「箱根宿周辺」カテゴリー記事一覧

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「【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ」の補足

随分と中途半端なタイトルになってしまいましたが…。

ハコネサンショウウオ表紙
「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」
(大涌谷自然科学館編 1990年)表紙の写真(再掲)
最近、私のブログのアクセス履歴を見ていて、「ハコネサンショウウオ」をキーに検索して私のページにアクセスされた跡が幾つか見つかりました。何れも「【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ」のページを見に来られていましたが、この他に「タダミハコネサンショウウオ」というキーワードがあって、何が切っ掛けになったかがわかりました。

  • 「豊かな自然の証し」 タダミハコネサンショウウオ発見(福島民友トピックス) ※リンク先消失
  • サンショウウオ、新種発見 | 河北新報オンラインニュース ※リンク先消失

何れも10月9日の記事で、アクセスもこの日付近に集中していました。

これが切っ掛けになって自分の書いた記事を読み返していたのですが、どうも収まりの良くない箇所を見つけてしまいました。それでもう少し書き足してみようか、というのが今日のタイトルの意図です。

トゥーンベリやシーボルトが江戸への道中の行動を制限される中で、箱根の山中で採集した標本が、ハコネサンショウウオの学名の制定に繋がったことは確かです。しかし、その学名は
  • Lacerta japonica(トゥーンベリの唱えた学名)
  • Salamandra unguiculata(シーボルトが持ち帰った標本を元にシュレーゲル他が唱えた学名)
  • Onychodactylus japonicus(ホッタインが唱えた、現在の学名)
と、何れも「日本の」を意味する言葉は含んでいるものの、「箱根」を意味する言葉を含んでいる訳ではありません。

一方、和名の方は「ハコネサンショウウオ」と定められていますが、この和名の制定がトゥーンベリやシーボルトが持ち帰った標本に依存していることを裏付ける記述が、前回の記事では抜けています。その点はもう少し日本国内の文献を漁って、和名制定の経緯をきちんと調べるべきなのでしょうが、そこまでこの問題を追い込むことは出来ていません。

ヒントになりそうな記述が、前回の記事でも引用した「『箱根の文化財』第四号:特集ハコネサンショウウオ」(箱根町教育委員会編 1969年)の中に掲げられています。この「第1節 昭和5年沢田武太郎の“箱根地域動物相(Fauna Hakonensis)について”中の(ハコネサンショウウオ Lacerta japonicaOnychodactylus japonicus)の記事」と少々長い見出しの元に次の様な引用文が掲載されています(29ページ)。

ハコネサンショウウオは古来黒魚として人口に膾炙し、弄花の七湯の栞には其の図説さへあれども、学術的取扱に就ては未だ充分ならず。

安永5年(1776)和蘭貢参府の砌医Carl peter(ママ) Thunberg(春氏)随行して共に箱根を往復せり。其節ハコネサンショウウオを得て其の後之れを西欧にもたらせり。この標品に基き和蘭博物学者Houttuyn氏は(Salamandra japonica)なる名を撰べり。又Thunberg氏は後(Lacerta japonica)と定めたり。其の後Bonaparte氏に依りOnychodactylus japonicaと考定して今日に及べり。又属名(Onychodactylus)とはTchudi氏の創定せし所にして、爪の指と云ふ意味にして雄及幼雌は黒き爪を其の指に有すればなり。(Stejnegerに依る)日本産山椒魚の権威田子勝弥氏(理学界Vol.ⅩⅩⅢ no7, p33 大正14年)によれば未だ此の箱根山椒魚の卵は発見されて学者の研究されたものなく、従て発生に就ては暗黒なり。

分布は特に箱根に限らず本土全土に産するものなるが、和名に就ては箱根を冠し、学術的研究最初の材料となるものは実に彼の蘭医瑞典人Thunbergの箱根に得たる所に係るが故に学術上箱根は

Salamandra japonicaLacerta japonicaOnychodactylus japonicus, Type localityと云ふ(尚箱根とは箱根八里を云ふ意なれども、おそらくは須雲川畑宿辺ならんと想像せらる)

(昭和5年大箱根国立公園協会発行“大箱根国立公園” p49-50)

(強調はブログ主)


幾つか補足をしておきましょう。まず、この文章自体が「大箱根国立公園」という冊子からの引用ですが、日本の国立公園法が制定されるのは翌年の昭和6年(1931年)です。生憎とこちらの冊子は未見ですが、その日付の順から考えると、この冊子は国立公園の指定に向けて地元で発足した協会がその意義を関係方面にアピールするために作成されたものと思われます。なお、「富士箱根国立公園」が指定されたのは昭和11年(1936年)2月のことです(現在は伊豆半島を含んで「富士箱根伊豆国立公園」として指定されている)。

この文章を書いた沢田武太郎という人ですが、箱根・底倉温泉の旅館「蔦屋」を明治時代に経営していた沢田武治の孫に当たる人で、箱根の植物の研究で成果を上げた人です。動物は専門ではなく、恐らくは各方面の指導を仰ぎながらこの文章を書いたものと思われます。そのためかホッタインの定めた筈のOnychodactylus japonicusの学名を別の人物のものとしている辺りに不正確な部分が見受けられます。箱根の国立公園指定に向けて一帯の自然環境の豊かさを訴える必要から植物に限らず動物に関しても幅広く記述したものでしょう。因みに、先日来度々引用している「七湯の枝折」の1つも同家が「蔦屋」を買収するに当たって引き継いだもので、箱根町教育委員会が作成した冊子で釈註を加えた沢田秀三郎は武太郎の弟に当たります。

「日本産山椒魚の権威」として紹介されている田子勝彌トウキョウサンショウウオの学名(Hynobius tokyoensis)などを定めた人ですが、「タゴガエルRana tagoi)」にその名を残す人でもあります。なお、この頃にはまだハコネサンショウウオの卵が発見されておらず、生態が未解明とされていますが、この辺りの研究が進んだのは昭和40年代以降になってからのことです。

この沢田武太郎の記述に従えば、やはり「ハコネサンショウウオ」の名はトゥーンベリやシーボルトが採集した標本に由来することになります。少なくともこの見解が、以前引用した「箱根の文化財 第四巻」の「あとがき」に

しかし、タイプローカリティーとして“ハコネ”の名を持つ動物であり、分類学上永久に箱根に生存させるべき貴重な種の原型として、また古来より箱根の名産物となり、住民の生活にとけこんで現在に至ったゆかりの深い動物として、箱根に於てはぜひ保存しておきたい貴重な動物の一つと思われる。

(上記書47ページより)

と書かれている通り、箱根町の天然記念物制定のバックボーンにあることは確かでしょう。「『箱根の文化財』第四号」は今となってはごく限られた図書館の蔵書(確実なところでは神奈川県立図書館)を頼りにする以外にない冊子ですが、箱根町がこの生物を天然記念物に指定するまでにどの様な経緯を経たのかを理解する上では必要な資料であると思います。

最近日本国内で新たに種名を確定されたハコネサンショウウオの仲間は、「タダミハコネサンショウウオ」の他にも
  • キタオウシュウサンショウウオ Onychodactylus nipponoborealis
  • ツクバハコネサンショウウオ Onychodactylus tsukubaensis
  • シコクハコネサンショウウオ Onychodactylus kinneburi
があります。うち、「キタオウシュウサンショウウオ」以外は何れも「ハコネサンショウウオ」を内包した和名が付けられています。「タダミハコネサンショウウオ」の学名は「Onychodactylus fuscus」、これらの中では学名に和名と同じ地名を含んでいるのは「ツクバハコネサンショウウオ」だけということになりますね。因みに、「シコクハコネサンショウウオ」の「キンネブリ」は石鎚山地における本種の地方名に由来するものだそうです。箱根の山椒魚がそうであった様に、この「キンネブリ」もやはり産地では薬効を信じられていたものの様です。

今後の研究によって、これらの和名も更に整理される可能性もありますが、「Onychodactylus」が「ハコネサンショウウオ属」と訳されていることを考えると、互いに隔たった地名が複数繋がる奇妙な和名になっているのも、これまでの歴史が織り込まれたものであるとも言えるでしょう。こうした和名や学名に見える歴史を辿ってみるのも、また良いかも知れません。
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【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(まとめ)

旧東海道:畑宿一里塚(復元)
畑宿一里塚(復元)
畑宿の集落の京方の外れに当たる
ここまで6回にわたって箱根東坂の歴史を湯坂道と畑宿を中心に見てきました。改めてここまでの記事の一覧を記します。



旧東海道の箱根山中の道筋を考えるに当たっては、治水面もさることながら利水面にも着目する必要があるのではないか、という見立ては私の中では比較的早い時期から出来上がっていました。何しろ箱根は、本州を太平洋沿いに通行する際には最大の難所とならざるを得ない地理的制約がある場所です。ここを通過する際には必要となる水や食料に十分に配慮しなければ、山中で行き倒れてしまいます。あまり道行く人が多くない時代には自ら携行するしかなかったでしょうが、ここを経由しなければならない人が増えてくれば、その人たちのために補給地点や休憩地点、時には体調を崩した人のための救護が出来る施設を設けざるを得なくなってきます。そういう施設にも人が住まう必要がある以上、その人たちが生活できる場所を選ばなければならなくなってくれば、今度はその生活のために必要な物資の調達・供給のことを考えなければならなくなってきます。

