思います。
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12/09の大涌谷の火事に関連して

久々に時事ネタに絡めて手短にいきます。一応史料も使いますが。

12/09の夕刻辺りからtwitter上で箱根の定点カメラの映像が流れ出しました。

最初は映像を見ても何処が燃えているのか良くわからず、最近懸念されている大涌谷付近の火山活動ではない様だったので、付近の温泉場の火事かなと思っていましたが、やがて大涌谷の辺りで火事になっているらしいことが明らかになりました。実際に火災であったことがわかったのは20:45頃の次の報道で、この時にはまだ出火原因不明ということでした。

出火原因については翌日夜になって、大涌谷の温泉供給施設のメンテナンスに立ち入った業者の煙草の不始末が原因かも知れない、という報道が流れました。

まだ業者が事情聴取で話したということだけで確定ではない様ですが、これを見て私が思い出したのが、「東雲草」(雲州亭橘才著 文政13年・1830年)の明礬精製の箇所です。この部分は以前明礬や硫黄について紹介した際にも引用しました。因みに、大涌谷は明治時代に改名される以前は「大地獄」と呼ばれていました。

大地獄と云ふは此所より二里余隔り姥子の湯場より上る事也、此所へ行んには、たはこくち何にても火早きものを禁シする也、その麓にてめうはんを制す

土をほり水道のことくこしらへけふりのほのほのもれさるやうに、水道をくゝらせ、ふもとに畑をしつらひ、その水道を八方へ行、そのうへに砂を五寸ほと盛立、日かす五日も過る頃、絹針の如く□□それを合図に砂を俵に入来り、灰汁にかきませその汁をたらし□□詰る也、おほむね塩をやくと同し心也、硫黄は□くるみ灰汁にませしほりたらし、煎しつむる湯の花は細きなかれへなかれ来る笊やうのものにてすくひ日にて制す

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成第6集」338ページより、強調はブログ主)


元よりこの地域では硫黄が溜まったりしやすいので、火薬の原料にもなるものの中で火を扱うことは当時厳禁だった訳です。今回の火事が証言の通りなら、皮肉にも江戸時代の禁制の意味が目に見える形で明らかになってしまったことになるでしょう。

今でも立入り規制が解かれていない大涌谷周辺、結果的には火山活動に繋がる動きではなかったという点では一安心ではあるものの、その原因については些か残念なことになってしまいました。
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『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』の補足など

今回は以前の記事の簡単な補足を。

以前『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』を書いた際に、twitter上でこんなやり取りをしていました。


この際のツイートが一昨日になってリツイートされたりtogetterでまとめられたりしたのを切っ掛けに、私も改めて以前書いた自分のブログの記事を読み返しました。この記事をまとめた折にはまだ「第1回内国勧業博覧会」の出品目録が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているのに気付いていなかったので、引用した文献の内容をソースに当たってみるという作業をしていなかったのですが、今回読み返すに当たってはそれら出品目録もチェックしてみました。

該当する箇所を書き出してみます。
  • 礦石 (一)相摸國足柄上郡谷ケ村 ◯砥石 (二)靑色 
    (平山村 古瀨左十郎
  • 陶土 (一)薄靑色、大住郡戸川村 (二)白色 (三)アヅキ色 ◯砥石 (四)薄靑色 
    (仝村 桐山金藏
  • 砥石 (一)荒砥、武藏國多摩郡五日市村 
    (仝村 平山藤吉
  • 砥石 (一)淡黑色相摸國愛甲郡小野村 
    (仝村 小瀨村三司
  • 砥石 (一)剃刀砥、津久井郡吉野驛 
    (仝驛 吉野十郎
  • 砥石 (一)荒砥小淵村中村榮助 
    (仝村 中村吉間多

(以下出品目録引用は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


この出品目録は出品者単位でまとまっているにも拘らず、掲載順序が出品物によって分類されており、同一人物が複数の出品を行った場合に、そのうちの最初の1つに合わせて分類されるという順列になっており、特定の出品物に関して出品者を探そうとすると、他の場所も探しに行かなければならないという、少々厄介な構成になっています。ただ、神奈川県から出品された砥石については、その後の追加分も含めて確認した限りでは、この6点ということになりそうです。

