「大磯宿周辺」カテゴリー記事一覧

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【旧東海道】その11余談 梅沢の立場の「お品書き」

旧東海道・梅沢の現在の様子
梅沢の現在の様子(2007年)
茶屋本陣跡前から京方を見る
すぐ先で押切坂を下る
(その3)の回に、梅沢の立場では鮟鱇(あんこう)が名物であったことに触れました。ちょっと意外な魚の名前が出てきたので、今回は少し気楽に、この鮟鱇をはじめ梅沢の茶店で出されていたものを、紀行文などの記述から追ってみたいと思います。もっとも、タイトルは無理に「お品書き」としたものの、レシピなどが残っている訳ではないので具体的なメニューを再現するのは無理ですが…。

今回は「相模国紀行文集 神奈川県郷土資料集成第六集」(神奈川県図書館協会編 1969年)という本に、何故か梅沢の鮟鱇について触れた紀行文がまとまって見つかりました。あるいは神奈川県内の記述が豊富な紀行文を編者が意図的に選んだ結果なのかも知れません。以下その4点の引用です(強調、ルビ、注釈は何れもブログ主、「木賀の山踏」は再掲)。

大磯より二里計行て梅沢といふ所のやどりにやどりてしばし心をやしなふ。此里の漁人網をあげて得たりとて、あんがうひらめなどといふいを(魚)あざ(鮮)らけきをもて来れり。あるじいとよくこしらへものしければ腹もふくれぬ。

(「塔沢紀行」藤本松庵 元禄7年(1694年)、同書366ページより)

(注:文政七年三月)二十日

…梅沢村にやすむ。庭にほたんの花うるはしく咲たり。此村はあんこうといふ魚、あはのもちゐ売る家おほし。梅沢山藤雲寺といふ寺あり。藤の大木ありときゝつれとも、行かてにして見す。今をさかりの頃としられて、名こりおほかり。

(「甲申旅日記」小笠原長保 文政7年(1824年)、同書24ページより)

(国府本郷の)切通しを過、梅沢までは大体二りも有へきか、このいそつゝき梅花石有。然し梅花の備りし物稀々也。梅沢元来は山西村にて、梅沢はあさ名也と。橘姫の御(カバネ)を埋しによりて、うめ沢と云ひしとや。されは、さかはの海辺つゝきを袖か浦と呼る事も彼姫の御そてを打上しゆへ、袖かうらと云也けりと、則こゝに橘ひめの御社有。梅沢は春夏とても、あんかうのしる名物也。それに戯て、

すいた事なき世なりけりうめさはに

冬のかほれる鮟鱇の汁

みち興准后

旅衣はるまつこゝろかはらねは

きくもなつかしむめ沢のさと

(「東雲草」雲州亭橘才 文政13年(1830年)、同書325〜326ページより)

大磯より宿駕に打のりて行ぬ。小田はら近くなるまゝ歓ひの酒くまんとて梅沢てふ所にてある酒店に入。ここは鮟鱇といへる魚の名物なれは其魚のあつ物にて人々酒汲かはしぬ。

あんこうを肴にひとつ過さはや

酒匂川に近き家なれはこそ

(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保6年(1835年)、同書403ページより)


引用した紀行文のうち、特に最初の元禄7年の「塔沢紀行」に鮟鱇が登場するということは、梅沢の立場が大きくなってきた頃には既に鮟鱇が梅沢のお品書きに登場していたと見て良さそうです。同地の漁で何時頃から鮟鱇が獲れる様になったか次第ですが、あるいはもっと前まで遡れるのかも知れません。

「新編相模国風土記稿」では、山西村の「海」の項で「鮟鱇を此濱の名品とせり、(雄山閣版より引用)」と一言触れているに過ぎませんが、「楳澤志」ではもう少し詳しく触れています。

棘鬣魚(たい) 鯿(ひらめ) 的魚(まとうお) 鯖 鯵 松魚(かつお) (ほうぼう) (まぐろ)

 少しく網捕と()えども、皆東都(えど)へ運送して、磯(あきない)をせざる故に魚(とうとく)して賈下得益(あきないえき)(すくなし)

花臍魚(あんこう) 少しくあり。一名老婆魚、又は瑟琶(びわ)魚、無鱗魚とも呼ぶ。初冬(しょとう)より出る者は多く重い。春に至り()(こう)じ茶店街にて調味して之を(あきな)ふ。旅客(りょきゃく)の貴賎ともに(ほめ)食す。梅澤鮟鱇(あんこう)其の()(ろん)ぜず。彼全盛なるべし。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う、強調はブログ主)


筆者の実応は農産物の時と同様、こちらも多少控えめに漁獲を見ている嫌いはありそうですが、そんな中でも鮟鱇は割と評判が良かった様です。因みに、江戸が近海の漁獲の一大消費地で、東京湾や相模湾の沿岸の漁師が挙って江戸へと獲った魚を運んでいたのは事実ですが、その点では梅沢あたりまで離れてしまうと流石に遠過ぎたのも不利な点ではあった様です。特に足の早い魚は獲っても江戸まで運ぶ前に駄目になってしまったのではないでしょうか。

なお、最近の二宮町では、鮟鱇について

アンコウ Lophiomus setigerus 底引き網で獲る。冬は深さ100〜150m、夏は深さ50〜60mくらいのところにすむ。特に寒アンコウの吊し切りは徳川時代から梅沢の名物として有名であったという。最近は獲れない。以前はヒラメ、ブリ、アンコウなど冬のさかなは木の芽時には味が劣り、値は二束三文になった。

(「二宮町史 資料編1 自然」平成2年 277ページ)

としており、漁獲が減ってしまったことを示唆しています。また、鮟鱇の値段が春になると下がる点については、こんなメールマガジンを見つけました。

○悲しいアンコウの話 (相模湾試験場 川原 浩)

旬寒さが身にしみる12月から梅の花が咲き終わる2月頃までが一般に旬とされ 西のフグ・東のアンコウと言われるほど冬の味覚の横綱格であるが、この時期を過ぎると昔から鮟鱇を皮肉って川柳でも「魚偏に安いと書く春のこと」と読まれるように春になると急に味が落ちる魚とされている。 表題の何が悲しいかというとこの評価の落差である。

あまり知られていないが、私のいる小田原ではヒラメを対象にした刺網(ヒラメ網)が12~4月頃まで操業され、この網でアンコウ(キアンコウ)がよく漁獲される。しかし、悲しいかな漁獲が増えるのは味が落ちるとされる3月頃からである。

2月頃までは1500円/Kgの値が付くが3月末には100円~200円/Kgにまで値が下がり、最後は水揚げしないでくれというところまでいくのである。当然、水揚げ量の多寡、鍋という冬の食べ物といういイメージからくるニーズの低下の反映や厳密な品質評価という市場流通の結果であるが、漁師でなくても「そんなぁ~(/_;)」と言いたくなる。

(「神奈川県水産技術センターメルマガ VOL.142 2006-5-5」より引用、肩書は執筆時点、…は中略)

…どうやら流通の発達した現代の方が値崩れの酷さが増した様です。「楳澤志」の指摘に従えば、江戸時代にはむしろ春先の値崩れの頃に街道筋の茶店で割安に出したことで、普段は高嶺の花で手が出ない一般庶民の層にも手が届く様になり、旅路の良い土産話になると受けたのではないでしょうか。

では、梅沢では鮟鱇をどの様な料理にして客に出していたのでしょう。上記の文中には「汁」「あつ物」といった言葉が並んでいますので、やはり鮟鱇鍋の様な煮物にしていたと見るのが妥当なところでしょうか。どんな味付けをしていたのかは不明ですが。また、鮟鱇と言えば「吊るし切り」ですが、これは「本朝食鑑」にも記されている解体法なので、元禄の頃には存在していた様です。梅沢でも吊るし切りが行われていたことが上記「二宮町史 資料編1 自然」でも触れられていますが、これは

軒を並び梅沢あごをつるしてる酢の過ぎている梅沢の嫁

(「梅沢御本陣」二宮町教育委員会 1993年 82ページより引用、強調はブログ主)

こんな狂歌が残っていることから考えても確実でしょう。

ところで、梅沢の属する山西村に伝わる村明細帳の中に、こんな記述を見つけました。

あんかう(杯)         御菜

当浦ニ而十月ヨリ正月迄内取次第、一盃ツゝ年々御台所差上申候、但御屋敷迄飛脚ニ而さし上御屋鋪ヨリ御上被成候

(「二宮町史 資料編1 原始 古代 中世 近世」520ページより引用)

元になった史料(「山西村高反別村差出し諸色覚帳」)全体には元禄9年(1696年)の日付があるのですが、この史料は「覚帳」とある通り、各種の明細帳から必要な箇所を転記してまとめたもので、その中に含まれている記述は複数年に及んでいます。この箇所はすぐ前の中表紙から正徳3年(1713年)のものであることがわかります。後から書き足していっている訳ですね。

享保年間(1716〜36年)まで、江戸の幕府には全国各地から多数の「献上品」が挙って届けられていました。その詳しい事情については「徳川将軍家の演出力」(安藤優一郎著 新潮新書)という解りやすい良書がありますのでそちらに委ねます。相模国では中原の御酢の献上が著名でした。そうした献上品の中に、梅沢の鮟鱇も入っていた訳ですね。初物が水揚げされ次第、飛脚が江戸の代官屋敷まで大至急で鮟鱇を運び、(かみしも)姿の代官がその鮟鱇を携えて幕中へしずしずと見参…といった感じでしょうか。

