「鎌倉」カテゴリー記事一覧

「武甲相州回歴日誌」の鎌倉付近の風景

相変わらず史料集めが進んでいないので、今回はその過程で参照した明治初期の日誌を少し取り上げてみようと思います。

明治8年(1875年)の「武甲相州回歴日誌」という一冊があります。これはいわゆる道中記や紀行文とは異なり、原本の表紙に「為植物取調武甲相州地方へ出張申付候事 内務省」と貼紙されている通り、著者の織田完之(かんし)が同年に公務として相模国や甲斐国、更に武蔵国の南部や中西部を巡視した記録です。もっとも、「植物取調」と書くものの、内容を良く見ると今で言う「植生調査」と言うよりは、巡視先各地の農産物を中心とした産品の確認とともに、各地の戸長らと生活の実態を語り合ったり農事の指針を指導したりした記録と見た方が良さそうです。今回は「日本庶民生活資料集成 第12巻」(1971年・昭和46年 三一書房)に収録されたものを参照しました。以下の引用も同書に依っています。

以前「鎌倉の麦畑:明治初期の紀行文から」と題して、翌明治9年の「鎌倉紀行」(平野栄著)を取り上げました。こちらは公務ではなく休暇時の道中を書いているものの、やはり周辺の農業の実態に触れている記述が豊富であることが異色であることを紹介しましたが、今回の「武甲相州回歴日誌」と照らし合わせてみようと思います。

織田完之について、同書の改題が記すところによれば、明治7年の内務省創設に際して勧業寮に移り、明治14年に農商務省が設置されて農務局の役人となるまで同職にあった様です。この明治8年の巡視の際には内務省勧業寮の役人という立場で各地を訪れたことになります。

この視察に出発するのは同年の8月3日、午前10時に登庁して事前に訪問先の産物についての情報を得てから出発しており、沿道を視察しながら進んでいるために1日に進む距離はむしろ短くなっています。同日晩には川崎に宿泊、以下4日は保土ヶ谷から金沢道に入って途上の関(6、7日前に笹下村と改称したばかりとの記述がある)、5日に金沢、6日に三浦半島東岸を廻って浦賀、7日には三浦半島を南下して長沢を経由して秋谷にそれぞれ宿泊しています。そして8日に鎌倉に入り、片瀬で宿泊しています。同日の記述は次の通りです。

八日 晴既テ時雨屢至。秋谷ヨリ鎌倉ヲ廻り片瀨ニ至リ宿ス、路程七里。秋谷ヲ發シ海濱西ニ去ル。秋谷ハ戸數三百餘石高三百石許、農家魚蝦ヲ捕テ產ヲ補フ。又多ク牛ヲ養フト。下山ヲ過ク。山下數頭ノ牛ヲ見ル。和牛ニシテ短小也。守戸ヲ經ル。尋常農漁ノ家ノミ。海濱砂土多シ。山間ニ入り田畑稍膏腴(こうゆ)、草綿ヲ作ル、生立宜シ。稻モ烟草モ能ク生長ス。九時頃雨俄ニ至ル。朝日奈ノ切通ヲ通り鎌倉ニ入ル。東北二階堂浄明寺ノ邊、杉樹ノ名產アリ。鎌倉十三ケ村凡千五十戸石高三千石畑地多シ。海風烈敷沙土ヲ捲キ起ス。依テ由井ケ濱ニハ松林駢立皆枝幹陸ニ傾ク。砂土ノ畑地甘薯ヲ多ク作リ、(ママ)西瓜、胡瓜等ヲ作リ鎌倉東畔ハ米海苔(こめのり)多シト。路傍椿樹山茶花實ヲ結ヒ(はせ)モアリ。罌(粟)、桐モアリ。長谷ヲ過キ稻村崎ヨリ砂場ヲ過キテ片瀨角屋ニ宿ス。第十六大區片瀨村會所區長山本庄太郎ニ面會ス。小區十六アリ。五十三ケ村三千七百戸、人口二萬七百人ナリト云り。此片瀨ノ邊ハ松ノ樹名產ナリ。海畔山北耕地多シ。槪シテ之ヲ見レハ稻梁ヲ作ル、漁業モ少ナカラス。江島鎌倉等ノ遊人多ク來ルヲ以テ酒食ニ飽ク。