これに対し、以前の記事で引用した文章では「秦野市戸川、厚木市小野、相模原市藤野町、山北町谷ケ、川崎市中原区」と一覧が記されていました。このうち、津久井郡吉野駅と小淵村はどちらも相模原市藤野町(当時、現:相模原市緑区吉野・小渕)に属していますので、最初の4地点については上記の引用中の5町村と照合出来ます。しかし、最後の「川崎市中原区」に該当する村(何れも橘樹郡に属する小杉村、上丸子村など約20ヶ村)からの出品は記載されておらず、代わりに現在東京都あきる野市域に当たる「多摩郡五日市村」の出品が記載されています。

この点について、引用した記事を執筆された生命の星・地球博物館学芸員の田口公則様にメールで確認させて戴いたところ、御自身でもこの一覧を確認されて疑問を持たれたものの、私信でやり取りをした際に中原区の名前がとある文献(失念されたとのこと)に掲載されていたと指摘を受けて、引用した様な表記とした旨のご回答を戴きました。

この出品目録は限られた期間に受け付けた出品物をかなり限られた時間内に出版物とするために、後日に補遺を2度にわたって出版し、更に正誤・出品取り消し等の修正一覧を最終巻にまとめるなど、相当に慌ただしい編集を経て世に出たものです。従って、目録に出品物の遺漏のあった可能性がないとは言えないのですが、その出典が果たしてどの様な性質のものであったのか、砥石が出るのが珍しい土地であるだけに気掛かりです。


五日市の位置(「地理院地図」より)
五日市ということであれば、ここは秋川渓谷の麓に当たる地であり、奥多摩の山地南部に当たります。この地域の地質図(リンク先PDF)ではこの地域の地質は砂岩や凝灰岩の地層から成っている様です。「内国勧業博覧会」の出品目録では五日市村の砥石に「荒砥」と記されていますが、これには目の粗い砂岩や凝灰岩が主に用いられることと考え合わせると、確かに地質の特徴と合いそうです。


これだけでは物足りないので、「内国勧業博覧会」出品目録から別の話題を取り上げてみます。

こちらのページの左上には「銕砂」という表記が見えます。
  • 銕砂 (一)三浦郡金田村(二)秋谷村 
    (金田村 菱沼三郎兵衛
  • 銕砂 (一)鎌倉郡極樂寺接地七里ヶ濱 
    (大鋸町 森小十郎
  • 銕砂 (一)公鄕村字猿(島誤植ヵ) ◯白土 (二)字馬門 
    (仝村 石渡忠八

この一覧で「銕砂」が何のことかお気付きになった方もいらっしゃると思います。砂鉄のことですね。七里ヶ浜の砂浜が砂鉄を多く含んでおり、かつてはこれを研磨剤に使っていたことは以前紹介しました。


横須賀市秋谷の位置

三浦市南下浦町金田の位置

「内国勧業博覧会」ではこの七里ヶ浜の他、三浦半島の金田村(現:三浦市南下浦町金田)、秋谷村(現:横須賀市秋谷)、そして猿島(現:横須賀市猿島)からも出品されています。これらの出品者が具体的に何処で砂鉄を採集したのかは不明ですが、何れも海岸に砂浜が伸びる地であり、七里ヶ浜とも近いこともあって何らかの相関性を考えたくなるところではあります。確かに今でも三浦半島の砂浜では砂鉄が多い箇所が多く、砂浜が黒っぽいのが七里ヶ浜と共通する特徴となっています。

この相模湾や東京湾岸の砂鉄については、1950年代の研究論文がPDF化されて公開されているのを見つけました。その後の研究が存在するのかどうかは不明ですが、これに従えば、比較的近い地域から海岸付近に運ばれ、それが海岸付近の湾流や風の作用で砂浜に堆積したものということになる様です。こうした作用が古くから存在したのであれば、七里ヶ浜がかつて砂鉄の供給地であったのと同様、三浦半島に点在する砂浜も、あるいは中世には同様に砂鉄の供給地として機能していたのかも知れません。
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「新編相模国風土記稿」の産物:鉱物類のまとめ