この鮟鱇の献上が何時頃から始まったのかは不明ですが、鮟鱇献上に関する記録は山西村の宝永4年(1707年)の明細帳にも見えています。ということは、少なくともこの宝永〜正徳年間には献上が続けられていたことになりそうです。実はこの献上品の慣習はいわゆる「享保の改革」の一環で華美による浪費を抑制すべく、全国の大名・代官宛に大幅な縮小が命じられました(上記「徳川将軍家の演出力」参照)。中原の御酢もその一環で献上が廃止されたのですが、梅沢の鮟鱇も恐らくその時分に御多分に漏れず献上廃止になった様です。実際に、更に後年の村明細帳では献上に関する記録は見られなくなります。

旧東海道・梅沢茶屋本陣跡の敷地の古井戸
梅沢茶屋本陣跡の敷地の古井戸
時期的にはもっと新しいものの様だが
このお宅が近代以降も梅沢茶屋町の
中心であったことが窺える
その代わり、梅沢の茶屋本陣「松屋」からは、冬場には鮟鱇自体を、それ以外の季節には鮟鱇の皮の干物や鮟鱇子生干しが定客への献上品として大名宛に送られ、好評を得ていたことが記録されています(「梅沢御本陣」82ページ)。鮟鱇の根強い人気振りが窺えますね。

また、藤沢〜平塚間の南湖の立場では、おはぎを「あんこう」と称して供していたといいます(「神奈川の東海道(上)」179ページ)。これの元の出典になったであろう紀行文がどれかはわからないのですが、わざわざあんこを鮟鱇にかけた別名にしておはぎを売っているのは、どうも梅沢の鮟鱇を意識している様な気がしてなりません。江戸時代初期の紀行文「東海道名所記」には梅沢の記事はあっても南湖についての記述はないので、恐らく南湖は梅沢に比べると若干成立年代が遅いものと思われるのですが(「茅ヶ崎市史」では過去帳などを頼りに元禄年間以降の成立、もしくは興隆ではないかと推測しています)、茶屋本陣が同じ「松屋」だったり、何かと「先輩格」の梅沢に色々見習ったり肖ったりしていたのかも知れません。



さて、いくら鮟鱇が名物だと言っても、所詮は冬場がウリの魚、上記「東雲草」では春以降も鮟鱇の水揚げがある様に書いていますが、夏場には深海へと移ってしまうその生態の影響でさっぱりと揚がらなくなってしまいます。江戸時代の参詣シーズンが冬場だったのはその点では幸いではありましたが、他の季節にも道行く人はいますし、その時期に出すものがなければ商売が続きません。梅沢では鮟鱇のシーズンオフに何を出していたのでしょう。

そのような事例を探してみたのですが、なかなかこれというものが見当たりません。上記の紀行文の中には「ひらめ」の名前も見えていて、確かにこちらの方が漁獲量も多く、むしろヒラメを獲る網の中に鮟鱇が上手くすると混ざっている、という方が実情だったでしょう。一応冬場が美味とされるものの年中漁獲のある魚ではあります。ただ、具体的に梅沢のヒラメの名前が挙がっているのは、探した中ではこの紀行文だけでした。

また、以前引用した「東海道名所記」では、鰹が茶店の卓に供されました。もう一度引用すると、

梅澤 茶やあり。…男はさかなのため、鰹のあぶりものを買てくへども、樂阿彌はさすがにえくはず、かくぞよみける。

口の内に津こそはたまれ梅澤の茶やの(さかな)は我もすきゆへ

此哥にめでゝ、くはせければ、腹ふくるゝほどくひけり。男うちわらひて、

梅澤やなむあみ引てとる鰹彌陀の理(けん)でさしみにぞする

(「日本古典全集」日本古典全集刊行会発行 1931年、現代思潮社復刻版 1978年より引用、…は中略)

ここでは「あぶりもの」と言っていますから焼き魚になって出てきたのでしょうね。「さしみにぞする」は歌の中での喩えですから恐らくこの時の食卓にはなかったと思いますが、お品書きにはあったのでしょうか。いわゆる「カツオのたたき」があったかどうかはわかりませんが…。これも事例としてはこの1件だけでした。

それ以外に見つけたのがこちら。これがまたちょっと理解し難い例です。

錦織義蔵はその梅沢の繁栄振りを次のように書いている。

梅沢(雨晴) 街道ノ中程左ノ方津た屋(本陣ナリ)ヨシ、表ふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、△此処西ノ町ハズレ小休、カニジキト云魚切目アリ、色白(虫損)白豆腐ノ如シ、珍ラ敷テ食ス、味アシク跡ニテそば切ヲ食ス

(「川柳旅日記 その一 東海道見付宿まで」山本光正著 2011年 同成社 113ページより、一部原本『日本都市生活史料集成』8を参照の上追記、強調はブログ主)


この紀行文は「東海紀行」と言い、この人は慶応元年(1865年)に訴訟のために近江国滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市)から江戸に出てしばらく滞在していました。このため自国への帰路に付いたのはようやく5月25日、その帰路の様子が書かれているので、紀行文としては珍しい季節のものになりました。因みに、「表ふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、」は等覚院東光寺(藤巻寺)のフジのこと、時期的にちょうど見頃だったのでしょう。また茶屋本陣を「津た屋」と記しているのは義蔵の記憶違いと思われます。

ところでこの「カニジキ」という魚がどんな魚なのかが謎です。義蔵も聞き慣れない名前の魚なので試しにと注文した様ですし、何か良く知られた魚の別称であれば膳が運ばれてきた時に気付くでしょうから、珍品ではあるのでしょう。

「二宮町史 資料編1 自然」には同地で水揚げされる魚が一通り記載されており、地元の独自の名称があるものはそれも掲載されているのですが、その中にはこの「カニジキ」もしくはそれに近い名称の魚は入っていませんでした。ネットで検索してもこんな名前の魚は出て来ません。聞き違いという可能性もあるものの、この情報だけでは具体的に魚種を特定するのは難しそうです。ひとつだけわかっているのは、「豆腐の様に白い」白身魚だが、少なくともこの時はすこぶる食味が悪くて、蕎麦切りで口直ししているということです。ただ、これは調理の仕方が悪くて不味くなってしまったのかも知れませんし、この魚のこの時期の食味が悪いだけなのかも知れません。不味いとわかっている魚を調理して客に出すとしたら相当な魂胆ですが、店の方も出せる魚の水揚げが少ない中、見慣れない魚でも調理して出すしかなかったのかも、という気がします。



食事以外の、茶菓の類はどうでしょうか。上記の「甲申旅日記」では「あはのもち」が挙げられていますが、こちらもこれといった記録がなかなか見つかりませんでした。この粟餅(Wikipediaではこの様に解説されていますが、梅沢の粟餅がどの様なものだったかは詳細は不明です)もなかなか好評だった様で、松屋茶屋本陣の定客宛の献上品の中に入っています。「梅沢御本陣」(二宮町教育委員会編)のまとめた献上品一覧(83ページ)から茶菓に属すると言えそうなものを拾うと、(カッコ内は献上月、確実に同一のものと思えるものは項目をまとめました)

  • 粟餅(名物切粟餅)(1,2,8,9,10)
  • 饅頭(4)
  • 粟アンコロ(4,5)
  • 草ノ花餅(4)
  • 上菓子(4,6,7,8,10)
  • 柏餅(5)
  • 上打菓子(5)
  • アベ川(6)
  • オハギ(6)
  • シンコ餅(8)
  • 手搗アンコロ(10)

これらは折々の季節の他、献上の際の様々な背景が品物に込められているケースもありますので、梅沢の他の茶店で出されていた時期と合うかどうかまではわかりませんが、上菓子の様な明らかに献上用に誂えられた、一般向けではないものは別として、梅沢の茶店で出されたもののおよその目安として見ることも出来そうです。中には今でも普通に目にするものも入っていますね。

ただ、果物も含め、「楳澤志」が地元の農産物の稔りが少ないと書いていた点を考え合わせると、勿論中には地元で穫れたものを使っているものもあるのでしょうが(粟などは流石に現地調達しそうですし、小豆や大豆は何とかなりそうです)、中には材料を周辺の村から取り寄せたものも入っていそうです。勿論、砂糖などは外から調達するしかないでしょう。

あぁそうそう、多くの人が気にするであろう(笑)お酒について書くのを忘れていました。山西村では2軒ほど酒造を営む家があった様ですので、梅沢の茶店で出していたのも多分そこのお酒でしょう。ただ、今と違って銘柄を気にする時代ではないので、地酒マニアの方には残念なことに、どの紀行文を見ても「酒」としか出て来ません。二宮町の山西地区には地元ブランド酒を売っているお店がある様ですが、そこが果たしてこの江戸時代の酒造家のうちの一つなのかはわかりませんが…。



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【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その4)

元々、「その11」は前回までで一区切りさせるつもりでした。しかし、その後引き続いて紀行文・道中記中の梅沢付近の記述を探しているうちに、大変面白いものを見つけてしまったので、それに絡んでもう1回追加してここで取り上げることにしました。

