「平塚宿周辺」カテゴリー記事一覧

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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その3補足)

以前の記事で、馬入橋が明治16年(1883年)に改めて架けられた際には木製トラス橋であったとする記録を紹介し、それを裏付ける地元の記録が見つかっていないことを指摘しました。

その後も何か記録が出て来ないか探してはいるのですが、記録自体が一般向けに公開されているものが少ないこともあり、相変わらず目ぼしいものは見つかっていません。今回は差し当たりその中で比較的近い時期の道中記を2点、メモ代わりに書き留めておこうと思います。

1つ目は「逗子市史」に収められているもので、明治16年、つまり木製トラスの馬入橋が開通したその年の伊勢参りの記録です。ただ、惜しいことに出発は2月、馬入橋が開通したのは5月でしたから、この時にはまだ工事中だったことになります。

翌十二日朝雪降ル、午後一時発足、沼間桐ヶ谷ノ馬ヲ借用、藤沢駅台若松屋ニ至ル、茲ニテ見送リ之者ト別レ、尤三ツ橋迄送リシ者ヘハ同楼ニ於テ酒肴ヲ出シ帰ス、若松屋ニテ一飯ノ後出立五時三十分、夜行大磯駅角屋半左衛門方ニ着、時午後九時

一出金弐円 藤沢ニテ買物

一廿七銭  旅籠代

一八銭   酒代

(「明治十六年 伊勢参宮道中日誌」より、「逗子市史 資料編Ⅲ 近現代」65ページより引用)

工事中の橋を渡ることは出来ませんから、この時は渡し舟だった筈ですが、何故かその際に必要だった渡し賃は記されていません。概略の出費だけが記されているということでしょうか。何れにせよ、馬入川に絡む記述はありませんでした。

明治時代に入ってもこの頃までは、伊勢参りに出掛ける前に大勢の見送りが途上まで付いてくるのは江戸時代の風習と変わっていなかった様で、藤沢宿で暫しの別れを惜しみながら夕方まで一献をあげています。その結果として重い腰を上げて大磯に向かった時には既に夜になっていた訳ですから、馬入川に着いた時には既に暗がりの中だったことになります。念のため「月齢カレンダー」を使って当時の月齢を確認すると、12日当日は月齢4.4、朝方は雪ではあったとしているものの渡河時の天候は不明なので、その時刻には西の空にあった月が見えていたかどうかは不明ですが、この月齢ではあまり明るい夜ではなかったのは確かでしょう。工事中の橋がどの様な姿をしていたか、委細まで見るのは恐らくは難しかったのではないかと思います。


2つ目の記録は明治18年の伊勢参りの記録で、出発点は会津・猪苗代の村です。御子孫の方がこれを「明治十八年の旅は道連れ」(塩谷和子著 2001年 源流社)という本にまとめて出版されているため、こちらから平塚に関する箇所を確認してみました。

一行は途中、時宗総本山・遊行寺(ゆぎょうじ)をお参りし、儀重(注:一行の最年長者)は次の宿場までまた人力車のお世話になります。馬入川(ばにゅうがわ・現相模川)の有料の橋を渡るとまもなく平塚です。

(上記同書101ページ、3月27日の項、強調はブログ主)

この道中では総勢9人で伊勢へと向かっているのですが、その際の記録は出納帳なども含めて3種類あり、この本はそれらの記録を元に著者が再構成したものになっています。巻末には元になった道中記の1つが翻刻されて掲載されているものの、

鎌倉ヨリ出立、先ズ其地ノ大佛様、其高サ四丈八尺。観音社、権五郎社ヲ拝ス。其与リ小舟ニ江ノ島迄ノリ、此賃金弐銭也。十時頃着、辮天社ヲ拝ス。恵比寿屋茂八殿方ニテ昼飯ヲ食ス。其与リ三里廿五丁、平塚駅ニ至リ笹屋伊兵衛殿方ヘ泊シ、其泊料ハ弐拾銭也。

(上記同書325〜326ページ)

残念ながらこちらには馬入橋に関する記述は皆無でした。馬入橋を有料としている記述は恐らく出納帳の方に記されていたのでしょうが、何れにせよこちらにも橋の姿に関する記述は見られませんでした。

こうした伊勢参りの記録はまだ他にも埋もれているものがあると思いますので、それらの中に当時の馬入橋に関する記録が含まれている可能性は引き続き残されているとは思います。とは言え、ここまで空振りが続くと、当時は珍しい橋の姿だったとは言っても、そこまで興味を持ってその姿を見ている人は少なかったのかなぁ、という気にもなってしまいます。横浜・吉田橋が明治2年(1869年)イギリス人の手によってトラス橋に架け替えられた際も、評判になったのはトラス橋だったからではなく、これが「(かね)の橋」であったから、つまり当時は木造建築しかなかった日本の地に鉄を使って橋を架けたことの物珍しさの方が優っていたから、と考えると、構造的な面での物珍しさにはあまり注目されていなかったのかも知れません。その分、馬入橋の「トラス橋」という特徴が見落とされて記録に残りにくくなった側面があるのではないか、という気もします。

