「鶴見区(横浜市)」タグ記事一覧

生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
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「玉匣両温泉路記」より生麦付近の道筋について

「新編相模国風土記稿」の産物の調査が思う様に進んでいないので、再び「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)から軽い話題を取り上げて間を繋ぎます。今回は、箱根へ向かう途上、原正興(はらまさおき)一行が東海道を逸れた箇所を検討します。

同年の4月14日(グレゴリオ暦:5月26日)に江戸を発った一行は、鶴見に差し掛かった所で東海道から外れた道筋を進んでいます。そのくだりは次の様に記されています。

此駅(注:川崎宿のこと)を出はなれて十杖(とつゑ)(丈)あまりの板橋あり。是を鶴見橋と云。渡れば鶴見村也。右のもちひ(餅)うる家にて休む〔よね鰻頭(まんぢう)と云。今坂餅の如し〕。(ここ)を出て六七丁(ゆき)、右の方に、子生山と(いふ)寺(東福寺)あり。観世音の像を祭る。江都(えど)よりも(ゆき)をがむ人多し。観国院君(土岐頼布)にも御帰依ありて、をりにはみ館へ(まねか)せ給ひ、ひと日、御かちより行せ給ひしときく。おのれも「ひとたび行見む」と思ひしことなればうれしく、其道をたどり行に、五六丁にして石の作り坂あり。二十杖あまりのぼりて観世音の堂あり。額は(さき)の白川少将楽翁君(松平定信)のみ筆也。坂の半、二王門の額は出雲国松江の殿(松平治郷か)のみ筆也。かゝるやごとなき御方おかたのみ筆あれば、仏のひかりもいやまして尊くこそおぼゆれ。堂の前より生麦(なまむぎ)の海づら、見わたしをかし。寺は麓にあり。

山を下り、畑の細道わけつゝゆけば、生麦の大路へいづ。弐丁程近しと云。生麦村、(みぎは)の方に浦嶋の墓有ときゝて尋れば、膝入る(ばかり)の小寺の裏に五輸の塔あり。浦嶋と云文字のみ見えて、年の名は見えず。又弐丁程行て、右の方に、浦嶋寺と云も有。霊亀のことなどしるしたるは、水江(みづのえ)の浦嶋子に似たり。万葉集に、浦嶋子の家の跡を見て読たる長哥あり。其浦嶋は、丹波国余社郡(よさごほり)(与謝郡)墨江(すみのえ)の人なれば、こゝのとは別人なるべけれども、亀のことなど似たれば、しる人にこそとはまほしけれ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 134〜135ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
青線が旧東海道、浦島寺は現存しないので「浦島丘」の地を代わりにポイント
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「五十三次名所図会」より川崎・神奈川
歌川広重「五十三次名所図会」より
川崎(右)・神奈川(左)
川崎で描かれているのは「鶴見川」で
鶴見橋の袂の茶屋が数軒見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この部分は地図を参照して位置関係を確認した方が状況を理解しやすいでしょう。鶴見川を渡ったところで名物の「米饅頭」(「お江戸日本橋」の歌詞にも登場する)を売る茶屋で一服し、そこから「六七丁」つまり600〜700mほど行ったところで、かねてからその御利益を伝え聞いていた「子生山東福寺」へと逸れる右手の路を見つけて、この寺へと向かっています。

正興らが休憩した茶屋がどの辺にあったかは定かではありませんが、基本的には米饅頭を売る茶屋は鶴見橋の周辺にあったとされていますから、鶴見橋からの距離とさほど変わることはないでしょう。そうすると、鶴見橋から旧東海道600〜700mほど進んだ辺りを地図上で計測して探すと、現在の鶴見神社(江戸時代には杉山明神・牛頭天王相殿)の辺りで左に曲がる地点よりもう少し先に進んだ辺りに来ます。ここから山側へと逸れる道筋を進んだことになりそうです。