問題の道中記は「伊勢参宮紀行」と言います。文政11年(1828年)2〜3月に、藤沢から伊勢詣でに出掛けた際の記録なのですが、その中でこういう一節が出てきます。

十日、曇、九つ時(より)大風雨、小田原ゟおいだいら(ママ)迄行、夫ゟ帰り泊ル、升屋勘左衛門

箱根山鶯多し

〽玉くしけはこねの山の鶯をかごの内にてわれハ聞けり

同駕籠に酔ければ

〽鶯をきくに付けてもうらやましまだかごなれぬ旅の山道

(「藤沢市史料集(二十八) 伊勢参宮紀行・道中日記」 藤沢市文書館編 2004年 8〜9ページ、傍注は原文通り、強調とルビはブログ主、なお、狂歌頭のヘの字記号は庵点と判断してその様に記しました)



箱根・畑宿付近の地図
「畑」というのは箱根山中の(あい)の宿である畑宿のことですね。ここで「おいだいら」と言っているのは「笈の平」のことでしょう。今でも甘酒茶屋が1軒同地で営業を続けていますが、江戸時代にはここに4軒の甘酒茶屋があったとの記録が残っています。そこまで駕籠で登ったものの、恐らくは悪天候で進路ままならず、このままでは関所の閉門時間に間に合わないと判断して、畑宿まで何とか引き返して急遽宿泊…といったところでしょうか。無論間の宿の宿泊業務は原則禁止ですが、こんな悪天候の山中でそんな悠長なことは言っていられない、ということなのでしょう。


これだけなら、間の宿に実際に宿泊した事例が単に1つ増えるだけですが、問題なのはこれを書き留めた人の方です。この「伊勢参宮紀行」の筆者、平野新蔵について、この文の引用元である「藤沢市史料集(二十八)」ではこの様に解説しています。

「伊勢参宮紀行」(…)は藤沢宿坂戸町の旅籠平野屋の平野新蔵が文政十一年(一八二八)、四十九歳の時に伊勢、奈良、大坂、京都などを旅した折の記録である。ところで平野家は藤沢宿坂戸町の有力な旅籠屋で代々問屋や年寄など宿役人を勤め、「孫七(もしくは孫七郎)」、「新蔵」を名乗り、『東海道膝栗毛』にも登場する。「伊勢参宮紀行」は平野家九代目の平野新蔵(道治)が記したものである。彼は家業の傍ら狂歌、俳句などを事とし、狂歌は「本街道駅路鈴成」と号し、二世森羅亭万象(医師森島中良、初代万象は平賀源内)門下、俳句は「冨屋」と号し、渡辺崋山「游相日記」に四句が記されている。

(同書1ページ、解説から、…は中略、強調はブログ主)


なんと、この人は藤沢宿の役人の地位にある人なのです。宿場が立場(たてば)の宿泊業務で迷惑を蒙っているとなれば、奉行などに宛ててクレームを出す側の人です。そういう人が、いざ自分が旅人の立場(たちば)(別にネタを狙った訳じゃないんですが…)に立ったら、自分はちゃっかりと間の宿に宿泊しちゃってる訳ですね。



羽鳥村(現:藤沢市羽鳥)の位置
県道43号線→44号線の筋が旧東海道
Googleマップより)
まぁ、同行者もいる手前もあるのでしょう。紀行文の末尾には同行者として新蔵の他に「河内屋九兵衞」と「尾島富五郎」の名が記されています。このふたりがどういう素姓の人なのか、藤沢宿の幕末の宿並の住人を書き上げた一覧(「藤沢宿惣家別書上帳」)では確認出来ませんでしたが、「河内屋」という名前から見ても藤沢宿近隣の住人には違いないでしょうから、新蔵が藤沢宿役人であることはこのふたりも重々承知でしょう。おまけに、この「藤沢市史料集(二十八)」にはもう1本、藤沢宿西側の羽鳥村の名主の跡取りだった三觜佐次郎の道中記が収録されているのですが、その中で、

一藤沢平野屋新蔵殿京津ノ国屋ニ而逢ふ

書状壱通御預

(同書100ページ)

違う日に出発した同郷のふたりが、京都で偶然にも同宿になってバッタリと逢い、手紙を一通託すなんてことまで起きています。つまり完全に新蔵の「面が割れている」訳ですが、そんな最中に本来御法度の間の宿泊まり…。「いいんですか、それ?」と思わずツッコミを入れたくなります。なお、書状を預かった佐次郎の方は、帰途箱根に着いたら芦之湯、木賀、宮ノ下と温泉巡りをしており、その都度湯治場に泊まってはいるものの、東海道筋では間の宿には泊まらず、宿場できちんと宿泊しています。

とは言え先程の事例は、箱根山中の、それも諸々条件が悪い最中の話ではあります。しかも畑宿から笈の平は小田原からの登りのなかでも一番勾配のきつい区間、駕籠で上り下りするのも危険なくらいで、新蔵が慣れない駕籠に酔ったと笑い飛ばすのも、道中を考えれば慣れだけの問題ではなかろう…などと、ここまではまだ色々と同情の余地もあります。また、世田谷区立郷土資料館編の「伊勢道中記史料」(1983年)には、「東海道宿屋名前付」という、宿屋のリストが含まれています。本書の解説では伊勢参宮の講中御用達の定宿(じょうしゅく)の一覧を書き写したものではないかと推測していますが、このリストに「畑」「湯本」の名前が見えています。つまり、伊勢講の定宿リストに名前が載る程までに、箱根山中では間の宿への宿泊が公然化・常態化していた背景も念頭に置く必要があるでしょう。

しかし、この紀行の帰路の部分を読み進めると、更にこんな一節が出てきます。

(注:三月)十八日、雨天、昼ゟ快晴  △朝日とく夕日ハ遅き不二か嶺の

なるのよいとくミじかかるらん

よし原ゟ     原ゟ          沼津ゟ

三り六丁   沼津へ壱り半      ミしまへ一り半

ミしまゟ

山中へ二里   一八日、山中泊り

△春雨にいぶすを宿の馳走かな

篠をたく箱根泊りや夕霞

十九日、曇

山中ゟ        小田原ゟ        十九日、こうづ

小田原へ六里     国府津(コウづ)へ一リ         茶屋泊

(同書80〜81ページ、強調はブログ主)



山中の立場付近(ストリートビュー
右手奥が山中城址
こちらは2日連続の間の宿泊まりです。3月18日は前泊地の吉原から東海道を東へ進んでおり、三島まで既に6里以上は歩いています。ここで旅程を中止して三島に早めに泊まるか、敢えて箱根宿まで行くか、出発の頃よりは日暮れまで幾らか余裕が出始める季節ですし(和歌もそのことを歌っていますね)、判断の微妙な所ではありますが、結局先に行く方を選択して、山中(やまなか)で再び雨に遭って裏目に出た様です。もっとも、その後の里程が次第に小刻みになるところを見ると、そこまでの無理が果たして必要だったかは疑問で、どうも最初から「いざとなったら山中で泊めてもらえばいいや」位に考えていた節も見え隠れします。因みに、この箱根外輪山の間の宿のそばには、後北条氏が築いた山中城址の遺構があることで有名です。

問題はその翌日で、この日は都合7里しか進んでいないことになります。途中箱根峠越えと酒匂川の渡しがあるとは言え、この記事からは川越しに手間取った風でもなさそうですし、敢えて国府津に泊まったのは一体どういう事情なのか、首を傾げてしまいます。もう藤沢が近く、次の日はたった4里足らずの道程を歩いて平塚に泊まっていますので、疲れが出たのか、祝杯をあげつつの日程調整なのか、その最中の間の宿泊まりは、取り敢えず酒匂川だけ早めに越しておこうということだったのでしょうか。

敢えて梅沢を選ばなかったのは、流石に立場上大磯宿から梅沢について色々と聞かされていたために、宿泊させることに渋くなっていることを知っていたからかも知れません。国府津への宿泊の例は前回取り上げた道中記にもありましたが、梅沢が大磯宿から色々と咎めたてを受ける様になったからなのか、今度はもっと酒匂川の渡し寄りの茶屋街でまたこっそり宿泊する客が増え始めていた様です。大磯宿の立場からすれば「イタチごっこ」の様相を呈しつつあったことになりますが、そこに近隣の宿場の役人が宿泊していたことをもし大磯宿側が勘付いたら「新蔵さんあんたそりゃないよ」くらいのことは言いそうですね。

何にせよ、こうなるとこの平野新蔵という宿役人は間の宿への宿泊について、割と鷹揚に考えていたと言わざるを得ないですね。


さて、ここまで随分と茶化しながら書いてきましたが、この一例だけをもってして、「だから宿役人たちもみんな道中キツイのはわかってたから、間の宿泊まりも結構大目に見る下地は持っていたんだ」などと一気に類型化するのは危険でしょう。平野屋は旅籠ですから、その点では庶民の旅をより近い位置で見届ける位置にいたのは確かで、その分判断が柔軟になっていた可能性はありそうです。あるいは、狂歌などをたしなむユーモアのある人の様ですから、そうした個人的な資質が影響していた面も考える必要があるでしょう。他に宿役人の道中記などがあれば、是非とも読んで比較してみたいものです。