箱根山中の道筋の変遷の裏には、そんな流れがあるのではないか、という予想から、実際のところ湯坂路上で水はどれだけ得られるのだろうか、という検討を今回試みたわけです。無論、飽くまでも机上での検討(と現地を訪れてのほんの少々の観察)ですから、実際には湯坂路の途上で井戸を掘れば割と浅い位置で必要なだけの水が得られるのかも知れません。本当はもう少し裏を取りたかったのですが、温泉に関しての研究は多くても流石に利用の可能性の低い水脈までは研究の対象にはなり難い様で、関連する資料を見つけることが出来ませんでした。かと言って、まさか実際に井戸を試掘する訳には行きません(国立公園内ですから違法行為になってしまいます)から、あとは当時の記録がこの先奇跡的に出てくる可能性に賭けるしかなさそうです。湯坂城が尾根の意外に低い位置に城を構えた理由や、実際にどの様にして水を確保していたのかなど、利水面から解明したい課題はある筈なのですが、やはりそこまで追究するには制約が大き過ぎるということになるのでしょうか。

ただ、利水面の問題はさて置くとしても、一方で室町時代や戦国時代に既に畑宿を経由する道があり、その頃から畑宿が相応の繁栄を見ていた可能性が高そうだという点は、江戸時代に入るまで湯坂路が本道であったという見立てとは相容れない面があるのは確かだろうと思います。そして、江戸時代に入っても箱根という険阻な道を往来する人馬をどの様に支援するかという課題が、宿泊の問題や甘酒小屋や石畳といった形になって現れていったと言えるのでしょう。裏を返せば、より多種多様な通行が箱根を恙無く越えるためには、それだけ手厚いサポートが必要であり、その役割を早くから果たした拠点の1つが畑宿だった、ということが言えるのではないかと思います。

ところで、今回色々と資料を漁っていて、初めて気づかされたことも幾つかありました。ハコネサンショウウオの件もそうですが、何より畑宿が北条氏の「諸役御免」の約束を楯に「退転」を試みた歴史に興味をそそられました。今流に言うならばこれは「ストライキ」ということになるのでしょうが、村人が全員何処かに篭ってしまって村が「もぬけの殻」になるという、「全面スト」よりも更に徹底した抗争でした。この時期北条氏の領分内ではほかの村でも「退転」が相次ぎ、それが氏康の「公事赦免令」へと繋がったことが知られていますが、その点では北条氏側の統治にそれまで無理があった、という評価になるのでしょう。

旧東海道:畑宿の「桂神代」
畑宿の家並みの前に飾られていた
「桂神代」
現在の箱根寄木細工でも
神代杉などの枯木は重要な役割を
果たしている
畑宿での「退転」も結果を見れば畑宿側の「全面勝利」に終わったと言える訳ですが、あの位置で宿場の機能が全面停止するというのは、道行く人にも計り知れない影響があったに違いありません。芦川宿や湯本宿で事前に情報を得ていれば、その腹積もりで畑宿を行き越す準備をして出発したでしょうが、そのことを察知し損ねて畑宿に着いたら誰もおらず…などという運の悪い旅人もいたのかも知れません。その意味ではこの「ストライキ」の効果は抜群だったのでしょう。

裏を返せば、それだけ畑宿がこの街道筋での影響力を発揮出来る「地の利」を得ていた、ということも出来ると思うのです。そこに更に木地師としての稼業があった点については、今回は簡単に紹介するに留まりましたが、その後の畑宿が箱根細工の拠点となっていくことを考えると、この歴史も併せて見ていくとまた少し違った側面が見えて来るのかも知れないと感じています。その点はまた機会があれば見ていきたいと思います。



以下、例によって余談なのですが。

「新編相模国風土記稿」では、箱根の山中には、正月に門松を立てず、代わりに(しきみ)を立てる村があることを紹介しています。

  • 須雲川村(卷之二十七):…土俗正月は門戸に松をば立てず、樒を立るを以て習せとせり、
  • 畑宿(卷之二十七):…當所も正月松に替へて樒を立り、
  • 底倉村(卷之三十):…正月門戸に樒を立、松飾の代とす、
  • 大平臺村(卷之三十):…當村も正月門戸に樒をたてり、
  • 仙石原村(卷之二十一):…當村及び宮城野村は、共に(注:足柄上)郡中に在りと雖、諸事足柄下郡箱根の諸村と伍をなせり、是路次の便宜に因れるなり又歳旦門戸に樒を立て松に代ふ、是も彼地の風俗波及せしならん、
  • 宮城野村(卷之二十一):…當村も歳旦門戸に樒を立て松に代ふ、

(以上、雄山閣版より引用)


樒の花 - Wikipedia
樒の花(Wikipediaより)
「風土記稿」中でこうした風習について記述されているのはこの6村だけです。もしかしたらその周辺の村でも同様の風習がありつつも記載されなかった可能性もありますが、各郡の総論に当たる「図説」でも

…當郡風俗他に異なる事なしといへども、南邊宮城野・仙石原二村は歳旦松に代て、門戸に樒を立るを例とす、

(卷之十二 足柄上郡卷之一、雄山閣版より引用)

などと逐一記しているところを見ると、遺漏の可能性は少ない様に思えます。

東海道で松と言うと、真っ先に街道の松並木のことが思い出され、それが箱根山中ではうまく根付かないために杉並木になっている、などという説明も良く聞かれる手前、この話もそこに関連するのかと考えたくなりますが、どうもそういうことではなさそうです。実際、もし根付きにくい樹種が回避されているのであれば、丹沢などの山中の村々でも同様の風習があっても良さそうですが、その様な話は聞かれません。

この風習に絡んで、地元の民話集にはこんな話が採録されています。それぞれ幾らかアレンジが入っている様なので、ここでは差異の箇所がわかる様に2本紹介します。

門松で目を突ついた氏神様

暖かいお正月でした。

仁徳天皇の故事にならって、村人の暮らしぶりを見ようとそっと社を抜け出した山神社の神様でした。

この神様はいささかあわて者だったのか、出がけに鳥居の前で、村人が飾りつけた門松の松葉で右目を突ついてしまいました。いかにも不覚でした。

「痛い!」と思わず叫んでしまうほどの痛さでしたが、さすがは神様、早速に姫の水におもむき冷たい湧き水で目を洗いました。

数日通ってすっかりよくなった神様は神社の総代を呼び、しかしかかくかくの次第で元日早々ひどい目にあった。従って今後村の門松に松は使ってはならないぞ、と言いました。

総代はすぐさまこの(むね)を村人に伝え、来年からは松の代わりにこの地に繁茂するサカキを飾るようにと言いました。

以来当地ではサカキは栄に通じて縁起がよいと、正月、細い竹二本とサカキを二本、それに梅の小枝二本を組み合わせて玄関入口の左右に立て、門松としたのでした。

(「はこね昔がたりⅡ」安藤正平・澤田安蔵 1988年 かなしんブックス 第一章 9~10ページより)

松嫌いの権現様

…ある晩、それは大雨のあとの霧の深い真夜中のことでした。狭い道にはいく本もの大きな倒木が行く手をさえぎり、苔の生えた岩が雨にえぐられて突き出ていました。権現様は気をつけながらその倒木をまたぎ岩根を踏み分けて下って来ましたが、時間がかかり過ぎてはいけないと少しあせりがでたのか、松の大木の根っこにつまずいて足を滑らせてころんでしまいました。

悪い時は悪いことが重なるもので、その時、松の枝に引っかかって松葉で片方の眼を突いてしまいました。権現様は大層腹を立てられ、おれの目をこんにした松なんかみんな枯れてしまえ、といって神領内の松という松を全部枯らしてしまいました。それ以来、ここでは松が育たないようになってしまったのです。

そのためこの地方では、正月に門松を立てることができなくなってしまったので、松の代わりに榊や(しきみ)を使うようになりました。今でもこの風習が受けつがれている集落があちこちにあります。

(「箱根の民話と伝説」安藤正平・古口和夫 2001年 夢工房 70〜72ページより)

松に目を突付かれたのが山神様だったり権現様だったり、松を枯らしたり枯らさなかったりといった違いはありますが、神様が目を突付かれたので松を使うのを止めて代わりに樒を使う様になった、という筋立ては共通しています。もっとも、もしも箱根権現にゆかりの深い風習なら、「風土記稿」が芦野湯や元箱根、姥子といった更に権現に近い地域で、こうした風習を記録しなかった点が引っ掛かります。単に「風土記稿」の編集過程で、これらの村での聞き取りの順序の綾で確認し漏らしただけかも知れませんが、それならそれで「風土記稿」がどの様な手順を経て成立したかを考える際には興味深い事例ということになるのかも知れません。

なお、「はこね昔がたりⅡ」の方では、昭和26年に時の総代が神社で許可を得て、業者などは足元の低い位置に松を使った門松を飾るようになったことが紹介されています。

もっとも、こういう見立てもあります。

余談だが門松の材料は、古くは常緑樹であれば何でも良かった。後に大陸の温暖な地域から、もっぱら松を用いる風習が入ってきて、それ以来日本では、松と常緑の広葉樹と、門に立てる種類が二種併存して続いたのである。山の中の村々は遅くまで広葉樹を用いる形が残って、風土記の編者のように、里からきた人々の目には奇妙に映ったまでのことである。

たとえば木地師と呼ばれ、山中で『ろくろ細工』に従事して椀や盆を作る人々は、やはりシキミを門松にしていた。狼を防ぐのにこの木の香りが有効だなど説明していた。そして箱根にも多くの木地師がいて、この人たちはやがて箱根細工という、湯治場みやげを専門に手がけるようになる。そしてさらにつけ加えると、シキミが仏壇の供花として固定してからは、箱根ではいつかシキミをやめてカシの枝を門松に用いている。

(「箱根山動物ノート サルのざぶとん」田代道彌 1990年 神奈川新聞社かなしん出版 128〜129ページ「第六章 ダルマガエルの将来」より)