ここまで、「新編相模国風土記稿」の各郡の産物山川編の土産の中から、鉱物に属するものをひと通り見てきました。書いてきた記事を改めて掲げると以下の通りです。順序を「各郡の産物」の出現順→「山川編」の出現順に並べ替えてみました。


ここまで見てきたことで何が言えるかを少しまとめてみたいと思います。



「新編相模国風土記稿」で鉱物類の産品が紹介された村々
鉱物類の産品が取り上げられた村々

Googleマップ上でここまでで取り上げられた村々をプロットしてみました。一見してわかる通り、何れも相模川の西側に位置しており、大磯を除いて全て箱根・丹沢の山岳地帯に集中しています。大磯の砂利にしても、元は酒匂川流域から流れ出たものが湾岸流によって同地に流れ着いたものですから、実質的にその全てが箱根・丹沢の山々に由来するものであると言えるでしょう。

ただ、ここで気を付けなければいけないのは、「風土記稿」に記されなかった村々の中にもこうした鉱物を産出するところがあったという点です。例えば、「砥石」の話では明治時代の内国勧業博覧会で戸川村以外の砥石が出品されたことが紹介されていましたが、時期的に見てもこれらの村々が明治時代以前から砥石を産出していた可能性は高いでしょう。

また、鎌倉では同地に幕府があった頃から「鎌倉石」が周辺の山から切り出されて鎌倉の都市建築に使われており、今でも同地の寺社仏閣などにその名残を見ることが出来ますが、当然江戸時代にもその産出は続けられていました。しかし、「風土記稿」では十二所村の小名に「石切場」の名が見える(卷之九十三 鎌倉郡卷之二十五)程度で、鎌倉周辺の石切場が江戸時代に稼働していたことを示す記述は見当たりませんでした。元より「風土記稿」では鎌倉郡の記述について

鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

(首卷・凡例、雄山閣版より、)

と、他の郡に比べて記述が浅いことを指摘しており、その影響が産物の記述に現れた可能性もあります。しかし、「風土記稿」に記されなかった江戸時代の石切場としては、「鎌倉石」の他にも例えば愛甲郡七沢村(現:厚木市七沢)の「七沢石」があるのですが、「風土記稿」の七沢村の項にはやはりこの石切場の存在については記述されていません。この「七沢石」は「鎌倉石」同様、堆積性の岩の一種である凝灰岩質であり、比較的柔らかく加工しやすく、主に周辺の農村で石碑や石臼などに用いられていました。こうした例を踏まえて考えると、やはり硬度の高い火山性の石材が相模国の産品として選択されて「風土記稿」に記載された、ということになるでしょう。

その点で、「風土記稿」の各郡の産物や山川編の産物の一覧は、その「質」をある程度意識して選択されたものである、ということが言えそうです。



一方、これらの産品が何処に運ばれてどの様に消費されていたか、という問題についても可能な限り考えてみました。その点で江戸向けの流れが比較的はっきりと読み取れたのは、明礬と石材ということになるでしょう。特に明礬は江戸の商人が箱根での明礬精製を始めたことや、江戸の明礬問屋の存在が浮かび上がったことで、結果的には全量が箱根から江戸へ運ばれていたことになります。石材も風祭村の石切場が廃されたことを見ても、地元の小田原での消費よりも江戸向けの輸送が意識されていたことが見えてきます。


小島本陣が大磯の砂利を献上した先には
京都・知恩院の大僧正の名前も含まれていた
大磯から持ち込まれた砂利は
庭園の何処に撒かれたのだろうか
(知恩院境内のストリートビュー
これらに対して、大磯の砂利は小島本陣によって宿泊した大名や大奥、寺院に献上されていた実情を見ましたが、大奥を中心にその多くは江戸の屋敷で使われた可能性が高いものの、寺院をはじめ他の地域へと運ばれたと思われるものもあり、その点ではより広域に分散して流通していた面があるのかも知れません。また、化石・牡丹石は賞翫目的なので基本的に町民向けと考えられますが、木内石亭が関西の人であった様に、愛好家は意外に全国に分散して存在していたことが窺え、必ずしも江戸に集中していた訳ではない様です。