茅ヶ崎・南湖の第六天神社(ストリートビュー
かつてはこの西側に南湖の立場が
広がっていた
しかし、これに関連して気になるのは、藤沢宿と南湖(なんご)の立場との関係です。藤沢と平塚の中間に位置するこの茅ヶ崎村の立場は、その西側に馬入の渡しを控えており、位置関係が酒匂川を西に控える梅沢の立場と良く似ています。藤沢宿と平塚宿の間も3里半とかなりの長距離で、その中間に位置する南湖が良く利用され、茶屋本陣と称される茶店があった(屋号も何故か梅沢と同じ「松屋」)のも梅沢と共通するものがあります。道中記や紀行文でも、南湖の宿泊を示唆するものが幾つか見られます(前回引用した高山彦九郎の「小田原行」もその1つです)。

(四月)四日泊り

一南古

木三十五文

米 六十弐文 宿 利右衛門

(「上方道中記」〔陸奥国耶麻郡落合村〕鈴木重興 明和4年(1767年)、「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」9ページより引用)

この例では南湖で木賃宿の風習に従って対価を出して宿泊したことになります。無論、東海道の立場に常設の木賃宿があっては不味いですから、街道沿いの茶屋か民家が臨時の木賃宿として薪代と米代を受け取った訳ですね。

こんな状況であれば、藤沢宿も大磯宿と共通の悩みを抱えていたとしてもおかしくありません。けれども、南湖に関しては近隣の宿場から宿泊を具体的に咎められたという記録が、今のところは見つかっていません。

無論これは、単に史料が発掘されていないだけで、実際には藤沢宿から南湖の立場を咎めたてる様な訴えが具体的に出たことがあったのかも知れません。「茅ヶ崎市史4 通史編」でも「残念なことに南湖の茶屋関係史料は皆無に近い状態」(232ページ)と記すほどなので、同地の立場の実情については専ら紀行文や道中記に記されたものを手掛かりにして調べるしかなく、外から見え難い部分については語り難いのが実情です。

しかし、上記の平野新蔵の紀行文を読んでいると、こういう宿役人のいる宿場がそんな訴えを出すのかなぁ、という気にもなってきます。勿論、新蔵以外の宿役人が強硬な意見を持っていたかも知れませんし、他の世代の宿役人が同様に考えていたという謂われもないのですが。

ただ、その様な目線で藤沢宿と大磯宿を比べた時、藤沢には大磯にはない、動かし難い特徴がひとつあることに気付きます。それは、藤沢は江の島や鎌倉といった、当時の人気の観光スポットを抱えている上に、大山詣での行き帰りに田村通り大山道を経由して藤沢経由で江の島へ向かうことも出来るという、抜群の「地の利」の良さでした。しかも、

江戸で暮らしていた画家の司馬江漢(一七四七〜一八一八)は、西洋画の技法を学びに京・長崎への旅に出る際に、「毎々藤澤迄は来りしに、爰より先は初めてなり」(司馬江漢『江漢西遊日記』(『日本庶民生活史料集成 第二巻』三一書房 昭和四四年)265頁。…)と書いています。この記述からは、江戸に住む人々にとっての藤沢に対する距離感が伝わってきます。

関東近郊の人々にとっては、「毎々」に訪れる機会のある藤沢は、参宮の長い伊勢参宮の旅においては観光する対象ではなく、ここから先が旅の始まりという土地だったのでしょう。

(「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」解説 ivページより、…は中略)

つまり、藤沢宿の近辺は当時から江戸市民の気楽な「行楽スポット」で、それほど身構えて旅支度する程の所ではない、ちょっと思い付きで足を運ぶことも出来なくはない土地だったということです。これはつまり、江戸の町民のうちに今で言う「リピーター」を確保することも不可能ではないことを意味しています。これらの条件は当時の宿場経営上は大変に有利だったでしょう。

大磯宿も継立では厚木・八王子など内陸方面の継立の権利を確保してはいたものの、宿泊では自らの意識で移動する客が相手ですから、地の利の不利を権益による制限で補うといった手法は使えません。目的もないのにわざわざ遠回りを強いられる様な道筋は選ばない、ということです。そしてそれ以上に、大山方面の参拝客が流れて来るには、江の島・鎌倉ほどの魅力を持ったスポットを抱えていないのも不利でした。鴫立沢や虎御前ゆかりのスポットは確かに紀行文・道中記での出現回数も多く、ここを通る伊勢詣でなどの旅人が必ずと言って良い程立ち寄る場所ではあった様ですが、少なくともわざわざこれらを見るためだけに大磯宿まで足を運ぶという性質のものではなく、飽くまでも別の目的地への往来の序ででしかなかったのが限界だったと言えるでしょう。

旧東海道・藤沢宿:藤沢橋交差点付近に掲げられた広重隷書東海道
藤沢橋交差点付近に掲げられた
歌川広重「隷書東海道」中の藤沢宿
ここから江島道が分岐し
鎌倉方面に向かう旅人で賑わう様子が
描かれている
つまり、宿場自身の集客力という観点では、藤沢宿は大磯宿に比べて、遥かに恵まれた位置にあったのは確かです。これを具体的に比較する統計はこれといってありませんが、江の島や鎌倉巡りの紀行文・旅日記が多数残される中で、藤沢宿も大抵何らかの形で登場することを見ても、相応に恩恵があったと見るのが自然な判断でしょう。そしてこうした背景が、近隣の立場の宿泊業務に対する姿勢の違いとして現れたのではないか、と考えることも出来そうです。大磯と違って集客の点でゆとりのある藤沢としては、南湖に対してそれ程躍起になる必要もなかった、ということになるのではないでしょうか。あるいはそれが、平野新蔵の道中宿泊地の選定に表れたのかも知れません。

こうして見て行くと、制度としては街道筋の宿泊は、一律で宿場に限定される「ことになっていた」ものの、実際はそれぞれの地域によってまちまちなことが起きていた、と考えて良さそうです。そこには渡し場や箱根の様な山中など、道中の難所や、宿場間の距離など、様々な要因が絡んでいる様です。そして、制度によって守られている宿場側の対応も、自分たちへの影響の度合いを見計らいながら、厳しい取り締まりを要請したり目こぼししたりと、宿場毎に違うものになって行かざるを得なかったのではないでしょうか。

この立場の宿泊問題も、また別の立場の所で考えてみたいと思います。立場(たてば)立場(たちば)の読み分けの難しい文章ですみませんでした。

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【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その3)

前回は梅沢の集落が農業地としては恵まれておらず、その分農間渡世に精を出さずにはいられなかったのではないか、という話をしました。今回も更に梅沢の立場について掘り下げます。


梅沢の位置(鉄道を目安に)
当初は専ら茶店で足休めをする拠点だった梅沢ですが、茶や昼飯を出す程度では「稼ぎ」にも限りがあります。当時の紀行文から梅沢に関する記述を浚うと、江戸時代の中期から後期頃には昼の膳に鮟鱇(あんこう)を名物として出していた様です。

大磯より宿駕に打のりて行ぬ。小田はら近くなるまゝ歓ひの酒くまんとて梅沢てふ所にてある酒店に入。ここは鮟鱇といへる魚の名物なれは其魚のあつ物にて人々酒汲かはしぬ。

あんこうを肴にひとつ過さはや

酒匂川に近き家なれはこそ

(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保6年(1835年)、「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成第6集神奈川県図書館協会編 1969年より引用、強調はブログ主)

梅沢の鮟鱇について、紀行文を集めると色々面白いことがわかりそうですが、それは別途まとめます。さて置き、この紀行文の筆者の場合は箱根山中に湯治に出掛ける途上で、表題の「木賀」は箱根七湯のひとつで宮ノ下の近くにありました(現在は源泉枯渇)。それで、もう小田原まであと少しだからという「ゆとり」から、言わば「前祝い」の祝杯をあげている訳ですね。


が、普通の旅ではなかなかそこまでゆっくり立場で休んでいられるものではないでしょう。うっかりのんびりし過ぎると、日没までに酒匂川の渡しまで辿り着けなくなります。一献をあげるにしても道中まだ先があるとなれば、そんなに杯を重ねてしまっては足下に響いてしまいます。鮟鱇は比較的いい値段を付けられたでしょうが、何れにせよ、ひとりのお客からそれ程高い売り上げを上げられるものではなかったでしょう。道行く人の数にも限りがありますから、一定以上に「稼ぎ」を上げようとすれば、今流に言うならばそれまで以上の付加価値のある「サービス」を提供することを考えなければなりません。梅沢の茶屋町の後背には海が拡がり、本来はこの辺りも「こゆるぎの浜」として知られる浜ではあるものの、街道筋からでは海岸まで若干距離があり、砂浜まで高低差があることもあってか、良い景色に釣られて足を止める客はあまりいなかった様です。梅沢がやがて禁じられていた宿泊業務に手を出す様になっていくのも、その点では自然の流れではありました。

江戸時代の宿場は継立の義務を負わされる代わりに、街道の宿泊業等で利益を独占する権利を認められていました。そのため街道の立場や茶屋は宿泊業を営むことを禁じられていたのですが、現実は抜け駆けで宿泊させてしまうことが少なくなかった様で、正式の宿場よりも施設が完備しなかったからなのか、割安な価格で宿泊させていた様です。それで留まっていればまだ良かったのでしょうが、次第に公然化するにつれて歯止めが掛からなくなり、挙句、宿場が飯盛女を置いていたのに倣って梅沢でも茶屋女を置いて奥座敷に客を上げる、といったところまで行ってしまいます。