「子生山東福寺」と「観音堂」について、「新編武蔵風土記稿」では「鶴見村」の項(卷之六十六 橘樹郡之九)の中で次の様に記しています。

天王院 村内海道の右がはにあり、天台宗にて同郡駒林村金藏院末光瑞山正法寺と號す、祐山といひし僧文祿三年當寺を起立し、寛永九年八月二十八日寂すと、… ◯觀音堂村の西の方小高き所あり、是海道より六丁餘も入れり如意輪觀音にて坐像二尺ばかりなり、又腹籠りに一寸八分の觀音あり、是は春日の作と云、堂は五間四方内陣の額に天地感興應とありて、白川少將定信の筆なり、大悲閣の額は備前少將治政の書なり、堂より前には丈餘の石階あり、夫を下りて前に仁王門あり、仁王はたけ一丈許にて運慶の作と云傳へたり、子安山の額あり是は出雲少將治郷書なり、此觀音は江戸より參詣のものもあり信仰の人少なからず、此堂地は古へ生麥村にありしが、その頃鶴見の村内に寺院なきゆへに此へゆつりしよし、故にこの地は今生麥村の内につゝまれて有と土人は傳へたり、緣起一卷あり、其載る所悉く信用すべからざれば此にとらず、 別當東福寺仁王門を入て左の方に木戸門あり、是を入て正面に客殿をたつ三間に八間南向なり子生山と號す、神奈川宿金藏院の末山新義眞言宗なり、開山は醍醐勝覺僧と云、堀川院の御宇寛治年中當寺を草創して、大治四年四月朔日寂せり、鐘の銘には大治年中の草創といへり、その後住持歴代等詳ならず、遙の後賢淳と云僧住せり、此人は慶長五年正月二十一日寂せりと云、是より以來連綿と住僧續けり、此賢淳當寺を中興せしにや、

(以下「新編武蔵風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、…は中略、なお一部判読の困難な文字を「国立国会図書館デジタルコレクション」にて補充)



現在の東福寺仁王門(ストリートビュー
この記述に従うと、どちらかと言うと「東福寺」よりも「観音堂」の方が江戸からの参拝客を集めていた様です。ただ、扁額や仁王像、石段についての記述は正興の記すところとほぼ合っています。

地形図で確認出来る通り、現在の東福寺は海岸段丘の上にあり、この様な地形であれば確かに正興の記す通り眺望は比較的良好であっただろうと思われます。しかし、現在は周辺にはマンションなどの大規模な建物が建ち並んでおり、更に生麦付近の海は大きく埋め立てられて海岸線が大幅に遠ざかりました。従って現在はこの地からの眺望はほぼ失われたと言って良いでしょう。


さて、気になるのは正興が寺を出て畑の中の小道を経て再び東海道に合流する際に辿った道が、「弐丁程」つまり200mほど近道と言っていることです。正興の一行は果たしてどの辺りの道を進んだのでしょうか。

正興は生麦村の辺りで東海道に復帰し、そこから程なくして「浦島の墓」があったと記しています。しかし、それに近いものを「風土記稿」から探すと恐らく

◯西蓮寺街道の往還にあり、淨土宗にて村内大安寺の末、… 浦島塚境内にあり、昔はよほどの大塚なりしが、此邊は沙地なれば年を追て缺くづれ、今は凡二畝許の塚なり、其上に五輪の石塔を建て浦島塚と題せり、

(卷之六十七 橘樹郡之十 「東子安村 西子安村 新宿村」の項より)

この「西蓮寺」(明治時代初期に廃寺)の「浦島塚」ということになりそうです。実際、塚の上に五輪塔があったとする点は合っていますし、「江戸名所図会」の「浦島塚」の後背に海が描かれている点と、正興が「汀の方に」と書く点も合致します。しかし、この西蓮寺があったのは「風土記稿」の記述では子安の地ということになり、その点は正興の記述と合いません。
江戸名所図会五「浦島塚」
「江戸名所図会」より「浦島塚」の図
塚の後背は海になっている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸名所図会五「観福寿寺」
「江戸名所図会」より「観福寿寺」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