ただ、もしもこの推論が正しいならば馬入橋に用いられたトラスの形式は「ポニートラス」と呼ばれる小振りのものであった可能性が高くなりそうです(こちらに昭和初期の藤沢・大鋸橋[現・遊行寺橋]の写真がありますが、これもポニートラスの一例です)。大型のトラス橋では「上横構」と呼ばれる構造が頭上に渡されるので(下路式の場合)、その大きさも相俟ってかなり強い印象を渡る人に与える筈です。しかしポニートラスであればその様な構造がなく、また脇の主構も比較的小さくなるため、見た目は高欄付きの橋に近くなってきます。


明治時代中頃であれば通過する車両は精々馬車止まりですから、それほどの耐荷重を必要としていた訳でもないので、コストの掛かる大振りなトラスを構築したとは考え難い面もあり、その点でも馬入橋がポニートラスであったという推論はさほど無理なものではないと思われます。

そして、もし長大な馬入橋がポニートラスであったとするならば、橋桁の長さをあまり大きくすることは出来ませんから、その分橋脚の本数も多くなったと思われます。江戸時代からの伝統的な架橋方法に比べれば幾らか径間長を確保出来たとは思われるものの、橋脚の本数削減にはそれほど寄与出来ず、その分増水時の問題に対応するには十分ではなかったのかも知れません。勿論、この点を突き詰めるには当時の橋の構造が具体的にわからなければなりませんから、飽くまでも推論の域を出ない話ではあります。

震災や戦災などで既に地元の史料の多くが失われている現状では、そこまで細かい記録を辿るのは最早不可能ではあるのでしょうが、その周辺地域に何かしらの記録が残っている可能性もないとは言えませんので、今後も折に触れて資料探しを続けたいと思います。
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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(まとめ)

ここまで馬入の渡しが馬入橋へと置き換わっていく、江戸時代から大正時代にかけての経緯を見て来ました。改めて一連の記事のリンクを並べた上でタイトルを付け直すとこんな感じでしょうか。




今回は元々、六郷の渡し→六郷橋の流れと比較する意図が強くありました。そこで、両者を比べて相違点・共通点などを挙げてみます。

相違点として一番目に付くのは、行政の関与の度合いの差でしょう。六郷橋の方は鈴木左内の申し出以降、架橋の動きはほぼ地元の有志の働きに限定されていて、国や府県、更には村などの行政単位が前に出ることがありませんでした。最終的には京浜電気鉄道(後の京浜急行)が買い取って補修した上で国に寄贈している所まで行っていながら、その橋が最終的に国や府県の費用負担でアーチ橋に生まれ変わるのに大正15年まで時間がかかりました。

これに対して、馬入橋の場合は費用負担こそ地元馬入村の負担で動いていた面が強かったものの、当初から足柄県や神奈川県の働きかけが強く、明治30年代からは費用負担の是非を巡って長期にわたって議論が続けられています。現時点では裏付けになる資料がないとは言え、明治16年という非常に早い時期に木造トラス橋が建設されていたということになれば、これは神奈川県の働き掛けが強くなければ実現しなかった可能性が高く、六郷橋の様な地元有志のか細い経済力や技術力では到底考えられないことであった筈です。

東京と横浜の間に位置する六郷橋が何故か行政から関与されなかったのは、何だか妙な感じもします。その理由として考えられるのは、1つには東京府(当時)と神奈川県の境に架かっているために、両府県の関係調整が必要な微妙な位置づけに置かれていたからという点も挙げられると思います。しかしこれは、国が調整役として入ることで推進することは出来たとも考えられるので、やはりそうしたモチベーションを強くは持っていなかったということになりそうです。

今ひとつ考えられるのは、当初に鈴木左内が積極的に事業化を志したことが、却って「六郷橋は民間の事業」という意識を行政側に持たせてしまい、結果的に道路行政の風向きが変わってくるまで行政側が関与しようという意識を削いでしまったのではないか、という点です。ただ、この辺りはまだ裏付けになる資料を見つけていないので、飽くまでも私の推測に過ぎません。

他方、馬入橋の場合は、江戸時代の周辺5ヶ村が役割分担して維持していた渡船場の枠組みが解体し、馬入村1村が架橋の負担を担う格好になってしまったため、より上位の行政府から問題視されやすかったのでしょう。国からは一定期間内での通行料徴収で架橋費用の調達を指示されていたものの、手持ちの架橋技術で果たしてその様な枠組みで本当に維持出来るのか、疑問も強かったのではないかと思います。実際、明治11年に架橋した橋が早々に落ちてしまったということは、次の架橋のための資金を通行料で賄い切ることが出来なかったことを意味しており、その点では通行料徴収という方法が早々と破綻していたことになります。