金銀や砥石、燧石については、「風土記稿」編纂時点では既に産出されなくなっていたり、産出量が少ないために近隣での消費に限られている旨記されています。こうしたものが敢えて相模国の産品として「風土記稿」に記されたのは、やはり質の良さに着目されたからなのでしょう。それだけの評判であれば、江戸まで運ばれることはなかったにしても、小田原の城下で使われていた可能性も考えられそうですが、何れにしても流通範囲が狭かったのは確かな様です。


草津温泉の「湯畑」(ストリートビュー
残念ながら箱根には この草津の様な
江戸時代の湯の花精製の施設が残っていない
こうした流通先があまりはっきりしなかったのが硫黄と湯の花でした。硫黄については当時硫黄問屋が江戸にあった一方で、都夫良野村の花火製法の記録から同地へも直接運ばれていた可能性があること、小田原藩が鉄砲稽古などで必要とする火薬用にこの硫黄を焔硝と共に使っていた可能性を見ましたが、どちらにどの程度の量が運ばれていたのかまでは明らかになりませんでした。湯の花は地元の土産物として販売されていた記録はありますが、草津温泉の湯の花が江戸の薬種問屋に卸されていた記録があることを考えると、箱根で採取された湯の花も一部は江戸へ送られて販売されていた可能性も考えられます。しかし、その裏付けとなる史料などを見出すことは出来ませんでした。

こうした事例を見ていくと、江戸時代にあって江戸は確かに一大消費地として様々な物資が送り込まれる地ではあり、特に石材については江戸時代初期に臨時に多数の石切場を設置して対応する程の量が送り込まれる例はありましたが、個々の品目毎に見た時には必ずしも江戸に集中する様な物の動きばかりではなかったことが浮かび上がってきます。勿論、その辺りの状況を考える際にはどの程度の量の物資が移動していたかを移動先毎に見て行く必要があり、そのために必要な統計的な記録はごく限られている現状では可能性を示唆する以上のことは出来ませんが、主要な品目の江戸への流れだけではなく、それ以外の地域への物の動きにも、時には目を向けるべきなのかも知れません。



今回一連の記事を書くに当っては、地質図をはじめ現在観察できる地質上の特徴を多分に考慮することになりました。それは鉱物類がその土地から生じるものを産品とすることが本質である以上当然なのですが、江戸時代から現代までの高々数百年程度の時間の流れの中では、その間に大きな地殻変動が生じたりすることがない限り、あまり大きく変化することがないため、当時の様子を現代から振り返る上では文字通り現地から動かない証拠として使える「史料」であるとも言えます。この点はこの先農産物などについても同様の考察を試みる際には、現状が当時からかなり大きく変わってしまったものが増えてくるため、他の品目にはない特徴であったと言えるかも知れません。

近代に入ると、明礬を皮切りに次第に輸入品や代替品に取って代わるものが増え、現在「風土記稿」に記されているものの中で引き続き生産が続けられているものは随分と限定的になってしまいました。その様なこともあり、「風土記稿」に挙げられた産品の中には、現在では当時の実情が必ずしも十分に明らかにならなくなったものもかなり多くなっています。しかし、当時はまだ現代の様な地質学的な知識があった訳では必ずしもない中で、その土地の地質やそこから湧き出る温泉の質などを見極め、様々に活用する当時なりの「(すべ)」を持っていたことは確かで、出来ることなら少しでも埋もれてしまったこれらの術を少しでも掘り起こしていくべきなのでしょう。

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足柄下郡の「石」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回は「新編相模国風土記稿」に産物として記された「石」について、その名称の多さを箱根山の地質と照らして考えてみました。今回はその歴史を追ってみます。

