「川崎宿周辺」カテゴリー記事一覧

【旧東海道】その3 川崎付近の地形と道筋、そして川崎大師

「その2」の六郷橋の話は前々回の記事でひとまず終了なのですが、今回もう1回、川崎周辺の話を続けます。

かつての川崎宿の中を歩いていると、この道がごく僅かながら、周辺よりも高くなった場所を進んでいることに気付きます。これを写真や動画に収めるとなると、なかなかこれだとわかる様に撮るのが難しいのですが、やはり建物の裾に注目するのが一番わかりやすいですね。

砂子交差点の駐車場入口
…わざわざこれを写真ではなく動画に撮ってきたのを出来栄えを見て後悔しているのですが、これは旧街道と直交する市役所通りの交差点から、地下駐車場の入口を見たものです。動画は最初川崎駅側を向いていますが、左へ振ると大師方面に向き直り、そこに地下駐車場の入口が設けられています。この側面のタイルは水平に貼られていますので、入口側が街道筋より若干低くなっていることがわかります。タイルの数と高さから考えると50cm程度でしょうか。その先でも市役所通りがダラ下がりになっていますので、実際はもう少し高低差があることになります。

佐藤本陣隣のビル
佐藤本陣隣のビル
また、左の写真のビルは現在「りそな銀行」が入っている建物で、この隣がかつて佐藤本陣があった場所に当たります。旧街道筋から離れた場所から街道に向かって撮っているのですが、70~80cmほど街道側が高くなっています。

元々一帯は多摩川が河口付近に作った三角州が発達した土地ですから平坦度が高く、川が氾濫した時に少しでも水に浸かるのを避けるために、自然が創りだした微高地を住居や街道に使う傾向があるのは何処でも一緒なのですが、この現在の河道に対して直交する方向に伸びた微高地は何なのだろう?ということが前から気になっていました。

多摩川付近の旧河道と自然堤防分布
多摩川付近の旧河道と自然堤防分布
(「大いなる神奈川の地盤」より)
多摩川の河口付近の地形について何か明らかにしてくれるものがないか探したところ、「大いなる神奈川の地盤」(地盤工学会関東支部神奈川県グループ編)という本の中に、これを上手く図式化したものを見つけました。この図に地名を書き込んだものを引用します。

そして、「地理院地図」上で「土地条件図」を表示し、そこにこの付近の東海道の道筋を描き込んだものを作成しました。

川崎宿付近の地形・地質
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「数値地図25000(土地条件)」を合成)

如何でしょうか。街道筋が上手い具合に自然堤防や砂州の上に乗っているのが良く分かるのではないでしょうか。川崎宿の辺りは砂州になっていて、その西北側に多摩川の旧流路が大きく馬蹄形に飛び出してきているのがわかります。そう言えば、先ほどの地下駐車場の写真を撮った交差点の名前は「砂子(いさご)」でした。砂州の上に出来た地形に由来する地名なのかも知れません。また、「迅速測図」では川崎宿の西側に川が流れていて、その周辺に水田が広がっている点も、ここが多摩川の旧流路であったという点と上手く合います。この水田は江戸時代後期の絵図では池の様に描かれているものもあります(享和2年「川崎宿絵図」など)。


(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%に切り替えると、現在の地形図に切り替わる)

また、六郷の辺りでは現在の多摩川の流路に沿う方向で自然堤防が伸びています。六郷神社が乗っているのもこの自然堤防の上で、旧東海道が制定された当初はこの六郷神社への参道を通っていたというのも、この自然堤防上に発達した集落を通過する方向に向かったからなのかも知れません。家光の代に街道を直道化した時には、この自然堤防ではなくその西隣の砂州の上を通していることもわかります。大森から六郷まで、現在は国道15号の直道がここを貫いているので地形がわかりにくくなっていますが、ここも自然堤防を巧みに繋いで道が作られたことが見えてきますし、鶴見や生麦の辺りも旧街道筋に砂州が伸びていますね。

他方、大師河原の一帯にも自然堤防が複雑な形で残っており、この辺りはあまりはっきりした旧河道が残っていない様ですが、自然堤防の形状から考えて河道の変遷は激しかったのだろうと思われます。川崎大師が乗っているのもこの自然堤防の上で、江戸時代の大師道もこの自然堤防を伝う形で走っていました。その点では明治時代になって通した新道(現在の国道409号線)は自然堤防を外れて低湿地の中を突っ切る形で引かれており、こちらは開通後しばしば水に浸かったという記録が残っていますが、その理由もこの図を見ているとわかる気がします。

ところで、前回の記事の続きになりますが、この一帯の梨をはじめとする果樹の生産について、「多摩川誌」では次の様にまとめられています。

多摩川梨は1650年代に川崎大師河原で栽培されたという説もあるが,栽培が盛んになったのは寛政年間(1789~1801)からである.安政3年(1856)の大地震による津波で壊滅したが,1893年(明治26)に大師河原村(現川崎市出来野)当麻長十郎の梨園で優良品種が発見され,これを長十郎と命名した(参4).


