「小田原宿周辺」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】その14補足:小田原大海嘯にまつわる史料2点

以前明治35年(1902年)9月の「小田原大海嘯」についてこのブログで取り上げたことがあります。これに関連して、ネット上で公開されている史料を2点ほど見付けたので、補足として紹介しておきたいと思います。

1つは「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されている「明治三十五年九月二十八日神奈川県下暴風海嘯被害記事」です。奥付によれば「神奈川県測候所」が同年の11月14日付けで発行したもので、全28ページほどの簡潔な冊子ですが、非売品とされており、この冊子が何処に向けて配布されたものかは不明です。検索出来た範囲内では、神奈川県立図書館や県下の公共図書館では蔵書しているところはない様です。

以前の記事では「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)を引用しましたが、特に天気図や浸水地域図はこの冊子のこちらのページに掲載されている図と良く似ており、恐らくこの冊子を参照して作成いるものと思われます。この冊子にはまた、9月26日午後10時から29日午後11時までの気圧・気温・風向・風速・雨量・天気のデータ被害の一覧表が掲載されています。この一覧表も、「神奈川県災害誌」に掲載されているものと共通です。その他の著述部分も共通する部分が多いので、恐らく「神奈川県災害誌」がほぼ全面的にこの冊子に依存して該当箇所の記述を進めたのでしょう。


また、この冊子には「附・明治三十五年九月五六両日 神奈川県下小田原以西沿海激浪記事」と題し、小田原大海嘯の直前にやはり小田原沿海を襲った高潮被害についても併せて記されています。この時もやはり死傷者を出す災害となったことは以前の私の記事でも触れましたが、記事ではこの高潮の原因となった台風(この冊子では単に「低気圧」とだけ記されていますが)が8月31日頃に小笠原諸島を経て本土へと向かったものであったこと、そして来る台風に備えて小田原沿岸では急遽防波堤の修築を試みていたものの、功を奏しなかったことが記録されています。

もう1つの史料は、「土木学会附属土木図書館」で公開されている「土木貴重写真コレクション」です。ここには「小田原大海嘯」の被災各地の20枚の写真が掲載されています。

「土木貴重写真コレクション」に見える地名
「土木貴重写真コレクション」に見える地名
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この20枚が撮影されたとする地点をおおよそで地図上でプロットしました。複数枚撮影された地点もありますので、全部で12地点に留まっていますが、相模湾西側の幅広い地域に及んでいることがわかります。

これらの写真の中には鉄路が写っているものが少なくとも6枚(他に「山王原」2枚目にも線路らしきものが見える)含まれています。このうち、「国府津橋」(今の「親木橋」か、地形から西から東を見る構図)と「酒匂村」の2点は小田原電気鉄道のものでしょう。馬車鉄道から電気鉄道に切り替わったのが明治33年(1900年)ですから、その翌々年に損害を出したことになります。他方、「石橋」(2枚)「吉浜」「土肥村門川」の3点に見える軌道は「豆相人車鉄道」のものでしょう。この鉄道は明治28年(1895年)に熱海〜吉浜間で開業、翌年小田原までの延伸を果たしましたが、これは小さな客車を人が押して進むというものでした。どちらも海岸近くを進む江戸時代からの街道に併用軌道として敷設されていたため、高潮を被りやすい地域を進む区間が長くなり、その結果被害箇所が増えたと言えるでしょう。

特に「酒匂村」や「門川」の写真では、鉄路があらぬ方向にねじ曲げられているのが見て取れます。傍らの電柱(恐らく架線柱兼用)も同じ方向に倒れかかっていますから、架橋部分で高潮の強い水圧に押されて曲がってしまったものと思われます。「石橋」の1枚目の写真では路盤が大きく削られて線路が宙にぶら下がってしまっており、他にも地盤を削られたと思われるものや、家屋が歪んでしまったものが多数見られることからも、当日の高潮の威力が窺い知れます。

当日の様子を描いた「小田原大海嘯全図」と共に、この災害の実情を伝える貴重な写真と言えるでしょう。




2015年9月のストリートビューに見える
江の島弁財天道標
P.S. 以前お伝えした遊行ロータリー交差点の「江の島弁財天道標」ですが、先日新たにガイドが設置されたそうです。

遊行ロータリー交差点江の島弁財天道標 #藤沢キュン : 全部假的


今回はしっかりした内容の説明が付けられており、更に英語の説明が付記されました。

また、ストリートビューの方は2015年9月の撮影分が追加され、復旧された道標が確認出来ます。なお、交差点の形状が変更された影響で、前回までのストリートビューと完全に同じ場所で比較することは出来なくなっており、右のストリートビューは道標が見えやすい位置に移動させています。
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【旧東海道】その14余録2 元禄地震・宝永地震・宝永大噴火と小田原

ファイル:1703 Genroku earthquake intensity.png - Wikipedia
元禄地震の震度分布(Wikipediaより)
ここまで、小田原宿の成立の歴史を「小田原大海嘯」と重ね合わせて見てきました。他方、その少し前に内閣府防災担当のまとめた元禄地震の報告書宝永大噴火の報告書を紹介しましたが、それらの中でも小田原での被害状況が取り上げられています。その一部は紹介の際に既に取り上げていますが、ここで改めてもう少し掘り下げてみようと思います。

元禄16年(1703年)に起きた「元禄地震」の際の記録としては、梨木祐之の著した「祐之地震道記」が相模国内の東海道筋の貴重な記録として重要視されていることが「元禄地震報告書」でも紹介されています。概要は同報告書内の「第6章第1節 『祐之地震道記』の跡を辿る(東海道、戸塚〜小田原)」(184〜190ページ)や「第8章 小田原地域の被害状況と復旧に向けての対応」(235〜237ページ)などでまとめられていますが、ここではまず、「祐之地震道記」の小田原付近の原文を、少々長くなりますが引用します。

酒匂川の土橋落て、徒渉の人夫をやとひて、川を越たり。是より小田原にさしかゝる。駅の入口の番所顚倒せり。城も焼亡、宿中類焼せる焼亡の跡、墓も残らずみゆ。されど人馬の骸骨は、所々にみちみちてみゆ。目もあてられぬ有様也。臭気風にみちて、旅客鼻を擁して過ぬ。駅の中程、せうけん明神の社有。社も顚倒せず。鳥居、朱の瑞籬、類焼せずして残れり。駅家も地を払焼亡したりに、此社残御座事、神威のいちじるしき事、仰ても恐たふとむべし。また駅の上り方の山上に、天神の社有。これも傾倒せずしてみゆ。駅の南北の入口は類焼せざれども、一つとして柱の立たる家はなし。