こういう風俗については、あまり整合性のある説明を追究しても仕方がない面もあります。ただ、木地師の風習にルーツを求めるなら、それが何故箱根に限られていて周辺地域から孤立して存在しているのかは気にかかります。何処かから適所を求めてやって来た木地師が、箱根の地に魅了されて居着いた名残ということになるのでしょうか。そうだとすれば、この風習は箱根細工のルーツにまつわる重要なヒントに繋がることになるかも知れません。例えば、彼ら木地師が丹沢や伊豆の地ではなく、敢えて箱根の地を自分たちの技術を発揮できる地として選んだのだとしたら、彼らにとって「魅力」に映った箱根独自の特徴が何かあった筈だ、ということになるのではないでしょうか。それがこの地でしか採れない樹種(そこに芦ノ湖の「神代杉」なども含まれるのかも知れません)にあったのか、それとも箱根山の複雑な地形に何かを見出したのか…そんなことを考えてみるのも面白いかも知れません。

旧東海道:箱根湯本付近の早川下流方面の様子
現在の早川は治水対策が進み
整備された姿に変わっている
湯本大橋から早川下流を望む
写真中奥の橋が現在の三枚橋
そして、そのことを考えてみる際には、阿仏尼が「十六夜日記」で、藻塩を焼く薪木が早川を流れ下ってくる様を歌に詠んだことを思い返してみるべきかも知れません。それまでは燃料に使っていた木を後に木地師が使う様になったのだとすれば、木地師が移り住んで来たのは阿仏尼が箱根を通過した時よりは後だったことになり、その頃には藻塩の薪木は別の場所から求めていたことになって早川を木が流れ下る様子は見られなくなっていたでしょう。勿論、木地師が必要とした樹種は薪木とは別種だった可能性もあり、その場合は移住の時期と阿仏尼の東行の時期は無関係ということになりますが…。

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【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ

この記事は「その15」の余談として簡単にまとめるつもりで書き始めたのですが、思った以上に文量が膨らんできたので、独立させることにしました。なお、下の方に山椒魚の写真が出て来ますので、その手の生物を見るのが苦手な方は申し訳ありません。

「その15」のために箱根について記した紀行文・道中記などを探している最中に、ふと十返舎一九も箱根について何かしら書いている筈だろうと思い付いて、彼が書いたものを紐解いてみる気になったのでした。そこで見つけたのがこの一文。

箱根の宿(しゆく)をうちすぎ、(さい)河原(かハら)の先、権現坂(ごんげんさか)より(あし)の湯へゆく道あり。ついでなれバ、その坂のとりつきより左の(かた)、湖の端をまハりて、権現の御(ミや)にまいる。

たび人「井守(いもり)黒焼(くろやき)にして、女にふりかけると、その女がほれてくれるといふ事だから、わしハこの前、此箱根の山で井守を見つけたから、それをとってかへって、黒焼にして、女にふりかけて見ましたが、さっぱり利目(きゝめ)が見へませぬから、これハどうした物だと、よくよくかんがへて見ましたら、井守でハなくて、此箱根の名物山椒魚(さんせふうを)でございました。」

(「金草鞋(かねのわらじ)二十三編」より、「十返舎一九の箱根江の島鎌倉道中記」鶴岡節雄校注 1983年 千秋社 16〜17ページより引用、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

箱根の名物が山椒魚だなどというのも私にとっては初耳でした((その5)で取り上げた紀行文を見返して、山椒魚の記述に気付いたのはその後でした)が、「そもそも山椒魚と井守を見間違ぇたりする奴があるけぇこの頓珍漢め」と、つい弥次喜多風に突っこんでみたくなる様なネタ咄ではあります。


ハコネサンショウウオ表紙
「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」
表紙の写真
左の白い球が入った鞘が卵嚢
箱根に山椒魚なんかいるのか、と思いきや、何とズバリ「ハコネサンショウウオ」というのがいるのを初めて知りました。流石に今では箱根では滅多に見られるものではない様で、専ら須雲川の源流部に生息しており、その地が箱根新道の建設に際して分断されるなど開発の手が入って生息数が激減したことが切っ掛けになって、昭和44年(1969年)3月に箱根町の天然記念物に指定されました。私も生憎と見たことがありません(と言ってもそんな生息域に当たる沢などに行ったことがないからですが)。同種については大涌谷自然科学館が「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」(1990年)という割と良くまとまったガイドブックをまとめていましたが、現在は同館の廃止に伴い絶版になっている様です。この表紙には背中に朱色の筋の入ったサンショウウオが、その卵嚢と共に写った写真が載せられています。

箱根町がハコネサンショウウオを天然記念物に指定する際に合わせて編集した、「箱根の文化財 第四巻」(1969年)という冊子があります。その「あとがき」に、この天然記念物指定に関してこの様な一節が記されています。

ハコネサンショウウオを箱根町の天然記念物に指定することについて問題となったことは、⑴日本国内に広く分布していて、特に貴重な動物として指定する価値があるかどうか、⑵箱根における生態が充分研究されていない、⑶生息地域の土地関係者の協力が得られるかどうか、⑷指定することによって、かえって好奇心をあおり、捕獲するものがふえるのではないか等々であった。

しかし、タイプローカリティーとして“ハコネ”の名を持つ動物であり、分類学上永久に箱根に生存させるべき貴重な種の原型として、また古来より箱根の名産物となり、住民の生活にとけこんで現在に至ったゆかりの深い動物として、箱根に於てはぜひ保存しておきたい貴重な動物の一つと思われる。

(上記書47ページより)

この文中にも見られる通り、更にはWikipedia等でも記されている通り、このサンショウウオは箱根にしか生息していない訳ではなく、生息環境が合えば本州や四国の他の場所でも見られる様です。少なくとも、全国レベルで見れば今のところ絶滅を心配されている種では必ずしもありません。

先ほどの「金草鞋二十三編」の、ネタの部分の直前では、箱根の他の名物と共に

小田原をすぎて風祭(かざまつり)、それより湯本、畑、いづれもよき茶屋あり、…

箱根山名物、湯本細工挽物(ひきもの)いろいろ。畑の雑煮。峠、江戸屋の粕煎(かすいり)。山中の(もち)田楽(でんがく)、甘酒、山椒魚(さんせううを)ハ、しょしょにあり。

(「金草鞋二十三編」より、上記同書16ページより引用、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

こんな風に紹介されています。「しょしょにあり」ということは、当時の箱根山中ではどこの茶店の店先にもこれが置いてあったのでしょうか。

ならば、かつては箱根山中なら何処でも見られたのかと思いたくなりますが、ハコネサンショウウオの生息域について、神奈川県の「2006年版レッドデータブック」では

生息環境と生態:渓流性のサンショウウオで、成体は沢沿いの林床落ち葉や倒木の下、岩陰などに生息するがめったに目にすることはない。本種の産卵は、河床の勾配が急で、崩落した大小の石が積み重なって湧水や伏流水の流れる地下で行われるため、卵塊の発見は極めて困難であるが、幼生は渓流で発見されることが多い。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書 2006」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編、神奈川県立生命の星・地球博物館刊 2006年 270ページより)

と記しています。生息地については標高500m以上の地点に生息と記している書物もありましたが、別の図鑑ではもう少し低い標高でも見られると書いているものもあり、標高で特徴付けようとするものが多い様です。しかし、この県レッドデータブックの記述に従えば、標高よりも寧ろ地形や地質に産卵環境が大きく依存していると考える方が良さそうです。

とは言え、箱根山でもこの様な崩落の激しい急峻な渓流がある場所は限られており、それに従ってハコネサンショウウオの見られる場所も限られています。それも、何故か須雲川の最上流に限定されていて、早川本流方面には見られないとのこと。これについて、箱根火山の活動時期との関連があるのではないかと解釈する方もいます(「箱根山動物ノート サルのざぶとん」田代道彌 1990年 神奈川新聞社かなしん出版 など)。この説の通りならこの山椒魚は南側の伊豆半島から来たことになるのですが、ならばその伊豆半島のハコネサンショウウオは、この突端の地に何処から入って来たのだろう、という疑問も残ります。この辺りは生息域の更なる研究でわかってくるのかも知れません。

なお、ハコネサンショウウオは箱根近辺では丹沢方面にも棲息しており、

䱱魚又山椒魚共書/箱根の産也

…当山にて取ルヲ地魚といひて形ち大キクして功又ばつくん也、又此近辺大山辺ヨリも出ル、是ヲ旅魚として形チ小クして功も少く薄き也、価又異也

(「七湯の枝折」巻十 産物の部(産物の図)より、「「七湯の枝折」企画展図録」 箱根町郷土資料館 2004年 103ページより引用、…は中略、強調はブログ主)

何と大山付近で捕ったものをわざわざ箱根に回送して(だから「旅をしてきた魚」な訳ですが)売っていたというのです。箱根で捕れた大振りのものを上物として扱っていたために一段低く見られて廉価で売られていた様ではあるものの、それだけ引き合いがあって箱根山中だけでは需要が満たせなかったのでしょうか。だったら大山も参拝客が大勢押し掛ける土地だったのですから、そちらでも売れば良さそうなものですが、大山周辺で山椒魚が土産物として販売されていた記録はない様です。「箱根=山椒魚」というイメージが強過ぎて大山で扱っても商売にならなかったということなのかも知れません。これも何だか今でも良くありそうな話です。

この「七湯の枝折」では、山椒魚の効能について

小児五かんの妙薬也、世人専

知る所なれバ効能ハ略ス、

男子にハ女魚を用ひ、女子にハ

男魚を用ゆ、

此魚取頃、弥生の末より卯月初つかたを専らとす、きわめて澗谷の清水に生す、小石の下或ハ岡にも出、木などへも登る、…(捕まえてきた山椒魚を)大き成鉢やうのものへ入て是に塩ヲ入ルとことことく死す、是ヲ竹串にさして日に干しかわかして売買す、

(上記同書103ページ、…は中略、強調と括弧内ブログ主)

と紹介しています。まぁ、「皆まで言わんでもわかってるな」というニュアンスの書き方で「強壮作用」を仄めかしている訳ですね。塩にまぶして殺すのは干物にするのと味付けを兼ねているのでしょうか。