一方、共通点としては六郷川・馬入川共に砂地の川底であったことが技術上の難点となっていた点を挙げることが出来るでしょう。これまで何度も引用している江戸時代の善兵衛の残した

六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ

の言葉から、こうした川には伝統的な工法ではなかなか太刀打ち出来なかったことが窺えます。

善兵衛自身は江戸で隅田川の長大な架橋を手掛けている当時の技術者ですから、この言葉は江戸時代当時の架橋技術の水準を反映していると見ることが出来ると思います。その当時の技術者にとって、「砂川」は架橋困難な川の1つであったという認識が持たれていたことになります。

そして、そのことを裏打ちするかの様に、当時の最新の土木建築技術が何とか行政の予算で賄える様になるまでの約50年間、伝統的な工法による木橋は幾度と無く流失・破損しては交通が途絶するということを繰り返していた訳です。因みに、その様なこともあって、明治時代にはこの様な木橋は全て「仮橋」と呼ばれていましたが、江戸時代の渡し場で冬場限定で架橋され、春には撤去されていた「仮橋」とは明らかに位置付けが違うもので、その点では用語の整理が必要です。

基本的に江戸時代のことを取り上げるこのブログが、架橋の話になると時代を下っているのは、1つには江戸時代以降の流れを追うことによって、逆に江戸時代には技術的に困難であったことをあぶり出したいという理由からでもあります。ここまでの事例を見る限り、江戸の架橋技術では砂地の川底に対処することが出来なかった、ということは言えるでしょう。この点については、東海道を更に西に進んでみた時に改めて考えてみたいと思います。

なお、今回は相模川の水運と渡船の兼ね合いについてごく簡単に触れることしか出来ませんでしたが、多摩川でも上流から河口まで丸太を流す筏下りはありましたから、各所の渡船との間に同様の問題があった筈です。ただ、多摩川の水運についてまだ詳しいことを知らないので、何れ改めてこの問題については調べてみたいと考えています。


おまけ:
一連の話の流れの中で使えずに残ってしまった写真をまとめて置いておきます。

旧東海道:馬入橋の高欄上から平塚方面を見る
茅ヶ崎側で曲がっている馬入橋
大正15年に架けられた馬入橋が幅員の拡充と老朽化への対応を理由に昭和55年に架け替えられた際、新しい橋は元の橋の下流側へと架けられました。現在の橋は茅ヶ崎寄りで僅かにカーブしていますが、これは元の橋を迂回する格好になった名残です。上流側には元の橋が架かっていたスペースが更地になって残っており、将来交通量が増えた時にはここに橋が追加される計画だったのですが、実際は下流の湘南大橋の方が交通量が増えてしまい、そちらの方で4車線化対応工事を行ないましたので、ここが4車線化することは当面無さそうです。

この敷地にひょっとしたら大正15年の架橋の遺構が残っているかと思いましたが、橋台も含めて綺麗に撤去されている様です。

旧東海道:東海道線馬入川橋梁を橋脚の間から見る
大正15年に完成した橋梁の間から
旧東海道:馬入川橋梁を行くスーパービュー踊り子
昭和41年完成の下り線を行く
スーパービュー踊り子号

現在使用されている東海道線の馬入川橋梁が、大正15年から使われていることは既に紹介した通りですが、この際の橋脚の位置は、明治の橋梁の橋脚の位置のすぐ上流側に揃えられています。このため、径間も28と完全に同一のものになりました。下り線は昭和41年に架け直されているのですが、この架橋の際にも低水路上では明治時代の橋脚跡のすぐ下流側に橋脚が置かれています。これは何か意図があって揃えられているのでしょうが、大正15年の橋はともかく、昭和41年の橋まで同様にされているのはどういう意図なのでしょうね。

旧東海道:高水敷に残る旧馬入川橋梁橋脚上り線-1
右岸離れた所に残る上り線橋脚?を上流側から
旧東海道:高水敷に残る旧馬入川橋梁橋脚上り線-2
下流側からの様子
旧東海道:高水敷に残る旧馬入川橋梁橋脚下り線
高水敷に残る下り線橋脚跡
現在も残っている東海道線の旧馬入川橋梁の遺構は、その後も復興作業や増水による浸食などの作用を受けていますので、中世の相模川橋脚の場合とは違って当時の様子がどの程度残っているかは疑問です。しかし、旧相模川橋脚の方は関東大震災の液状化の痕跡を評価して天然記念物指定を目指そうという動きがあるということであれば、こちらも発掘調査すれば相応に震災の痕跡が見つかるのかも知れず、一度掘ってみるというのも手ではないのかなぁ、とも感じます。勿論、相応に見識のある人がやらないといけませんが。