駅の人に尋ねたりしかば、宿中男女千六百人程命を失ふ。往還の旅人は数もしらず。たまたま家を逃出たる者は、海辺に逃迷ひて潮にとられたる、その人数いかほど有ともしらず。家頽て籠の中の鳥のごとく、出ん事もかなはず。声を上て呼さけべども、たすくる者もなく、其内に火焔しきりに及びて、焼死たり。駅馬も残らず斃れり。その内に、廿二日の夜半時分程に三度、荷をおほせて行たる馬二疋、途中にて地震にあひたりしが、不思議にも馬も人も命をたすかれたりとぞ。

其他商人の(者カ)、飛脚の輩、此宿に泊たる者、生残たるは、十に一二なりとぞ。駅中海道の中は水道也。其水道裂破て、足を立るにさだかならず。焼亡の折節、水道の上は、水路溢て、下は水不通、火を消滅するに、便を失へりとぞ。小田原大地震は、七十一年(寛永十年)以前に有と古老語り侍る。小田原合戦は、百弐拾(拾弐カ)年以前の(七カ)月一七日の事也。其後築たる城也しが、此時焦土と成ぬ。浅ましき事也。駅の人語侍る。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」147ページより引用)


この記述から、当日の小田原宿では地震による建物の倒壊やその後に発生した火災によって多数の死者が出たことがわかります。また、津波については難を逃れて浜辺に出てしまった人たちが攫われたことを記されていますが、「その人数いかほど有ともしらず」と津波による被害者の数は不明であることを書いています。

他方、その4年後の富士山の宝永大噴火の際の小田原の様子について、「富士山宝永噴火報告書」の記述を以前の記事で引用しました。その箇所を再びこちらに掲げます。

『蔵人日記』にも、

「小田原中ニ壱人(ひとり)も無之。津殿(波ヵ)(まいり)候とてそう動(騒動)仕候。其内女壱人有之家有之故」

とある。小田原の住民は津波を恐れていたようで、資材・雑具を土蔵や穴蔵に入れてどこかに逃げ去り、各家に1~2人の番人を残していた。強い空振によって戸が外れ、暗闇の中、噴火雷の稲光がひっきりなしに輝く不気味な情景が描かれている。…

小田原は、元禄16 (1703)年の元禄関東地震で大きな地震動と津波の被害を受けた。その後、宝永4(1707)年の宝永地震でも、津波の被害こそ報告されていないが、地震動による多少の被害を受けている。そのわずか49日後の宝永噴火の開始であり、噴火初日から小田原で空振、噴煙による暗闇、噴火雷、降灰が記録されている。その初めて経験する異常な状況に、恐らく人々は津波の再来の前兆を感じ、夜通し寝ずに恐怖していたのではないだろうか。

その3日後の11月26日(12月19日)になって、近江屋文左衛門子息の平八が箱根を越えて小田原にたどり着いた。平八は26日の小田原の状況を『伊能勘解由日記』に、

「廿六日夕小田原ニ泊候(ところ)ニ、町中男女(ならびに)旅人共ニ、津浪入候事無心許(こころもとなく)存、夜中ふせり不申候由」

と書いている。23日から3日を経てもなお、小田原の住民が津波を恐れて夜通し起きていたことが記されている。

(同書65ページ、…は中略)


この2点を読み比べると、小田原宿の人々は4年前の元禄地震の際の記憶から、宝永大噴火の際には予兆を感じ取って事前の避難行動を取った様にも見受けられます。しかし、元禄地震の津波については「祐之地震道記」では宿内にまで及んで被害を齎した様には記述されていません。そうなると、4年前の津波の被害を小田原宿の人が殊更に恐れていたとするのは少々不自然である様にも思えます。他方、大半の町人が避難してしまったために宿場が機能不全に陥ったことを重く見た藩主が、津波の襲来については見張りを立てて見つけ次第知らせるからと説得に廻ったことが「富士山宝永噴火報告書」にも記されていますが(同書75ページ)、このことは藩主も町人が津波を恐れるのは無理からぬ事と理解していたことを裏付けています。こうした判断がどうして生まれたのか、もう少し掘り下げてみる必要があるのかも知れません。

もしや、梨木祐之は小田原宿内の津波の被害の痕跡を見逃したのでしょうか。著者の梨木祐之は京都の神官という高い知識を持っていたと考えられる人ではありますが、地震によって生じる様々な被害の痕跡を見て仔細にその原因を分析する様なスペシャリストではなかったのですから、帰路通りすがった街道筋で、倒壊した建物の様子を見て何処まで原因を識別し切れたかは確かに疑問です。無論、焼け焦げた跡があれば火災によるものであることくらいはわかるでしょうが、地震による倒壊の跡と津波によって倒壊した建物を見分けることまで出来たかどうかはわかりません。因みに彼らが小田原に到達したのは地震から4日が経っており、その頃までは津波による浸水は引いていたでしょう。

(その5)でも見た通り、特に新宿付近は標高が5mほどしかなく、しかもそのすぐ東に山王川が流れていますので、海沿いの防潮堤もその河口までしか及んでいません。現時点では小田原付近での元禄地震の津波は4mほどと見積もられています(「元禄地震報告書」6ページなど)が、もし「祐之地震道記」が津波の痕跡を識別できずに新宿などで津波による被害があったのだとすれば、実際の津波はもう少し高かったのかも知れません。もしもそうだとすれば、宝永大噴火の際に小田原宿の人が津波を恐れたのは、その4年前の記憶があったからという可能性も出て来ます。

しかしながら、この説の難点は、梨木祐之は自分の目で見たものだけを記しているのではなく、方々で関係者から見聞きした情報を併せて記していることです。「祐之地震道記」は「駅の人」の証言として小田原宿の死者を1600人ほどと記していますが、この数字はかなり確度が高いものであったことが「元禄地震報告書」に記されています(227〜228ページ「1 小田原藩領内の被害について」)。とすれば、祐之が問い合わせた「駅の人」は宿役人など宿場内の被災状況を俯瞰出来る地位の人であった可能性が高く、実際祐之はその様な地位の人とコンタクトできる立場にあった人でした。もし宿内に津波による被害が相応にあったのであれば、その報告をこの様な立場の人が聞き漏らしているとは考えられませんから、その状況は祐之にも伝えられていたでしょう。とすれば、やはり元禄地震の津波は辛うじて小田原宿内までは届かなかったのかも知れません。