しかし、今は天然記念物に指定されている関係で、ハコネサンショウウオの箱根での捕獲は「御法度」です。勿論、今は箱根の土産物屋で山椒魚の干物にお目に掛かることはありません。更に、神奈川県の2006年版レッドデータブックでは「準絶滅危惧」種に指定されていますので、今は他へ見に行った方が良いでしょう。まして「七湯の枝折」に記されている様な強壮剤や、一九がネタにしたイモリの「代用品」などもってのほかですが、流石に今は「疳の虫」の薬に子供に飲ませようとか、「夜の床」の前に精力付けに…なんていう人もいないでしょう。念のためですが、薬効は証明されていないそうです。イモリの黒焼きにしてもそうなのですが、「七湯の枝折」の記述を見ても、限りなく迷信に近い「民間療法」の肴にされていたというところが本当なのでしょう。なお、福島県の檜原地方では今でも夏場限定で食用にしているとのことなので、一番手っ取り早く「実物」にお目に掛かるにはそこへ食べに行くのが良いでしょう(笑)。どんな姿をしているのか、調理前のハコネサンショウウオを見せてもらえるかも知れません。


ところで、別に箱根に限って棲息している訳ではないこのハコネサンショウウオが、何故「箱根」の地名を冠することになったのでしょうか。それは、これを標本としてヨーロッパへと持ち帰った時の事情が絡んでいます。

ファイル:Carl Peter Thunberg.jpg - Wikipedia
Carl Peter Thunberg肖像
Wikipediaより)
長崎・出島から例年江戸幕府に参上する商館長に同伴する格好で、商館所属の医師だったスウェーデン人医師Carl Peter Thunberg(日本語では「ツュンベリー」「トゥーンベリ」「ツンベルク」等々と表記されていますが、ここでは比較的発音の近い「トゥーンベリ」でいきます)が安永3年(1776年)に江戸へ向かいます。植物分類学の草分け的な存在であるカール・フォン・リンネにウプサラ大学で学んだ経歴があるこの医師は、この江戸行きに際して少しでも多く日本の植物標本を持って帰るという目的も持っていました。そういう彼にとっては箱根の山中は極めて魅力に映った様で、「江戸参府随行記」(高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫、原文はスウェーデン語)の箱根越えの記述は他の日に増して長いものになっています。その様子を全文転載する訳にはいきませんが、限られた時間の中で次々と手にした標本の中に、1種類だけ動物が混ざったのでした。それが、後に「ハコネサンショウウオ」と呼ばれる様になるのですが、当時はまだ正確には何と称すべきなのか、たいそう困ったのではないでしょうか。

通詞らがトカゲ Stincus marinus であると考えている細長いトカゲ Lacerta japonica が、箱根山周辺にたくさん這い回っていた。日本人はこれを山椒魚(サンシヨウノウオ)と呼んだ。その後、この地方のほとんどすべての店では、それを販売用に干して吊しているのが見られた。何匹か一緒にして、その頭を一本の木の串で通してあった。その粉末は強壮薬として、また肺結核や子供の虫〔癇の虫〕に対しても使用するのである。

(上記書153ページより引用、ルビも原文通り)


オランダ商館の一員として同行している関係上、トゥーンベリも日本人通訳とオランダ語で会話している筈ですが、「トカゲであると考えている」と記されているものの、通訳も取り敢えず形態の似ている「トカゲ(オランダ語で“hagedis” @Google翻訳)」位しか単語を思い付かなかったというのが本当の所ではないでしょうか。山椒魚はヨーロッパには生息していないとのことなので、トゥーンベリの時代に「山椒魚=“salamander”(Google翻訳)」という言い方がオランダ語を始めとするヨーロッパ各国語にあったのかどうかも疑問です(「サラマンダー」自体は元々はヨーロッパの伝承上の火を司る精霊の名前です)。

因みに、トゥーンベリの師リンネの「自然の体系」第10版(1758年)でも、両生類に当たるAmphibiaには今の爬虫類やヤツメウナギ、サメなどが一緒にされていた(「動物分類学」松浦啓一 2009年 東京大学出版会 18ページ表1-1による)位に、動物の分類法は今からは考えられない程の試行錯誤がなされていた時代です。トカゲとイモリとサンショウウオと、互いに生態の全く違うもの同士であることが理解されてくるのは、まだまだこれからの話でした。そういう意味では、むしろこの「未知の生物」を手掛かりに更に理に叶った動物の分類法をこれから組み立てる時期だったということは、このトゥーンベリの記述を読む際に頭に置いておく必要があるでしょう。ともあれ、「山椒魚」と日本で呼ばれるこの生き物が一体何者なのか、取り敢えず本国に持って帰って学者間で検討しようとトゥーンベリは考えた様です。

とは言え、今ですら飼育が極めて難しいとされるハコネサンショウウオのこと、それを当時の徒歩の道中に生きたまま本国まで持って行くことなど、到底考えも及ばないことです。当然まずは死骸を標本とせざるを得なかった訳ですが、気になるのはトゥーンベリはそのサンプルをどうやって手にしたのかということです。一番手っ取り早いのは土産物になってしまった山椒魚の「目刺し」を買って帰ることで、製法を見てもその方がスウェーデン本国に帰るまで「日持ち」はしそうですが、土産物が果たして標本になるのか大いに疑問があります。とするとトゥーンベリが自ら首尾良く捕まえたのか、それとも現地人に頼んで「加工」前のものを譲ってもらったのか…どれも時間の限られた道中で実現するのは難しそうですし、捕らえたものを当時どの様に防腐処理したのかも気になります。今でもその時の標本が残っているなら見てみたいものですが、「箱根の文化財 第四号」の記事によれば

トンベルグ氏の模式標本はスウェーデン ウプスラ大学博物館に“Fakonie berget„なる産地の下に保存されているそうである。

(同書30ページより、因みに「berget」はスウェーデン語で「山」の意)

とのことですので、どんな状態のものを持って帰ったのか、写真でも良いので一度見てみたいものです。仮にもしそれが「目刺し」だったとしても、それはそれで当時の街道文化の一面を明らかにしてくれる、別の意味で貴重な「標本」であるのかも知れません。

何れにしてもトゥーンベリはこの時標本をヨーロッパに持ち帰り、それを元に学名「Lacerta japonica」を提唱したのでした。もっとも、この学名はその後他の学者の研究に従って「Onychodactylus」という新たな属が提唱され、そこに収められて「Onychodactylus japonicus」と呼ばれることになり、現在に至っています。

一方で、後年同じく医者の資格で江戸参府に随行したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも、文政9年(1826年)にやはり箱根でハオネサンショウウオの標本を採取しており、この標本は「シュレーゲルアオガエル」にその名を残す動物学者ヘルマン・シュレーゲルの元へと回送されて、「Salamandra unguiculata」という学名を与えられています(「箱根の文化財 第四号」による)。シーボルトのこの時の標本採取については、彼の「江戸参府紀行」(斎藤信訳 1967年 平凡社東洋文庫、原文はドイツ語)に

また私はドクトル長安の斡旋によって天産物や渓流で捕えたイモリを手に入れた。

(同書183ページより、強調はブログ主)

と記されているのがそれに当たると思われ、この時には箱根到着前に「先触れ」を飛ばして、現地の村人に採集の依頼をしてあったのかも知れません。そうであったとすれば、恐らくシーボルトはトゥーンベリが持ち帰った標本のことを知っていて、もう少し状態の良い標本を再度採取する計画を最初から立てていたのでしょう。流石に土産物になった山椒魚に手を出す気はなかった様ですが、シーボルトも帰路に「薬として売っている(黒焼きにし、粉にして用いる)」(同書221ページより)山椒魚を見掛けています。なお、シーボルトは他にオオサンショウウオも本国に持ち帰っていますので、それらの標本がシュレーゲル等によって研究される過程で、日本語で「山椒魚」と呼んでいる両生類のヨーロッパでの呼び名がトカゲなどから独立していったのかも知れませんね。


ところで、トゥーンベリはこんなことも綴っています。

今日私は、乗り物でゆられて行くようなことはほとんどせず、灌木や野生の木が生い茂っている丘をできるだけ徒歩で登るようにした。…私は道をはずれて遠くへ行くような許可を持っていなかった。しかしかつてアフリカの山々で、私はその岸壁を駈け登って鍛えていたので、時に私を悩ませ、そして息せき切ってついてくる随員よりも、しばしばかなりの距離を先んじていた。そのため、相当数の珍しい植物を採集する余裕があった。花が咲き始めたそれらの植物を、私は自分のハンカチに入れた。

(「江戸参府随行記」上記書 150ページより引用、…は中略、強調はブログ主)

旧東海道:畑宿付近の石畳
畑宿付近の石畳
トゥーンベリはこの箱根の
街道沿いに生息する植物を
多数標本として持ち帰った
オランダ商館から江戸への往復に際して、外国人は決められた街道筋を外れることは堅く禁じられていました。勿論これは防衛上の理由ですが、この制約のためにハコネサンショウウオの生息域で尚且つ彼らの往来する道筋に当たっていたのが、唯一箱根に限定される結果になったのでした。何しろ山奥の急流の沢で繁殖するのですから、東海道では他にこんなに険しい場所を通過する区間がありませんし、長崎から大坂・京都の間にもありません。旧東海道では箱根に次いで険しい峠越えがあるのは鈴鹿峠周辺ということになりますので、同地周辺にハコネサンショウウオの生息地があるかどうか確認してみましたが、鈴鹿川流域では比較的標高の高い場所での生息が知られているのみの様です。そして、鈴鹿峠は鈴鹿山脈の尾根の中でも特に標高の低い鞍部(標高357m)を越えていきます。