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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その6)

前回、明治42年に馬入橋が架橋されたことを見て来ました。その後大正10年から架け替え工事が始まっていると書いたのですが、この辺りの経緯について、前回同様「馬入の歴史」(馬入の歴史再発見事業活動委員会編 2008年)から当時の「横浜貿易新報」の記事によれば、
  • 大正9年8月24日 馬入橋予算30万円県会へ提出

    馬入橋改築は10年度に着手する事となり本年度通常県会に経費予算の提出をする予定。規模が大きいので工費は30万円を下回らないとされた。

  • 大正10年1月15日 馬入橋架換申請

    橋梁換工事は10年度より12年度に至る3ヶ年継続事業として着手する予定。県会の議決を得たので許可申請を内務大臣に提出した。

  • 大正10年3月17日

    馬入橋総延長612mの改修工事は2ヶ年計画にて総工費60万円を計上し、県より技師が出張し測量。今年夏頃より工事に着手。

  • 大正11年3月30日 馬入橋架換工事着手

    馬入橋の架換は大正9年からの継続事業であるが、その後予算修正に手間取り、ようやく架換工事に着手する運びになった。

  • 大正11年4月7日 工事請負入札広告

    馬入橋改修事務所その他新築工事。

    4月11日11時より入札。

  • 大正11年8月12日 馬入橋架換工事近日着手

    県事業40余万円の馬入橋架換工事が着手される予定で、事務所が河畔に建設された。

    12月以降着手する事となった新橋梁は幅7.2m長さ648mの総鉄筋コンクリートで、完成は大正14年中頃の見込み。経費は39万6千円の予算であるが、セメントその他の材料高騰のため超過は免れられない。工事は県直営で職工は最も多い時で400余名に達する。大工・鍛冶屋・平工夫等で、既に須馬青年団では雇人の申込みを提出した。

(同書131ページ)

予算がどんどん膨れ上がっていくためにその調整で着工が遅れていたことがわかります。折からのインフレの影響などもあると思われますので、工費の膨張の原因を鉄筋コンクリート化にのみ求めるのが難しいところです。とは言え、当時まだ施工事例が十分に多いとは言えない総鉄筋コンクリートの架橋ですから、ある程度の影響はあったと思われます。


ともあれ、当初の予定から2年近く遅れて着工した馬入橋の工事は、大正12年の9月には橋梁工事はまだ橋脚や橋台の工事を行なっているところでした。同月1日に関東大震災が襲ったのは丁度その最中だったことになります。

ところで、現在茅ヶ崎市文化資料館にて「写真とことばが伝える茅ヶ崎の関東大震災」という特別展が催されています(3月17日まで)。この記事を書いている最中ということもあり丁度良い機会なので足を運んでみました。なお、簡単な展示解説を配布していましたが、図録の販売はありません。

ここで「震害調査報告」(復興局 1927年)と記した調査報告書から一部の図面が掲示されていたので、何処かで閲覧できないか探してみたところ、「土木学会附属図書館」のデジタルライブラリーにその全文のPDFと掲載写真が展示されていました(付図を含まず)。そこで、これを使って馬入橋や隣の馬入川橋梁の破損状況を確認してみます。

まず、馬入橋については工事中の橋の方について次の様に記しています。

ロ馬入橋 (寫眞第三十六及び第三十七並びに附圖第二十三参照)

本橋は國道第一號線神奈川縣中郡須馬村地先(茅ヶ崎、平塚間)に於て馬入川に架したるものにして大震當時は工事施工中なりしが全長342間、有効幅員24尺を有し徑間各36尺の鐵筋混凝土(コンクリート)丁桁57連より成りその構造は(1)の酒匂橋と略々同一なり、當時兩岸の橋臺及び左岸寄橋脚6基を完成し橋脚基礎の井筒も42本据付けその一部は既に沈下工事を了りたりしが大震に因りこれ等の工事に多大の損害を被りたり、右岸橋臺は高28.3尺、底幅12尺、上幅8尺の混凝土工にして杭打基礎上に築かれたるものなるが著しく川方に傾きその傾斜12度に達せり、左岸のものは高21尺にして川方に約4度の傾斜を爲し被害稍々輕し。

3柱より成れる橋脚は未だ何等の荷重を受けざりしに拘らず混凝土の硬化未だ充分ならざりしと震動激烈なりしとに依り凡て水平連結桁の端に於て挫折せり(寫眞第三十六参照)既に据付又は沈置せる井筒は何れも甚だしき傾斜、浮上り移動等を爲して河床に散亂し地動の如何に强烈なりしかを追想せしむ(寫眞第三十七参照)。

(「大正12年関東大地震震害調査報告書 第三巻」第一編「橋梁」32~33ページ、ルビはブログ主)