また、その先約200mほど進んだ所から右手に入った所には「浦島寺」があったとしています。これは当時の「観福寺(または観福寿寺)」を指しており、「風土記稿」では

觀福寺 西側なり、大門前數町の間は年貢地なり、淨土宗宿内慶運寺末、歸國山浦島院と號す、昔は眞言宗にて檜尾僧都の開闢なりと云、されどそれはいとふるきことなれば詳なる故を傳へず、後白旗上人中興せしよりこのかた今の宗門に改めしとなり、當寺を浦島寺といひて緣記あり、その文にかの丹波國與佐郡水の江の浦島が子のことを引て、さまざまの奇怪をしるせり、ことに玉手箱など云もの今寺寶とせりいよいようけがたきことなり、

(卷之七十 橘樹郡之十三 「神奈川宿 並木町」の項より)

と、神奈川宿の中の記述になっています。この辺りはその位置関係について、正興の記憶違いの部分もあったのかも知れません。


明治39年測図の地形図より「東福寺」付近
(「今昔マップ on the web」より)
その様な訳で、正興の記述には位置関係の点で多少疑問もあるものの、恐らく一行は生麦村の西端に近い辺りか、更にその先の子安村の域内に入った辺りで東海道に合流したものと考えられます。実際、旧東海道の道筋と東福寺の位置関係からは、鶴見付近から子安にかけてほぼ一直線に進めば多少なりとも短い距離で通り抜けることが可能である様に見えます。しかしながら、「迅速測図」や明治期の地形図を見ても、その様なショートカットになりそうな道筋はこれといって見当たりません。「迅速測図」の頃には既に鉄道が通されていたことを考慮しても、東福寺の乗る丘陵地と東海道の間は引き続き畑になっており、特段の区画整理が行われた様にも見えないことから、道筋が消えてしまう様な要因が特に見えない中で、正興一行が進んだ道筋が果たしてどれなのか、特定するのは難しそうです。

因みに、現在鶴見駅前に広大な境内を擁する総持寺がこの地に移転してくるのは明治44年(1911年)のことですから、江戸時代に正興が東福寺に向かう途上で辿った道筋の一部は、恐らくは現在は総持寺の境内の中であろうと思われます。

なお、往路では浦島寺に立ち寄らなかった正興一行は、復路で改めてこの寺を訪れています。

Keiunji -03.jpg
慶運寺前。「うらしま寺」の字が見える
("Keiunji -03"
by Aimaimyi
- 投稿者自身による作品.
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)

大路は雨のなごり(注:前日に雨が降った)も見えず(かはき)たれば、足もすゝみ、神奈川の駅を過て、生麦(なまむぎ)村にかゝる。「行とき見残したる浦嶋寺を見ん」と、左へ三丁程行。すこし山をのばりて観世音の堂あり。浦嶋のゆゑよし、きかまほしけれども、堂守だに見えざれば、空しく爰をいでゝ鶴見にいたり、もちひうる家にて休み、川崎の駅につきしは入相(いりあひ)近きころ也。

(「江戸温泉紀行」227〜228ページより)


やはり正興はこの「浦島寺」が生麦村のうちにあると認識していた様です。境内に浦島伝説についての案内を頼める人が誰もいなかったというのは、この頃にはあまり賑わっていなかったということなのでしょうか。

この寺は幕末の騒擾の中で焼け落ちてしまい、残った浦島関連の宝物は、本末関係にあったよしみからか慶運寺に引き取られて現在に至ります。慶運寺が現在「浦島寺」と呼ばれているのは、その様な経緯によるものです。

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【小ネタ】初物、悲喜こもごも

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新春に…という程に因むものでもありませんが、初物にまつわる触書を今年最初の記事にしましょうか。

武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)に伝わっていた寛保2年(1742年)6月付の触書が「神奈川県史 資料編7 近世(4)」に収められています。「生麦」と言えば幕末にはあの「生麦事件」の舞台となった村ですが、これはその100年以上も前の話です。