こうした事態に手を焼いた大磯宿も座視する訳に行かず、幕府に間の宿での宿泊禁止の徹底を再三願い出ています。そもそもが宿泊御法度ですから幕府も取り締まりに動き、その都度梅沢側は詫び状を提出して問題の解消に努めた様です。梅沢にしてみれば、ここで悪戯に反抗して本業を全面的に封じられてしまうよりは、当座は恭順の意を示しつつ、派手にならない程度にまたこっそりと…というところだったのでしょうか。

他方、大磯宿もどんな時でもダメ、というつもりでもなかった様です。梅沢に参勤交代の際に問い合わせを受けて回答した際の文書(「文化八年(1811年)正月 尾州様上国に際し酒匂川出水時旅宿望みにつき請書」、「二宮町史 資料編1 原始 古代 中世 近世」742ページ所収)が残っているのですが、それによれば、明和5年(1768年)に大磯宿と小田原宿で大火があって両宿本陣が使用不能になった際には、大磯本陣から出張賄いが梅沢に出向いて奉仕したこと、例えば万一酒匂川の出水で川留になった時にも、大磯の本陣から出張賄いを出すことを条件に梅沢の松屋本陣へ参勤交代の止宿が可能であることが記されています。已む無く梅沢に止宿した今回も、一応大磯宿の本陣がお世話致しました、という体裁を取りたかった訳ですね。

ただ、ここで1点気になるのは、この梅沢への抗議行動についての史料が、大磯宿のものに限られているということです(本来ならここで、「二宮町史」等から拾い上げた史料のリストを掲げるべきなのでしょうが、長くなり過ぎるので割愛します)。原則に従うならば、御法度の筈の宿泊を行っている梅沢への抗議は、等しく小田原宿からも出ても良さそうです。しかし、今のところ梅沢に関連する史料に見出されるのは専ら大磯宿の方です。また、梅沢が伺いを立てる先も、賄いの出張元も、全て大磯宿です。

無論これは、小田原宿の関連する史料類が、単純に現在まで見つかっていないだけなのかも知れません。大磯宿にしてみれば、同じ朱印状による独占権を担う同業者に「共同歩調」を取って欲しいと願ったとしてもおかしくありませんし、何らかの動きがあった可能性は考えておいて良いとは思います。しかし、後背に箱根山を控え、手前には酒匂川が横たわる小田原宿の立地を考えると、梅沢への宿泊のダメージは、大磯宿ほどには小田原宿にはなかったのではないか、とも考えられます。特に箱根山はこれから登ろうという旅人にとっても、あるいは漸く下って来た旅行者にとっても、その麓で一息入れずにはいられない存在であり、小田原宿がそのための拠点として重用されていたことは間違いないでしょう。また、小田原から見ると梅沢は酒匂川の向こうにありますので、川留の際に小田原と梅沢が競合することはないという点も、大磯とは事情が異なる点でしょう。

また、小田原宿は小田原宿で、湯本茶屋や箱根の湯治場(特に湯本本郷)に宿泊されてしまう方が痛かった訳で、さほどの手負いにならない方にまで手が回らないというのが正直な所だったかも知れません。次の引用は幕末の伊勢参りの道中記ですが、この人たちは小田原ではなく、その先の湯本(茶屋か本郷の湯治場か明記なしですが他の伊勢詣での紀行文・旅日記の記録から湯本本郷に「一宿湯治」している可能性が高い)に泊ってしまっています。なお、少し前から引用したのは梅沢の前後が「二り」と記されている点に注目したかったからで、実際は大磯から一里半とやや大磯寄りにも拘らず、「ほぼ中間点」と認識されていることが窺えます。

一おういそ

二り

一うめさわ

二り

一をだわら

一り  十七日

一ゆもと泊り(江戸や藤蔵/弐百廿四文

(「嘉永五年(1852年)十二月 群馬郡下小鳥村梅山直吉ら伊勢参宮につき道中記」より、「新編高崎市史 資料編8 近世Ⅳ」417ページより引用)


旧東海道・梅沢の一里塚跡
梅沢の一里塚跡(2007年撮影)
大磯宿との間には国府本郷の一里塚が、
小田原宿との間には小八幡の一里塚があり
それぞれの宿場にも一里塚があった
こうして様々な道中記・紀行文を横断的に見ていくと、例え同地で休憩していなくても梅沢の名が記されているというケースも少なくなく、大磯〜小田原の中間点として「梅沢」が多くの旅人たちに意識されていたことが窺えます。その点で、そもそもの所、大磯宿から小田原宿までの間の4里という距離は、道ゆく人にとってはやはり長過ぎた、というのが本当のところではないでしょうか。その辺は当時の人も感ずる所ではあった様です。

梅沢の茶店いとにぎはし 小田原より大磯まで行程をくれば此所に休む人多ければかくなりくにとぞ

(「吾妻の道芝」松平秀雲 寛保元年(1741年)、「近世紀行日記文学集成 一」津本信博編著 1993年 早稲田大学出版部より引用)

4里というのは、順調に歩いてもざっと4時間はかかる距離、しかもその間に徒歩(かち)渡りの渡し場があり、日の入りと共にその日の業務終了ですから、それまでに渡し場に辿り着けなければ、遥々大磯宿まで夜道を3里も引き返すか、危険承知の野宿…こんな目に遭えば誰でも「無体な」と思うのが道理でしょう。宿場や立場同士の都合は諸々あるにせよ、その皺寄せが旅人の側に来ているとなれば、いざという時に禁を犯してでも…という気になる旅人が出るのも、止むを得ないことと、関係者も内心では同意していたのかも知れません。

実際、安永9年(1780年)の高山彦九郎の旅日記「冨士山紀行」では、富士山詣での帰路にこんな目に遭っています。

香津(こうづ)より五丁斗こなたニ而左り田ノ中一本の茂りたる見ゆ何ンそと問ば田ノ神也と云、圯橋(いきょう)(注:朽ちかけたの橋のこと)を渡る曾我村の方行く道と合ふて東海道出ツ、矢倉岳戌ノ方見ゆ、飯泉より此迄一里關本(より)此迄東四里、十間餘の圯橋を渡る香津人家也、小田原へ一里餘有、香津ゟ一里ニ而梅澤至てくれタり、宿せんとすれ共驛場有ラサル故留る事よろこはす遂に大磯迄行而宿ル、道大風雨多シ、四ツ時分宿ニ着ク、問屋よりの案内に而鍋屋源八處宿ル、

(「高山彦九郎全集 第一巻」高山彦九郎先生遺徳顕彰会編 1943年 博文館 514ページより引用、変体仮名は基本的に小字化の上で漢字・カナに置き換え、強調、ルビはブログ主)

土砂降りの雨の中、この日は大雄山最乗寺に詣でてから小田原道(甲州道)を南下し、途中飯泉の渡しで酒匂川を越えたものの、既に増水で川幅が拡がっている状況でした。ここから南下して国府津で東海道に合流したものの、既に大分遅い時刻で日没が近い事に気付いた様で、とは言え今更再び酒匂川を渡り戻して小田原に向かうのも馬鹿馬鹿しいと思ったか、江戸方面へと向かってしまいます。ところが梅沢で日が暮れてしまったので、何とか泊めてもらおうとしたものの御法度ということで断られてしまい、大雨の中を夜分遅くまで掛かって大磯に…、ということになった訳でした。

この頃の梅沢が御法度を気にして律儀に茶店稼業だけを営んでいたのか、たまたま彦九郎が門を叩いた店が頑なな態度を示したのか、この文章からは委細はわかりませんが、こういう非常の際の一宿の問い合わせは茶屋街形成の当初から根強くあったことでしょう。情に負けてこっそり一夜だけ…などということを繰り返すうちに脇が甘くなり…なんてことは今でもありそうです。


茅ヶ崎・南湖の第六天神社(ストリートビュー
かつてはこの西側に南湖の立場が
広がっていた
なお、同じ高山彦九郎の「小田原行」(安永5年、1776年)では、

生麥(なまむぎ)(注:幕末の事件で有名な所)邊にて三島の人源助なると同行す、金名川(かながわ)臺の茶屋に休、是迄二里半、神奈川ゟ新町(注:保土ヶ谷宿の別称)へ一里九丁臺の尾張や次郎所にて元良を尋ぬ、新町ゟ十塚(とつか)へ二里九丁休、十塚ゟ藤澤へ二里新町ゟ源助馬に下荷に付藤澤に暫休、一里にして四ツ屋にて源助に別る、かれ醫師の所へ寄る故也、是ゟ一里九丁にして南湖の茶屋に宿る、人の教により濱田屋新四郎所にやとる、

(上記同書271ページより、変体仮名等扱いも同前、ルビ、注、強調はブログ主)

間の宿だった南湖に宿泊したとちゃっかり書いちゃってます。この道行きは9月のことでしたが、この日は川崎を明け方に出発しており、途中人に会ったりしているものの、9里半(およそ38km)は決して遅いペースだった訳ではありません。それでも馬入の渡しに日暮れ前に着くには難しいと判断したのでしょう。実際、翌日は

朝五ツ時分に宿りを立ち馬入をわたす。

(同上)

と、出発早々いの一番に馬入の渡しを越えています。もっとも、この時のもてなしが気に入った様で、その帰路も

(平塚を過ぎて)八幡の次馬入村時に暗にて道わからす、渡り二百余間也、舟にてわたる、中嶋今宿町屋を出て左松並木に大門あり八幡道也八丁斗、是ゟ厚木宿へ三里半北也、次に高座郡南胡に至り濱田屋新四郎所に宿る、わたりゟ一里にちかし、新四郎と物語す、吾を宜しくもてなし脇(差カ)なとを出し見せらる、