その後改めて標本を持ち帰ったシーボルトも通過した生息域は箱根だけだったので、ヨーロッパに渡った標本も自然に箱根のものだけに限られた訳ですね。箱根が山椒魚を名物として扱っていたことがトゥーンベリの採集欲を刺激した側面もあるのでしょうが、やはり際立った生息域を他に通過しなかった点が大きく効いたと思います。

もっとも、トゥーンベリやシーボルトが手にした山椒魚を他の地域の日本人が見て、「その生き物は箱根以外でも見られる」ということを示唆されなかったらしいということも、念頭に置く必要はあるかも知れません。たまたま箱根では名産になっていても、他の地域では見向きもされていない存在だったということなのか、それともごく限られた山村の人たちの間でだけ知られていて、その情報がお互いに共有されることがなかったのか、あるいは、伊勢参りで西へ向かう村人も増えていた時代だけに、その際通過した箱根の店先の「名物」が、実は故郷の村でも見られるものと一緒だったと考えた人がいなかったのか、などということも考えてみたいところです。まぁ、干物になってしまったものを見て、生きている時にはどんな姿なのか、すぐに思い浮かべるのもなかなか難しいことではありますが、こうした生き物にまつわる知識が当時どの様な人々に共有されていたかを考える、ひとつの手掛かりになるかも知れません。


箱根湯本・三枚橋から箱根宿入口までのルート(再掲)
トゥーンベリもシーボルトも
このルートを外れることは許されなかった
「箱根の文化財 第四巻」にある「タイプローカリティ」とは、学名制定の基準になった標本の原産地のことですが、何にせよハコネサンショウウオの「タイプローカリティ」とは、こうした多分に歴史的かつ政治的な「制約」に裏打ちされたものではあった訳です。もしも出島の外国人にもう少し国内の旅行の自由があったら、あるいはもしもオランダ商館の一行の江戸への往復が東海道ではなく中仙道であったら、この標本は日本の別の渓流で採集され、和名もその地名を冠していたかも知れなかったのです。外国人の日本国内の旅行の自由は江戸幕府の時代には十分に実現されることはついになく、明治政府による解禁を待つことになります。基本的には生息域を冠すると思われ勝ちな種名が、こういう歴史的な制度の影響を受けているという事例も、なかなか面白いと思うのでした。シーボルトの方はその後出国に当たっていわゆる「シーボルト事件」に巻き込まれ、獄死者まで出てしまったので、「面白い」では済まないかも知れませんが…。

そして、背中の朱いこの出目の生き物を、当時から既にイモリやトカゲと区別して「山椒魚」と呼んでいた当時の現地の人のことを考えると、一九のネタもあながち「頓珍漢め」と切り捨てる様なものでもないという気もするのです。

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【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その6)

前回は、江戸時代の畑宿の実情を、紀行文などを中心に見てみました。今回は、その畑宿での宿泊を巡る状況を追います。

以前、梅沢の立場での宿泊を巡る状況を見た時には、宿場以外の宿泊は制度上は御法度「ということになっていた」ものの、実際は立場每に事情に合わせた対応が採られていたことを示唆しました。その際に、藤沢宿の役人職にある旅籠の主人が、伊勢参りの道中畑宿に宿泊していることも紹介しました。そこで、今回は「畑宿の場合」をもう少し追ってみようという訳です。

参考:御伝馬之定、桑名宿の場合

一、三拾六疋、相定候事

一、上口ハ四日市迄、下ハ宮、船路之事

一、右之馬数壱疋分、居屋敷五拾坪宛被下候事

一、坪合千八百坪居屋敷を以、可被引取事

一、荷積ハ壱駄卅貫目之他付被申間敷候、其積ハ秤次第たるへき事

右之条々相定上相違有間敷事也

伊奈備前(印)

慶長六      彦坂小刑部(印)

丑正月    大久保十兵衛(印)

桑名年寄中

(「箱根八里―難所東坂を登る―」箱根町立郷土資料館編 2001年より)

小田原宿と三島宿は慶長6年(1601年)に伝馬朱印状を受け取っていますが、この際一緒に「御伝馬之定」という、伝馬役の規定が記された書状を受け取っている筈です。生憎両宿の「御伝馬之定」は今に伝わっていませんが、東海道の各宿で現存するこの定書は、何れも内容が大筋で共通であることから、恐らくは現在に「御伝馬之定」が伝えられていない各宿でも、同様の内容の定書を受け取っていたであろうと考えられます。

しかし、この定書には右の例の様に伝馬で常備すべき馬の頭数、隣の宿駅や馬1匹に載せる荷物の重量の上限などが記されていますが、宿泊に関する定は含まれていません。宿泊施設に関して東海道上で規制が行われたのは、この伝馬朱印状の配布とは別のことであったと思われます。


畑宿の場合、これまで見て来た通り、北条氏の支配していた時代に宿場を営んでいた可能性が大ですから、江戸時代に入って何処かの時点で宿場の営業を「禁じられている」筈です。その時点で中世までの宿場施設を解体し、茶屋としてのみ営業できる施設に切り替えたのでしょう。しかし、これまで見てきた通り、箱根越えの道筋が流動的であったり、箱根宿の成立が遅れたりしている状況下では、長距離で険しい箱根山中の宿泊を無碍には規制出来なかったのではないか、と思われます。その後数十年ほど経過した頃に書かれた、前回引用した「東海道名所記」をはじめとする各紀行文・道中記では、「畑」について「宿」という言葉は使われなくなっていますから、箱根宿の成立以降遅くともその頃までには、宿泊機能を潰している筈と考えられますが、その時期や事情を具体的に裏付けることは今のところ出来ません。

従って、畑宿での宿泊が「復活」したのが何時頃かも定かではありません。しかし、後で紹介する様な規制が取り沙汰される頃には、既に宿泊は行われていた可能性が高く、畑宿での宿泊が「行われなかった」時期はあまり長くはなかったのではないか、という気がします。場合によっては、看板を取り外すなど表向きの対応だけで、裏ではこっそりと宿泊客を受け入れ続けていたのかも知れません。

間の宿の宿泊規制が幕府から触書の形で明文化されて通達された記録は意外に遅く、正徳5年(1715年)の「伝馬宿の外にて旅人宿泊制禁之触書」(小田原宿・片岡文書上での表題)が最古になる様です。それに先立つ延宝8年(1680年)には、茶屋の出店規制や営業時間の規制など、最初の間の宿への規制が具体的に示されますが、そこではまだ宿泊規制は明確化していませんでした。この延宝8年の触書では店の女性の着物や化粧についての指示などが盛り込まれているので、「色仕掛け」に傾いていた茶屋の風紀是正が先に念頭にあった様ですが、営業時間を規制することで結果的に宿泊を制限することを期待していたかどうかは定かではありません。ただ、正徳5年にこの様な御触が改めて出されたということは、少なくとも暗に仄めかす程度では宿場以外での宿泊が止むことはなかったのは確かでしょう。

その後享保8年(1723年)に同様の触書が再度出された後、文化2年(1805年)に三度同様の趣旨の触書が出されました。結局、正徳5年の御触も期待した通りの効果を上げられなかった、あるいは少なくとも効果が長続きはしなかったということです。

御伝馬宿之外間々村々煮売茶屋ニ而、猥旅人休泊之宿いたし又ハ茶立女等差置旅屋等も仕馴、近在之駄賃馬等雇荷物付送りいたし候処有之、本宿之障り成段相聞候間、向後子細有之ハ格別、軽き旅人たりと言とも猥成義有之(ニ脱)ゐてハ宿致候ものハ不及申、其所名主年寄り迄可曲事趣、正徳五未・享保八卯年相触候処、近年猥相成、諸家之通行も於間々村々休引受候も有之哉相聞候、立場人足休足迄之義ニ而旅人食事等之休ハ間々村々ニ而可引受筋無之条、間々村方休之積り、若先触有之節ハ前後宿方之内最寄之方究置、其宿ゟ前日通行之向可申立候、尤行懸り旅人たりといふとも右准し可相心得候、

(「箱根町立郷土資料館館報 第15号」 1999年 左開き2ページより、強調はブログ主)


この史料に時折見える「(みだり)」という一語や「向後子細有之ハ格別」という言葉が案外大事ということについては後で触れるとして、まずはこの触書の結果どうなったかを見ておきましょう。

この点を考える上で、気になることを記した道中記が存在する様です。箱根町立郷土資料館がまとめた「「街道」関係資料調査報告書」(2001年)には、箱根を経由する道中記類が74点、解題と共に紹介されています。その中に「西国巡礼道中細記」(斎藤覚右衛門、宝暦13年・1763年)という道中記が紹介されているのですが、解題によれば

前(板)橋、風祭、三枚橋、湯本、畑、山中、元箱根は「皆宿也」とあり、間の村での宿泊を伝える。…箱根〜三島間についても、山中・笹原・三つ屋・一(市)ノ山「皆宿也」と間の村の様子を記している。

(同書14ページ、…は中略)

とのことです(未出版の様なのでこれ以上の情報がありませんが)。


甘酒茶屋付近(ストリートビュー
江戸時代の道は現在の茶屋の裏手にある
斎藤覚右衛門はここでも
宿を密かに営む甘酒小屋を見たのだろうか

「神奈川及箱根山江尻龍華寺景図」の甘酒小屋
「神奈川及箱根山江尻龍華寺景図」に描かれた甘酒小屋
(「箱根八里―難所東坂を登る―」より引用)
この図の通りなら、木賃宿としても不十分な
小屋でしかなかった様にも見えるが…
覚右衛門自身はこれらの間の村に泊まった訳ではなく、きちんと箱根宿に泊まっているのですが、この書き方では箱根八里の沿道の村々は事実上何処でも宿泊客を受け入れていたということになります。「畑」の隣に「山中」がありますが、西坂にも「山中」があることから、これは出現順の混乱ではなく別の集落を指している可能性もあり、位置関係から考えると甘酒茶屋があった笈の平辺りを指しているとも受け取れます。そうすると抜けているのは須雲川村位ということになりますが、須雲川村にも茶屋があった点との整合性を考えると、これもあるいは書き漏らしただけなのかも知れません。