こうした箱根山の石が古い時代から活用されていたことは、関東南部の中世の石碑の中に小松石を用いているものがあることでも明らかです。「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」によれば、

ここで挙げた(注:中世の石塔の)関東形式の特徴を備えた石塔の石材は、箱根山の火山活動によって生成された安山(あんざん)岩で、小松石と呼ばれるものである。このことは、箱根地方から切り出した安山岩を使用して石塔をつくっていた石工(いしく)の集団があり、彼らは一つの形式、すなわち、関東形式と呼ばれる特徴をもつ石塔をつくっていたことになる。そして、その分布範囲は、相模国全域と武蔵国南部および房総半島の東京湾側(内房地域)であると確認することができる。小田原市域を含む西相模の地も当然この分布範囲に入ることになるが、石材供給地に近いことから、関東形式の石塔の成立過程にかかわった石塔も存在する。

(同書384ページより)

つまり、中世には既に、箱根・小田原周辺だけではなく、関東平野南部に石塔に加工された箱根山の石が運び出される流通ルートが確立していたことになります。また、中世に盛んに作られた板碑のうち、相模型と呼ばれるものは安山岩製で、中には根府川石など箱根で産出したことが明らかなものも含まれています(「小田原市史 通史編 原始古代・中世」406〜409ページ)。先ごろ小田原城内の御用米曲輪の発掘調査では、箱根の安山岩製の14世紀の板碑が見つかったことが報道されました(「14世紀「板碑」が出土、小田原城址・御用米曲輪の発掘調査」神奈川新聞 2014年4月9日報道)。

石材の供給地として有望だったため、この地にはその石材を目当てに移住してくる者もいた様です。「風土記稿」板橋村の項には、「舊家石屋善左衛門」の由緒が、雄山閣版では第2巻の47ページ下段から50ページの下段の長きにわたって綴られています。ここでその全てを引用する訳には行きませんが、由緒を示す古文書を引用している箇所を外し、主だった所を拾ってみます。

由緒書寛延二年御勘定奉行神尾若狭守春英に捧し案書なり、に據に、其祖善左衛門は、甲州の浪士にて、駿州田中鄕に住し、田中を氏とす、此人石工を業とし、活計の爲關左諸州の山々に到り、釆石するを以て、各國の土風山川險易の地理に曉達せり、明應中北条早雲、小田原在城の頃、當所に移住し、石匠の棟梁となり、早雲所々出馬ごとに、其導引として扈從せり、且國々に配下の石匠多きをもて、隱密の軍務を命ぜしとなり、…又小田原城以下諸城修理の時は配下の鍥工を駈催し、土肥山小田原山邊の釆石をなさしめ、城垣を築成す、…(注:天正)十八年小田原落去の後、東照宮城内を歷覽し給ふ時、小田原石もて疊築し燄硝庫を上覽ありて、其工人善左衛門中興の祖、を召る、時に板倉四郎左衛門勝重、田中善左衛門と披露せしを聞し召れ、石屋善左衛門なりやと上意あり、是より後田中氏を廢して、石屋を以て家號とせり、慶長十六年、命に依て駿州小幡山にて釆石の時、…傳馬の御朱印を賜はり、今に藏す、…斯て善左衛門北条早雲已來の由緒を聞え上しかば、舊例に任ぜられ、關八州石匠の棟梁を命ぜられ、且月俸二口を賜はり、…又本多新八郎康俊奉りて、北条氏より與へし當所の宅地千八百十三坪、も賜れり、…慶長中江戸御城增築の時、善左衛門石匠を駈催して、東都に在留す、よりて日本橋邊にて宅地を賜ひ、方一町、今の小田原町是なりと云、關西諸國の石匠をも爰に置て御用を奉る、この頃江戸より小田原までの傳馬證文を賜はれり、…駿府御城普請の時も、駿豆相の三州より石匠を催し、御用を勤む、御入國の頃より寛永七年まで、四十年餘、善左衛門父子御用を奉れりと云、…斯釆石の御用繁多なりし故、別家靑木善三郎、及五味伊兵衞、中野彌三郎など云る輩を聞え上、江戸運漕の事をば、彼等に任せ、此三人の子孫、今江戸石問屋の烈に入れり、己は專ら當國山々に入、釆石の指揮をなせり、此頃江戸築地にて石置場をも賜りしと云、今の築地小田原町是なり、然るに中興善左衛門の孫善左衛門幼弱にして家を繼しをもて、伊丹播磨守康勝により、其職を辭せんことを願ひしに、父祖數年の功勞あるをもて、先規の如く、石匠の棟梁職、及當所の除地月俸は永く賜はり、日本橋・築地兩所の地所は返上すべき由、酒井雅樂頭忠世・土井大炊頭利勝等命を傳ふ是後當代に至て十四代、血統を以て相續し、舊例に任せ江戸に出る時は、帶刀を許さる、