橋脚はこの時点でまだ6基しか完成しておらず、残りは土台となる井筒の設置工事中だったことがわかりますが、何れも何らかの形で破損しており、事実上全面的にやり直しが必要な状況になったと言えそうです。この井筒(今では「ケーソン」という言葉を使う方が多い様です)は周囲からの水の侵入を防ぎながら中を堀って沈下させた後、中にコンクリートなどを詰めて基礎とするためのものですが、工事の過程で中が空洞になるために浮力が利いてしまい、液状化現象が起きた時に地表に浮き上がってしまったものですね。この報告書ではまだ「液状化現象」という言葉を使っていない点が注目されます。

なお、明治42年架橋の木橋の破損状況については特に記されていませんでした。特別展で展示されていた写真の中には、この木橋の破損状況も1枚含まれていましたが、ほぼ全域にわたって橋桁が落ちていることを確認できる以外、詳細はわかりませんでした。ただ、この橋が通信線を渡す目的でも使われていたことが、傍らに垂れ下がる電線で確認出来ました。人車を渡すだけではなく、現在「ライフライン」として認識されているものを渡河させる目的でも橋が利用され始めていた訳ですね。勿論、橋の倒壊で通信も途絶えていたことになります。

他方、東海道線の馬入川橋梁の方は、全線中でも特に破損が大きかったためか、かなりの紙数をこの橋梁の記述に割いています。そのため、その全部を引用することは出来ませんが、まとめると
  • 橋台は側面に亀裂が生じ、最大で2フィート川に向かって移動、傾斜
  • 上り線の橋台は4基は地盤の下で切断して摺り動くのみで転倒を免れたが、残りは切断転倒、基礎部にも切断が生じたもの多数
  • 下り線は復旧作業のため地盤下の状態は未確認だが、6基は倒壊を免れたものの残りは転倒
といった被害状況が報告されています(同書第二巻「鐵道鐵道及び軌道之部」第一編「緒言・國有鐵道」32~33ページより)。また、後に橋梁の対策を検討する段になって次の様に記しています

馬入川橋梁は上り線及び下り線に對し各徑間70(フィート)單線鋼鈑桁28連を單線用橋臺及び橋脚上に架設せるものなるがその橋脚の基礎工は槪ね井筒工を施し橋脚の軀體は2種又は3種均等斷面を有する煉瓦造なり。而して破壊狀態を見るに橋脚部の()裂は井筒との連結部附近又は斷面の變化せる箇所附近に多く又井筒部に於ける罅裂は井筒の上部よりその長の1/4〜1/3附近に多きを認む(第二卷鐵道之部附圖参照)

(同書第三巻第一編「橋梁」57ページ、ルビはブログ主)

つまり、橋脚が折れた位置の高さが共通しており、そこが橋脚が地震で揺すられた時に一番力の掛かりやすい場所であったことを指摘している訳です。

旧東海道:高水敷に残る旧馬入川橋梁橋脚断面-1
旧東海道:高水敷に残る旧馬入川橋梁橋脚断面-2
高水敷に残る橋脚の断面
この橋脚の根本は今もその場に多く残されていますが、その後の経年が大きく、仮復旧の際に土台が活用されたりしているため、果たして現状が震災当時と比較してどの程度変化しているかは不明です。しかし、調査報告と照らし合わせると、地震で揺すられた時に水平方向に破断して転倒したりずれたりしていることから、水平方向の力が加わった時に煉瓦やモルタルが耐え切れず、そこから折れてしまったことは確かな様です。関東大震災を境にして煉瓦造りの構造物が急速に姿を消すのは、こうした被災事例を見て政府が鉄筋コンクリートへの切り替えを急速に推し進めたからでした。

旧東海道:現在の馬入川橋梁を平塚川より見る
現在の東海道線馬入川橋梁。
左手が大正15年完成の上り線と貨物線
右手は昭和41年再架橋された下り線
川の中にかつての橋脚の根元が見えている
なお、2つの橋の復旧工事ですが、まず馬入橋は工兵隊による仮設の橋梁が建設されて同年10月3日から当座の通行を確保した後、大正15年に改めてプレートガーダー橋が竣工し、これが昭和55年まで使い続けられることになります。他方、馬入川橋梁は下り線の土台を使って単線で10月21日から復旧、大正15年10月に複々線化用の3線分の鉄橋が完成して、これが現在も使い続けられています(下り線はその後本復旧されますが、昭和41年に現在のコンクリート橋に置き換えられました)。

さて、馬入の渡しが明治時代から大正時代にかけて架橋される歴史を一通り見てきた訳ですが、また例によって話が散らかって分かり難くなってしまった様です。次回はここまでの経緯を改めて振り返ってまとめてみたいと思います。