(同書328ページより、傍注、ルビは原文にあるものは全て反映し、一部ルビをブログ主が補う)


「武甲相州回歴日誌」鎌倉関連図
「武甲相州回歴日誌」鎌倉関連図
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

明治36年測図地形図の釈迦堂切通付近
「衣張山」の西側に隧道状に示されているのが切通
(「今昔マップ on the web」より)
ここでまず気になるのが、鎌倉に入るまでの足取りです。完之は「朝日奈ノ切通」を経由して鎌倉に入ったと書いていますが、三浦半島の西岸を北上し、「守戸」(森戸明神の辺り)を過ぎて来たのであれば、通常のルートであれば「名越切通」を経由して鎌倉入りしたものと考えられ、少なくとも「朝比奈切通(朝夷奈切通)」は余りにもルートから外れ過ぎていると思われます。しかし、鎌倉入り後に訪れた「二階堂」「浄明寺」は何れも朝比奈切通に近く、そこだけ取り出せばあまり不自然な道順ではありません。

この日誌は飽くまでも公務の記録ですから、本来の目的である訪問先の各地の産物に関係の無い記述は殆どありません。このため、こうした矛盾点に関しては推察するより他無いのですが、上記の地図に示した位置関係から判断すると、恐らく完之らは朝比奈切通ではなく名越切通を経て鎌倉入りし、途中で北へ逸れて「釈迦堂切通」を経て二階堂・浄明寺方面へと向かったのではないかと思います。他にも久木の辺りから尾根筋を伝って浄明寺方面へ抜ける山道が幾筋か地形図上に引かれていますが、流石に地元の人しか使わない様な道を地形図も満足に存在しない(「迅速測図」でさえこの視察時点では存在していません)時代に敢えて突破するとは考え難いので、一番可能性が高いのはやはりこの切通ではないかという気がします。

Shakado-Pass、Omachi,-Kamakura.jpg
釈迦堂切通(浄明寺側より)
("Shakado-Pass、Omachi,-Kamakura"
by Tarourashima - 投稿者自身による作品.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
彼らの任務が農産物などの視察にある以上、寺社仏閣の並ぶ鎌倉の中心地には用がなく、その点では雪ノ下を経由しない道筋を選んだ点は理解できるのですが、こうした道筋を選ぶことが出来るだけの情報が最初から彼らの手元にあったかどうかは疑問です。完之は滞在先で戸長などその地の有力者と会って各地の農業の事情などについて語り合ったりしていますので、その際に翌日の訪問地や途上の道筋についての情報を得たり、更には案内役の伝手を得たりしていたのかも知れません。

その二階堂・浄明寺では杉林が多く、中には育ちの良い木もあった様です。一方、由比ヶ浜の砂地では甘藷のほか、西瓜や胡瓜を栽培しているとしていますが、平野栄の「鎌倉紀行」とは西瓜の生産については重なるものの、小麦に関する記述はありません。こうしたことからは、完之が特に勧業に結びつきそうな産物の発掘に主眼を置いて産物を見ていることが窺えます。

また、完之は道端に「椿樹山茶花」が実をつけているのを見ています。これも彼の任務から考えると油を絞ることのできる椿の実の方に関心があり、花の品種については特に氣にかけていなかったと見て良いでしょう。勿論、この椿が以前取り上げた「鎌倉椿」に繋がるものである可能性はあまりなさそうです。

完之はこの日のうちに七里ヶ浜を過ぎて片瀬まで進んでいます。彼は「砂場ヲ過キテ」と書いていますが、この点は平野栄も

○これより軟砂をふみ、海浜にそひてゆく。いはゆる七里が浜なり。土人いふ、実ハ四十二丁ありと□□。こは古六丁を一里の定なれば、いふならんか。多賀城碑の里程にてもしるし。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」1985年 吉川弘文館 425ページより)

と記していることから、明治8〜9年時点ではまだ砂浜を行く道であったことになります。この区間に人力車で走破出来る道が付け直されるのは、それ以降のことであったということになるでしょう。

なお、この時期は「大区小区制」で村々が管理されており、片瀬村が大区の区長を務めていたことがわかります。ここで名前の出る「山本庄太郎」はかつての「石上の渡し」に明治6年に架橋して自らの名を橋に付けた人でもありました。