明治時代以降は多摩川梨は東京を中心とした消費地への出荷がメインになりますが、江戸時代には専ら大師参拝客や東海道を行き交う旅人への販売が主だった様です。栽培が盛んになった寛政年間は、ちょうど川崎大師に徳川家斉が参拝して世間の評判が高まり、外部からの参拝客が増えてくる頃と一致します。当時桃よりも梨の方が作付面積が多かったのは、恐らく道行く人の喉を潤すには水気の多い梨の方が好まれたからではないかと思います。

こうした果樹園が多摩川の河川敷に集中しているのは、今の感覚ではちょっとピンと来ませんが、江戸時代は年貢の基準となる田畑の方に条件の良い土地が当てられている一方、旅人を相手にした稼業は今流に言えば「副業」に当たり、通常の田畑よりも条件の悪い土地を選ぶ傾向が強かったのでしょう。もともと梨が砂地に強いこともありますが、梨園や桃園が多摩川の水除堤よりも川沿いに作られていたのは、こうした理由が重なっているのではないかと考えます。

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【旧東海道】番外編 大師河原の「㮈」

これは厳密には旧東海道からは随分と離れた場所になるし、別のカテゴリーにしようかとも思ったものの、発端はやはり旧東海道筋から派生しているので、座りは悪いけれどもこちらで行きます。

川崎宿の盛衰を考える上では、どうしても川崎大師(金剛山金乗院平間寺)のことに触れたいなぁと思いながら、川崎宿から大師までのいわゆる「大師道」の道筋を地図上で追っていました。もっとも、現在は医王寺から大師までの道筋の大半が区画整理されて失われているので、当時の道筋を追うにはやはり「迅速測図」を見るしかないと判断し、「歴史的農業環境閲覧システム」を開いたのですが…。

「迅速測図」では、まだ地図記号が制定される前で、土地利用については専ら漢字で表記されていました。多摩川に並行する大師道を追っていくと、多摩川河川敷を中心に「梅」「桃」といった果樹園が点在していたことが見えてきます。大師道沿道の名物になっていたものですね。


(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%に切り替えると、現在の地形図に切り替わる)

残念ながら「歴史的農業環境閲覧システム」に掲載されている迅速測図は解像度が粗く、これも良く見ないと何という漢字か判読し難いのですが、多摩川に沿って「桃」と記された土地が、そして右下の辺りに「梅」の字が見えています。左の中程から途中で枡形を描いて右下へと通じる道が大師道で、この枡形の辺りが医王寺という位置関係です。すぐ北側を走っているのは水除堤で、梅林は堤の向こう側、つまり多摩川の増水時に堤防によっては守られない位置にあったことがわかりますが、今日の本題はそこではありません。

もう少し下流へと辿っていくと、河原に「」と記された土地があることに気づきました。いや、正確に言うと「歴史的農業環境閲覧システム」では何と書いてあるのかわからず、より高解像度な迅速測図が収録されている「東京時相地図」に辛うじて多摩川沿岸が含まれていたので、これを見て初めて「㮈」という字であるらしいことがわかった次第です。

でも、「㮈」って一体何が植えられていたのか、それとも河原だけに何かが自生していたのか。もっとも、「㮈」と記された区画は別に多摩川沿いに限られておらず、もう少し内陸に入った辺りにも散見され、この一帯には割と多かったことがわかります。秣場の様な自生地がこんなに散在しているのも不自然ですし、恐らくは何らかの耕作地だろうとは思うものの、作付面積が大きいのならさほど珍しいものではなかった筈で、それを何故この字で表現しているのだろう?因みに、江戸末期にこの地域で名産になっていたものという点で言えば、「梨」が思い浮かびます。「長十郎」がこの地で発見された品種であることは有名ですが、では何故「梨」ではなく「㮈」なのか?

一応「木偏に奈」で検索すると、こんなQ&Aページがヒットしました。
漢字の変換の仕方を教えて下さい。 木へんに奈⇒【木奈】こんな字です。 この文字の...
漢字について質問です! きへん(木)+奈でなんと読むんでしょうか?
この中では

意味は「からなし(樹木の名称)」です。唐梨と書きますが、植物名としてはベニリンゴ。似ているので、カリンにも、これを当てることがあるようです。

という2つ目のQ&Aの回答が最も近そうですが、そんなものを大師河原で大量に作っていたんだろうか?という点が腑に落ちません。「㮈」が「梨」と近いのかどうかも判断不能です。

これでは埒があかないので、川崎市の「地名資料室」に行って訊いてみることにしました。ひょっとしたら地元では既知のことかも知れませんので、案外すんなり答えが返って来るかも知れないと判断したからです。

資料室が蔵書していた迅速測図は復刻したものですが、刷りは悪くありませんでした。ただ、各区画に書いてある漢字が肉眼では判読し難いほど細かいのが辛いところ。資料室の方もこの字を虫眼鏡で判読して「字源」に当たっていましたが、やはり思い当たる節がなかった様です。

ただ、この復刻した迅速測図には、欄外に手書きのメモが添えられていました。最初は「何で書き込みがある図を復刻の元ネタに選ぶんだよ」くらいに思ってまともに読んでいなかったのですが、メモ中の幾つかの字がふと目に入って、この図について何か補足的なことが書き添えられているらしいと気づいて改めて読んだところ、何とそこに知りたいことの答えが明確に書いてあったのでした。
ひとまず、そのメモを判読できる範囲で書き出してみます(太字強調はブログ筆者)。

塩田ノ黒点ハ之ヲ除ク可シ塩田ハ塩(以下汚れで判読不能)
㮈字ハ梨ニ改ム
○○(判読できず)の黒点ハ之ヲ除ク可シ
氷屋ハ氷室ノ改ム
○(くさかんむりの下に「師」の偏と殳←恐らくこの図上だけに存在する字)ハ蘆ニ改ム可シ