一ます   正月節ゟ    一あゆ   四月節ゟ

一かつを  四月節ゟ    一なまこ  九月節ゟ

一さけ   九月節ゟ    一あんこう 十一月節ゟ

一生たら  十一月節ゟ   一まて   十一月節ゟ

一白魚   十一月節ゟ   一あいくろ 三月節ゟ

一ほしとき 七月節ゟ    一かん   十月節ゟ

一かも   十一月節ゟ   一きし   九月節ゟ

一つくミ  九月節ゟ    一生しい竹 正月節ゟ

一生わらひ 三月節ゟ    一竹子   四月節ゟ

一さゝけ  六月節ゟ    一松たけ  八月節ゟ

一なすひ  五月節ゟ    一白ふり  五月節ゟ

一ひわ   五月節ゟ    一真くわ瓜 六月節ゟ

一りんこ  七月節ゟ    一なし   八月節ゟ

一ふとう  八月節ゟ    一御所かき 九月節ゟ

一くねんぼ 九月節ゟ    一みつかん 九月節ゟ

一ほうふう 二月節ゟ    一ねいも  四月節ゟ

一つくし  二月節ゟ    一葉せうか 三月節ゟ

一めうと  八月節ゟ

右品〻貞享年中・元禄年中も相触候通、此書付之通来正月ゟ商売可仕候、初出候節も直段高商売仕間敷候、前かたも相触候通、献上之品たりといふとも、各別高直商売仕間敷候、右之趣相背もの於有之、可為曲事者也、

右御触書寛保弐戌年六月御触有之候、

(上記書177〜178ページ「魚・鳥・野菜等売出時節定につき触書」より、変体仮名は適宜置き換え)


これも前回の触書同様の経路を経て各村々に通達されたものを、備忘のために村で書き留めたものでしょう。ただ、この触書が何処からどの様な経路を経て伝えられたものかについては書き留められなかった様です。

鳥類写生図「雉」
牧野貞幹「鳥類写生図」より「雉」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
キジの雄は繁殖期に高鳴きすることが知られているが
初物解禁は繁殖期を過ぎた9月(旧暦)とされている
要するにこれらの品々に対して初物解禁の時節を個別に定めて周知する触書ですね。個々の品々の名に濁点が殆ど記されていないこともあり、ちょっと見ただけではピンと来にくいものもありますし、今となっては殆ど膳に載ることがなくなったものも含まれています。特に野鳥類は殆ど食されることがなくなりましたが、雁・鴨・(つぐみ)などは何れも北方からの渡り鳥ですから、こうしたものに季節があるのは良くわかります。他方、今となっては栽培方法の変更などの影響で季節感を感じることが少なくなった品目も多数入っており、この一覧は当時の季節感を考える上でも参考になる史料と言えます。


江戸自慢三十六興「日本橋初鰹」
歌川広重「江戸自慢三十六興」より
「日本橋初鰹」
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)
既に貞享年間(1684〜1688年)、そして元禄年間(1688〜1704年)に同様の触書が廻されていることが記されていますが、どうやらあまり遵守されていなかったか、あるいは再び遵守されなくなって来た様で、これが少なくとも3度目の触書ということになります。もしかするとここに記されていない関連する触書が出回っているかも知れませんが、前回の元禄の触書から40年ほど経っていることになるでしょうか。

そのくらい、「初物」には根強い人気があったということになるでしょう。当時のこうした風習を伝えるものとしては「初物七十五日」といったことが言い慣わされていたり、「女房を 質に入れても 初鰹」に代表される様な川柳の数々に詠まれた初物への憧れなどを挙げられるでしょうか。もっとも、「初物を食べればそれだけ長生きできる」という、当時の素朴な民間信仰が初物への傾倒を生んでいたとすれば、そのくらいにしてでも長寿は得たいもの、と思われていたということになりそうです。こうした風習の名残は、今でも箱根の「黒たまご」などの様に、延命の言い伝えと共に販売されているものに見られますよね。

ただ、それが初物の価格の極端な高騰を呼んだことから、幕府としてもこの様な触書を出して規制をしようとした訳です。初物解禁の日を定めただけではなく、初物であることを理由に高値で販売することを禁ずる内容になっています。また、それが庶民だけの話ではなかったことは、この触書でも「献上之品」という言葉が表れていることでわかります。献上品での初物の扱いについて、「徳川将軍家の演出力」(安藤 優一郎著 2007年 新潮新書198)では次の様な例を紹介しています。