無論、この一例だけで当時の状況を推察するのは無理があります。ただ、こうしたことが本当に可能だったかを考えてみる価値はありそうです。いくら当時の旅行客が増加傾向にあったとしても、正式の宿場である小田原・箱根・三島や、比較的施設が揃っていそうな畑宿、更には湯治場の各集落に匹敵する様な施設を、こうした間の村の民家が何処でも備えていたとは到底考えられませんし、そこまでの宿泊者を集めていた様にも思えません。それでもこうした実態があったとすれば、こうした間の村にあったのは専ら「木賃宿」だった、ということになりそうです。特に江戸時代中頃であれば、木賃宿本来の形式である、「食料は自前で持ち込み、木賃のみ支払い」という形態の宿もまだ多かったと考えられるので、それならば茶屋程度なら勿論のこと、更には特段の施設のない普通の民家でも、宿泊客向けの食材などを余分に準備しなくても、薪だけ不足がない様に調達すれば客を泊めることは充分可能だった、ということは言えそうです。

覚右衛門が記録したのも、こうした間の村に「事実上の木賃宿」が散在する状況だったかも知れません。宿泊禁止の触書が出された手前、道行く旅人にどの様に宿を貸す意思表示を出していたのかは不明ですが、本来の稼業の片手間に一夜の宿を貸す家が、箱根山中では一時期至る所にあったのかも知れません。

こうした状況がいつ頃まであったのか、他に類のない指摘なので何とも言えませんが、後にこれらの間の村のうちで畑宿など限られた村だけが問題とされる様になったことと考え合わせると、それ以外の間の村での宿泊は最終的には消滅してしまったか、存続していたとしても小田原宿や箱根宿にとって問題視されることのない程度の希薄な商いだった、ということにはなるでしょう。また、覚右衛門が実際にこの状況を見た頃のこれらの村々での売上も、殊更に槍玉に上がる様なものではなかったのかも知れません。

裏を返せば、それだけ畑宿での宿泊が小田原・箱根両宿にとっては「目立つ」ものであった、ということは言えそうです。勿論、先程の触書にも拘らず、畑宿での宿泊は相変わらず行われていたことになります。因みに、上記「「街道」関係資料調査報告書」中では、畑宿の宿泊が最初に記録されているのは賀茂真淵の「岡部日記(上記書では「真淵紀行(岡部日記)」と記されている)」ということになりそうです。これは元文5年(1740年)江戸から岡部へ里帰りした時の紀行・日記です。

夕つけて箱根山にかゝる。関まではくるしとて、はたといふ所にやどる。いとはや夜さむなれば、ねもいらぬに、瀧の音・鹿の声うちこめたる山の秋風聞きあかされて、立ち出でぬ。

(「遠江資料叢書 七・賀茂真淵 岡部日記 訳注」後藤悦良 1989年 浜松史蹟調査顕彰会 17ページより、強調はブログ主)

「関所に(閉門時刻までに)辿り着くのが難しくなったので」と一応事情が記されている点は、この問題を考える際のポイントでしょう。また、日付が正徳5年より25年ほど後のことである点も念頭に置く必要があります。

ところで、先程の文化2年(1805年)の触書を契機に、箱根宿が小田原宿に呼び掛け、畑宿と湯本での宿泊取締を道中奉行所に訴え出ています。この経緯については、以下の論文が詳細に解説をしています。以下、この論文に従って話を続けます。

「間の村と湯治場にとっての「一夜湯治」」 大和田公一

(「交流の社会史—道・川と地域—」小田原近世史研究会編 2005年 岩田書院 所収)


2宿からの訴えに対し、畑宿の方からは次の様な回答が道中奉行宛に差し出されます。

一、大久保安芸守領分相州足柄下郡畑宿名主畑右衛門・組頭久兵衛奉申上候、畑村之儀東海道往還筋ニて、登り箱根へ壱里八丁、下り小田原三里在之義ニ御座候、従先年一膳食煮売いたし渡世往来之旅人助益を以取続罷在、尤小田原宿ヨリ箱根迄四里余之継合、殊ニ東海道第一之難所ニ而、従往古御大名様方御小休み被仰付、御湯漬御飯差上候義在之、猶又前後両宿御用宿差支候節ハ不時ニ御用宿御受申上候義も御座候、且正徳五未年御伝馬宿之外間々村々煮売茶やて猥りニ旅人休泊為致間敷旨御触御座候ニ付、別取調御諸家様方御休泊ハ勿論自余往来之旅人ニ至迄引受候儀決不仕、尤山坂大難所之義ニ付、旅人足痛其宿相願候も、成丈ケ前後宿方罷越候様相断候得共、当所之儀ハ箱根御関所前ニ而登り旅人及暮ニ候得ハ御関所越兼、其上足痛ニハ何分歩行難相成、達止宿之儀相願候節ハ右之旨一札取之、役人共ヨリ宿申付候儀間々有之、…

文化二乙丑年八月

大久保安芸守領分

相州足柄下郡畑宿

名主 畑右衛門

組頭 九兵衞

道中御奉行所様

(上記書87〜88ページより、…は中略)

長くなったので途中で切りましたが、上記の正徳5年の触書が出た後、箱根山中の険しさで足を痛める旅人や関所の閉門時間を配慮して畑宿での止宿を容認する様に願い出て、条件が揃えば宿泊させても良い旨許可を得ていることが記されています。省略した後段では、更にその後再三の御触れに際しても同様の趣旨で許しを得ているのだから、今回の道中奉行からの御触に関しても同様に認可を戴きたい、ということが書いてあります。要するに相応の事情があって認可を得て既に久しいのだから、という訳です。賀茂真淵もこの条件のもとで畑宿に泊まったということになるでしょう。

結局この件は基本的に畑宿の側の主張が道中奉行に受け入れられ、畑宿と箱根宿・小田原宿の間で「規定書」を取り交わすことを条件に以後の宿泊も認められることになりました。ところが、その規定書の文言を巡って箱根宿と小田原宿の考え方の相違が表面化してしまい、結局畑宿と個別に協議を重ねる様になってしまいます。最終的には小田原藩まで調停に乗り出して調印に漕ぎ着けますが、その調印も小田原宿、箱根宿と別々に取り交わす格好になりました。

旧東海道:箱根関所跡を江戸方より見る
箱根関所跡を江戸方より見る
箱根宿は基本的に関所の三島側にあったが
江戸方には数軒の茶屋があり
関所が締まるとこちら側でも宿泊は出来た
話を最初に持ち掛けたのが箱根宿だったことからも窺える様に、少しでも畑宿に規制を掛けたかった箱根宿に対し、小田原宿の方は畑宿についてはそこまでとは考えていなかった様で、それが両宿が持ち寄った規定書文案に違いとして出てしまったために、調整の結果畑宿にはそれ程のダメージにならない所で落ち着いたのでした。その点では、箱根宿にとってはあまりおいしくない結果になった、ということになるでしょう。

この2つの宿場の「温度差」は、やはりそれぞれの宿場の立地に関係があるでしょう。このケースでは一番山の上に位置する箱根宿が最も不利な条件下にあり、関所の閉門時間も絡んでどうしても客が宿場まで来にくい状況があるため、少しでも規制を強めて客を誘導したいという発想になりやすかった、という側面はありました。対して小田原宿の方は湯本での一夜湯治の影響の方が大きく、それに比べれば山の中腹まで行ってしまう畑宿の客にはそれ程未練を感じなかった、という差はあったでしょう。

その点で、やはり宿場以外での宿泊の問題は、個別の事情を加味して是非を判断する方向が強く、一律化することが難しかったのでしょう。梅沢の時も訴えを出していたのが専ら大磯宿側だった、という事情と共通していると言えそうです。

他方、畑宿の宿泊は元からかなり大目に見られていた傾向があったことが、この一件でも窺い知ることが出来ます。それは何よりも「箱根山中」という、東海道の他の区間には滅多にない悪条件下の道中である点が、最大限配慮されていることによるものでしょう。間の村の宿泊禁止の廻状を再度出したばかりの道中奉行の下でも方針が覆ることがなかったのも、この配慮の大きさを表していると言えますし、その程度の柔軟性を持った宿泊禁止令でもあった、という言い方も出来ると思います。その柔軟さを含ませた一言が、触書に出現する「(みだり)」という一語であり、「向後子細有之ハ格別」、つまり「特別の事情があれば別として」の一言ではなかったでしょうか。伝馬朱印状を渡した宿場が困窮を訴える様な状況になっては困るけれども、程々であれば事情次第で容認するに(やぶさ)かではなかった、という辺りが江戸幕府としての「落とし所」だったのかも知れません。


現在の湯本本郷付近(ストリートビュー
今も温泉宿・茶屋が並ぶ
因みに、小田原宿の方は畑宿よりも湯本での「一夜湯治」と称した宿泊の方を何とかしたかったのですが、後日改めて湯本での宿泊の規制を狙って道中奉行に訴え出ています。しかし、こちらも元々認められている宿泊形態である上に、湯本の湯治場が東海道からは外れた位置にあって間の村でさえないという点が重なって、敢えなく訴えが退けられてしまいます。何しろ相手は「温泉」という他に代え難い魅力のある地ですから、容易に太刀打ち出来ないのは止むを得ないところですが、既に宿場財政が疲弊していた小田原宿としてはこれで他に打つ手がなくなったという見解に至り、「飯盛女」の設置認可の申請へと動くことになります。