このメモを誰が書き込んだか、署名も何もないので判断できないものの、復刻版作成時には記載されていたことから考えると作成・保管者であった旧陸軍ということになるのでしょうか。作図時に表記の統一を徹底できなかったのか、この図の中で他の図とは異なる表記になってしまった所を注意書きとして書き記したものの様です。そしてその中に、「㮈」が「梨」の意味であることが明記されていたのでした。因みに「塩田の黒点」と言っているのは区画内に格子状に並べて打たれた点のことで、「㮈」と記された区画も同様に点が打たれていることから考えて、敷地内の行動の障害になるものがあるかどうか(陸軍が地形図作成に乗り出したのは軍事行動に利用する目的だったので)という観点で合致しないという判断でしょうか。それなら桃園も梅園も黒点がないと辻褄が合いませんが…。

まぁ、地名資料室まで足を運んだ甲斐はありました。まさか欄外のメモで疑問が解消するとは思いませんでしたが、こういう事例を見ると原本というのはどんな情報を含んでいるものかわかったものではないことを思い知らされます。最近はどうしてもネットに当たりがちですが、必要だと思ったら元ネタに当たりに行かないと駄目だと改めて思った次第です。

それにしても、今の地形図上は梨園も桃園も果樹園記号でまとめられてしまいますので、迅速測図が個別に樹種を書いてくれていたのは後世にとってはありがたいことではありました。明治初期≒幕末に幾つか名物になっていた果樹のうち、梨がどうやら他を凌駕していたことがこの作付面積から伝わってきます。何故大師河原で梨だったのかは…調べが付く様なら次々回以降に書いてみます。

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【旧東海道】その2 六郷橋(3)

前回に引き続き、明治期に入ってからの六郷橋の架橋の歴史を掘り下げます。前回の明治初期の左内橋よりもう少し時代が下った頃の話です。今回ちょっと長めですが、一気に行きます。

前回は六郷橋の隣に架けられた鉄道橋である六郷橋梁を引き合いに出しましたが、大正14年(1925年)に六郷橋がようやく安定するまでに、同地には更にもう1本鉄道橋が架かります。六郷橋梁と並行して架けられた、現在の京浜急行、当時の京浜電気鉄道の橋です。

こちらの橋についても、三度前回までと同じ方が良いまとめを作っていらっしゃいますので、今回もそれを参照しながら話を進めます。

ref-6 京急六郷鉄橋の歴史


そして今回も、改めてこちらのページも併せて見ていきます。

ref-7 六郷橋の歴史


こちらのページに記載されている通り、京浜電気鉄道は当初、六郷架橋組合から六郷橋を購入して併用橋として利用しようと目論んでいます。しかし、結局強度が足りずに自前の橋を架けざるを得なくなり、当初は仮橋を木製で架けたものの、最終的にはトラス橋を明治44年に架けています。

この歴史をもう少し詳しく、順を追って見てみましょう。それぞれの時期に架けられた橋の様子がわかる資料がないか探してみましたが、昭和24年(1949年)に京浜急行電鉄(株)がまとめた社史「京濱電氣鐵道沿革史」(以下「沿革史」)が、参照できた中では辛うじて上記のページを補足するに足る情報を与えてくれましたので、こちらを引用しながら話を進めます。これ以上話を深めるには、恐らく京急本社に乗り込んで社内資料を拝見させて戴くしかなくなると思いますので…。

まず、六郷橋〜川崎大師間で営業を開始した大師電気鉄道が、品川方面への進出を目論んで京浜電気鉄道となった頃から、六郷川を越える必要が出てきたことになります。その際の経緯について、「沿革史」ではこの様に説明しています。

當社と六鄕橋の關係は、當社が川崎、品川間軌道敷設の出願をなした時に始まつた。卽ち明治丗二年六月、品川延長線敷設の爲め、假橋架設の設計をなしたが、後に現在の人道橋を買收して軌道併用にする事とし、當時の架設權所有者であつた石井泰助氏、山田三郎兵衞氏、外六名と交渉の結果、同丗三年七月十九日、買收の手續を完了した。所が工事設計に着手すべく橋梁調査をした處、電車運轉に堪へない事が判明したので、計画を變更し別に鐵橋を架設する案を立てて認可を申請したが、更に研究の結果之亦困難な事がわかつた。そこで『鐵材等取調の結果目下我が國にては間に合ひ難く一切外國に註文を要する處、材料到着をまち架設するには一年半乃至二ケ年を要す。然るに延長線の内、川崎・大森間は本年中に運轉開始可致豫定につき、六鄕橋は已むを得ず現橋の上流に竝列して橋杭を現橋と同一の位置になし單線軌道の假橋を架設一時運轉を致度』との願書を提出して許可を得、買收した人道橋の上流に長さ五十五間の木橋を架設し、翌丗四年二月一日の六鄕橋・大森間開通に間に合はせた。

(同書44ページ)


必ずしも資金に恵まれていない中で色々と試行錯誤する中で、開業予定日に間に合わなくなって止む無く木製の橋で急場をしのいだことがわかります。既設の六郷橋を併用するという案も、最初から併用ありきだったのではなく、一旦自前で架けるつもりでいたものを翻意したことから考えると、仮橋であっても架設費用が予想外に膨らむことが設計段階で明らかになってきて、まずは何とかコストダウンの道を探ろうと考えたのかも知れません。

当時架かっていた六郷橋の写真は、前々回取り上げた通り「六郷橋の歴史」のページで見られる通りですが、あの13径間の木橋と同じ幅で橋脚を打って仮橋を架けたことがこの記述から読み取れます。願書にその旨をわざわざ書くというのは、それでないと鉄道省から認可が下りない可能性を考えたのではないかと思います。ただ、六郷橋では強度不足だったのをどの様な構造で補ったのかまでは、参照できた資料からではわかりませんでした。