(上記同書277〜278ページより、変体仮名等扱いも同前、注、強調は「脇差」以外ブログ主)

と、既に平塚で薄暗かったと思われるのに、暗がりで足元が十分見えない中を南湖まで進んで同じ店に泊まり込んでいます。

この高山彦九郎が旅慣れていることは、引用を引いたこの本に16本も紀行文がまとめられていることでも明らかですが、こうした間の宿の宿泊も上手く頼めば何とかなると思っていた節はありそうです。勤皇の志士として全国を行脚していたという事情もあり、各地に「伝手」があったのかも知れませんが、こういう「融通」の上手い人はいつの世でもいる、という気も一方ではします。「甲午春旅」(安永3年、1774年)でも、

(注:芦ノ)湖を見おろし面白し、是ゟ下りて箱根權現ノ道右有、それゟ下り湖のはた出さいの河原と言所を通り新屋町茶屋、暮六ツ過候故御關所御門とさし此夜新屋町茶屋おもたかや權兵衞所宿ス、入天氣晴、

(上記同書31ページ、その他同前)

と、箱根の関が時間が過ぎて閉まってしまったので、その手前の権兵衛という人の営む茶屋「おもたかや」で宿泊したりしています。箱根関所東に位置する新屋町の茶店はこういう閉門後の客を緊急に泊めることは許されていましたが、「冨士山紀行」の際も、こういう多少の融通があり得ることを期待したからこそ、雨の中を敢えて先に進む気になったのかも知れません。

また、嘉永3年(1850年)の「道中日記帳」という道中記(武蔵国新座(にいざ)郡栗原村 高橋長吉著)には、

十二日

一こうず宿    ■屋金兵衛泊り

(「藤沢市史料集(三十一)旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」72ページより引用、原文は「新座市史 第二巻」より)

と、今度は梅沢ではなく国府津に宿泊したことを書き留めています。当日は江の島から藤沢宿へ出て、そこから東海道を西に進み、平塚で昼食を摂っていた様ですが、普通なら藤沢宿を出発して大磯辺りが昼食というのが一般的な中、少々無理が祟ったのでしょう。少しでも小田原に辿り着こうとしたものの、無理を覚って国府津でこっそり泊めてもらった、という感じでしょうか。この人が梅沢で宿を頼んだかどうかはわかりません。しかし、いざとなれば宿場以外で何とか宿の都合をつけようとした旅人は、こうして見ると案外少なくなかったのではないかと思えてきます。

旧東海道・梅沢押切坂の現況
梅沢の京方・押切坂の現況(2007年)
現在は国道1号線の切通が茶屋町跡の
北側を通り抜ける
結局、極端に長い宿場間の皺寄せは、この区間を往来する旅人の所へ行ってしまっていた訳です。そういう中にあって、小田原からも大磯からも程よく隔たった場所にある梅沢は、いざとなれば特に頼られやすい街場であり、大磯宿も梅沢の人々もそのことを重々弁えていたののでしょう。梅沢が基本的には茶屋街の立場に甘んじつつ、時には道中困った人に一夜の宿をそっと貸す、とは言え、色々度が過ぎれば大磯宿側のダメージが大きくなるので、大磯は頃合いを見て各所に訴え出てクールダウンを促す…そんなことを江戸時代中続けていた様にも見えます。

もっとも、そんな「ホンネ」が梅沢や大磯の文書として明るみに出ては一大事ですから、恐らくそんなことを書き付けた史料が宿場や茶屋街から出てくることはまず考えられないでしょう。それで、今回は少し多めに紀行文や道中記を引用して、当時実際に道行く人の意識を拾おうと試みました。お陰で引用だらけになりましたが、宿場側からでは忘れられがちな旅人側の視線が少しでも感じられると良いのですが…。

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【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その2)

前回は大磯丘陵下の地形を見ながら梅沢まで来ました。平塚と大磯の距離の近さを取り上げた際にも、この立場(たてば)の賑わいについて軽く触れましたが、今回はその辺りをもう少し掘り下げてみたいと思います。


梅沢の立場から川勾神社へのルート
川勾神社鳥居(Wikipediaより)
川勾神社鳥居
("Kawawa jinja Gate" by ChiefHira
- 投稿者自身による作品.
Licensed under GFDL
via ウィキメディア・コモンズ.)

前回見た通り、この梅沢の立場は相模国の二ノ宮である川勾(かわわ)神社への分岐点に当たっています。ここから川勾神社までは1kmほどの道のり、往復すると30分は優に掛かりますので、街道歩きの最中にここまで訪れる人はなかなかいない様ですが、周囲を畑地と杉林に囲まれた、落ち着いた古社の佇まいがなかなか魅力的な神社です(今回は写真が準備できなかったのでWikipediaの写真を添えておきます)。


吾妻権現(現在の吾妻神社)の位置
二宮・吾妻神社一の鳥居
吾妻神社(旧吾妻権現)の
東海道沿いの鳥居

また、その東側の吾妻山の上には吾妻権現が祀られています。日本武尊の弟橘媛の入水の伝説との関連で語られる社で、明治以降は神仏分離の影響で神社化しましたが、江戸時代には権現社のひとつであり、世田谷区立郷土資料館編の「伊勢道中記資料」によれば、同地の伊勢詣での講中では伊勢への途上に決まってこの吾妻権現に詣でていたことが確認出来ます。箱根権現にも必ず参詣するルートが固定していたことから考えると、この頃は権現社同士で何らかの関連を持っていたことを窺わせます。

こちらは川勾神社よりは幾らか東海道に近いとは言え、神社が山の上にあるだけに、こちらも街道歩きの最中に立ち寄ろうという人は少ないかも知れません。

こうした寺社を抱える梅沢の地ですから、古くからそれらの門前町として栄えていたのではないかと考えたくなるのは自然なことです。「東海木曽両道中懐宝図鑑」(渓斎英泉編、「広重の東海道五拾三次旅景色 天保山懐宝道中図で辿る」1997年 人文社所収)では、「あづまごんげんのとりゐ(吾妻権現の鳥居)」の下に「元梅沢」と記しており、元は吾妻権現との所縁が強かったことも窺えます。しかし、梅沢が具体的に何時頃から東海道筋の茶屋街として成立したのかははっきりしていません。江戸初期の紀行文では、万治年間(1658〜61年)に出版されたと考えられている「東海道名所記」(浅井了意著)に、既に梅沢について1つ項目が設けられています。この項の全文は次の通りです。

梅澤 茶やあり。入口に(あづま)の明神とて高き山あり。町の中に橋あり、長さ十二間。男いふやう、いざや御房、茶やにやすみ給へとて、立より、あぶりどうふ、もちゐ、さけをとゝのへ、ふるまひけり。男はさかなのため、鰹のあぶりものを買てくへども、樂阿彌はさすがにえくはず、かくぞよみける。

口の内に津こそはたまれ梅澤の茶やの(さかな)は我もすきゆへ

此哥にめでゝ、くはせければ、腹ふくるゝほどくひけり。男うちわらひて、

梅澤やなむあみ引てとる鰹彌陀の理(けん)でさしみにぞする

(「日本古典全集」日本古典全集刊行会発行 1931年、現代思潮社復刻版 1978年より引用)

「東海道名所記」は江戸初期の東海道のガイド本ですから、ここにこの様に記されているということは、軒数は不明ですがこの頃には既に梅沢で営まれている茶屋が一般に認知されていたと言って良いでしょう。因みに、ここで出て来る「東の明神」が吾妻権現を指しています。町の中の橋とは梅沢川に架かる橋のことでしょうから、既にそこそこの大きさの集落になっていたのかも知れません。因みにこの紀行文は俄か僧侶と大坂から出てきた若い手代の二人連れで東海道を京へ向かうという設定で書かれており、この二人が梅沢川の橋を渡った辺りで茶屋に入ってカツオを肴に一献…とは言え、連れの僧侶「樂阿彌」にとっては殺生は一応御法度なので、こんな狂歌のやり取りになっている訳ですね。


もう1つ、元禄3年(1690年)に出版された「東海道分間絵図」の梅沢付近を見ると(リンク先の右端辺りに「梅沢」が小判形に囲まれて記載されている)、下の方に「ちや屋かずかず/さかな有」と記されており、この頃には既に茶屋「街」として認知され、「東海道名所記」の記述共々茶屋街が魚を供していたことがわかります。また、元禄16年(1703年)11月の大地震(元禄地震)の際に、江戸から京への帰途上にたまたま戸塚宿に宿泊していた梨木祐之という人の記した「祐之地震道記」に

廿七日…梅沢と云所は、茶店さのみ傾損の体もみえず、わづかに六七軒程つぶれたり。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」1985年 吉川弘文館 146ページより引用、…は中略)

とある所から判断すると、この頃には既に「6〜7軒」を「わづかに」と表現出来る程度の規模の大きな街場に成長していたと考えられます。

因みに、「二宮町史 通史編」では梅沢に松屋本陣など宿場同然の機能が揃う時期を、同地の茶屋本陣松屋に残る「御小休帳」が宝永5年(1708年)までしか遡らないことなどを根拠に、元禄年間以降と推測しています(492ページ)が、上記の各史料の示す年代を重ねて考えると、松屋本陣自体はさておき、それ以外の機能はもう少し時代を遡ると判断して差し支えないのではないか、と個人的には考えています。何れにせよ、この点は江戸時代、特に初期に同地のことを書いた紀行文や旅日記の掘り起こしが進むと、もう少し具体的なことがわかるかも知れません。