「武甲相州回歴日誌」自体には明治初期の相模国内の各地の農業の実情について、参考になる記述が幾つかある様に思います。これらについては後日別の形で取り上げることになると考えています。

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鎌倉・大石本陣の宿帳から

ネタ切れ状態なので埋草的に。以前江島道について調べる過程で見掛けた史料を紹介がてら、幕末期の動きに詳しい方の御意見も窺いたいと思います。

江島道のまとめでも余談的に触れた通り、鎌倉・雪ノ下には、江戸時代に大石本陣がありました。詳しいことを伝える史料が火災によって大半失われてしまっているのですが、僅かに残った史料のうち、島津藩の宿帳である「御屋形様御参詣並御名代記留」が「鎌倉 第77号」(貫達人編 1995年 鎌倉文化研究会)及び「同第78号」(同上)に全文翻刻されて解説されています。

中途半端に私の解説を差し挟むより、平田恵美氏による簡潔な解説を抜粋する方が早そうなので、主要な部分を引用します。

今回紹介する帳面は、美濃判の大判の和本(四ツ目綴、縦32cm×横23.4cm)で、表紙の中央に「 御屋形様御参詣御名代記留 」と書かれ、両脇に記された年号から、寛永十二年以降の記録を嘉永四年三月に何らかの理由でまとめて写したことがわかる。

中身は四十八丁から成り、本の「地」の部分に「薩州」と書かれている。すなわち薩摩藩専用の宿帳に仕立ててあり、御君主を紙面の上段に、名代を下段に書き分けてある。

内容は、島津家始祖忠久と頼朝(白簱大明神)の命日に島津家主君あるいは名代が、寛永年間以来連々と大倉の墓に参り、法事を取り行なってきたこと、墓城の周辺道路の整備につとめてきた事の記録が主なものである。安永八年に第二十五代藩主島津重豪が頼朝と島津家との関係を強調するかのように、墓城と「石塔道」を修営した事は、記録に残されているが、この参詣記録によるとそれ以前、寛永十二年、享保十一年すでに修復が行なわれている。もっとも重豪による大々的な修営以降は、参詣も毎年のごとく頻繁となり、遊覧地鎌倉巡りの様相を呈してくる。

興味深いのは、上下五十人近くの大集団を受け入れる雪ノ下の本陣、旅宿の名前や人馬賄方の様子が出てくることである。

また島津家から本陣への礼物が天明以降、芭蕉布、国府(煙草)など「国産品」が必ず入ってくる事もおもしろい。

嘉永四年以降も、年毎にまとめて清書されているが、だんだん幕末から明治の動乱期の事件なども反映して、断片的だが、リアルタイムの記述が出てくる所が多くなる。「生麦事件」の当日、島津久光は、鎌倉をめざしていたが、「保土ヶ谷にて異人無礼之(儀)あり手間取延引」とある。

慶応四年、江戸城開城の一週間前の三月五日夜には、村田新八、西郷吉之助らの名前が見える。

大まかに以上の様な内容であるが、大石家には他にもいろいろな宿帳があったはずである。だいぶ前になるが雑誌「鎌倉」(大正十五年八月号)に鎌田正志氏(島津家家令)が、ほぼこれと同じ宿帳の抜萃を載せておられる。内容に少し違いがあるので、別の写本もあるのかとも思われる。」

(「鎌倉 第77号」51〜52ページより、…は中略、以下の翻刻引用も同書及び第78号より)



鎌倉・大石本陣があった辺り(ストリートビュー、再掲)


島津忠久墓所の位置
大倉の島津忠久の墓所(やぐら)は、源頼朝の墓の東隣に大江広元の墓と並んで祀られています。島津家代々の当主が定期的に墓参りと修繕を繰り返すのは自然なことで、恐らくは中世を通じて参拝は続けられていたのでしょうが、それが江戸時代にも受け継がれていたことがこの史料で窺えます。大石本陣から島津忠久の墓所まで1km程度しか離れていませんから、ここに滞在すれば大変に至便であったことは容易に想像出来ます。とは言え、周辺は史跡や名勝の多い土地柄、世の中が落ち着いてくれば江戸に住まう島津家の大奥らの保養も兼ねて足繁く通う様になるのも自然なことではあったでしょう。