何れにせよ、頼りない木の仮橋で何時までも凌げる訳はなく、何とか早く鉄橋へと切り替えたかった様ですが、実際は輸送力強化のための複線化対応で橋の位置が変わり、その対応の際にもう1回仮橋を架けたので、鉄橋化実現に更に時間を要する結果になりました。この経緯は「沿革史」の続きにこの様に表現されています。

而して之を複線として運轉能率を上げる爲めには、鐵橋を架設せねばならなかつたが、神奈川延長線敷設に當り、京濱間直通運轉を敏速にする爲め、六鄕・大森間國道上の軌條を新設軌道に變更敷設する計画を樹てた結果、鐵橋の位置も變更を要するので暫く單線假橋のま丶運轉をなし、明治丗九年五月に鐵橋工事施行許可を受けた。

併し鐵橋の竣功には日時を要し、附近線路變更の完成迄に間に合はないので、一時其の豫定位置に假橋を造り、曩に買收した人道橋は修繕した上、明治丗九年十二月之を政府に献納した。

(同44~45ページ)


この間、明治39年8月には台風による水害で仮設橋の橋桁を1径間分失っていることが、「京急六郷鉄橋の歴史」に引用された「多摩川誌」の記事からわかりますが、これは移設前の初代の仮橋の方の様です。また、後で出てきますが明治43年にも水害で運行が途絶していますから、やはり仮橋の利用期間が伸びればそれだけ水害に恐々としながらの営業にならざるを得なかったでしょう。更に、同時期に輸送力増強のために車両の大型化も進めていますが、これは当然車重を増加させることに繋がり、仮橋への配慮がネックになってしまうという面もありました。

明治三十六年、…同年九月、將来の品川・神奈川間の直通運轉に備へ、五〇馬力電動機四箇附ボギー車一〇輛の建造認可を出願した處、速度制限問題及重量增加に伴ふ六鄕橋梁補强等困難な問題に遭遇し、翌明治三十七年七月、漸く認可を得て九月竣工した。

(同239ページ、…は中略、太字はブログ筆者)


最終的に仮橋での営業は明治44年までの10年に及びましたが、小破による運行途絶はあったものの、何とか流失までには至らずにこの10年を乗り切ったのは、隣の六郷橋もほぼ同期間を乗り切った点と併せて考えると、左内橋よりは幾分強度面では優れていたのか、それとも幸運にもこの期間の水害がそれほど甚大ではなかったのか。俄には判断できませんが、何れにしても営業面では綱渡り状態を続けていたのは確かな様です。

これを解消すべくいよいよ鉄橋架設に取り組む訳ですが、その段の「沿革史」の記述は次の通りです。

斯くて新假橋の竣成に依り、明治四十年十一月初めて複線運轉を行つたが、一方鐵橋の設計に就ては度々變更せられ、同四十二年五月に至り、工事準備に着手、橋臺橋脚及び付屬土木工事(工事區域四十七鎖)は鈴木由三郎氏に請負はしめ、鐵桁は川崎造船所に註文した。此の工事中明治四十三年九月の大洪水のため、假橋の一部破損して、五十六日間渡船連絡を行う等の事となつたが、同四十四年三月、着工以来一年有半にして全部竣功し、同年四月一日に開通した。そして之が開通は輸送力を增大し、恰も花季の乘客輸送に遺憾なからしむるを得た。

(同45ページ)


…花見の書き入れ時にちょうど間に合って良かった、というところでしょうか。

さて、多摩川に架けられた鉄道橋を架橋順に並べると、こうなります。
  • 明治5年(1872年) 最初の鉄道橋(初代六郷橋梁)
  • 明治10年(1877年) 六郷橋梁鉄橋化
  • 明治22年(1889年) 甲武鉄道(立川〜日野間)
  • 明治34年(1901年) 京浜電気鉄道(木橋による仮橋)
  • 明治39年(1906年) 京浜電気鉄道(複線化に伴う2本めの仮橋)
  • 明治44年(1911年) 京浜電気鉄道(鉄橋化)

以下略しますが、まだ東急も小田急も京王も登場する前の時代です。後に中央本線として官営化される甲武鉄道は別として、京浜電気鉄道の取り組みは意外に早いことがわかります。

この甲武鉄道が架けた多摩川橋梁はまだ現役で使用されています。曲がりなりにも民間鉄道が初めて多摩川に橋を架けたことになるのですが、Wikipediaの諸元を良く見ると施主は確かに甲武鉄道ですが、橋梁設計は「官設鉄道」になっています。つまり、甲武鉄道の頃はまだ鉄道用の橋梁の設計は、明治政府が抱えている技術者の力に頼らなければならなかったことになります。鉄道橋の設計を行うに足る技術がそもそも民間には流通していなかったと読むべきか、それとも技術はあったが明治政府が民間の設計技術を信頼していなかったのか、はたまた治水に悪影響を及ぼす様な施工をされるのを恐れて民間に自由にさせなかったのか…理由がどの辺にあったかは、この事実からだけでは俄に判断は出来ません。

ただ何れにせよ、京浜電気鉄道の六郷鉄橋は、多摩川を越える鉄道橋としては最初に純粋に民間が設計から行った事例であったということになります。つまりそれだけ、京浜電気鉄道としては高いリスクを背負っての架橋工事を行ったことになります。請け負った「鈴木由三郎」という人は、ネット上を検索してみたところ「月島の渡し」の由来や東京帝国大学の医科大学教室棟の建設にその名前を見る土木請負業者であった様ですが、それ以上の略歴等は良くわかりません。もっとも、「沿革史」にある通り幾度かの設計変更「せられ」と表現していたり、更に「京浜急行電鉄史資料所在目録」(1981年)から該当しそうな鉄道省の特許を拾うと