この件については、(注:松平)定信に提出された「よしの冊子」にも次の記事がある。

諸家より献上物の内に、殊の外物入り、人夫もかゝり、殊により、人死出来候程の物御ざ候へども、献上に相成候後は、右の品も、何の御用にも立たず、拝領仕り候者共も、あまり賞翫(しょうがん)も仕らざり候物多く御ざ候よし。是等は、越中様の思召にて、諸侯・下民の難義仕らざる上にも、御不用なき様にも成りそふな事と、評判仕り候もの御座候よし。越前の生鱈(なまたら)抔取り候には、殊により、人死も御座候よし。其上、道中急ぎ人夫願い仕り候よし。諸家にも、右の類多くこれあるべきよし。しらべ候はゞ、皆相分り申すべきよしの沙汰、楊貴妃に媚びて生霊芝(茘枝)を献上し、人歩を多く損ね候咄も御座候(「よしの冊子」)。

死人を出していたのは、越前松平家の初鱈献上だ。当時、初物の人気は非常に高く、初鰹などはその象徴だった。日本海側の名産である鱈の場合、越前の鱈はその代表格であり、松平家では初鱈を手に入れるため、危険を冒し、鱈を取らせたようだ。そのため、死人まで出していた。

そうした犠牲を払って調達した鱈を、一日でも早く江戸に届けるため、松平家は急行便にすることを幕府に願い出たらしい。そこでも、犠牲者を出したのだろう。「よしの冊子」の記事では、中国料理のデザートとして知られる茘枝を楊貴妃に献上するため、多くの人夫の犠牲者を出した古代中国の言い伝えが紹介されている。

初鱈を献上していたのは、越前松平家だけではない。加賀藩前田家、若狭小浜藩酒井家、出羽庄内藩酒井家など日本海側の諸大名も初鱈を献上していた。よって、初鱈に限らず、一番乗りの名誉を獲得するため、急行便を願い出る大名は多かった。将軍への忠誠心というより、他の大名に負けたくないという競争心理が働いていたのだ。

(上記書158〜161ページより、…は中略)


初物が長寿に良いらしいという評判が先にあったのか、それともこうした大名家相互の沽券を賭けた競争が庶民の関心を更に焚き付けのか、あるいはそれらが両輪となって狂奔に近い状況を生み出していったのか、解釈は様々出来そうです。ただ、その挙句に死者が出る程にまでエスカレートしていたとなれば、幕府も重ねて規制に乗り出さざるを得なかったのも納得出来るところです。

また、「よしの冊子」は水野為長が松平定信に提出した世情の風聞をまとめた書ですが、定信が老中職にあった天明3年(1783年)〜寛政5年(1793年)頃のものですから、寛保2年の触書から更に40〜50年ほど経っていることになります。つまり、結局寛保2年の触書もそれまでの触書同様、やはりあまり遵守されていなかったか、あるいはまたしても遵守されなくなって来ていたことになるでしょう。そのくらい、当時の「初物」への憧れは根強いものがあった様です。長寿への願いの強さが裏にあるにしても、度を越せば…ということなのでしょうね。
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【旧東海道】その4 神奈川湊周辺(その1)

多摩川付近の旧河道と自然堤防分布(再掲)
多摩川付近の旧河道と自然堤防分布
(再掲)
東海道編を先に進めます。前回川崎付近の話をした際に掲げたこの図で見た通り、生麦辺りまで東海道が砂州の上を進んでいることをお伝えしました。

この砂州がそのまま海岸沿いに神奈川宿方面に伸びており、旧東海道は引き続きその上を進みます。このため、旧街道が海岸付近を進む点は高輪付近と似ているものの、所々で周囲よりも一段高い場所を進んでいることを感じることが出来、もう少し起伏感に富んだ道になっています。