東海道分間延絵図:小田原宿江戸口付近
東海道分間延絵図:小田原宿江戸口付近(再掲)
もっとも、「東海道分間延絵図」に見られる通り、小田原宿の江戸口付近では道の真中に水道が掘られており、その下流は山王川と接続されています。更にこの地域は小田原宿内でも特に標高が低く、この位置関係であれば、あるいは山王川を遡上してきた津波が水道へと逆流する状況は考えられなくもありません。分間延絵図は江戸時代後期に作成されたものであり、元禄地震の頃の様子を表しているものではありませんが、元禄地震の13年前(元禄3年・1690年)に作成された「東海道分間絵図」でも小田原宿江戸口の「池」は描かれており、当時もほぼ同様の状況であったと考えて良さそうです。ただ、「祐之地震道記」中の「焼亡の折節、水道の上は、水路溢て、下は水不通、火を消滅するに、便を失へりとぞ。」と水路の破壊によって行き場を失った水が溢れた状況が記されているので、溢れた水の中に津波によって逆流してきた水が混ざっていたのかどうかは判然としなかった様です。

しかし、何れにしても宿内に限れば元禄地震の津波の影響は限定的であった、と考える方が妥当である様です。

となれば、宝永大噴火の際の小田原宿の人々の避難行動を考える時には、もう少し別の要因を探した方が良さそうです。その点で、宝永大噴火の49日前に起きた宝永地震の影響を検討する必要があるかも知れません。

ファイル:1707Hoei earthquake intensity.png - Wikipedia
宝永地震の震度分布(Wikipediaより)
震度6〜7を示す点が駿河湾〜
知多半島にかけて連なっている
宝永大地震は主に駿河湾から西の地域で大きな被害を出し、関東では揺れは大きかったもののそれ程の被害はありませんでした。しかし、(その4)でも記した通り、この地震による津波で新居の関が流され、隣接する宿場も、更には白須賀宿も津波に呑まれる被害を受けました。また、地震自体による建物の倒壊やそれによる人馬の死傷などの被害は東海道筋の他の多くの宿場でも多数出ていました。


こうした事態は当然、東海道の継立運用の麻痺に繋がります。実際、新居の関が通れなくなったため、大名行列も含めて一時本坂通り(浜名湖の北側を迂回する脇往還)を経由する様になり、その沿道の村々に人馬継立の負担がのしかかる様になったため、大名行列の本坂通り通行の差止めを道中奉行に訴える事態が後に起きています。もっとも、これが切っ掛けになって浜名湖を迂回する人馬が増えてしまい、最終的にはこの脇往還の通行を道中奉行が認め、途中の市野・気賀・三ヶ日・嵩山が宿場として公儀の継立を行う様になったのですが。

そして東海道は当時日本で最も太い情報流通経路でもありましたから、その情報は街道筋の各宿場の問屋場にも早々に届いたことは間違いありません。街道を往来する旅人からも、西の方の被害の酷さは連日聞かされていたでしょう。

宿場を2つも壊滅させた津波が起きたとなれば、同様に海に近い小田原宿も、同じくらいの規模の地震が起きれば危ういという認識を持ったのではないでしょうか。4年前の地震で起きた津波は宿内に達していなかったかも知れませんが、津波に攫われて命を落とした町人がいたという記憶も、その危機感を後押ししたでしょう。

そこに富士山が噴火して連日地響きが続く事態になったのですから、これを来たる大震災と津波の予兆と受け取ったとしても不自然ではありません。次に数ヶ月前よりももっと大きな地震が襲ってくれば、今度は小田原の街が潮を被るかも知れない…そんな思いが町民を支配し、早い避難行動に現れた、ということは十分考えられる様に思えます。勿論、当時は地震や津波の発生する具体的なメカニズムについての知識がない時代ですから、どの程度に警戒しているべきか、歯止めになるものもなかったという点も思い起こしておく必要があるでしょう。

何れにせよ、これだけ大きな天変地異が数年内に立て続けに起きていれば、不安と恐怖を募らせるのも無理からぬことでしょう。宿場の業務もそっちのけにして街が殆ど空になってしまったのも、その点では理解できるものだったと思います。
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【旧東海道】その14余録1 小田原・松原大明神で祀られた亀

ファイル:Matsubara jinja(odawara) 2.jpg - Wikipedia
小田原・松原神社(再掲・Wikipediaより)
前回までの話は大分前から書き溜めていたものですが、当初はその最終話の余談として軽く触れて終わるつもりで書いた部分がありました。しかし、その最終話の本題自体がかなり長くなったので、余談の部分を割愛せざるを得なくなりました。今回はその余談の部分をもう少し膨らませて書いてみたいと思います。

序でですので、ここまでの記事の一覧を掲げておきます。



(その3)」の回に、「新編相模国風土記稿」に収録された「北条五代記」からの引用を紹介しました。松原大明神(現:松原神社)に小田原の浜に上がってきた大亀を運び込んで俄に宴になったというエピソードの部分ですが、その引用をここに再掲します。

同年(注:天文十四年)三月廿日の日中、大龜一つ小田原浦眞砂地へはひあがる、町人是を怪み捕へ、持來て松原大明神の池の邊に置、八人が力にて持煩ふ程なり、氏康聞召大龜陸地へあがること、目出度瑞相なりとて、卽刻宮寺へ出御有て龜を見給ひ、仰に曰、天下泰平なるべき前表には、鳥獣甲出現する、往古の吉例多し、是偏に當家平安の奇瑞、兼て神明の示す所の幸なりと、御鏡を取寄せ龜の甲の上に是を置しめ給ひ、夫龜鏡と云事は、さし顯して隱れなき目出度いはれありと、御感悦斜ならず、竹葉宴醉をすゝめ、一家一門悉く參集列候し、盃酒數順に及ぶ、萬歳の祝詞を述給ひて後、件の龜を大海へ放つべしと有しかば、海へぞ放ちける、此龜小田原の浦を離れず浮びて見ゆる、…