ただ、当時のこの村は農産物では恵まれていないという認識を持っていた様です。前回も引用した、梅沢山等覚院東光寺(藤巻寺)の実応が著した「楳澤志」(文政8年、1825年)では、この村の土地の痩せ加減を、次の様な文章で紹介しています。この土地の地質面の特徴も良く伝わる文章なので、少々長いですが該当項目を全文引用します。

土産(さんぶつ)

此里田畠(すくなく)して民家多き故、(こく)(いたって)(とうとく)して他村より購需(かいもとめ)日用とす故、魚販賃負の(たぐい)多く坐賈(ざこ)(ともがら)少なし。山嵬(さんかい)けわしくして林樹生育(あしく)海業すれども捕魚()れに邂逅(かいこう)得ると言えども東朝(えど)の魚店に送て磯賈(いそあきない)禁ぜらる故、得料賤(りえきすくなく)、魚稀なれば益(すくなく)、田畠山の(はざま)少しくあれども、土地元来低昂(ていこう)、平坦ならず官道(かいどう)以北豊穣(こえたとち)あれども(こいし)又土くれ多く地浅し。官道以南は平坦なれども砂地にして至暑(なつ)の作毛炎枯(ひがれ)すること常なり。竹木水ともに(とぼ)しくして一品冨饒(ふじょう)なる物なし。是故に往昔(むかし)より冨家豪財者の居住せしを聞かず。実に貧しき里なれども官道程(かいどうわき)なれば石高(こくだか)不相応に家(なら)ぶも泰平の余澤(よたく)()らる。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

東海道の北側は砂礫を含んだ層が多いというのは、この大磯丘陵が堆積物が隆起して出来上がったことを物語っています。対して南部が砂地なのは段丘に溜まった砂丘のせいですね。何れも前回紹介した大磯丘陵下の地質分布の特徴と良く合致します。実応が収穫量について多少悲観的な側面を強調する嫌いはある様ですが、地質面の見立てはそこそこ妥当なのではないかと思います。何れにせよ非常に痩せた土地の貧乏な集落の筈が、今の梅沢に立派な茶店が並ぶ様になったのは世の中が安泰でゆとりがあるからだ、と言っている訳です。

因みに大半の農産物が梅沢では上手く実らないことを、個々の農産品毎に指摘していく中で、「越瓜(しろうり)」と共に梅沢の名産として実応が名を挙げているのが、この地の名の由来になった梅でした。同じく「楳澤志」では次の様に紹介されています。

菓樹(かじゅ) 梅核(うめのみ)外諸菓結実(みの)らず。(たちばな) (ゆづ) 桃 梨 (かき)等無し

砂地故に地肥(つづ)かず。諸樹空虚となりて枯る、これに因り村中松樹両三株の外老樹(まれ)

梅樹核(うめのみ) 村中大都(おおむね)白梅なり。(はたけ)(あぜ)(うね)後園前庭林として晩冬より春までは荘観たり。(うら)むべし、詩歌文人の往来すれども(とな)えず。只道興(どうこう)王の御詠あるのみ。(歌名所部に出)核塩(うめぼし)或は酒粕醤(さけかすつけ)旅客に(うる)又は他邦へも(うる)。肉(やわらかく)且厚く、他邦に非類(じつ)に当村の名産なり。

(引用元等上に同じ)


道興准后の歌は、その「廻国雑記」(文明19年、1487年)に「梅沢の里を過ぎ侍るとて、」と題して詠まれた

「旅衣我れも春待頃なれば聞もなつかし梅澤の里」

のことを指しています。これ以外にこれと言って詠まれた歌が見当たらないのを「恨むべし」と言っている訳ですが、今では偽書であることがほぼ確定的と言われる伝太田道灌の「平安紀行」に記された

「春ならば旅行袖もつらからじ名のみは匂ふ梅沢の里」

という歌については、実応はどう考えていたのでしょうか。また、「新編相模国風土記稿」でも

古此地梅樹多し、故に名すと云、されば、元和八年十二月、内大臣通村、關東より歸洛の路次、此地において梅花の詠あり、【關東海道記】曰、元和八年十二月十六日、江戸を立て登りけるに、十八日大磯のこなた、梅澤と云所にて梅の咲しに、冬かけて咲梅澤の所にて春の隣の近きをぞしる今も猶多く植て、其實を鬻ぐ者許多あり

(卷之四十 淘綾郡卷之二 山西村の項より、強調はブログ主)

という歌も紹介されています。こうした歌に詠み込まれて世にその名が知られれば、梅沢ももう少し名所として認知されることになったのに、ということなのでしょうが、西行の歌が呼び水になって鴫立庵が出来た大磯宿を意識していたのでしょうか。

それはさておき、前回見た様にこの一帯は海岸段丘の上に一部砂丘が出来る様な土地である訳ですが、そのために土地が痩せてしまい根付くものが少なく、辛うじて梅だけが名産になったが、その代わり質は自慢…ということですね。今は二宮町の特産品の中に梅は入っていない様ですが…。茶屋が魚を供していたのも、陸のものではこれといったものを品書に出せないので、どうしても海のものに頼らざるを得なかったのでしょう。

二宮・梅沢等覚院のフジ説明
二宮・梅沢等覚院のフジ解説ガイド
二宮・梅沢等覚院のフジ(2007年)
二宮・梅沢等覚院のフジ(2007年)

結局、街道の立地としては理想的な海岸段丘や砂丘を齎した地形・地質も、農業にはむしろマイナスに働いてしまうので、村はその分だけ街道に恵みを求める方向に流れ、農間渡世としての立場稼業に精を出さずにはいられなかった、という事情もありそうです。「二宮町史 通史編」では梅沢の立場の様子について、次の様に説明しています。

…ここ梅沢の立場も、山西村中でも村の中央より小田原方面へ寄った、押切川に近い村内西端を特に茶屋町と俗に呼び、「松屋」を名乗る茶屋本陣を中心に、茶店や商家が並び、さながら宿場の体をなしていたのである。文久二(一八六二)年十月の山西村「村内軒別坪数書上帳」(山西 宮戸貞夫氏所蔵)によれば、…この松屋を中心に釜成屋・蔦屋・福島屋・福田屋・松本屋・井筒屋・熊沢屋などの茶店(旅籠屋)が並ぶ。このほか、甲州屋・酒屋・米屋・豆腐屋・足袋屋・関野屋・油屋など商人と思われる屋号を持つ家も建ち並んでいた…。…また、村内全体では、大工…・表具屋・桶屋・鍛冶屋など職人とおぼしき屋号、風呂屋と思われる湯屋の屋号、駕籠かきを商売とするであろう「かごや」の屋号、荷物の付け送りを業務とする「荷宿」の屋号、駄賃馬の差配(さしはい)を行っていたと思われる「伝馬」の屋号などがあり、屋号一つとってみても紛れもなく宿場の機能を取り揃えた村であるということができた。

(同書491〜492ページ、…は中略)

少なくとも、この街並みはとても農村のものとは言えず、それだけこの茶屋町に依存した村が出来上がっていた、と言って良いでしょう。

こうして見て行くと、これだけ賑わっていながら、そして大磯〜小田原間があれほど距離が隔たっていて、宿場を担っていても不思議ではない位置にいながら、梅沢が結局立場の地位に留まったのは、少なくとも伝馬朱印状が発給された江戸時代初期には、その役目を負える程の力がこの村にまだなかったことに原因の一端があるのではないかと個人的には考えます。大磯や小田原は東海道だけではなく、内陸に向けての街道の交点にあって、そこを行き交う荷馬を押さえることが出来る立地だった(だからこそ大磯宿は平塚宿に内陸への中継点としての役目を譲らなかった、という面もある訳です)のに対し、その中間に位置する梅沢は秦野への道はあったものの遠方に向かう道筋ではなく、継立の拠点としても弱かったことも、宿場化するには力不足と判断されたのでしょう。

ただ、それであるなら、後に立場が大きくなり、利用客も増えたのであれば、その時に改めて伝馬朱印状発給を検討されていても良さそうなものですが、その頃になると助郷の調達など宿場の負担が過重になり、公的に宿場を担うだけの旨味は無くなっているのが傍からもわかる様になってしまっていました。実際、伝馬朱印状の発給は江戸時代初期に限定されていて、以降は既存の宿場だけで伝馬を運用する様になっていました。また、その頃には既存の宿場の規模が立場程度の集落とは比べ物にならない程に大きくなっていましたから、後発で伝馬朱印状を受け取ってもその規模差を巻き返すには遅過ぎた、という側面もあるでしょう。

とは言え、宿場間の距離の大きなバラツキという矛盾が、そんなことで手付かずのまま運用され続ければ、その「皺寄せ」は何処かしらに出て来るものです。その件については次回に。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その1)

旧東海道:大磯宿高札場→国府津
大磯宿から国府津までの旧東海道のルート
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャ
数値地図25000(土地条件)」と「色別標高図」を合成)
前回まで、平塚宿と大磯宿の間が、その両隣と比較して妙に近いことを、歴史的な経緯から説明出来るかどうかを試みてきました。