明43.217 監158 多摩川橋梁設計変更ノ件
明43.712 監897 仮橋使用延期ノ件
明43.712 監898 橋梁設計一部変更ノ件
明43.822 監1063 多摩川鉄橋橋脚一部変更ノ件
明44.331 監397 多摩川鉄橋上及其ノ前後電柱建設ノ件


これらは表題だけが並んでいるので内容までは不明ですが、少なくとも鉄道省側も民間の鉄橋架設に関して手放しで任せていた訳ではなさそうです。恐らくはかなりの「指導」が行われたのでしょう。東海道本線よりも電化では先行した京浜電気鉄道の六郷鉄橋の電柱について、鉄道省が何を示唆したのかも不明ですが…。

その結果出来上がった六郷鉄橋は、低水路上はトラス6連、高水敷上は上路プレートガーダー24連の鉄橋という構成になりました。官設鉄道の六郷橋梁の低水路上のトラスが3連と長めのものになっていたのに比べ、蒸気機関車が走らない分若干軽めの荷重想定で済む筈の京浜電気鉄道がそれより短いトラス6連となったのは、やはり上記の様に色々とリスクがある中で技術的に無理は出来ないという判断になったからなのでしょう。

それでも、大師電気鉄道として開業してから順調に路線を伸ばす京浜電気鉄道、恐らくはその営業成績に事業全体としては前途を高く評価する出資者が多かったのでしょう。リスクがあっても事業が安定すれば営業収入から架橋コストを返済できる目処があって、結果としてそれだけの投資を集めることができた、ということなのでしょう。

さて、六郷橋の方は上記の通り明治39年に献納されて晴れて「国営」となった筈ですが、しかしその後も相変わらず仮橋が架けられては流失を繰り返す有様でした。スポンサーシップとしてはひとまず周辺住民に負担が行く事はなくなったものの、利用者の側から見ると引き続き流失によって多摩川を越えるルートが途絶する危険に怯えながら六郷橋を利用し続けていたことになります。鉄道の方は近隣に2本も橋が架かって水害に耐えているのに比べると、その扱いには随分と隔たりがあったことがわかります。

今は国道以下市町村道に至るまで、道路や橋梁の普請を国や地方公共団体が行うのが当たり前になっているので、当時の実情が見え難くなっている嫌いはあると思います。この頃はまだ、国費が特定の道路や人馬などが渡る橋梁のために支出されるケースは極めて限られていたため、既に通行量が多くなっていた六郷橋といえども、仮橋での運営が長く続かざるを得なかったのです。

現在の様に積極的に公費を投じて道路整備を行う様に政策が変わった契機は、関東大震災でした。その復興事業の中で抬頭する自動車交通への対応が見直され、官費による道路・橋梁の積極的な整備が進められるようになったことで、初めて多額の資金を必要とする道路用の橋梁工事にも費用が回ってくるようになった、という訳です。実際、六郷橋がタイドアーチを伴った立派な姿になった大正14年(1925年)には、多摩川では他に二子橋が竣工し、翌年に日野橋が架橋されるなど次第に江戸時代からの渡し場が橋へと切り替えられていくことになります。

裏を返せばそれだけ、長大な橋を架けるには高度な技術とそれに伴う高コストが必要で、それらを揃えるには鉄道の様に運賃収入から賄うスキーマを確保するか、あるいは国などの政治的な裏付けの大きいスポンサーシップがなければ難しかったということになるのでしょう。地元の一名主や、有志の共同出資では、到底それらを賄い続けることは出来なかった…これが、六郷橋の歴史を紐解くと明らかになって来る事実だったと思います。

何だか江戸時代の話から随分話が時代を下ってしまいましたが、こうした後の時代の変遷を見極めた上で、改めて時代を遡って当時の様子を検証し直してみるのも、技術の変遷を見極めるには有効ではないかと思ったので、こんな話にまとめてみました。如何だったでしょうか。

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【旧東海道】その2 六郷橋(2)

前回の続きですが、今回は一気に時代が飛んで明治時代以降の六郷橋の話。

六郷橋だけを見ると、明治以降の歴史は落橋と復興の連続です。明治7年(1874年)に鈴木左内が通行料を徴収する橋を架けたものの、4年後に早くも流失して渡しに戻ってしまい、その後も流失しては渡しに戻ってしばらくすると再び架橋、ということを繰り返し、大正14年(1925年)に架橋された橋になってようやく、昭和59年(1984年)に拡幅のために架け替えられるまで60年近く京浜地帯の大動脈としての使用に耐えました。その間50年の間、両岸の町は橋に泣かされ続けたと言って良いでしょう。

鈴木左内は川崎宿の対岸、多摩川の左岸にあった八幡塚村の名主でしたが、八幡塚村では六郷の渡しの渡船権を川崎宿に一手に握られている現状に不満を抱き、幾度も幕府に改善の願書を送っています。川崎宿にとっては宿場の財政を支える重要な収入源であった渡船業ですが、主要な街道の渡船に一方の岸の村だけが関与して利権を吸い上げるというのは、対岸から見れば不公平の謗りを免れないものではあります。結局徳川幕府が倒れるまで八幡塚村の願いが叶うことはありませんでしたが、新たな政府になって川崎宿の独占権も確固たるものではなくなったので、八幡塚村側にも「今度こそ」という思いは当然あったでしょう。

