「逗子市」タグ記事一覧

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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)
所在地の住所は逗子市沼間1丁目
(「Yahoo!地図」より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。
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歌川広重「諸国六十八景」相模・多古江の図

先日来パソコンの調子が思わしくなく、落ち着いてブログの記事を書いていられない状況が続いていますので、今年は気軽なネタを1点取り上げて締めとしたいと思います。

「諸国六十八景」相模・多古江
歌川広重(2代目)「諸国六十八景」より
「相模・多古江」
「武蔵・金沢」(左)とともに
国立国会図書館デジタルコレクション」より)
右の絵は「国立国会図書館デジタルコレクション」上で公開されている浮世絵を探していて見つけました。2代目の歌川広重の手による「諸国六十八景」という画集の中の「相模・多古江」と「武蔵・金沢」です。

以前浦賀道についてまとめた時には、「浦賀道見取絵図」以外の絵図類、特に浮世絵・錦絵などを取り上げるということはしていませんでした。当時はまだ「国立国会図書館デジタルコレクション」の著作権切れの画像が容易に利用できる様になっていなかったこともありますが、鎌倉は別格として、それ以遠では守殿明神(現:森戸神社)程度しか参拝客などの外部の人間が入っていく拠点がなく、その分一般向けに浮世絵などが描かれて出版される例は多くないと踏んでいたから、という面もあります。「東海道名所図会」(寛政9年・1797年、 秋里籬島著、竹原春朝斎画)でも、「守殿明神」「鐙摺山」の項はありますが、対応する絵は描かれていません。


富士見橋(旧:田越橋)の位置
(「地理院地図」より)
そうした中で、「多古江」つまり「田越川」を越えて鐙摺山を巻く様にして進む様子を描いた図が見つけた際は正直意外に感じました。現在は「富士見橋」と呼ばれている「田越橋」が田越川を渡る姿が絵の下部に描かれ、そこから道が右手に折れて「鐙摺山」と記された山の下の崖に沿って曲がっていきます。遠方には「イツ」と記されていますが「伊豆」のことでしょう。因みに、この絵が出版されたのは文久2年(1862年)ですが、田越橋は安政年間に落橋した後は渡し船に切り替えられてしまいますので、出版した頃には既にこの橋はなかったことになります。

2代目の広重がこの地を実際に訪れて写生したのかは不明です。この付近から伊豆半島は南西に位置しますので、その方角を見通すためには広重は北東に位置する山の上にいたことになり、実際田越橋の掛かる向きや浦賀道の進む方角も大筋では合っていそうです。ただ、その方角には浦賀道は通っていませんので、もしも実際に山の上に上がって見たのであれば、恐らくは山野根村(現:逗子市山の根)付近まで道を逸れたことになります。画題を求めてわざわざ不案内な土地まで自由に立ち入り出来る時代ではないですし、鐙摺山を巡る道の距離と人物の比率に現実味が乏しいことなどから、あるいは部分的な写生をもとに広重が位置関係を考慮して模式的に繋ぎ合わせて描いたのかも知れません。

なお、絵中の田越橋の存在からは、もしも現地を訪れて描いたのであれば少なくとも安政よりも前のことであったと考えないと辻褄が合いません。そうすると安政6年(1859年)に2代目を襲名するよりも前にこの地を訪れていたのでしょう。その訪問が「諸国六十八景」を目的としていたかは定かではありませんが、そうであれば広重を襲名する以前から画集の計画を暖めていたことになります。

この絵が収められた「諸国六十八景」は、山城国に始まって諸国から1点ずつ風景を集めてきた画集です。その中の相模国の代表としてこの「多古江」を選んで描いたことになるのですが、相模国の代表として考えるなら候補となりそうな名勝地は東海道筋や鎌倉・大山など枚挙に暇がなく、そうした中で敢えてこの地が選ばれているのが意外なところです。名の通った名勝地については既に先代が「東海道五十三次」などのシリーズで幾度も取り上げていたりしますので、あるいは2代目としては重複を避けたとも考えたくなりますが、他方で武蔵国には先代も描いている「金沢八景」を取り上げている訳ですから、必ずしもその理由は当たらない様です。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている「諸国六十八景」は、恐らく元の持ち主手の手によって合本化されており、相模国と武蔵国の絵が見開きになったのはたまたまということではある様です。ただ、金沢からであれば鎌倉やその先の田越は比較的至近ですから、同じ道中でこの2箇所に訪れていたということかも知れません。

当時の実情とどの程度合っているかという点では、上記の様な課題がある絵ではありますが、それでも画題にされることが少なかった浦賀道の絵が曲がりなりにも残されているという点では、なかなか貴重な存在と言うことが出来るでしょう。