(卷之二十四 小田原宿・宮前町中「松原明神社」の項 雄山閣版より引用 原文小字)

小田原市が編纂した「小田原市史」には「別編 自然」という巻があり(2001年刊)、この巻には海の生物もまとめられています。相模湾まで多少範囲を広げて記述されているのですが、生憎と海亀の仲間はその中に含まれていません。戦国時代に小田原の浜に漂着してお祭りされたというこの亀は、どんな種類なのでしょうか。勿論、「北条五代記」のこの記述だけでは具体的な種の特定など出来る訳もありませんが、無理を承知でちょっと気楽に検討してみたいと思います。

アカウミガメ - Wikipedia
アカウミガメ(Wikipediaより)
現在、日本の太平洋沿岸で産卵のために海亀が上陸する地域は西日本から南の沿岸が多く、神奈川県の相模湾沿岸では、三浦半島や平塚海岸などでアカウミガメの産卵の事例が少数報告されている程度です。日本で比較的よく見られる海亀はアカウミガメ、アオウミガメとタイマイですが、この3種ではアカウミガメの生息域が最も北寄りで、相模湾で見られるのも基本的にアカウミガメです。その点から考えると、北条氏康に吉兆なりと万歳の詔を受けたのも、やはりアカウミガメである可能性が一番高そうには見えます。

「北条五代記」の記すところでは、大人8人掛かりでもこの亀を運ぶのに難儀したとあります。「五代記」のことですから少々誇張した表現になっている可能性が少なくありませんが、例えば大人ひとり当たり30kg程度の荷重を分担して運んでいたなら、この亀は240kg程度はあったということになります。これだけ重いと何か輦台の様なものに載せて運んでいるでしょうから、その分の重さも考慮すべきでしょうが、それにしてもこれ程までに重いアカウミガメがいたのでしょうか。

WikipediaWWFによれば、アカウミガメの体重は最大で180kgぐらいですから、それに近い体重なら確かに大人数名では持ち上げるのはなかなか大変でしょうが、「8人掛かりでも…」は少々誇張して表現されているということになりそうです。但し、ナショナル・ジオグラフィックのサイトには「これまでに450キロを超える大きな個体も発見されている。」などととんでもない記録が載っていますので、ひょっとしたら本当に200kgを大きく超えるほどに大きかったのかも知れません。もっとも、これだけ大きくなるためには相当に餌に恵まれていないと難しいでしょうから、日本近海でその様な個体が生息していたと考えるよりは、より条件の良い南の海で長い時期を過ごした個体が潮に乗って北上してきた、ということになるでしょう。

それとも、アカウミガメよりも大型になるアオウミガメなど、日本近海でもごくたまに見られる種が、たまたま漂着した可能性も考えられるでしょうか。ただ、過去の気候変動という点では、戦国時代の頃はむしろ今よりも冷涼であったとする説が有力なので、温暖な地域を回遊するアオウミガメなどが今よりも北上してくる可能性は、あまり高そうには見えませんね。なお、大正3年(1914年)5月22日に、小田原の沖合でオサガメが漁網に掛かった記録があり、「總量九十貫目(337.5 kg)左右翼八尺五寸(257.6cm)長サ七尺九寸(239.4cm)胴廻リ八尺七寸(263.6cm)」と大きさが記されています(「一枚の古い写真」小田原市立図書館 1990年 192ページ)。オサガメは基本的に南の温暖な海域に棲む海亀で日本近海では滅多に見られるものではなく、この時もたまたま黒潮に乗ってきたのであろうと推測されていますが、この大きさと重さなら、確かに8人がかりでも運ぶのは大変そうです。

さて、「五代記」では天文14年(1545年)の3月20日(新暦に直すと5月1日)の日中のことであったとしています。アカウミガメの産卵期は5〜8月頃なので、ぎりぎり掛かっているとは言えるものの、アカウミガメのメスが産卵のために浜に上がるのは夜で、それ以外では基本上陸することはありません。戦国時代の頃の小田原の漁師が、海亀が産卵のために上陸してくることをどの程度知っていたのかは良くわかりません。が、少なくとも昼に海亀が上がって来るのは滅多にないことですから、浜の人が奇妙に思ったのも無理からぬことではあったでしょう。

通常の生態に反して上陸している状況を考えると、この亀は上陸時点で既にかなり弱っていたのではないかとも思うのですが、宴が済んだ後で海に無事帰ったと記すのが事実なら、適宜水を掛けてやったり食べものを与えてやったりして、「介抱」はしていたのかも知れません。何しろ鏡を甲羅に載せて祀り上げられてしまった位ですから、亀にも何かしらの「お供え」があっても良さそうなものではあります。但し、アカウミガメは何かと目の前のものに「噛み付く」習性があるそうなのので、下手にお供え物を食べさせようと手を出して噛まれたりしなかったかは少々心配ではあります。


Keiunji -03.jpg
参考:神奈川宿・慶運寺(うらしま寺)
石碑の下の亀似の像も「贔屓」で指がある
("Keiunji -03" by Aimaimyi
- 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
今も松原神社の境内には、以前も触れましたが亀の石像が祀られています。生憎と石像の首が取れてしまっているのですが、神の使いだからということなのか、拝殿の方を向けて安置されています。前脚に指が彫られていたりして陸亀っぽいのはご愛嬌でしょうか。この石像がいつ頃作られたものなのかは不明ですが、この手の石像は得てして様式化された姿を彫る傾向が強いので、「贔屓(ひいき)」の像などの様式が影響しているのかも知れません。

繰り返しになりますが、「北条五代記」の記述を信憑性のあるものとして読むのは危険な面もあります。しかし、いわゆる「浦島伝説」(神奈川宿では慶雲寺が「浦島寺」として知られる)や、川崎・大師河原に伝わる「霊亀石」の伝説などと比べると、竜宮城へ連れて行かれたとか亀が石を運ぶのを手伝ったといった、超常性や非日常性は「五代記」の海亀の記述にはありません。強いて言えば亀のサイズがやや誇張気味である様に見える程度で、他はアカウミガメの生態と照らしてもさほど隔たったものにはなっていないことが、ここまで見てきたことでわかると思います。その点から判断すると、江戸時代には小田原の浜に海亀が上がるという話には十分リアリティがあったのでしょう。当時の小田原の人達に海亀についての具体的な知識がどの程度であったかは不明とは言いつつも、やはり実物を目にする機会はそこそこあったのではないかと思います。つまり、その頃にはアカウミガメが小田原の浜で産卵していた可能性を考えて良いのではないでしょうか。