(卷之二十六 足柄下郡卷之四、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、…は中略)


小田原・箱根板橋の旧東海道沿いに
石屋善左衛門が与えられた宅地があり
子孫の方が現在も同地で石材店を営んでいる
小田原城下に特に近い位置に宅地があることからも
北条氏の重用振りが窺える(ストリートビュー
甲斐国や駿河国で活動していた石工の棟梁が、戦国時代には北条氏が重用して石工として活躍する傍ら、地理に明るいことと石工のネットワークを押さえていたことを利用して諜報的な活動もしていた様です。小田原開城時にはその様な事情もあって身を潜めていた様ですが、小田原城の焔硝庫の出来栄えからその腕を認められて徳川家康に登用されて、江戸の築城を始めとする様々な普請に際して代々活躍したことが示されています。管轄した地域が広大なこともあって、特に駿府城など西側の普請に際しては必ずしも箱根の石が使われた訳ではない様ですが、江戸から小田原までの伝馬朱印状を預かっていたことからも、江戸での普請に際しては箱根から出る石が多用されていたことは間違いないでしょう。また、この伝馬朱印状をはじめ輸送に関する便宜が多々図られていることから見ても、石材を江戸まで運搬する手段に強い配慮があったことがわかります。当時の限られた輸送手段の中では、重量のある石材を江戸まで運ぶ手段を如何に確保するかが重要な課題であったことは想像に難くありません。

「風土記稿」ではこの他にも、根府川村の項で

◯舊家長十郎 廣井を氏とす、家系に據に、上總介平吉兼五代の孫、廣井太郎致房の次子重房の子重門、始て當所に住し、根府川太郎と稱す、承保二年八月四日死、…(注:戦国時代に至るまでの代々の名が連ねられ)其子太郎次郎重淸、或は氏を根府川とも稱す、天正十八年小田原の役に、北條美濃守氏規に屬し、豆州韮山城に籠り創を蒙れり、…小田原落去の後、遂に民間に下りしなり、…重淸の長子太郎重久は、小田原落城の時戰死し、次子重明家を繼り、…慶長中江戸御城御普請の時、釆石の御用を勤む、…其子長太郎重次、寛永中鶴岡一鳥居御建立、十二年江戸御城内御普請の時、釆石の御用を勤む、其孫宅左衛門重光、重光の子長十郎氏景、及今の長十郎も、釆石の御用を勤めしとなり、

(卷之三十一 足柄下郡卷之十)

と、地元に永く住み北条氏に仕えていた家柄の子孫が、やはり同地の採石を行うようになったことが記されています。他方、岩村の項では

古は土肥鄕に屬す、…相傳ふ小田原北條氏の頃、采石場の事により今の土肥鄕六村と數々爭論に及びしかば、土民等の願に任せ、土肥鄕の屬を除きしとなり、其證狀近き頃迄、里正が家に傳へしと云、

(卷之三十一 足柄下郡卷之十)

と、戦国時代に石切場を巡って土肥郷の村々と争論を繰り返した挙句、郷のまとまりから真鶴村・福浦村と共に袂を分かったことが記録されており、既に当時から石切場がその土地の経済を支える存在になっていたことが窺い知れます。