宿帳の翻刻から一行の足取りが追えるものを抜き出すと、
  • 寛政元年(1789年)三月十三日の項:

    金沢行人足三百五十文

  • 寛政四年(1792年)八月十八日の項:

    大奥御女中 御泊

    藤沢行人足三百七拾弐文

    嶋行藤沢迄五百五十文

  • 寛政六年(1794年)正月十三日の項:

    一御名代二階堂河内殿 御泊

    嶋廻り藤沢行 本馬七百文

など、金沢や江の島を経て藤沢へと向かっていることがわかります。寛政4年の際には藤沢行きと江の島行きの2方向に向けて人足を調達していますが、恐らく一行が江の島に向かうのに対して、荷物を一足先に藤沢へ送ってしまうための手配でしょう。具体的にどの位の人数を調達していたかはわかりませんが、駄賃が余分に出されているということであれば、公儀として勤める分を超えていることになりますから、かなりの人数を手配したことになりそうです。因みに雪ノ下から藤沢まで2里(「新編相模国風土記稿」の藤沢宿の項による)、江の島を経由すると3里ほどの道程がありました。

こうした本陣の働きに対して、島津氏側から下賜されたものも宿帳には書き付けられています。解説では島津家家令の方が同様の内容の宿帳を紹介されたことを記していますが、過去の下賜の記録を双方で保有するために、こうした宿帳の写しが作成されていたケースがままありました。それらの中から如何にも薩摩藩らしいものを挙げると、
  • 文化十一年(1814年)正月十七日の項:

    一琉球紬壱反 被下之

  • 文化十五年(1818年)正月十七日十八日の項:

    一琉扇 三本

  • 天保九年(1838年)正月十七日十八日の項:

    一琉球吸もの椀 拾人前

    一同膳 十人前

    一御国土瓶 弐ツ

など、薩摩藩と琉球王朝との繋がりを垣間見ることが出来る品々が挙げられるでしょう。これらも残念ながら灰燼に帰して今には伝わっていませんが、琉球から薩摩藩にどの様な品が貢納されていたかを知る片鱗でもある訳です。

もっとも、江戸時代にはひとたび火事に見舞われれば大々的に類焼するのは鎌倉でも例外ではありませんでした。文政四年(1821年)正月十一日御家老の項では、

一御名代市田長門殿 御休

一金三百疋 焼失ニ付御心添

拙家類焼付巨袋坂箒屋庄兵衛宅借請御本陣相勤、御名代済次第直様御出立

と、本陣も類焼に巻き込まれてしまったため、巨福呂坂の邸宅を借りて島津家一行を世話し、見舞金を拝領していることが記録されています。また、この記録のあと再び琉球の扇などを下賜されているのも、火災によって失ったものを改めて贈る意味合いがあったのかも知れません。因みに、この文政四年の雪ノ下の大火のことは、十方庵敬順の「遊歴雑記」の第四編 巻之中にも

雪の下類焼して天行(はやり)賑ふは、此節長谷の観音前と鶴が岡西門通り坂路の旅籠やなりけり

(「鎌倉」第78号、31ページより)

と記されており、やはり雪ノ下が機能不全に陥って長谷や巨福呂坂の旅籠が代わりに使われていたことを伝えています。


生麦事件発生現場付近(ストリートビュー
右側の家のフェンスにガイドが取り付けられている
この地点から鎌倉まではまだ7里ほど離れており
当日は当初神奈川宿に宿泊予定であったという
宿帳の「保土ヶ谷」はあるいは変更後の宿泊地と
取り違えたものか
幕末になって世の中がきな臭くなると、この宿帳にもその影響が見えるようになって来ます。もっとも、本陣といえど上の騒動について皆まで伝えられることはなかったのでしょう。上記の解説にも見える通り文久2年(1862年)の生麦事件の当日の項は、沙汰が神奈川宿の手前で起こっていたにも拘らず「保土ヶ谷」と記されるなど、あまり正確な記述になっていません。