おまけ:
旧東海道:旧馬入川橋梁橋脚の上で休むカワウ
旧橋脚の上で羽を休めるカワウ
現在は川の中に沈んでいる馬入川橋梁の橋脚ですが、カモ類やカワウなど、水上に暮らす野鳥たちにとっては都合の良い休憩場所になっている様です。この時にはカワウが橋脚の上で羽を乾かしていました。

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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その5)

その4」のあと2回ほど余談めいた回を挟みましたのでちょっと間が開きました。東海道線の馬入川橋梁の架橋の際のエピソードから、馬入川の川底の状態について触れた訳ですが、今回は明治44年の架橋までを追いたいと思います。

もっとも、この間の架橋については引き続き「茅ヶ崎市史」の記述にあった

その後も三十六年(一九〇三)、三十七年と架橋を繰り返し、明治四十年(一九〇七)の大出水の翌年に至って永久橋が建設された。

(「茅ヶ崎市史 第四巻 通史編」1981年 414ページ)

が、ほぼ唯一と言って良い記録になってしまっています。この明治36年、37年、40年の経緯についても裏付けとなる資料が見つかっていません。かつての馬入村の地域にお住まいの方々がまとめた「馬入の歴史」(馬入の歴史再発見事業活動委員会編 2008年)という冊子に、当時の「横浜貿易新報」(当初は「横浜貿易新聞」、後に「神奈川新聞」に吸収)に掲載された同地域に関する記事の一覧が載っているのですが、そこにはこれらの架橋の経緯を指摘した記事は含まれていません。他方で明治38年7月には増水により破損して修理していた馬入橋が復旧していた旨の記事があり、こうした小破に伴う修理は更に多かったと思われます。


但し、何れにせよ安心できる状況では全く無かったことは、県会でも馬入川の架橋に関する議案が討議され続けていることからも窺えます。上記の「馬入の歴史」を頼りに明治36年10月の記事を探し出して来ました。次年度の通常県会で議案に上りそうな項目を幾つか取り上げている中に、馬入川の架橋に関するものが含まれています。

◯明年度の縣會に就て

通常縣會に附する明年度豫算は目下縣廳に於て審査中なるが毎年の例として地方より種々の請求を爲すもの多く道路改修に橋梁架設に教育勧業等の補助の如き枚擧に(いとま)あらずと雖ども縣の歳入僅々百万圓内外に過ぎざるが故に一々其の請求に應ずること能わず(しか)し緩急を圖りて完成すべきは序を()ふて設備を加ふるの方針にて立案編製する筈なりと云ふ就中

△酒匂川の堤防 …

△馬入川の新橋梁 は數年來の問題にして屢々議に上ぼれるのみにて着手に至らざりしが明年度には計上することゝなるべし元來三大川中橋と云ふほどの橋なけれど馬入の如きは國道にも拘はらず昔しのまゝの渡船の不便に賴る次第にて如何に小縣なれバとて餘りに不体裁不都合に堪えざれば愈よ架橋の設計に着手することゝなりし由なるが其の豫算は木造にても四万圓内外を要すへけれは縣參事會が此大金を一時に出すべく縣會に請求するや否や目下の一疑問なり

(「横浜貿易新聞」 明治三十六年十月一日 二面 …は中略、ルビは一部を除いて撤去、変体仮名は置き換え)

「数年来の問題にしてしばしば議にのぼれる」というのですから、明治30年代前半からこの問題が県会の俎上に乗っていることが窺えますが、それ以来却下され続けていたのでしょう。県の予算が「百万円内外」の時代に馬入橋1本架橋するのに最低でも「四万円内外」が必要、つまり県予算の4%を持って行くとなれば、流石においそれとは出せない金額であることは理解出来ます。

果たして、翌11月に県会に掛けられた馬入橋架橋の議案は敢え無く廃案になってしまいます。

◯昨日の臨時縣會

午前十時五十分開會総員三十六名出席…軍司部連帶土木費繼續年期支出の件即ち馬入川架橋費ハ番外堀内參事官原案維持に(つよ)めたるも六番中村瀨左衛門、卅五番大井鉄丸氏等の質問交々起りたる結果終に總起立にて參事會決定通り第一次會にて廢案と決せり、…

(「横浜貿易新聞」 明治三十六年十一月十一日 二面 …は中略、ルビは一部を除いて撤去)

この廃案の理由については、同じページの「馬入川架橋問題」と題した論談に

而して其理由とする處ハ縣費多端の折柄到底縣民の負擔し能はざる處にして、他に更に急須を要するの事業頻々之れ有ればなりと

(同上)