ここまでの引用でも既に江戸時代に入ってこの地の石が江戸や近郊の普請に際して多用された様子が記されていますが、こうした動きは足柄下郡を治めていた小田原藩も把握しており、その動向の一端が藩主であった稲葉氏の下で代々書き継がれてきた「永代日記」にも記されています。ここでは「小田原市史 史料編 近世Ⅰ
」に掲載された引用の見出しを編年風に書き並べてみます。
  • 慶安四年(1651年)八月 上野寛永寺修復につき根府川石が御用となる(396〜397ページ)
  • 明暦元年(1655年)九月 禁中造営御用として根府川石の提出を命じられる(419〜420ページ)
  • 明暦元年一二月 公儀御用の石は片浦より積み出すように幕府より指示がある(422ページ)
  • 明暦二年(1656年)七月 江戸木挽町海岸の埋め立てのために真鶴より石二〇〇〇を供出する(428ページ)
  • 寛文六年(1666年)十月 老中より熱海御殿の修復・石献上御用の通達を受ける(472ページ)
  • 延宝四年(1676年)九〜一〇月 伊達綱村の藩邸修築につき小田原・根府川の石を進上する(488ページ)

(ページ数は「小田原市史 史料編 近世Ⅰ」掲載箇所)


風祭・宝泉寺の位置
旧東海道沿いから少し入った辺りに位置する
江戸時代初期にはこの周辺に石切場があったという
明暦元年の3月には江戸で「明暦の大火」が起きており、「禁中造営御用」はその修築のためです。また、江戸城に限らず寛永寺や仙台藩の江戸藩邸の修築にも根府川の石が提供されており、江戸時代初期にはこうした石材の需要が途絶えることなく続いていたことがわかります。前回の「風土記稿」の引用の中には石橋村にや土肥吉浜村に尾張藩の石切場が、米神村には紀伊藩の石切場があったことが記されていましたが、これらも当時の一帯の石材が重用されていたことを裏打ちするものと言えるでしょう。

なお、風祭村にあった石切場が廃止されたのは、やはり海に面していなかったことが大きいでしょう。小田原に北条氏が本拠を構えていた頃には至近地でむしろ都合が良かったのでしょうが、江戸へ大量の石材を運び出す様になるとそれよりも一刻も早く船に載せられる海沿いの石切場の方が扱いが良くなった訳です。早川は水運を行うには水量が少なく、川底に石が多数転がっているために使えないことを考えると、風祭村から海岸まで交通量の多い東海道を経由して運び出すことになる点も、同地の石切場にとっては不利でした。

しかし、江戸時代中期に入ると江戸の普請が一段落し、それに伴って需要が落ち込んだことで石切場の数が減少するという事態になりました。「湯河原町史 通史編」では

しかし石切業も江戸の町作りが一段落すると共に衰えを見せる。元禄四年(一六九一)九月、岩村の上申書(『県史』資料編九)によると、「五、六〇年以前は石切場は数十か所、三八、九年以前から一八、九年以前は石がはやって、石切場が五六、七か所あって商売した。以来石ははやらず、石切場もだんだんと減り、現在は三、四か所」と、その実状を伝えている。

(同書237〜238ページ)

と、石切場の数が最盛期の1割以下にまで減った実情を伝えています。石切場を畳んだ村民はその後漁師として身を立てていく者が多かった様です。また、最近になって発掘された「石橋石丁場群玉川支群」(リンク先PDF)の様な石切場跡も、江戸城の普請が盛んだった頃にのみ稼働していたと考えられており、「風土記稿」に記載されなかった村々でも石切場が多数あったものが江戸の普請が縮小する過程で次第に廃止され、「風土記稿」作成時点では稼働する石切場が無くなった村もあったのだろうと思われます。