さて問題は次の、慶応4年(1868年)3月の部分です。該当箇所は次の様に記されています。

慶応四(明治元)年辰三月五日

今般関東為征伐 御勅使御先

鋒ニテ藤沢宿ゟ御出御小休

川上郷十郎殿

伊地知弥之助殿

山野田彦介殿

越山休蔵殿

金三百疋為挨拶被下之

慶応四年辰三月五夜書

村田新八

志岐太郎二郎

山田十郎

浅江直之進

相良治部

西郷吉之助

三月二日

濱田源兵衛面会


単純に考えれば、倒幕の最中に勝利祈願を兼ねて主君である島津公の先祖の墓参に訪れたものと思え、その心情自体は理解できるものです。ただ、問題はその日付で、西郷隆盛(吉之助)率いる先鋒軍はその直前旧暦2月28日に箱根を攻め落としており、3月5日にはまだ駿府に陣を置いていた頃の筈です。翌6日に江戸に攻め入る日取りを同月15日と決める訳ですが、その直前に鎌倉にいたことになるのでしょうか。先触れ一行の面々には「殿」と敬称が付けられているにも拘らず、村田新八や西郷吉之助(隆盛)らの名前に敬称が添えられておらず、その後ろに3日前の日付で追記があるのも、宿帳の記載としてはやや妙です。あるいは何らかの意味合いで名義だけ記載したのかも知れませんが、その辺りの事情をこの記述だけから読み取るのは困難です。

生憎私も幕末のこうした動きについては詳しくなく、幾つか関連する本などに当たってみたに過ぎませんが、江戸入り直前のこの「鎌倉詣で」に触れているものが見当たらなかったので、この記録は西郷隆盛や戊辰戦争の研究などでどの様に解釈されているのだろう、という点が気になっています。御存知の方に御教示いただければと思う次第です。

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「吾妻鏡」頼朝の出産祈願の記事を巡って

【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その4)」で、源頼朝が建久3年(1192年)に北条政子の出産祈願のために相模国内の計28社に神馬を奉納した吾妻鏡の記事を紹介しました。その時ふと気になったことをメモします。

まず、その吾妻鏡からの引用を改めてここに転記します。

建久三年八月九日条:

九日 己酉 天晴れ風静かなり。早旦以後、御台所御産の気あり。御加持は宮法眼、験者は義慶坊・大学房等なり。鶴岡、相模国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。いわゆる、

  • 福田寺酒匂
  • 平等寺豊田
  • 範隆寺平塚

  • 宗元寺三浦
  • 常蘇寺城所
  • 王福寺坂本

  • 新楽寺
  • 高麗寺大磯
  • 国分寺一宮下

  • 弥勒寺波多野
  • 五大堂八幡、号大会御堂
  • 寺務寺
  • 観音寺金目
  • 大山寺
  • 霊山寺日向

  • 大箱根
  • 惣社柳田
  • 一宮佐河大明神

  • 二宮河勾大明神
  • 三宮冠大明神
  • 四宮前取大明神

  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 五頭宮

  • 黒部宮平塚
  • 賀茂柳下
  • 新日吉柳田

まづ、鶴岡に神馬二疋上下。千葉平次兵衛尉、三浦太郎等これを相具す。そのほかの寺社は、在所の地頭これを請け取る。景季、義村等奉行たり。巳の剋、男子御産なり。

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」より引用、強調はブログ主)


この28社が何処に当たるかは大半がほぼ解明されています(廃寺含む)。こちらのサイトではその一覧がまとめられていますが、未確定なのは「八幡宮」(現在の平塚八幡宮)の次に記された「天満宮」のみになっています。

しかし、私がこの一覧を見ていておや?と思ったのは、

国分寺一宮下

と記されていることでした。相模国分寺が「一宮下」にある様に記されています。これは何を意味するのでしょうか。

相模国分寺跡上空写真(再掲)
以前も取り上げましたが、相模国の国分寺は律令時代に現在の海老名市域内に建立されました。平安時代末期になって朝廷の権力が弱体化するにつれ、各国の国分寺も衰退を免れなかった様で、源頼朝も荒廃した国分寺の再興に尽力したことが吾妻鏡に次の様に記されています。

(文治二年(1186年)五月)廿九日 …また神社佛寺興行の事、二品(頼朝)日來思しめし立つの由、かつは京都に申さるるところなり。かつは東海道においては、守護人等に仰せて、その國の惣社(そうじゃ)ならびに國分寺の破壊、および同じく靈寺顚倒の事等を注さる。これ重ねて奏聞を經られ、事の(てい)に随ひて修造を加へられんがためなり。