と記されており、その様な他に優先されるべき事業が本当にあるのかと批判する論説になっています。

その様な世論の高まりもあってか、翌年から少しずつ予算が通り始めます。以下、「馬入の歴史」の「横浜貿易新報」記事一覧から該当するものを拾うと、
  • 明治37年11月30日 馬入酒匂橋追加予算(県費) 馬入川仮橋予算は2,578円62銭2厘、…大体に於いて認められた。
  • 明治39年12月7日 馬入川架橋費決まる 馬入川架橋費は一次会で異論なく原案を可決し、続いて二次会を開き佐藤某氏より永久に持続するよう設計を変更して原案より1万円余を増額し51,741円27銭8厘(内40年度支出32,536円92銭2厘 41年度支出19,204円35銭6厘)に修正を発議し、大井某氏より調査委員会に於いても同意見なりと報告に併せて賛成した。
    中村某氏より工事に関する質問あったが、採決の結果佐藤某氏の修正案に決まった。

(「馬入の歴史」(馬入の歴史再発見事業活動委員会編 2008年 126ページ〜)

因みに、国の方でもこうした状況へ対応するべく法律を制定しようとする動きがなかった訳ではないのですが、それが陽の目を見るのは大正8年の「(旧)道路法」までありません。他には橋梁に関連する法律としては明治29年に制定された「(旧)河川法」があるものの、より上位の行政府の負担で道路や橋梁を維持する前提となる法律としては根拠が弱く、そうした中で県費からの拠出の是非を巡って議論のために長い時間を費やす、という構図に陥っていた様です。

こうした紆余曲折を経て、更に翌年もう1度議会の予算審議を経てようやく明治41年の着工に漕ぎ着けた新しい馬入橋ですが、この工事がまた一筋縄ではなかった様です。再び「馬入の歴史」の記事一覧によれば

明治41年12月12日 馬入川橋工事

中郡秦野町、梅原某の請負に係る東海道馬入架橋の大工事については1万円以上の損失の見込まれた。

梅原某は何れへか逃亡したため資本家の榎本某、奥村某の両氏が継続して工事を進めたところ、大いに進展し、1月初旬に開通することになった。

(同上、一部脱字補充)

何と、工事の請負人が夜逃げしてしまったというのです。何があったかについては開通当時の記事に記載があります。

明治42年1月25日 馬入橋開通

馬入橋開通は地元の人が熱望して止まないが県経済が許さず、日露大戦のさなかであるが、今や時として合わなく、41年度県会において架橋費を決議支出にいたる。

負競争入札により延長612m幅5.4mの県下第一の架橋は28,500円、4月から7月31日までに落成の約束で、中郡秦野町請負業、梅原某請負い、昨年5月に工事を着手したが、請負金額では完成の見込みがないため、材料木の変更を出願し優等材をいつわり、下等材を使い、当局職員をごまかそうとするがついに見破られ、大失敗の結果請負人は8月13日夜いずれかに逃亡。

一時当該県官も困惑し、梅原某の資本主の秦野町の榎本某、桐山某、奥村某の諸氏はこの状況を捨て置いては、自己の損害は工事落成するも癒える見込みなく県民及び当局者にたいしても気の毒の次第と心痛み折、県当局者よりも相当便宜又は保護を与えて工事を進行するようにといわれた。

これにより奥村某氏は心を大きくし、この交渉に応じ、栗原某氏を工事監督とし、一回の経験もないのにこの大工事竣工の責任を一身に引受け、工事を継続してこの間職人の苦情種々の困難をのりこえて、今回の開通式を迎えることが出来た。

その支出金を聞くに総支出37,020円にして…(以下略)

(同上)

どうやら、競争入札に応札する際にダンピングしてしまった様ですね。それで資金不足を資材の質を下げることで乗り切ろうとした所が、バレてしまったために夜逃げをしたということの様です。まぁ、明治36年の時点で最低でも「四万円内外」が必要と予算を弾いていたものに対して、その7割ほどの価格で応札している訳ですから、相当な無理があったことはその時点で見えていたのではないかと思うのですが…何だか今でもありそうな話ではあります。事実、総支出金額は、本来拠出の必要なかった金額が含まれているとは言え、ほぼ当初の見込みに近い価格に収まっている訳ですから、結果として見れば予定価格が相応に妥当なものだったことがわかります。

馬入橋架橋記念絵葉書
馬入橋架橋記念絵葉書(工事中の様子)

平塚馬入橋絵葉書
平塚馬入橋絵葉書
(「絵葉書でみる風景 100年前の横浜・神奈川」
 横浜開港資料館編 有隣堂より引用)
ともあれ、肝心の橋は明治42年に渡り初めを迎えた訳ですが、出来上がった橋は橋桁に鉄骨を組み込んでいるものの基本的には木橋でした。ここまでの経緯を一通り見た上でこの姿を見ると些か妙な感じもします。永久橋とするために予算増額を認めてもらいながら、その結果がこれだったということなのでしょうか。予算額を見る限り、極端な価格の増減がある様にも見えませんので、当初からこの方針であった様に思えるものの、これで十分馬入川の中で長期にわたって耐え続けてくれる、という見込みだったのでしょうか。