この新たな六郷橋についても、前回同様こちらのページが良くまとめられています。

ref-7 六郷橋の歴史


このページに「多摩川仮橋麁図」という、左内橋の大まかな様子が描かれた図が載せられています。これだけだと川の中に橋脚を何本立てたのかがわかりませんが、両岸の描き方などから見て恐らく江戸時代からの伝統的な工法での架橋であったと判断して差し支えないでしょう。当時の技術では径間長(≒橋桁の長さ)はおよそ3間(約5.4m)が限界でしたから、60mの川幅を渡り切るには最低でも11径間が必要ということになります。実際、「多摩川仮橋麁図」の下に明治30年撮影の六郷橋(明治16年に再架橋された後翌々年に破損して修繕した後の姿)の写真がありますが、径間長が川岸付近で短くなっている分本数が増え、全部で13径間で構成されていることが窺えます。

さて、何故そんな技術的な話を始めたのか、それは同じ時期にもう1本、隣に架けられた橋との比較をしたいからです。明治5年の鉄道開業と同時に供用開始となった、日本初の鉄道橋の1つである六郷橋梁です。

この橋についても、同じ方が詳しくまとめたページがありますので、そちらも併せて参照しながら論を進めます。

ref-5 JR六郷橋梁の歴史


こちらの橋の姿は同ページに写真と錦絵が掲載されています。写真の方は、モデルらしき人間が土手の上に座ってポーズを決めている所から(こういう写真が当時流行ったのです)、恐らくは絵葉書か写真集のために撮影されたと思われますが、高水敷の位置を現在と照らして考えると恐らく上流側右岸、つまり川崎側から撮ったものと思います。上記「JR六郷橋梁の歴史」から諸元に関する箇所を引用しますと

「六郷川の鉄道木橋」(「史誌第13号」)によれば、流水部(川崎側)を渡る本橋は明治3年10月に着工、全長115メートル、檜(ひのき)製のラチス形(菱格子状)のトラス橋7連からなり、橋台には石材が使われたものの橋脚は木造(松丸太)であった。屈撓(くっとう)防止のため、橋脚からトラスに斜材を掛けた、独特の対束補強構造が採られていた。(クィンポストの支柱は振動が甚だしいため後で追加されたものという説もある。)


開業時の汽車の重量はWikipediaによれば約23トン(改造後の重量ということで開業時の重量は不明ですが、実際の営業時の値に一番近そうな「機関車運転整備重量」を見ています)、客車の重量が不明ですが当時の木製の車体でも乗客を載せれば1両当たり10トン前後の重量は確実にあったでしょう。何れにしてもこんな重たいものを橋で渡すなど、そしてそんな重たいものが時速30km以上(開業当初の平均速度)で走るなど、言うまでもなく当時の日本にとっては全く未知の領域でした。ましてやその様な日本にとって前代未聞の橋を、江戸初期以降200年近くもの間架橋を断念していた川に架けようというのですから、短期間で竣工させるには既にその技術を持っていた所から買ってくるしかなかったのは当然のことでしょう。

果たしてイギリス人技師が設計して出来上がった橋は、当時の日本人がそれまで見たこともない姿をしていました。今でこそトラス橋など珍しくも何ともありませんが、当時は明治2年(1869年)に関内に架けられた吉田橋など数えるほどしか例がありませんでした。そして、この吉田橋がその物珍しさから新たな観光名所化したのと同様、この六郷橋梁も新名所となったのでしょう。川崎大師へ参拝する途上、もしくはその帰途に、六郷の渡しの土手の上からその姿が一望に出来た筈ですから。だからこそ、絵葉書や錦絵の格好の題材となり、今でもこうしてその姿を偲ぶことが出来る訳です。「JR六郷橋梁の歴史」に掲載されている錦絵は、まさにそういう位置からの姿が描かれていますよね。

そして、この六郷橋梁の姿を、鈴木左内も当然目の当たりにしている筈です。そして恐らく、「六郷川にも橋は架けられる」という思いを抱いたのではないか。僅か2年後には周囲を説得して架橋に着手し、更にその翌年には竣工させたのは、そんな思いが強く左内を支配したからだという気がします。

しかし、左内が江戸時代の道役・善兵衛の「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」を果たして知っていたかどうか、知っていても大丈夫だと判断したのか。また、如何にも重そうな汽車が客車を引いて六郷橋梁を渡っていくのを見ながら、その見慣れない橋の姿の中に洪水による被害を最小化する工夫が盛り込まれていることに気付けていたかどうか。実際、六郷橋梁は5年後に鉄橋に架け替えられていますが、それは決して水害で流失したからではなく、トラスを組んだ檜の腐朽が予想以上に速く進んだからでした。

日本の在来の架橋技術では、橋桁にはそれだけの長さを持った太い丸太や木材を、継ぎを作ることなく用いるしかありませんでした。径間長がせいぜい3間しか取れなかったのは、要するにそれ以上長くすると橋桁に使った丸太や木材が荷重に耐えられないからですが、トラス橋はそうした制約を木材などの部材を巧みに組むことによって荷重を分散させ、1つ1つの部材の耐力以上の荷重に耐えさせるための仕組みです。初代の六郷橋梁の「全長115メートル、檜製のラチス形のトラス橋7連」から計算すると、1径間が約16m、木製でも在来型の橋梁の3倍の径間長で重い汽車を渡すことが出来たことになります。