ところで、その大亀が上がった小田原の浦は「北条五代記」では「眞砂地(まさごち)」と表現されていました。ここは「新編相模国風土記稿」が記す様に

古は三角町の屬新久に鹽田ありしに元祿圖にも鹽濱と題す、寳永中富士山焚燒の後、屢怒浪に嚙れて廢せりと云、

(卷之二十四 足柄下郡卷之三 小田原宿・海の項、雄山閣版より、なお同書で欠落している文字については国立国会図書館デジタルコレクションより鳥跡蟹行社版を参照して補充)

と、宝永大噴火までは塩田が営まれる程の砂浜がありました。こうした景観は明治時代から大正時代にかけて撮影された小田原周辺の海岸の写真でも確認出来ます。


海亀が産卵に訪れるのは砂浜ですから、上陸したのがオス亀であったとしても、砂浜がなければメスを追って浜に近づくこともないでしょう(死骸や衰弱した個体の漂着は別ですが)。その当時はウミガメが産卵に使えるだけの充分な砂が堆積していたのでしょう。

昭和23年の地形図と現在の地図を重ね合わせると
特に山王川付近から東側で海岸が後退しているのがわかる
(「今昔マップon the web」より)

しかし、今の小田原の海岸はかなり砂浜が痩せ細っています。特に酷いのは上の地図にも見られる通り山王川河口付近から東側で、特に酒匂川から東側の西湘海岸では最近になって養浜工事を国の直轄事業として実施することになりました(神奈川新聞の記事)。一方、山王川より西側では

酒匂川からの供給土砂の激減により侵食しましたが、近年は安定/堆積にあります。

(「神奈川県県土整備局資料(PDF)より)

とされているものの、御幸の浜の西側は完全に礫海岸と化しており、ここを伝って早川河口まで歩くのは相当に難儀です。東側は養浜工事の効果もあって砂浜のこれ以上の減少を食い止めることは出来ている様ですが、それでも最盛期に比べれば砂浜が痩せてしまっていることには変わりがない様です。

こうした状況下で、数年前には小田原付近でもアカウミガメの孵化を数十年ぶりに確認出来たとの報道(「アカウミガメのふ化確認、市内では数十年ぶり/小田原」神奈川新聞 2010年9月8日)が示す通り、現在は小田原の海岸でアカウミガメの産卵のために上陸する機会が激減してしまったのは確かな様です。

戦国時代には大亀が浜に上がったと伝わるにも拘らず、今の地元の自然史にはウミガメの仲間が記されない理由の一端は、やはりこの砂浜の後退にあるのでしょう。

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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その5)

前回は、「小田原大海嘯」の浸水域を考えると、その中にある松原神社付近が小田原宿成立当初からの中心地であったとは考え難いのではないか、という自説を紹介しました。今回はその続きです。

「小田原大海嘯」の被害を、昔はもっと浜が広かったからという要因で説明しようという説も見掛けましたが、現在の宿場の南側の漁師町が高潮に対して脆弱であることの説明としてはまだしも、宿場の主要部が水を被りやすいことへの説明としては不足だと思います。「小田原大海嘯」の際に松原神社まで、更にその北側まで潮水が来たという事実は、漁師町が更に浜沿いに展開したことと関係なく、あの位置まで何時でも潮水が上がり兼ねないことを示唆しているからです。

因みに、河川の治水工事や砂礫採取で海岸への砂の供給が減って来るのは、小田原大海嘯のあった明治35年よりも後の時代の話で、事実大正時代くらいまでの写真では、国府津などの海岸には十分に砂浜があったことが確認出来ます。つまり、この時の被害はこうした地形改変の影響によって齎される様になったのでもありません。

むしろ、地殻変動などの影響で、宿場の標高が過去に遡った時にどうだったかを考える必要がありますが、今のところ高潮の際に潮の遡上する範囲に影響が出る様な大規模な地殻変動は、小田原周辺では確認されていないと思います。


古新宿町付近のストリートビュー
海岸方面を向いているが、そちらに向かって
緩やかな上り坂になっている
新宿・古新宿付近の基盤地図(「地理院地図」より)
国道1号線周辺の標高が約5m、中心が古新宿で約8m
海岸沿いは更に標高が高い
もっとも、宿場を含むこの一帯の街道は、山王川を渡ってから今の本町辺りまで、海岸に沿って出来た砂丘の上を進んでおり、その北側にはかつては山王川などが形成した後背湿地が大きく広がっていました。宿場の東端に当たる「新宿(しんしゅく)町」では、この海岸砂丘よりも内陸寄りを進んでいるのですが、その南の砂丘の辺りには「古新宿町」という町名が残っています。ここが中世頃まで街道が進んでいた場所で、稲葉氏が城下を整備した際に、山王口の移設に合わせて北側に道筋が付け替えられ、その際に「新宿」の地名が移動するとともに、それまでの地域が「古新宿」と呼ばれるようになったのです。これは、流石に海岸に余りにも近いために、その後背湿地を造成して町を移した訳ですね。今でも、新宿町の国道1号線沿いから南側を見ると、古新宿の方が標高が高いことが見て取れます。そこを考慮に入れると、当初は山王川を渡った地点から綺麗に海岸砂丘の尾根筋を辿る道筋であったことになります。


この砂丘の代わりになりそうな微高地が近傍に見当たらないので、かつての街道筋がこの砂丘を大きく外れて別の標高の高い場所へと向かっていたとは考え難いところです。そうすると、当初の小田原宿は、旧東海道筋のもっと標高の高い区間に展開していた可能性の方が高いのではないか、ということになるのではないでしょうか。但し、筋違(すじかい)橋町より西側では、もう少し山裾に近い場所を進んでいた可能性はありそうです。勿論、その辺りでは現在より標高の高い場所を求めて進んでいたことになります。実際、江戸時代初期の道路遺構が今の国道1号線の北側で発掘されており(筋違橋町遺跡第Ⅰ地点、第Ⅲ地点など)、何らかの理由で北側の敷地を広げ、街道筋を南に移す工事が行われた可能性が窺えます。「筋違橋町」が橋の名前に由来する町名を持っているにも拘わらず、該当する橋の存在が特定されていないのですが、「東海道名所記」など江戸時代初期の紀行文では筋違橋を渡ったと記すものも散見されることから、あるいはこの道の付け替えに際して水路が整理され、「筋違橋」が廃止されたのかも知れません。