もっとも、大正10年から再び馬入橋の架替工事が始まり、今度はコンクリート製の橋脚を立て始めているので、僅か12年で再架橋の決議がなされたことになります。そうなると、この明治42年の橋はどういう位置付けであったのか、今ひとつ腑に落ちません。一応、上記で触れた大正8年の「(旧)道路法」の制定によって、国費の補助が見込める様になったので、それを見込んでより丈夫な橋へ交換しようという発想になったのかも知れないとは考えられるものの、この明治42年の橋の姿の一体何処に、長期にわたって持ち堪えてくれるという見込みを持っていたのか、不思議な感じがします。

とは言え、この橋は大正12年の関東大震災が来るまで、大正6年4月のタバコの火によると思われる火災などの被害はあったものの、水害による流失からは免れていた様です。その点ではこの橋は当初の目論見を何とか果たしていたと言えそうです。このまま地震が来なければ次世代の橋に無事バトンタッチ出来たのかも知れません。

そこで、次回はこの関東大震災の馬入橋や馬入川橋梁の被害の記録を見ながら、両者のその後を見たいと思います。

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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その2補足)

その9・その2」を書いた時に、明治11年の馬入橋架橋についてこんな表現で落橋した時期が特定できないことを記しました。

ともあれ、こうした経緯を経て明治11年に最初の馬入橋の架橋工事が行われたことは確かな様ですが、上記の「茅ヶ崎市史」の書き方では果たして竣工できたのかも怪しく、竣工後程なく流失してしまった様にも読めます。とは言え、5年後には次の橋が架けられている以上、何れにしても架橋後長くもたずに落ちてしまったことには変わりはないでしょう。

実際の所、明治11年の橋が何時頃まであったのか、裏付けするものがこれと言って見つかっていなかったのですが、後で紀行文集を見ていてその記述が1つ見つかりました。今回はそちらを紹介したいと思います。

この紀行文集は藤沢市文書館が編集したもので、「藤沢市史料集(三十一)』旅人がみた藤沢(1)—紀行文・旅日記抄」と銘打たれています。2007年の奥付があり、比較的新しい冊子ですが、地元のことが書かれた江戸時代から明治時代前半までの紀行文や旅日記が集められています。藤沢市が編纂したものですから同市のエリアのことが中心なのは当然なのですが、旅程の前後がわかる様に概ね平塚から鎌倉・金沢・戸塚辺りまでの範囲の記述が抜粋されており、周辺地域の当時の実情を推し量る上でも意外に役に立つ部分があります。

出来ればこういう文集がもっと他の地域からも出て来ると良いのですが、こういう紀行文や旅日記の出発点は当然他の地域、場合によってはかなり遠方に及ぶことになります。事実上全国各地から収集することになる訳ですから、それらを掻き集めてくるのは大変な作業で、こういうものがあれば…と思っても編集するのは相当に大変でしょう。実際、この史料集も「(1)」とされていながら、「(2)」以降は今のところ出版されていません。無理は承知の上で、何時の日か続編が出版されることを願っています。まぁ、こういうものこそテキストデータ化して横断検索が可能になれば恩恵が大きいのですが。

さて、この史料集に明治13年の「旅行日誌」が収められています。出発地は「陸奥国鹿角郡尾去村」とされていますが、現在の秋田県鹿角市に当たります。この村の「高谷忠吉」という人が、はるばる伊勢参りに行った際の旅程が逐一記録されているのですが、その中で藤沢から平塚に向かう下りにこう記されています。

(注:明治13年5月)十日

大雨降リ江ノ島ヨリ出立藤沢ヘ廻リ寺参リイタシ此処小栗ノ墓地アリ 是ヨリ南渡村此処ニ馬入川此ノ橋九十二間アリ

平塚 大磯 昼使 梅沢村

小田原   港屋伊之助

二十一銭 泊リ

(上記書92ページ、強調はブログ主)


この「92間」という橋の長さは恐らく低水敷上の距離なのだろうと思われますが、何れにせよこの記述によって、明治13年5月にはまだ初代の橋は流失せずに架かっていたことが確認できる訳です。当時はまだこうして大きな川に橋が架かる場所が少なかったために印象に残ったのでしょう。


因みに、この史料集には明治23年の別の人の日誌も含まれているのですが、そちらには残念ながら馬入橋に関する記述はありませんでした。既に東海道線が開業しているために鉄路で一気に先へと向かっているのですが、藤沢で乗車したことの次には松田で停車したことに記述が飛んでしまっています。

とは言え、やはりこうした記述が当時の景観を明らかにしてくれるのは非常に大きく、その意味でもこうした紀行文がもっと多数掘り起こされてまとめられると良いのに…と、つい思ってしまうのでした。

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