畑宿の宿泊がその後も「肥大化」してしまい、以前も見た様に伊勢講中の定宿に畑宿が入ってしまう程になっていたとなると、いくら「規定書」を取り交わしたところで有名無実化していたと言わざるを得ません。その点は宿泊客を思う様に増やせない箱根宿としては何とも歯痒いところだったでしょうが、それもこの「天下の剣」の下を行く旅人たちの手前、如何ともし難いと半ば諦めていたのかも知れません。そのくらい、「箱根越え」は旅人にとって「難事業」であった、という意識が当時の人々の間で共有されていたことの表れだったと言えるでしょう。

次回、余録を1回挟んでこれまでの話をまとめたいと思います。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その5)

前回は、江戸時代の箱根宿の成立の経緯や、それに関連する畑宿経由の道の整備について見てきました。今回は、その後間の宿となっていく畑宿の歴史を見ていきます。

これまで見てきた茅ヶ崎・南湖や梅沢の立場に比べると、中世には宿場を営んでいたと思われる畑宿の方が歴史があることになりますから、江戸時代初期の道中記などに早々とその様子が描かれているのはある意味当然ではありました。元禄3年(1690年)の「東海道分間絵図」の該当箇所(リンク先の写真では左側、一里塚の右隣)には変体仮名で「はた」と記された右隣に「ちや屋数々」と明記されています。中世に「畑宿」だった集落が「畑」とのみ記されていて「宿」が添えられていないのは、伝馬朱印状を受け取った「正式な」宿場ではなくなったからでしょう。

また、万治年間(1658〜61年)に出版されたとみられる「東海道名所記」(浅井了意著)にも畑宿の様子が書かれているのですが…。えー、取り敢えず引用します。

湯本(ゆもと)の地蔵は、海道(かいだう)の右にあり。…(はた)

楽阿弥申すやう、「畑村(はたむら)は、はこねたうげの坂口なり。(たうげ)までは一里なれども、難所(なんじょ)なれば、草臥(くたびる)る也。茶やに立より、ゆるりとくつろぎて(のぼ)るべし」といふて、家につれて立よる。茶やに女あり。茶をうしろむきてたて(はべ)り。「おすがたをみれば、如意輪観音(によいりんくはんをん)ほど、うつくしうおはしますが、うしろむき給ふこそ、心得ね」といへば、楽阿弥(らくあみ)がいふやう、「これも、いはれあり。三十三(じん)の外に、むかしより、(しり)くらひくはんをんとて、これ有」といふ。さかわ・沼津より、大なる(あゆ)を出して(うる)(すし)常にあり。餅・団子(だんご)・酒、みな、よそよりは、ことの外、値段(ねだん)たかし。さればにや、茶やみなきれいに、人がらもよし。はこねの坂をまへにかゝへて、坂のおかげが、つようおはします。楽阿弥、かくぞつぶやきける、

()ともにはこねは(はた)のこやしかな

(この)坂は、あまりに難所(なんじょ)なれば、いかなる旅人もくたびれて、(くそ)をたるゝ故に、はこねといふらん。古き歌に、

四里(しり)のぼり谷より谷にへめぐりて二里(にり)二里(にり)くだるはこねやまかな

と、よみけるぞかし。きたなき坂のやうに聞ゆ。

(冨士昭雄校訂 国書刊行会版 48〜49ページより、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

後半何だか急にスカトロな雰囲気になってしまっていますが(笑)、「箱根」の「はこ」が古語で「大便」を意味するので、そこから「畑のこやし」に引っ掛けてこういうネタにしている訳ですね。「4里」をわざわざ「2里2里」と割っているのも…まぁ、声に出して読んでみればおわかりでしょう。十返舎一九は江戸時代末期の人ですが、江戸時代初期にも結構こういうことを書く人がいたんですねぇ。

ネタ噺はさておき、この頃の畑宿はまだそれ程の評価がされていなかったのかも知れません。物資の乏しい山中で何でも外から運び上げなければならない手前、止むを得ないこととは言え、それが商いの価格に跳ね返ってくるのはこの時代も一緒でした。丁度足を休めたい場所に位置する故の賑わいはあっても、値段の割にこれと言って見るべき物が無かったのが、こういう言葉遊びへと流れざるを得ない理由だったかも知れません。

それが、江戸時代も中頃を過ぎた頃の紀行文ではこういう表現に変わってきます。

湖水は漫々として海のごとし 山の絶頂にかく水有べしとはおもひよらず驚かれぬる 猿すべりかしの木坂などさのみ険しからねど石多角数十里を過こし好僕等脚つかれ気うみてあゆみなやめり 山の中甚寒く雲の行かふ手にとるごとく綿衣など着まほしきほどに覚ゆ 此辺に山せういばら多し 十姉妹の花咲みだれたり 箱根うつぎと名づけしがこゝに多きゆへとしられぬ 時鳥数多啼侍るもあはれぶかし 畑の茶店は殊に賑しく色よきめの声をそろへ旅人をよぶ 芦原雀の鳴が如し

(「吾妻の道芝」松平秀雲 寛保元年(1741年)より、「近世紀行日記文学集成 一」津本信博編 1993年 早稲田大学出版部 247ページより引用、強調はブログ主)

山の峠をこえて東に下るは羊腸として嶮峻なる事山の陽の類に非ず 左右に高山(そばだ)って道の傍に深谷あり 然れ共治まる世の(シルシ)とてかゝる深山絶倫の処迄も行客の為に酒肆茶肆を設ふけていこはしむる処かぞへがたし 中にも川畑(注:この「川畑」は須雲川村のこと、西から進んできているので、順序としては畑宿の方が先に来る)などいへる処は箱根峠の宿にも劣らず声おかしくも人呼ぶ女の額のきはに髪を高々と結び上げ時知らぬ冨士の高峯の雪よりも白々と顔にぬりたるさまなどいとおかし

(「東武遠遊日記」訥斉先生[江村訥斉] 寛延元年(1748年)より、上記同書 337ページより引用、強調はブログ主)

江戸中期頃には大分客引きが喧しくなっていた様ですね。特に「東武遠遊日記」の女性がかなり濃い化粧をしている所から見ると、この頃は他の立場同様に「色仕掛け」に傾きつつあったのかも知れません。

更に時代が下った頃の紀行文を見ると、

(注:四月)廿四日…湯本などを過て日がくれかゝりぬれば畑といふ山里にやどりぬ この家はおのづからなる山を庭にいとをかしうつくりなしてやがて谷川の水をもせき入たれば山の中より滝おちて軒ちかくながれゆくもいと涼しければ人々おりたちてむすびあけ手あらひなどす

たちよりてくる人ごとにむすぶかなのきばにおつる滝のしらいと

廿五日の暁松ふくかぜに夢たえたるをりしも例の郭公の鳴ければ

二声も三こゑもきゝつほとゝぎすはこねの山のあけがたのそら

とことはにながるゝ山水の音は雨のふるやうなれどけふも日はよし

(「草まくらの日記」本居大平 安永二年(1773年)より、上記同書 542ページより、…は中略、強調はブログ主)


畑宿本陣茗荷屋跡(2009年当時のストリートビュー
旧東海道:畑宿茗荷屋跡ガイド
畑宿茗荷屋跡ガイド
店の裏に、山中の借景を巧みに取り込んだ庭を作り込んで、訪れる客に堪能させている訳ですね。こうして見ると、その間に畑宿が街道内での地位をしっかり確保していた、とも考えられます。

ところで、「草まくらの日記」では投宿した宿の名前を明記していませんが、ここまで立派な庭を作り込んでいたことで知られているのは、恐らく「茗荷屋」ということで間違いないだろうと思います。ここは南湖や梅沢の「松屋」同様、「茶屋本陣」として知られる店でした。今では建物はなくなってしまっており、跡地であることを示すガイドなどが立っているだけですが、かつては豪勢な庭が整えられ、浮世絵の題材にまでなりました(歌川芳虎 東海道名所絵 箱根畑 文久3年)。

「茗荷屋」が何時頃から茶屋本陣を名乗る様になったのかは梅沢の「松屋」同様不明ですが、この主人である「畑右衛門」について、「新編相模国風土記稿」は次の様に伝えています。

◯名主畑右衛門 家號を茗荷屋と稱す、往來の諸家此家を休憩所とせり、傍ら湯本細工挽物塗物を鬻ぐ、先祖は九郎左衛門と稱し、弘治二年北條氏の文書に…載る所、則其人なり、夫より子孫連綿して當所に住し、世々里正たり、中頃九兵衛が時、貞享中大久保加賀守忠朝、小田原入部の時、畑右衛門と名を與へしより、代々通稱とす、

(卷之二十七 畑宿の項より、雄山閣版より引用、…は中略だが村民退転の際の文書が引用されている、強調はブログ主)

(その3)で引用した畑宿の村民退転の際の文書の奥付を見返して戴ければ、この意とするところが理解出来ると思います。北条氏から得た「諸役御免」確認のための退転の一件の、首謀者3人のひとりの末裔が、こういう商いをする様になった訳ですね。

また、この風土記稿に記されている通り、元が挽物商だけにその後も土産物として木工細工を販売し続けていた訳で、これが今の箱根細工に繋がることになります。その意味では畑宿の茶店は挽物商のショールーム的な存在でもあって、土産物だけではなく時には受注生産も行っていた様です。その点では、畑宿は南湖や梅沢の様な立場とは若干違う性質を持っていたということが出来ると思います。

(注:安永3年4月、箱根の)山の高所にのぼって、また四分の一里ほど(くだ)り、そこからさらに箱根の村まで旅を続け、そこで昼食をとった。また帰路に備えて二、三の漆器や他の貿易品を注文した。そして広大な山の高い地点にある、この見晴らしの良い場所での眺望を楽しんだ。

(「江戸参府随行記」トゥーンベリ/高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫 150ページより引用、ルビも原文通り、強調はブログ主)

五月二七日、我々は箱根山を越えたが、そこで往路と同じような事柄に出会った。箱根村で昼食をとり、往路に注文しておいた品物を受け取って、その支払いをした。

(同書197ページより)