東海道と熱海道の追分(ストリートビュー
右手が東海道、左手が熱海道
そうなると、当初の小田原宿はもっと標高の高い、更には海岸線からは隔たった場所にあった、つまり、今の南町の付近の方が、当初の宿場の立地条件としては最適だった筈ではないか、というのが今の所の私の考えです。この説に立って考えると、他にも腑に落ちる点が1つ見えて来ます。

それは、この南町付近に熱海道との分岐点があることです。以前見た様に、鎌倉時代に源頼朝以降歴代の将軍・執権が伊豆山と箱根の「二所詣で」を行っていたことから、鎌倉からこれらの権現社へと通う道筋が整備されたと考えられているのですが、それであれば、当初の宿場が出現するのはやはりこの2本の道が交わる辺りが中心になる方が自然ではないでしょうか。以前の引用文中に「称名寺文書の某書状に、二所への「御まいりの人ハ、をたわらと申候にとゝまり候しに候」」とある点も裏付けになると考えています。但し、(その3)で見た様に小田原の宿場の成立は鎌倉幕府の「二所詣で」よりは大分遅れましたので、この時間差が何故生じたかについては、もう少し何らかの説明が必要な課題と思います。

一方、松原神社の東側には東海道と甲州道の分岐点がありますが、この甲州道は小田原と甲斐国や滝山城(後には八王子城)との間を結ぶ道です。北条氏が小田原に拠点を置いた後、八王子には氏照を養子入りさせて関係を深めたり、甲斐国とは一時期甲相駿同盟を結んだりしたため、その頃には重要度の高い道になっていたことは理解出来ます。しかし、それ以前の時代には、鎌倉とこれらの土地との往来には関本から酒匂・国府津方面に下りる道の方が近道で便利であり、小田原にようやく宿場が出来た頃に敢えて甲州道から小田原を経由していたかは疑問です。そうなると、街道の交通量が先に伸びてくるのは熱海道の方の筈であり、集落が発達しやすいのも熱海道との交点の方ということになってきます。

今のところ、この説を裏打ちする明確な証拠はありません。ただ、この南町で比較的古い時代の井戸が発掘されている(御組(おくみ)長屋遺跡第Ⅱ地点)点は、あるいはこの説を裏付けてくれるかも知れないと考えています。小田原の市街地の発掘調査は必ずしも進んでいるとは言えないものの、掘れば何かしら出そうな雰囲気が多々ある地域だけに、今後の調査に特に期待したいところです。

また、韮山に本拠を置いていた筈の伊勢新九郎が外郎(ういろう)家を小田原に招聘した際に、定着した場所がやはり南町の付近であったという点も、元はそちらが小田原の中心地であったが故ということになるのかも知れません。

ファイル:Matsubara jinja(odawara) 2.jpg - Wikipedia
小田原・松原神社(再掲・Wikipediaより)
では、何故宿場が東の松原明神社(現:松原神社)の方へと動いたのでしょう。個人的には、この神社に肩入れして1万坪もの広大な敷地を寄進した北条氏綱が、その鍵を握っているのではないかと思っています。

松原明神の由緒書きは火災で失われているものの、口伝によれば、天文年間に海中から出てきた十一面観音像を松原からこの地に移して祀ったと伝えられています。前回取り上げた嫡子の北条氏康の大亀の吉兆からも、この社と海との深い関わりが窺えます。

更に、(その1)の最初に掲げた小田原宿のルートマップの標高グラフを良く見ると、松原神社の参道入り口を境にして、その東側は急に標高が下がっていることに気付きます。もちろんこれは現代の標高ですから、江戸時代以前に遡った時にもこのままとは限りませんが、微高地の基本的な傾向はそれほど変わっていないと思われますので、松原明神社がより水を被りやすそうな場所との境に立地しているとも言えそうです。

穿った見方ですが、私は氏綱が、新たな街場を拡げるにあたって、元からの町よりは水に浸かりやすい区間を使わざるを得なくなったために、その対策の一環として水に纏わる由緒の深い松原明神社を重用し、水難除けの神様として宿場の鎮守に据えたのではないか、という気がします。勿論、宿場の町人もその辺が水難という点ではあまり使いたくない場所であることは承知していたでしょうが、城主がそこまでして担保してくれるならと、その土地に住まうことを次第に了承していったのでしょう。当然、その頃から防潮のための土塁築造などの高潮対策は既に始めていたのに違いありません。

また、一説では松原明神社自体がかつてはもっと東寄りの、山王松原の辺りに位置していたとも言われています(「新編相模国風土記稿」)。この説の通りなら、氏綱が水難除けのために松原明神社を現地に遷座させた可能性も出て来ます。



小田原の土地利用条件図(地理院地図より)
旧宿場町周辺は砂丘、その北側は「埋立地」に
分類されている
それでは、何故そこまでして宿場を東へと移動したいと考えたのか。これはひとえに、城の拡充のために、更に土地が必要だったからでしょう。堀を掘るにしても、重臣の屋敷の敷地を確保するにしても、曲輪を拡げたその外側の土地が必要になります。ある程度は湿地の埋め立てで土地を捻出出来るにしても(大手門の付近が意外に周囲に対して標高が低いのはその名残です)、元より海沿いまで箱根の外輪山の裾野が広がっている土地ですから、平地自体がそれほどなく、更に未開の平地は湿地が多かったので、どうしても条件の良い平地が限定されてしまうことになります。当初の小田原宿は、その条件の良い土地から順に使っていったと考えられるのです。

小田原城は元々は山城としてその姿を現しましたが、その後城を巨大化する際には平地を目指して拡がっていきました。これはその足元に宿場があったことも関係するでしょう。その過程で城と宿場を拡充するうちに、土地が足りなくなって条件の悪い土地も利用せざるを得なくなっていったのでしょう。湿地を埋め立てたり、海岸に土塁を築いたりしなければ、これほどの大きな町を作り上げることは到底出来ない土地だった、ということです。とはいえ、そればかりでは城下が整理出来ませんから、宿場にも協力を要請して街道筋を東へと伸びていく様に造り替えていったのでしょう。宿場の方も小田原城との依存関係を深める過程で、城主の土木面の支援なしには成立し得ない姿へと変わってしまったのではないでしょうか。