(読み下しは「全譯 吾妻鏡」貴志 正造訳注 新人物往来社 1976年による。ルビも同書に従う。…は中略)

(建久五年(1194年)十一月)廿七日 … 近國一ノ宮ならびに國分寺、破壊を修復すべきの旨、仰せ下さる。

(読み下し同上)


北条政子の出産祈願は、この2つの国分寺修復に纏わる記事の間に来ますので、建久3年当時の相模国分寺は最初の修築を受けている可能性が高いものの、ここに相模国の一宮である寒川神社が含まれていたかどうかは定かではありません。相模国の総社は六所宮(現在の大磯・六所神社)ですから、そちらの方が修築の対象になったのかも知れませんし、荒廃が確認されなければその時には修築は行われていない可能性もあります。

この寒川神社から律令時代の国分寺跡までは、直線距離で8km以上も隔たっています。国分寺は鎌倉時代以降も再び荒廃し、現在の国分寺は律令時代の国分寺の南東の丘の上にあった薬師堂跡に移されていますが(時期は不詳ですが、戦国時代に焼け残った薬師堂を現在の丘陵上に移して再興したとされています)、移動距離は200mほどと取るに足りませんので、寒川神社からは同様に大きく隔たっていることになります。

その様な地が「一宮下」と呼ばれていたというのは、この距離を考えるとどうも不自然です。このため、鎌倉時代には寒川神社の近くに国分寺が移築されていた、という説もあります。

…かく見てくると、寺社の下の漢字はいずれも地名を現わしていること確かである。従って国分寺の下の「一の宮下」も国分寺の所在を示すものと考えて差支えない。(…)一ノ宮が寒川にあることが明白であることから考えると、国分寺はこの付近にあったということがいえると思われる。正に相模国の国分寺の所在を明示した文献は実にここに至って初めてであるということが出来る。

(「鎌倉期における相模国分寺」池田 正一郎、「えびなの歴史 海老名市史研究 第9号」海老名市史編集委員会 1997年11月 32ページより引用、…は中略)



現在の寒川神社前(ストリートビュー
もっとも、相模国分寺の移転を確実に裏付けるような他の史料や移転先の国分寺跡などは存在しないのが実情ですし、仮に移築されたのが正しいとしても、それが何故戦国時代の頃には再度海老名の地へと戻っていたのかもわかりません。実際のところ、上記の論文では各社の補足を何れも地名であると判じており、その実例として

一ノ宮から四ノ宮までは地名を冠した明神名でやはり前者と同じく宮社の所在を表していると考えられる。…この筆法でいえば三宮の冠大明神の冠も地名たること疑いを入れないと思われるが、該当地がない。

(同書31ページ)

としています。しかしながらこの「冠大明神」は相模国三宮である比々多神社に伝わる由緒によれば天長9年(832年)に淳和天皇より賜ったとされる神号です。従って、飽くまでも地名であるとするこの論文の指摘はやはり必ずしも当たっておらず、「五大堂」に「号大会御堂」と記されるなど、もう少し緩やかな意味をもって各社の名称を補足したものだと解釈する方が妥当でしょう。

そこでもう一度この一覧を良く見ると、各社の並びが妙にバラバラであることに気付きます。一方が他方の別当という関係にあった平塚の範隆寺と黒部宮が、そもそもどうしてこんなに一覧の最初の方と終わりの方に分散して書かれているのか、他にも大磯方面の寺社が最初の方と終わりの方に分かれて出て来るのは何故か、ここをヒントにして何か考えられることがないか、自分なりに検討してみました。

源頼朝自身が建立に尽力したお膝元の鎌倉・鶴岡八幡宮が、この一覧から外れて筆頭に上がっているのはある意味当然でしょう。しかし、その鶴岡八幡宮と対等の地位にあった一宮、寒川神社は六所宮以下の5社とセットになって、この一覧の中ほどより後半に出て来ます。また、頼朝が「二所詣で」を繰り返していた「大箱根」、つまり箱根権現はその直前と、やはり一覧の後半に位置しています。従ってこの一覧は、必ずしも各寺社の序列に従って記されたものではないことがわかります。ただ、当時の主だった(と考えられる)寺社がむしろ後半に出て来るのは、この一覧のひとつの特徴だと言えると思います。