そして、径間長を長くすることが出来る結果、洪水時の弱点になりやすい水中の橋脚の本数を減らすことに繋げられる訳です。洪水時の過大な水圧や上流からの流下物との衝突による橋脚の破損を極力食い止めるには、何よりその本数を削減することが一番で、トラスはその可能性を飛躍的に高めた点で日本にとって画期的な技術でした。先ほど名前を挙げた関内の吉田橋も、水中に1本も橋脚を打つことなく両岸を渡すことが出来た点が、当時の日本の社会にとって驚異的なことであった訳です。

また、橋脚の本数が減ればそれだけ1本1本の橋脚に掛かる荷重が増えてきますが、こちらも丸太を従来工法とは異なる形に組み、部材の本数を増やして荷重を分散させる工夫がなされています。更に、写真に見られる様に上流側には「舟形」を組んで上流からの流下物による橋脚の破損を防ぐ仕組みが念入りに仕組まれています。

これらの傾向は、5年後の架替に際して、再び「JR六郷橋梁の歴史」から引用すると、

全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。木橋の時期は単線だったが、鉄橋に改架された際同時に複線化が図られた。


と全面的に強化され、複線化によって更に列車通過時の荷重が増えているにも拘わらず、橋脚の本数を更に減らすことに成功しています。橋脚自体も煉瓦を使って耐力を更に上げると同時に、杭打ちを鋳鉄に変えることで根掘れへの対策を強化しています。そして、この強化された橋も増水によって落橋することなく、新たな橋に役目を譲るまで35年の使用に耐え続け、架け替え後もトラス部分が他所へと送られて更に使用され続けるほどの耐久性を見せたのです。

こうした新しい橋の姿を左内も観察していると思うのですが、「ここにも橋は架けられる」という思いだけで自費を注ぎ込んでしまったのか、それとも私費だけでは到底手の届かない工費を前に「まずは在来型の橋で蓄財してから」とそろばんを弾いたのか、何れにしてもその思いは江戸時代初期の六郷橋と同様、度重なる流失という現実の前に潰れていく結果に終わってしまったのだと思います。

但し、六郷橋梁の檜のトラスが僅か5年で朽ちたという件は、確かに防腐剤の塗布の問題もあったかも知れませんが、在来型の工法で造られた橋がもっと長保ちをした点と突き合わせて考えると余りにも短く、この点は前回引用した「江戸の橋」の記述を思い起こしてみる必要があると思います。前回の引用でも当時の六郷橋が「槇一式」によって架けられていることが記されていますが、その耐食性能の良さは些か誇張されているのではないのかと思えるほどの言葉で明治初期の人が表現しています。

府下千住大橋の橋杭ハ 槇の木にて二百年の久しきを経て尚朽腐(きゅうふ)せず。

 琉球人富川親方に()す 談たまたま木材のことに及べり 彼人の話に「チアギ」(即槇の木の方言)ハ 二三百年を経るも尚 朽腐せざる故に「ヲキナワ」にてハ 甚だ此木を貴重すと
(「江戸の橋」44ページ、明治10年『工業新報』投稿の引用)


「槇」とは「真木」で、必ずしも樹種を指す言葉ではなく「最上の建築材を」指すと、この本の別の箇所で説明されていますが、何れにしても部材の質を最良にすることで、橋の寿命を飛躍的に伸ばすことが出来る、というのが在来工法の考え方です。そういう視点からは、5年で腐らせた檜の橋を見て、当時の職人なら「何故そんな木を使ったのか」と考えたかも知れません。

これに対して部材を大量に必要とする西洋型の技術では「部材に橋梁用としては最良とは言えないものであっても、防腐処理によって寿命を伸ばすことが可能ならば、その分安価で豊富な部材を用いやすい」という考えに立っていたことが窺えます。そして、5年で朽ちた木製のトラスの代わりが鉄であったということは、石炭の大量投入によって豊富に得られる鉄骨の方が、こうした橋梁の部材としては向いているという判断へと切り替わっていったことを意味しており、こうした技術コンセプトが日本に浸透していく歴史が窺える様に思えるのです。

次回もう1回、もう少し時代が下った頃の話を続けます。



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【旧東海道】その2 六郷橋(1)

六郷橋の位置
旧東海道の話、今回から数回、六郷橋を取り上げます。「橋」の話をする手前、江戸時代以降の話も織り交ぜる予定です。

江戸から旧東海道を歩いてきて、川崎宿に入る直前に渡るのが六郷の渡し。江戸初期には徳川家康が慶長5年(1600年)に架橋させた六郷橋があったものの、洪水で度々流される橋の修繕費に音を上げて貞享5年(1688年)渡しに切り替え、川崎宿の名主田中丘隅が六郷の渡しの永代渡船権を握ってから宿場の経営が安定した…という辺りまでは、街道歩きをする人には割と良く知られた話だと思います。元禄3年(1690年)に成立した「東海道分間絵図」にはまだ六郷橋が描かれていますが、これは版木の準備の都合上更新が間に合わなかったのでしょう。

この六郷橋、家康が架ける前にも一時期存在したという説があります。「新編武蔵風土記稿」でもこの説が採用されて、両岸の村の項で解説されています。(以下引用は雄山閣版より、…は中略、太字はブログ筆者)