そのため、小田原城が開城し大久保氏に引き継がれた後も、宿場を取り込んだ城は基本的にはそのまま維持せざるを得なくなっていたのでしょう。稲葉氏の時代になって宿内が整理され、近世の宿場らしい姿に変わっても、基本的にはその道筋は大きく変わることはなく、宿内が水難に遭わないように例年気を遣わなければならなくなったのは、そのためだろうと思うのです。でなければ、宿場をもっと山側の風水害に遭いにくい場所に移す選択肢もあり得た筈です。

何れにしても、「小田原大海嘯」の被災範囲を見ていると、どうしても「そこが最初から宿場だったとは思い難いなぁ」という気がして仕方がないのです。無論、現時点ではこんなことを考えているのは私くらいでしょうから、どの位賛同されるか、大々的に反論を浴びることになるのかわかりませんが…。

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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)

前回は、小田原城と小田原宿の成立の歴史を、「小田原市史」に書かれているところに沿ってご紹介しました。その過程で、「小田原大海嘯」の歴史を見た後では疑問を感じる様になった箇所があることも記しました。今回はその箇所を取り上げます。

前回の引用文中、私が問題ありと感じたのはこの箇所です。

そうした経緯で形成されてきた小田原の宿・市町は、海辺に近い箱根道に沿って展開し、もっとも古い中心は松原神社前にあたる宮前(みやのまえ)町(市内本町付近)であった。宿町は室町・戦国時代を通じ、ここを中心として北東の新宿(しんしゅく)(同浜町付近)の方向へ、西は大窪(おおくぼ)(市内板橋)方面へと次第に長い街村をかたちづくっていったのである。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」 630ページ「戦国初期の小田原」から、強調はブログ主)


小田原宿のおおもとの中心を松原神社周辺としていますが、ここで改めて、「小田原大海嘯」の時に水を被った地域を思い起こして下さい。その中に、「松原神社・宮前町」が入っていたことにお気付きでしょうか。

中世から近世にかけての宿場の歴史を追っていくと、宿場が海の水を被ることに対しては、意外なくらいにナーバスに反応し、その地を捨ててしまったり、より安全な地へと移動していったりするのが一般的なのです。時にはそれによって街道の道筋に影響が出た例もあります。小規模なものは別として、宿場全体が潮を被ってもなお同じ所に留まり続けた例は、湊町としての機能を兼ねていない限り、少なくとも私には思い当たる節がありません。それなのに、小田原宿は台風による高潮を被りかねない場所に、当初から宿場を展開していた、としてしまっています。これは考え難いのではないか、というのが私の疑問点です。

そこでまず、津波・高潮を被った宿場の歴史をいくつか見てみましょう。まず、中世の浜名湖の南には、橋本宿という宿場があり、ここで夜の宴が持たれたことが当時の紀行文にも屢々書かれています。しかし、この宿場は明応7年(1498年)の地震と津波によって壊滅的な破壊に遭い、その後の歴史から忽然と姿を消してしまいます。この消失に際して浜名湖周辺の地殻変動がどの様に生じたかについては、「中世の東海道をゆく」(榎原雅治著 2008年 中公新書)で諸説あることが解説されていますが(第三章「湖畔にて—橋本」、79〜108ページ)、ここでの話で大事なことは、この宿場が災害の後に再建されずに破棄されてしまったことです。

新居関所跡の位置
現在は周辺の埋め立てによって内陸になっている
東海道五十三次 (浮世絵) ~新居宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
新居宿(保永堂(ほうえいどう)版)

その代わりに、江戸時代には浜名湖口に新居(今切)の関が設置され、その隣に新居宿が設けられるのですが、新居関もまた津波や高潮と無縁ではありませんでした。慶長5年または6年(1600年または1601年)に現在「大元屋敷」と呼ばれる場所に設置された後、元禄12年(1699年)の暴風雨で「中屋敷」と呼ばれる場所へ移転し、宝永の大地震(宝永4年・1707年)の後の移転でようやく落ち着くことになります。新居宿もその都度関所と共に壊滅的な被害を受けては、関所に付随して移転を余儀なくされていますが、要害地形を選ぶ傾向のある関所に隣接している上に新居自身も廻船が出入りする湊町でもあった関係で、思い切って高台に上がってしまうことまでは出来なかった様です。その分、潮を被って移転する回数が増えてしまう結果になりました。

元禄3年(1690年)刊行の「東海道分間絵図」には、まだ「大元屋敷」に関所があった頃の姿が描かれていることになり、過去の経緯についての記述は特にありませんが、渓斎英泉の「東海木曽両道中懐宝図鑑」(天保年間、「天保懐宝道中図で辿る 広重の東海道五拾三次旅景色」人文社 所収)では

此所上古ハ陸地なり/しとぞ明応年中/大地震して湖水/なり又其後元禄/年中地しんして海/路あしく成しゆへ/宝永の比今切に杭を/打て海波をよけて/より舟行安穏也

(上記書86ページより、改行「/」に置き換え)

と記されています。


白須賀宿・潮見坂を上がったところが
宝永大地震後の白須賀宿
現在は坂の上に「おんやど白須賀」がある
東海道五十三次 (浮世絵) ~白須賀宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
白須賀宿(保永堂版)
汐見坂が描かれている

宝永の大地震による津波で壊滅的な被害を受けたということなら、新居宿の西隣の白須賀宿も挙げる必要があるでしょう。こちらは新居宿の様な「縛り」がなかったためか、震災後はあっさり「汐見坂」の上の段丘へと逃れることになりました。この坂が歌川広重の保永堂板「東海道五十三次」でも描かれています。かつての宿場町には「元町」という名前だけが残っています。こちらも「東海道分間絵図」ではまだ汐見坂の下にあった頃の白須賀宿が描かれているのに対し、「東海木曽両道中懐宝図鑑」では

此宿元禄年/中潮見坂乃/下より此所/にうつる

(上記書88ページより、改行「/」に置き換え)