そして、この一覧に載っている総勢28社に神馬を奉納して安産祈願を依頼したとされている訳ですが、それだけの馬を用立てて遠方にまで送り届けるとなれば、物理的にかなりの時間が必要な筈です。「早旦」、つまり朝早くに産気づいて「巳の刻」、すなわち午前中には産まれた訳で、産気づいてから慌ててこれらの各社に馬を送っても、鶴岡八幡宮以外は到底間に合わないでしょう。そもそも懐妊がわかってから出産までそれなりに日数があることを考え合わせると、この一覧に載っている各社に神馬を奉納したのは実際は「建久三年八月九日」よりも前ではなかったでしょうか。

とすれば、この一覧は北条政子の懐妊を知った頼朝が、出産が近づくに連れて次第に募る不安を抑えるべく祈祷の依頼先を増やしていった順番なのかも知れません。実際、出産前月には

(建久三年七月)三日 癸酉 今曉より御臺(政子)所いささか御不例。諸人走り參ず。若宮別當法眼(圓曉)護身に候ぜらると云々。

 … 

八日 戊寅 御臺所御不例の事、すでに復本せしめたまふ。これただ御懐孕(ごくわいよう)の故の由、醫師三條左近將監これを申すと云々。

(読み下し同上)

と政子が体調を崩したりしていますので、頼朝が不安を募らせるだけの状況はあった様です。

そして、これだけの寺社に奉納する馬を用立てるために必要な時間を考えても、相応の日数に分散して奉納が行われたと考える方が自然だと思います。寧ろ一覧の後半に主要な寺社の名前が現れるのは、当初は普通の安産祈願を行うべく比較的社格の低い寺社に頼んでいたところが、増大する不安にやはり主だった寺社にも頼まなければと思い直した結果なのではないか、という気がします。もし全ての寺社に一括して奉納が行われたのであれば、もう少しこの一覧は整理されたものになったと思えるからです。

平塚・黒部宮
現在の黒部宮(再掲)
以上のことを考え合わせて「国分寺」に併記された「一宮下」を解釈するならば、これは当時の国分寺の位置を意味するものではなく、国分寺が当時何らかの形で寒川神社の支配下にあった、ということを意味しているのではないかとも思えます。平安時代末期に荒廃していた国分寺の再建に当たって、何らかの後ろ盾が必要になっていたために、寒川神社の配下に入ったということなのかも知れません。あるいは既に当時荒廃していた国分寺が、一時的に一宮の堂宇の一つを借り受けて「避難」してきていた可能性もあり得ますが、後に元の所在地に戻っていることから考えても、恒久的に移転してきていたのではないのではないかと思います。恒久的な移転だったのであれば、数年後の修築も寒川神社の付近で行われ、その地で国分寺が受け継がれた可能性が高くなるでしょう。

また、比較的早い時期から祈祷の依頼を受けていた平塚範隆寺に対して黒部宮が後から追加される形になっているのも、同様の理由で祈祷の加勢の依頼を本宮が受けたからではないか、という気もするのですが如何でしょうか。


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【動画】鎌倉・朝夷奈切通のアゲハたち

ニコニコ動画:

YouTube:


前回の作品ではデジタル一眼(α-55)の動画撮影機能を使っていたのですが、このカメラでは極端に撮影可能時間が短かったり(すぐにオーバーヒートしてしまうために色々と配慮が必要)、オートフォーカスのモーター音を拾ってしまったり、何かと不便なことが多過ぎて、やはり「餅は餅屋」と割り切ってビデオカメラを別途購入したのですが…。

出来るだけ良い画質でと思い、AVHCDモードの最高画質で撮ったのが運の尽き。現行機種から数世代前に当たる手持ちのMacではおよそまともに処理が出来ず、止む無くビデオカメラ側でiMovieが処理できる画質に変換したら、何やら埃っぽい絵が出て参りまして…。いやはや。予算が無いのでMacの買い替えが出来ない中、妥協せざるを得なくなり、結果的には前回より低い画質の動画になってしまいました。

無論、朝夷奈切通へはもっと別の撮影をするつもりで訪れたので、これはその副産物ではあるのですが…。本来の目的の方を編集する際にはもう少しまともな画質になる様に対策しなければなりませんね…。将来高画質のまま編集できる環境が揃った時にやり直せる様に、AVHCDのファイルも残してありますが、果たして何時になったらその環境が整うやら。