これはオランダ商館の江戸参府一行の往来の際の事例ということになり、また注文を出したのは箱根の宿内で、ということになりますが、そういう観点では箱根の一帯が木工品の生産・販売拠点として機能していた様です。茶屋というショールームを使って、旅人から注文を受け取って帰路までに仕上げる、という商売が成立していた様ですね。だからこそ、幕末に海外との貿易が解禁された時に、畑宿茗荷屋の主人が、逸早く箱根細工の輸出を目論んで来日した外国人相手に商売を始める、という動きが出来た訳です。

もっとも、時にはこんな失敗事例も記録されています。

(注:文政七年3〜4月)…萬づ挽ものゝ細工は畑村を以最上とす、即湯本より西へ壹里、小田原よりは二里といへり、家居も多く又粒立し挽物賈ふ賣店若干なれば、職人も又此處に集えり、依て挽物類を注文しあつらへなば、當所を第一とす、但し樹の性により又は天日風雲にさらして能からしたるこそ能れ曝前方(サラシマイカタ)たるは挽上て後、或は(ソリ)又はひづみ破る事(マゝ)あり、予三月晝此畑村に憩ひ、樹の性を吟味し茶事に用る大圓盆寸法の如く申付、日限いついつと約諾し、五月十一日婦路の砌立寄て仕揚し挽物を見るに、樹厚からざるに反ありて用ひがたければ、又敢てあつらへ申(ツケ)たり、諸木澤山なれば甚下料たり、只樹の性と能からしたると、職人の好惡によるべし、當所より萬の挽物小間物類毎月兩三度づゝ、小田原より便船あれば注文可ならんかし、

(「遊歴雑記」十方庵敬順 五編卷の上「拾壹 箱根宿川田が湖水の景望」より、「江戸叢書 巻の七」1964年 名著刊行会 33〜34ページより引用)

往路で特注したお盆を帰路に受け取ろうとしたら、反りがあって使い物にならないので再作成を命じた訳ですね。敬順は余程気に障ったのか、同じ事を帰路の項(「第五十四 箱根畑の挽物御茶壺の警固」)で再び書いています。まぁ、注文した物が思い通りにならなかったのを見て気分の良い人はいませんが、野点(のだて)が趣味の十方庵にしてみれば、これで上物が手に入ると期待しながら長い帰路を歩いて来ただけに、落胆も大きかったのでしょう。たまたま悪い職人にあたってしまったということで敬順も理解はしていた様です。


また、幕末になって来ると、

(注:文政9年(1826年))骨のおれる道を進んでわれわれは美しい木製品で有名な畑村(Hata)に着き、とくにそのために建てた家の中で、これらの製品が陳列してあるのを見たが、値段は非常に高かった。大抵は家具か贅沢品で、象眼をしたもの、編んだもの、漆を塗ったものがあり、生の樹皮や貝がらを使ったものがあって、要するにこの国の人々の本当の趣味を表わしていた。

(「江戸参府紀行」シーボルト/斎藤信訳 1967年 平凡社東洋文庫 183ページより)

ファイル:Muku Obon of Hakone Yosegi.JPG - Wikipedia
箱根寄木細工の丸盆(Wikipediaより)
と、購入するのを断念させてしまう程の価格になっていた様ですが、これが「箱根ブランド」が確立して高級品化したことの現れとみるか、それとも幕末日本のインフレの亢進によるものかは何とも言えないところです。シーボルトは結局駿府で木工細工を買い求めていますので、どちらかと言えば箱根細工の相場が上がったことの代償だった様にも見えますが…。因みに、箱根の寄木細工は畑宿の石川仁兵衛が始めたとされていますが、シーボルトが「象眼」と見立てたものは時期的に見て寄木細工でしょう。今では「箱根細工」と言えば真っ先に寄木細工が連想される程になっていますが、この頃の箱根細工にはまだ寄木細工以外の手法も様々使われていた様です。


さて、梅沢では鮟鱇が名物となっていましたが、畑宿を含め箱根山中は飲食の点では相変わらず分が悪かった様です。何しろ田畑のものも海のものも全部、山の麓から持って来なければならないのですから、値段も鮮度も他の地とは勝負になりません。畑宿で雑煮を出していたと十返舎一九が書き記していますが、あとは茶漬け程度で取り敢えず腹を満たしてもらうこと優先のお品書きにならざるを得なかった、というところでしょう。山中に多数点在していた甘酒小屋も、その点では山中での手っ取り早い糖分補給のためのスタンド、という面が強かったのではないでしょうか。

そんな中で川魚はどうだったのか、ということになるのですが、芦ノ湖で獲れる魚について紀行文に現れるところを見てみると、

箱根の峠にてうる魚は湖中にて捕る 其形あゆに似てあゆにあらず 一種の物なり 気味いかゞ食せんとせしに所の者のいへるは甚味あしく人を害すと制せしかば止にき

(「吾妻の道芝」松平秀雲 寛保元年(1741年)より、「近世紀行日記文学集成 一」上掲書 所収 247ページより引用)

(箱根権現に参拝し、曾我兄弟の祠などを見て廻った後、)それより杉はやしの中を通りて家居六七軒あり、こゝにて酒飯を商ふ。湖水の産赤はら魚もあり、此魚持帰りて后食して見れは油臭く美味ならす、又山椒魚も見ゆ。

水にすむいもりの虫によく似たり

山椒の魚に赤はらの魚

(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保六年(1835年)より、「神奈川県郷土資料集成 第六集神奈川県図書館協会編 1969年 413ページより引用)

山椒魚については別項を立てますが、少なくとも食膳に乗る性質の食材ではありません。寧ろ強壮剤や疳の虫の薬といった位置付けのものです。それにしても「赤はら」の方は不味いし(下手をすると)(あた)るから止めとけと言われただの、持ち帰って食べたら油臭かっただのと、散々な書かれ振りです。

この魚の正体ですが、

(熱海から北上し日金山を越えて)程なく箱根の駅にいづ。かごより下りて、物くわする家にてしばしいこふ。湖に舟見ゆれば、

「何の舟ぞ」ととへば、

「すなどりにいづる舟なり。腹赤(はらか)(いふ)うを(魚)ゝ多くとる」

といふ。彼つくしより奉る腹赤のうをは、今(さけ)といふうを也。このうみにもありや。

「其うを見たし」といへば、

「これなり」と(くし)にさしたるを出すを見れば、江戸にて「うぐひ」、沼田にて「くき」と云うをなれば、

「げに物の名も所によりて替るなり」

と打笑ひて、爰をいでゝ(関所へ向かった)

(「玉匣両温泉路記」原正興 天保十年(1839年)より、「江戸温泉紀行」板坂燿子編 平凡社東洋文庫 173ページ「23、湖水眺望」より引用)

ファイル:Tribolodon hakonensis-2011.jpg - Wikipedia
婚姻色の出たウグイ(Wikipediaより)
腹が赤い魚というので鮭かと思ったらウグイで、場所によって魚の呼び名が違うんだなぁという話ですね。ウグイは産卵期が近付くと婚姻色である赤色に染まるため、箱根ではそこから「赤腹」「腹赤」などと呼んでいました。普通に調理したのでは臭みがある魚で食べようという人は少ないみたいですね。漁師がウグイを串に刺していたのはこれを干して保存食に加工する準備をしていたのであって、干しウグイになれば旅行客向けの膳にも出せる様になったのですが、「木賀の山踏」ではそれを何故譲って食べさせてしまったのでしょうね。ともあれ、箱根宿まで行くと芦ノ湖で獲れる魚を調理して出していたのは確かな様です。

ところで、畑宿からは東海道を逸れて芦之湯へと向かう道がありました。(その2)で紹介した「飛龍の瀧」へと向かう「瀧坂」と呼ばれる道です。鉄道・バスの発達した現在の箱根にあっても、険しい道を上り下りしなければ到達出来ない場所にあるため、箱根観光の「穴場」的存在の一つになっていますが、当時もそれは同じだった様です。

湯もとを過て畑にいたる道のかたへ正眼寺といふに、応永の石灯籠あり、石のはたへあらひてすりとりかたし、畑のすくの中程北のかたに坂路ありてのほる、蘆の湯へ行へし、名を滝坂とよひて、いとけはしともけはしき坂路也、二十八町とはいへとさまてはあるましくやあらん、けはしさにいとつかれたり、十三年むかし源躬之をともなひてこの坂の紅葉見にとふりはへて来しことありき、其比はこの坂路今よりもさかしく、冬のはしめなりしに、汗あえてあへきあへきのほりしそかし、その時長哥よみしこともありき、滝は高ねよりこゝかしこの上に落くるこゝちす、今日は坂路の中程よりわたくし雨と□ふりいてゝいとゝくるしさをそへぬ、日くるゝほと、からうしてあしの湯なる勝間田かりつきぬ、

(「箱根日記」清水浜臣 文化十年(1813年) 「神奈川県郷土資料集成 第六集」 389ページより引用)

東海道分間延絵図:畑宿村付近
「東海道分間延絵図」畑宿付近(再掲)
左上に芦之湯へ向かう道筋が描かれている
箱根七湯に滞在している湯治客が、時折外出して散策するコースの中に、この瀧坂が入っていた様です。この紀行文では以前に紅葉狩りに訪れたことがある旨記されており、その頃から紅葉の穴場になっていた様で、それは今に至るまで受け継がれています。茗荷屋の庭もそうですが、やはり食よりも風景が「売り」の地であった、ということになるでしょう。

さて、畑宿の江戸時代の様子について色々と見て来ました。梅沢の立場は同地での宿泊に関して大磯宿から再三に渡って抗議を受けていましたが、畑宿の場合はどうだったのでしょうか。その辺りの事情を次回見ていきます。

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