子安浜に降りる路地
子安浜に降りる路地
この写真は子安付近で浜に降りる路地で旧東海道を向いて撮ったもので、数m坂を下っていることがわかると思います。

入江川の船溜まり
入江川の船溜まり
子安浜の船溜まり
子安浜の船溜まり
因みに、この一帯も御多分に漏れず埋め立てが進んでしまっていますが、入江川から西側はかつての海岸線が運河として残り、漁船の船溜まりになっており、幾らかかつてを偲ぶことが出来ると思います。GoogleMapsの衛星写真でも、運河に多数繋留される漁船の列がしっかり写っています。

大きな地図で見る
入江川付近の航空写真

同じ場所を「迅速測図」で表示させるとこの辺りになります。かつてはこの辺りも遠浅の浜であったことがわかります。

(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる)


他方、山側は多摩丘陵の一角をなす下末吉台地が迫っており、そこから流れ出す小河川(入江川、滝ノ川など)による小さな平地が間に挟まる地形になっています。神奈川宿も、これらの小河川うち滝ノ川の流れ出す平地の上を海沿いに進んだ後、帷子川の河口から左岸沿いを進む道に変わります。江戸時代の本陣はちょうど、街道が折れ曲がる箇所に向かい合うように存在しており、この辺りが中心地であったことを裏付けています。

その帷子川の河口の一角に古くから設けられた湊が神奈川湊であり、神奈川宿はここを中心に水辺に伸びた宿場であると言えます。この話は次回に譲って今回はもう少し先に行きます。

幸ケ谷公園から切通しを眺める
幸ケ谷公園から切通しを眺める
帷子川の左岸には、ひときわ高聳える台地が迫ってきています。上の写真は幸ケ谷公園の上に上がって本覚寺方面を見たところです。この地図の右手に幸ケ谷公園があり、そこから左手方面を見ていることになります。

大きな地図で見る
かつての権現山付近の航空写真

現在は東海道線や京浜急行、更に第2京浜国道が巨大な掘割の底を進んでいますが、この幸ケ谷公園の辺りはかつては権現山と呼ばれ、本覚寺まで連なる尾根の一部でした。戦国時代には上杉と北条の合戦があった場所ですが、江戸時代末期には神奈川台場を作るために権現山の上が削られて平坦化され、更に明治初期にはここに掘割を設けて鉄道を通しています。その時に出た土砂を海岸の埋め立てに用いている訳ですね。

昨日紹介した「横濱時層地図」で地形図を見比べると、この掘割は明治の終わりには京浜電気鉄道(現在の京浜急行)の線路を通すために拡幅され、更に昭和初期になると現在の第2京浜国道が拡幅されてほぼ現在の広さにまで掘割が広がったことがわかります。確かに写真でも掘割の法面を固定する石垣の肌が古びていることが窺えますね。「迅速測図」ではこの位置に当たります。


(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる)



そして、かつての東海道は写真の左端に写っているマンションの更に左側を抜けていきます。明治初期の掘割が出来たばかりの頃は、旧東海道の道筋に合わせて掘割上の橋(青木橋)が斜めに架けられており、その後も旧東海道の道筋に合わせて橋が架け直されています。道筋が変わったのは国道の整備が本格的になる大正末期以降で、国道の大幅な拡幅とともに青木橋も現在の掘割に直交する形に架け直されています。新たに伸びてきた国道が鋭角な交差点を曲がることになるのを解消するための措置ですが、その頃までは旧来の宿場町としての町並みへの配慮があったと見て良いでしょう。

台町の坂と浮世絵のプレート
台町の坂と浮世絵のプレート
帷子川に迫る左岸の台地は標高が40mを超えており、旧東海道はその崖の下の狭い平地に沿って坂を登っていました。これが「台町」という景勝地として名を知られる様になり、浮世絵の題材となった訳です。かつて海を見晴らす茶屋の跡地では、現在は料亭が営業しており、東海道五十三次の神奈川宿の浮世絵がプレートになって掲げられています。

この台町の崖の迫る地形も、茶屋から見渡せる本牧辺りの台地も、ともに今から約15万年前に形成された海食台が隆起した「海岸段丘」で、その段丘の間から流れ込む大岡川や帷子川が平地を形成して現在の様な地形に至る訳です。その海岸段丘の縁に出来た神奈川湊の話はまた次回。

※今回の写真は何れも2010年9月に私が撮影しました。


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