この様な江戸普請の収束に伴う経緯に対して私が個人的に気になっているのは、江戸時代の石材の用途があまり多様化しなかった点です。例えば、江戸時代には長崎を中心に九州一帯で比較的大規模な実用向けの石橋が多数建造され、現在でもその一部が保存されています。また、長州の錦帯橋でも橋本体は木製でも橋脚や河床には大量の石材を用いており、流れの速い河川に抗して橋を長持ちさせる工夫が多々なされています。しかし、それ以外の地域では石橋は小渠に架けられる小規模なものや、寺社などの庭園に架けられる非実用的なものが専らであり、九州で見られる「眼鏡橋」と呼ばれる様なアーチ形式の石橋が架けられることはありませんでした。

九州以外でこうした大規模な石橋が建造されなかった理由については、以下の様に様々な観点から説明が試みられています。

江戸以前のわが国の石像橋に関する史料は、右に示したように極めて少ない。しかしそれは、わが国の橋(というより全建築物)の用材として、石材が不足していたり、架橋の技術が遅れていたということが原因ではない。

わが国は豊富な木材に恵まれていたため、築橋の材料として、木材は入手しやすく、また加工しやすい材料であった。それ故、しばしば流失する欠点があったにしても、木橋は石橋に比してはるかに経済的な建築物であったからである。

一方、石造の橋を作ろうとすれば、材料になる石材は、木材と違って産地が偏在していたために、石を掘り出し、運搬し、さらにそれを加工し、建造することになり、すべての点で費用がかかりすぎるきらいがあった。したがって各地で石造の橋が架けられるようになるまでには、社会全体が豊かになるまでの、長い年月を待たなければならなかったのである。

(「ものと人間の文化史88 橋」小山田了三 1991年 法政大学出版局 114〜115ページより)

自然石をそのまま配置する作庭術、自然石・切石をつかって石段・石垣をつくる技術、さらに地蔵・羅漢を彫り石碑を刻む技術は発達していた。平地に高い石垣をもつ城を築く技術も織田・豊臣政権以後休息にたかまった。それを思えばアーチの石の橋をつくる技術も修得されていていいはずである。それがそうならなかったのは、橋をつくるための経費負担者がいなかったからにほかならない。王朝に壮大な寺院や宮殿の建築をいとなみながら、橋は寄進によらねばかけられなかった事情がそのままつづいて、戦国時代以後あれほど城ができたにかかわらず石造の橋はできなかった。城で象徴される封建制は、土地にしばりつけられて年貢を上納する農民のうえにのっていた。大きい川に橋がかかり交通が円滑になることは商品の流通をうながし、土地経済を基礎とする封建体制をゆるがすことになりかねない。橋をかける技術がおくれたのも、政治支配のしからしめたものといえよう。

(「日本の石橋」山口祐造・戸井田道三 平凡社カラー新書88 1978年 86〜87ページより)


確かにこうした経済や政治的要因、更には石材産地の偏在といった制約があったことが影響したとは思うものの、経済的側面が要因なら例えば大坂や江戸の商人の力量が長崎に劣る程であったというのも妙ですし、政治的要因が主であれば長崎以外の九州全土に眼鏡橋が広がった点と整合性が欠けている様に思えます。江戸時代の眼鏡橋が九州一帯には広まってそれ以上にならなかった歴史的な事実に合った、より緻密な説明が必要だと個人的には考えていますが、ここでその議論に立ち入り過ぎるのは本筋から外れてしまいますのでここでは控えておきます。何れこの問題については改めて考えてみたいと思っています。差し当たっては、江戸を中心とした関東近郊の石材の用途が結局江戸時代を通じて大きく多様化することがなく、既存の礎石・石垣や庭石、あるいは石碑類といった用途に限定されていたため、江戸時代初期の江戸普請が一段落したところで石材の需要も一巡してしまい、それが石切場の極端な減少に繋がったという点を確認するに留めます。

とは言え、各藩の御用石切場は「風土記稿」の頃でも維持されていましたし、石屋善左衛門に由来する江戸の「石問屋」も「天保の改革」で解散させられるまでは維持されていました。当時の石切場は「風土記稿」に記された以外にも相模国内に多々あったにも拘らず、産物のひとつとして取り上げられたのがこの地域の石に限定されたのには、十分過ぎる由緒と重要性があったと言って良いでしょう。

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