そんな訳で、歴史というより自然にまつわるお話になってしまいましたが、副産物ということでご了承を。明日もう1本昆虫を撮った動画を編集してアップする予定です。
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相模国の谷戸と谷津

私が最初にこの問題に気づいたのは、鎌倉・滑川の「6つの名」の1つである「胡桃川」について調べている時でした。この川の名前は「胡桃谷」に端を発するからなのですが、読みが「クルミガヤツ」。

相模国、というより今の神奈川県下では、多くの地域で「谷戸」の方を使っています。行政もそれに倣っていて、例えば座間にある県立の自然公園の名前は「座間谷戸山公園」です。鎌倉の隣接地でも、例えば藤沢市川名には「川名清水谷戸」などがあります。

あ、因みに「そもそも『谷戸』って何だ?」という方はひとまずWikipediaを御覧戴くのが手っ取り早いかと。

で、このWikipediaの執筆者殿も書かれている通り、

これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い(#地名を参照)。


と、この辺では専ら「谷戸」を使う方が多い中で、何故か鎌倉は「谷津」を使っているという、まるで「飛び地」の様な分布が出来上がっているわけですね。

一体どうしてこういう分布が出来たのか。鎌倉という武家政権の中枢になった地のみが周囲から浮いているというのは、何やらそこに関連性がありそうに見えてしまいます。

一応ネットを検索してこんな説を見つけました。

ここから先は筆者の勝手な想像であるが、以下のようなことが考えられる。「ヤツ」は谷津、「ヤト」は谷戸とも書く。津は港と同じ意味があり、戸は一戸建ての戸であり家が建っている状況である。おそらく自然地形としての谷は「ヤ」であると思われる。谷間には小川が流れていることが多い。小川があれば田んぼが作れるので人が住み、家が建つ。また小川の流れを利用すれば小舟を浮かばせて物資を運ぶことも可能になる。そうなると船をつなぐ場所が必要になってくる。つまり谷が開発され谷津や谷戸が出来、家か水運かの注目点の違いから「ヤツ」と「ヤト」の使い分けが出てきたものと思われる。

<歴史コラム> やと?やつ? -谷戸の文化-/大竹 正芳氏

これもあり得なくはないとは思うものの、地域によって分布が異なるのと利用目的による名称の差異が上手く重ならない様にも思えますし、「ヤチ」「ヤツ」「ヤト」と音が何れも「タ行」で終わるという揃い方から考えると、むしろ「地」「津」「戸」は仮名派生の当て字ではないかと思われ、漢字から読み取れる意味に引っ張られるのもどうかとも思えます。

そこで、「千葉県域で使われている『ヤツ』を誰かが鎌倉の地に持ってきた人がいるのではないか?」と考えて探ってみたら、ぴったりな人がいましたねぇ。源義朝、頼朝のお父さんですね。

この人、幼い頃は上総国で育てられていた経緯から「上総国御曹司」の異名を取る人でもあります。幼児期の言語体験はその後に大きな影響を与えますから、当然義朝が慣れ親しんだ言葉は「ヤツ」の方であったでしょう。その後鎌倉に本拠を移した後も、周囲が「ヤト」と言っていても自らは「ヤツ」と言い続けたのではないでしょうか。

息子の頼朝の方は若い頃は伊豆で過ごしていますから、父親の言葉遣いの影響を受けるにはやや縁遠い面があるのが気掛かりではありますが、それでも父親が鎌倉の地で「ヤツ」と呼んでいた地名をそのまま受け継いだ可能性はありそうです。特に幕府を開いた後、御家人に鎌倉に屋敷を構えさせるに当たっては、狭小な鎌倉の地で与えられる土地が限られている上に、周囲からの防衛の都合上から敵の進路に当たる各谷にも次々と屋敷が与えられていますから、その際に「ヤツ」の名称を遣い続けたのが定着したのではないでしょうか。

まぁ、これも私の限りなく妄想に近い仮説でしかありませんが。当時の文献の出現回数で傾向を探れれば良いのですが、先ほどのWikipediaの記事で指摘されている通り「史料が少な」いのであれば、何らかの傍証を得るのは相当に難しそうですね。
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