この大磯宿に差し掛かる手前、花水川(現:金目川)を渡って高麗山(こまやま)の麓を進む区間に入ると、周囲は相模平野の開けた風景から左手に丘陵の迫る風景へと変化します。特に高麗山の姿は、「その10」を始める際にも広重の浮世絵を引いてその独特の山容に触れましたが、当時の人にとっても余程強い印象を与える山であった様で、

大磯へ鼻を出してる高麗寺

(「川柳旅日記 その1 東海道見付宿まで」山本光正著 2011年 同成社より引用)

などという川柳が残っているほどです。街道周囲に平野が大きく広がるのは、国府津(こうづ)を過ぎて足柄平野に入る辺りまでお預けです。それまで暫くの間は、左手の山々が東海道に付かず離れずの位置で続きます。高麗山は、そんな平野部が終わって景色が変わる地点にある、象徴的な存在とも言えるでしょう。
大磯丘陵地質図
大磯丘陵地質図
(「小田原市史 別編 自然」53ページ、
 図2-20に一部加筆)
この、高麗山から吾妻山に連なる山々は「大磯丘陵」と呼ばれる丘陵地帯の南辺に当たります。大磯丘陵について、「大磯町史9 別編 自然」では次の様に解説しています。

大磯町が含まれる大磯丘陵は、丹沢山地の南方に秦野盆地を隔てて広がっており、大磯町、小田原市国府津、松田町、秦野市、大磯町をこの順に結んでできる地域である。大磯丘陵はほぼ平行四辺形をなし、西縁は国府津—松田断層崖を経て足柄平野に接し、北辺は渋沢断層によって境されて秦野盆地に続いている。南の縁には数段の新しい海岸段丘が細長く発達している。この海岸段丘の上には砂丘が発達している。丘陵の内部には、海岸段丘に連続する河岸段丘があり、この段丘面より高位の段丘面もいくつか観察できる。

(同書15ページ、強調はブログ主)


旧東海道との関連で注目したいのは、丘陵南縁に発達した海岸段丘で、これについて同書では更に次の様に詳説します。

⑵ 押切面

…海抜高度は数mから10m程度である。二宮町押切川の河口付近に模式的に発達している…。

大磯町内では、鴫立沢から東の、東海道の1号線以南の部分に発達している。…

⑶ 前川面

…小田原市前川において模式的に発達している…。10m位の標高がある。しかし、分布は狭く、大磯町内では、高麗山の南麓から東海道1号線までの間の狭い範囲に限られている。ここは比較的古くから集落の発達が見られたところである。

⑷ 中村原面

…押切面、前川面のいずれよりも面積が広い。海抜高度は20mを超え、大磯町台町から葛川の河口を経て二宮町押切川の河口まで連続して伸びている。大磯町西小磯や国府新宿においては、海岸から北方の丘陵の麓にまで達し、広い面積を占めている。また、不動川に沿って、寺坂を経、平塚市吉沢にまで伸びている。海岸に沿うところでは砂丘が発達しているため、高度がいくぶん高まっている。一般には極めて平坦で、よい住宅地、農耕地となっている。

この面は縄文時代の中期(今から5,000〜6,000年前)の高海水準面時代に形成された下原貝層の堆積面である。

(同書17〜21ページ、…は省略)


大磯丘陵の完新世段丘面分布図
大磯丘陵の段丘分布
(「小田原市史 別編 自然」60ページ、図2-24)
海岸から大磯丘陵までの幅はそれほど広い訳ではないのですが、その間にこの様に複数の海岸段丘が出来ており、部分的には更にその上に砂丘が被って標高が増しているため、海岸沿いを進む旧東海道にとっては実に都合の良い、程々の標高の平坦地を提供してくれている訳です。もしもこの段丘がなければ、東海道は高潮を気にしながら波打ち際を進む道になったか、大磯丘陵の中を上り下りする、何れの場合ももっと道行く人の負担になる道筋になっていた筈です。特に、中村原面の広がる、東海道では大磯宿の京方見付付近から梅沢に至る区間では標高がコンスタントに20mを越え、海からの災害という点ではかなり安心して歩ける区間だったと言って良いでしょう。

こうした海岸段丘の形成には、この一帯の大きな地殻変動が関与していることは間違いないでしょう。

大磯町を含めた大磯丘陵南部一帯は、地殻運動の激しいところとして知られている。関東大地震の時は、大磯町から二宮町にかけての沿岸一帯が、1.4mも隆起したことが地震後の測量によって明らかにされた。中村原面の高度は約20mで、中村原面の形成が縄文時代中期に始まったと考えられるので、この間海面の変動がなかったものとして平均隆起量を求めると、

20m/5,000年=4m/1,000年

という結果が得られる。

この値は地殻変動が非常に激しいといわれる日本の中でも超一級の値である。

(同書22〜23ページ)

大磯丘陵の上には波食台地の痕跡も見つかっています。恐らくは、波の下で洗われて形成された平坦地が隆起によって水面上に現れ、今度はその平坦地の崖を削り…ということを幾度も繰り返して出来たのでしょう。

東日本大震災以後津波への関心が高まったため、最近は海岸付近の地域ではその地点の標高を電柱などに掲示してあるのを良く見かける様になりました。このため、こうした地域で街道歩きや町歩きをする際に、かなり仔細に標高を確認しながら歩くことが出来ます。大磯から二宮にかけては旧東海道はほぼ現在の国道1号線沿いに進みますが、大磯宿の京方見付の辺りで20m前後の数字を示すと、それ以西では梅沢の立場跡までほぼこの標高が維持されています。途中で血洗川、不動川、梅沢川を渡り、その辺りで現在の国道を離れて幾分内陸寄りを進むと同時に標高も若干下がりますが、これは川までの標高差を迂回によって多少宥める意図がある様です。


大磯ロングビーチの北を東へと向かう葛川
また、二宮付近で渡る葛川は、その下流は大磯ロングビーチ付近の小高い砂丘に遮られて大きく東へと振られ、隣の不動川と河口を共有しています。この不自然な流路を見ていると、これもあるいは周辺の地殻変動が影響した結果だろうか、とも考えたくなってきます。

なお、梅沢を出て更に西に進むと、前川付近(現在の橘インターチェンジ付近)で再び標高20m程まで登ってきますが、その先では一段低い、標高10数m程度の高さを進む様になります。上記の段丘面の解説と併せて考えると、この標高差の感覚が分かるのではないでしょうか。文政8年(1825年)に地元の梅沢山等覚院東光寺(藤巻寺)の住持であった実応が著した「楳澤志(うめざわし)」という地誌には

里人口碑(いいつたえ)すらく、昔しは梅澤の神明下を通りて田島へ出、倉上道(くらかみみち)川匂(かわわ)へと行きて前川(まえかわ)へ行くを本街道なるよし。今の官道(かいどう)は慶長以後の新道なるよし。

(「馬蹄(ばてい)石」の項より、2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

と、この付近は江戸時代以前はもっと内陸側を進むルートであったことが記されています。具体的にどの道筋であったかは定かではありませんが、あるいは当時は多少起伏があってももう少し標高を稼げる場所を進んでいたのかも知れません。


大磯・八坂神社
東海道より一段高い砂丘の上にある
小磯・八坂神社

八坂神社の位置
また、この区間は海岸が近いと言いながらも、東海道筋から海が見える箇所が殆どありません。大磯宿から現在の大磯ロングビーチ辺りまでは、街道沿いより更に一段高い砂丘が海側にあり、海への視界を完全に遮っています。小磯の八坂神社は街道の南側、海側の砂丘の斜面に位置し、拝殿からは街道を見下ろす位置になります。この区間では海からの潮風をある程度砂丘が遮ってくれているということでもあります。梅沢に近づく辺りでは海側とほぼ同じ標高の段丘上を進みますが、この辺りでは海側の建物に視界が遮られ、やはり海までの眺望は望めません。もっとも、標高と街道からの距離を考えると、仮に建物がなかったとしても果たして水平線が見えるかどうか…という程度だと思います。寛政9年(1797年)に儒学者であった頼山陽が安芸国から江戸へ向かう道すがらを記した「東遊漫録」にも、

(注:四月)九日 小田原城下を発し、酒匂川をこへ、海浜を通り江戸迄の道海は見へねども皆海浜也。箱根より東は山なし。一望大野なり。藤沢に到り宿。

(「藤沢市史料集(三十一)旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」22ページ、原文は「山陽東遊漫録」三樹書房より)

と、大分大雑把な表現ながら、海沿い道の割に海の風景を見ないことを書き記しています。


「川勾神社入口」交差点の位置
梅沢の立場跡に差し掛かる「川勾神社入口」交差点には国道1号線を跨ぐ歩道橋が架かっていますが、この上から眺めると民家越しに海を見通すことが出来ます。街道筋を外れて今は住宅地化している中を100mほど海辺に向かうと、やがて急傾斜に切られた階段の上から海を見られる場所に出ます。良い眺望と言いたい所なのですが、東海道筋とこれだけ高低差があると、いわゆる「こゆるぎの浜」を愛でながらの道中と言うには、ちょっと勝手が違ってしまうというのも事実です。

因みに、西湘バイパスはこの海岸段丘の下を走っていますので、段丘の上からは全くその姿が見えません。西湘バイパスのこの区間を走っている最中に万一大地震に遭遇したら、一刻も早く車を降りて山側の階段を駆け上がらないといけませんね。

次回はこの梅沢の立場についてもう少し考えてみたいと思います。

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