卷之四十 荏原郡之二 六鄕領

◯八幡塚村

多磨川 …或人の考に、永祿の頃は此川川崎大師河原筋の村々より南を流れしと、されども永祿十二年信玄亂入の時、當所の橋を切おとせしこと【小田原記】に見えたれば、此説もうけがたし、
◯六鄕渡 附橋迹、東海道の往還にあり、川を渡て橘樹郡川崎宿へ達す、此所に昔は橋あり、其はしめて造りし年代はしらざれと、永祿十二年信玄當國へ亂入のとき、北條家の侍行方彈正六鄕橋をやきおとして、甲州勢を止めしことあり、この後三十餘年たへたりしを、慶長五年の夏東照宮ふたゝひ橋を造らしめたまひしこと、當所八幡宮への御願文に見えたり、…


卷之七十二 橘樹郡之十五 川崎領
◯川崎宿

◯六鄕渡 大橋跡附東海道往還の内多磨川の渡なり、南の方久根崎堤外の地より荏原郡八幡塚町へ達す、こゝはよほど古き往來にて、昔は橋ありしが、永祿十二年武田信玄當國へ慟の時、六鄕の住人行方彈正が橋をきり落せしこと【小田原記】に見ゆ、其後久しく再造に及ばざりしを、慶長五年命ありて造らしめられ、其後數御修造もありしかど、元祿五年七月廿一日の洪水に橋落てより永く癈せられて今の如く船渡となれり、…


しかし、この説は色々と調べてみると、どうやら異論が多く、信憑性に乏しい様です。「川崎誌考」をベースに「小田原記」の記述の信憑性について紹介した記事については、こちらのページが良くまとまっていますので該当ページヘのリンクのみ置いておきます。

ref-7 六郷橋の歴史


「小田原記」の記載が真説であれば、何故家康がここに橋を架けさせたかは、表向きはわかりやすくなります。後北条氏が破壊してしまった橋を「復興する」と宣言すれば、これは新しい領主にとっては既存の利便性を復旧する行為ですから、こういう事業は周辺の領民にも歓迎されやすくなります。

しかし、それならば何故この位置に元から橋があったのか、当時の街道がより上流の「丸子の渡し」や「平間の渡し」などを渡るルート(中原街道や池上道)であったことを考えると、それらの主要な渡しを差し置いて敢えて六郷に優先的に架橋したことになり、小田原を本拠とする後北条氏、もしくはそれ以前に六郷や川崎を所領した大名等が何故六郷にそこまで肩入れしたのか、理由を探らなければならなくなります。その点では確かに、六郷に橋が元々あったと考えるのはかなり難しそうです。六郷橋架橋が家康の江戸入からかなり時間が経っていて、殆ど五街道制定の時期に近いことも、六郷橋を「復旧」したという説明よりは、新たな街道の交通を円滑化する目的で架橋を命じた、という説明の方がしっくり来そうです。

もっとも、その後の歴史と照らし合わせた時に、家康が(東海道を担当していた彦坂元正あたりの家臣が見立てたのかも知れませんが)六郷橋を「架けられる」と見立てた「勝算」がどこにあったのかも気になります。鈴木理生氏の「江戸の橋」(2006年)によれば

寛保二(一七四二)年に、当時の道役の一人だった善兵衛に、幕府の担当者がつぎのような諮問をした文書が残っている。

この道役・善兵衛の父親は前に見た貞享五(一六八八)年に流失した多摩川河口の六郷橋の、流れ残った橋材と金物一切で、日本橋浜町の対岸にあたる「小名木川西河口」に万年橋(始めは「本番所の橋」と呼ばれた)を架けた技術者だった。 この先代善兵衛によると、六郷川は「虫付き」を防ぐために「槇一式」で架けたのだが、「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」、つまり橋杭を支持する地盤が柔らかいために洪水に耐えられなかったことが、橋を廃止したことの技術的条件だったことを明らかにしている

これまでは、六郷橋を復興させずに船渡しにした理由を、江戸城防備のためだとする見方や説明が一般的だが、真相は案外このような理由であって、多摩川河口の沖積砂層の厚さが大きかったためだとわかる。つまり橋の規模の大小とは別の問題として、その端の橋脚の重量を受ける地盤(地層のあり方)が、橋の有無を決定していたのである。

(34〜35ページ、…は省略箇所で、千住大橋の虫食いについての諮問の内容が記されている。太字は同じくブログ筆者)


「江戸の三大橋」と言われた両国橋、千住大橋が江戸時代を通じて維持されたのに対して、六郷橋の方は90年足らずしか維持できず、その間も幾度も架け替えを余儀なくされたのは、この説に従えば立地場所の川底の差が物を言ったことになります。架橋技術の面で無理があることは、恐らく廃止を決断した幕府の耳にも届いていただろうと思われ、それが再架橋断念に繋がった可能性も確かに少なくないと思います。

他方、ならば慶長5年の架橋当時に技術上の難しさに気づくことはなかったのだろうか、という点が疑問として浮かびます。家康の江戸入りから相応に年月も経ち、大規模な架橋を行うに当たっては当然それに通じた職人を呼び集めたと思われる中、六郷川に杭打ちをした際の感触で川底の様子に気づくことがなかったのか、それとも気付いたものの無理を圧して架橋を続行したのか、八幡宮(現在の六郷神社)の家康の祈願文は架橋難航を悟った家康が何とか竣工せんことを願ってのことだったのか…などと妄想を膨らませてみたくなります。

そして、この実情にも拘わらず架橋が行われたことから考えても、そんな「難所」に家康以前に後北条氏(や、それ以前に架橋されたのであれば当時の領主)が六郷橋を大金を投じて技術的難題を乗り越えて維持していたとは到底思えず、やはり「小田原記」を六郷橋の証拠として考えるのはますます難しい気がしてくるのです。




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