と宝永の地震ではなく4年前の元禄地震である旨記されていますが、元禄地震の被災地が相模湾側に集中していて駿河湾より西側では軽微であったことを考慮すると、これは誤記と考えるべきでしょう。江戸近傍では元禄地震の方が被害が大きかった故に渓斎英泉が取り違えたのでしょうか。新居宿の「又其後元禄/年中地しんして海/路あしく成しゆへ」についても同じことが言えそうです。


吉原宿の位置
東海道五十三次 (浮世絵) ~吉原宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
吉原宿(保永堂版)
左富士の道筋が描かれている

江戸時代初期の宿場移転の事例としては、吉原宿が比較的有名かも知れません。この宿場は最初は田子の浦の近くの、砂丘の裏側に位置していました(元吉原宿)。ところが寛永16年(1639年)に潮を被って大きな被害を出し、和田川を遡上した場所に新たな宿場を設けます(中吉原宿)。それがまたしても延宝8年(1680年)に潮を被る被害を出し、翌年最終的に現在の場所(新吉原宿)まで宿場が移転したのです。この時に付け替えられた道がやや東へと向いている場所があり、そこが「吉原の左富士」と呼ばれる名所になったのでした。その後も吉原宿の和田川沿いでは水害に遭うことが度々だった様ですが、宿場の本体は水害から守られる様になったのです。

なお、この吉原宿の被害については「津波」と解説されているものが多いのですが、関連する地震などが確定されていないことから、これを「高潮」とするものも見られます。どちらが妥当なのかは現時点で確認出来ていませんが、その地形の特徴からかなり内陸まで潮が入り込みやすく、最終的には相当に遠回りする道筋にならざるを得なかったということになりそうです。

平塚・黒部宮
現在の黒部宮(再掲)
小田原宿の近隣では、以前にも見た平塚宿の例を挙げることになるでしょう。この宿場が「新編相模国風土記稿」のための「地誌取調上帳」に書き記したところでは、かつては黒部宮とともに南の砂丘列の上に宿場があったものの、やはり潮を被ったために現在地に移転して来たとしています(この場合も津波か高潮か特定は出来ていません)。この宿場からの説明は「風土記稿」には採用されることなく、結果として宿場の記録としてのみ残ることとなってしまいましたが、これが果たして史実であるか否かはさておき、大事なことはこの「地誌取調上帳」を記した江戸時代後期の宿場の役人相互の間では、この説が受け入れられていたということの方だと思います。つまり、江戸時代後期になっても宿場にとって高潮や津波はやはり「避けたいもの」であったが故にこそ、こうした説が確かなこととして受け容れられ、受け継がれていたのではないでしょうか。江戸時代も終わりが近い頃になっても、高潮や津波は相変わらず宿場の存続にかかわる重大な災害だった、ということです。

無論、高潮や津波は現代でも深刻な被害をもたらす災害に違いありませんから、殊更に宿場だけがこれらを不安視していた訳ではないでしょう。しかし、中世の街道筋が時には波打ち際を進むことがあった様に、他に適切な道筋が無ければ波に攫われるリスクも厭わなかった点を重ねると、かつての街道筋は自然界からのリスクに対してもっと「メリハリ」をつけて臨んでいたのではないかと思えて来ます。江戸時代にはリスクのある道筋を選ぶことは少なくなりますが、宿場の高潮や津波には相変わらず移転で対応していたのは、上記の例で明らかです。

これは私の見立てですが、恐らく、宿場は道行く人馬への「補給敞(ほきゅうしょう)」として機能していたことが関係していると思います。宿場では食糧をはじめとする大量の物資を無事に備蓄し、道行く人馬の必要に応じて十分に供給出来る体制を整えることが何より大事な任務です。そのために備蓄した物資が水を被ってしまっては、量が多いだけに損害もまた膨らんでしまいますし、備蓄が元に戻るまで宿場が充分に機能しなくなるということでもあります。このため、高潮で水に浸かってしまう様な立地では宿場の役に立たない、と見做されてしまい、一度でもその様な経験をした土地は二度と宿場として使わなかったのではないか、という気がします。

そこで、小田原宿の問題点をもう一度整理しましょう。「小田原大海嘯」の被害は確かに大きなものではありました。しかし、その際の気象データを見る限り、この程度の規模の台風は割と普通にあるもので、進んだコースと高潮の時間帯の兼ね合いで潮位が極端に高くなった、と考えられるということを説明しました。ということは、中世まで時代を遡る時、この様な被害を出す台風にはその間に何度となく遭遇していてもおかしくありません。もっと大きな規模の台風ならば、多少コースが逸れていても、やっぱり街道筋まで潮が上がりかねなかったのではないか、ということでもあります。

片岡助役の書き残した通り、江戸時代には小田原藩主が代々手塩にかけて海岸の防潮堤を維持管理していたので、そうした被害は最低限に抑えられていたのでしょう。江戸時代の小田原宿の風水害の記録は特に見つかっていない様です。しかし、それは飽くまでも防潮堤が機能したからであって、もしも堤防が無ければ江戸時代にも同程度の規模の被害に度々遭っていた可能性が大いにあります。その意味で、江戸時代の小田原宿は、小田原藩・小田原城が無ければ維持出来ない状況になっていたのです。

さて、更に時代を遡るとどうでしょうか。戦国時代後期は後北条氏の築いた城が、特に最終期の外郭・総廓が形成された頃には完全に防塁の内に小田原宿が収まっており、この頃には既に実質的な防波堤として総廓が機能していたと考えられそうです。しかしそれ以前の、まだ小田原城がこれ程大規模ではなかった時代、更にはそもそも小田原城が出来る前ということになると、海から上がって来る潮を防いでくれる存在もまだなかったことになります。そうなると、城が整備される前に松原神社のある位置では、宿場が潮を被らずに長期に渡って維持出来たとは考え難いのではないか、という気がしてしまうのです。前回見た通り、小田原宿が成立してきたのが称名寺文書の示す西暦1300年頃、北条氏綱が本格的な小田原城築城に乗り出すのが1500年代はじめ、ということは約200年余りの期間は海岸の築堤を維持してくれる存在がなかったことになり、それほど長い期間、あの位置が高潮に遭わずには済まなかった筈だということです。


では、成立当初の小田原宿が松原神社の周辺ではないとするならば、何処に立地していたのでしょうか。次回はその点について私なりの見立てを示してみたいと思います。

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