今年の更新はこれを以って終了とします。皆様のブログへの巡回は可能な限り続けますが、パソコンの根本的なメンテナンスが必要になったら途切れるかも知れません。皆様良いお年をお迎え下さい。
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【脇往還】浦賀道:記事一覧

浦賀道について検索エンジン経由でアクセスされる方が多いので、ナビゲーションしやすい様に東海道編同様に記事の一覧をまとめておくことにしました。この記事だけ、記事の日付を原則最終更新日に合わせる様にします(但し、最新の記事よりは古い日付に設定します)。なお、他の記事へのリンク集という性質を考え、この記事に限ってコメント欄とトラックバック欄を閉じました。

こちらはひとまず記事が完結しているので、執筆順に記事を並べます。


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【脇往還】金沢・浦賀道と鎌倉・浦賀道:幕末の動き


鎌倉・浦賀道のルート:下馬〜浦賀
前回までで、鎌倉・浦賀道や金沢・浦賀道に見られる道幅や飛石渡り、継立場といった施設の不十分さが生じた原因について、一先ず私なりの見解をご紹介する所まで終わりました。地形面の問題に加え、江戸時代中期に当たる享保年間に継立が本格的に編成されたという時代背景が大きく影響した、という説明をしたと思います。

でも、私自身がこの道について「浦賀道見取絵図」や「新編相模国風土記稿」を追い始めた時に最初に感じたのは、何とも不相応で収まりが悪い、ということでしたし、一通りこうして自分なりに整理してみても、「とは言え…」という感触は今ひとつ拭えないでいます。それは、やはり現代の私たちが、浦賀の地が幕末にどの様な歴史を辿ったか、既に知っているからかも知れません。

「浦賀道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」が作成されたのは寛政12年〜文化3年(1800~1806年)です。あのペリーの浦賀来航は恐らく学校の歴史の時間に散々年号を暗記させられて今でも覚えているという人は多いのではないでしょうか。1853年、和暦では嘉永6年に当たります。つまり、「見取絵図」はその50年ほど前の姿、ということになります。その頃にはロシアの使節が根室や長崎に来たりしていますので、幕府もそろそろ外国船への守りが重要になってくることは意識し始めていたとは思われるものの、まだ浦賀が海外との折衝役になる日が来るとは考えていなかったであろう頃です。事実、浦賀奉行所は当初は一連の遠国奉行の中での序列は下の方で、それが引き上げられたのは奉行所の役割に外国船の警備が加えられた後でした。

幕末の一連の動きについてここで仔細に検討することは手に余りますので、差し当たりWikipediaの幕末の年表へのリンクだけ置いておきます。ここでは浦賀道の往来が幕末にかけて増大していったことが窺える資料を2つ、「逗子市」から引用しようと思います。何れも「通史編 古代・中世・近世・近現代編」(平成9年)に掲載されているもので、浦賀道での継立の負担が増大していったことが窺えるものです。

久野谷・山野根・桜山三か村の小坪駅人馬勤高
 ―高百石につき1ヶ年平均勤高―
年次寛政〜
文化年間
文政4〜
天保13年
天保14〜
弘化3年
弘化4〜
嘉永2年
人足25人44人60人247人
1疋1疋2疋30疋
〔資料〕嘉永元年9月「乍恐以書付御歎願申上候」
1つ目の表は、小坪村の助郷を勤めていた久野谷村、山野根村、桜山が増大する助郷の負担を軽減する様、当時の領主であった川越藩の代官所に宛てて嘉永元年(1848年)に提出した嘆願書に書かれていた一覧を表に起こしたものです(上記書449ページ)。この表は「高百石につき1ヶ年平均」とありますので、実際に差し出した人馬はそれぞれの村の石高に応じて掛け算することになります(江戸末期の各村の石高から見て、山野根村はこの表の通り、久野谷村がこの表の3倍、桜山村が同じく4倍と考えれば大体良さそうです)。

特徴的なのは、人足の方が先に増えていっていることで、これは比較的軽量の荷物の継立から業務が増大したことを意味しています。恐らくその代表的なものは書状でしょう。浦賀を始めとする三浦半島の各拠点と江戸との間での連絡が密になるに連れ、その通信を担う役目が過重になっていったことが窺えます。それにしても、いよいよ海外からの圧力を具体的に感じる嘉永の頃になると、人馬の調達が急激に増えたことが良くわかります。

ペリー来航と人馬継立高の激増 ―小坪村継立場の場合―  〔単位〕人・疋
期間
*( )は嘉永7年
嘉永6年(1853)嘉永7年(1854)
人足(賃払い)馬(賃払い)人足(賃払い)馬(賃払い)
正月20日〜晦日(29日)
22 (  21)
1 (  1)
350 ( 280)
11 ( 10)
2月朔日〜29日(晦日)198 ( 113)27 ( 24)199 ( 119)25 ( 24)
3月朔日〜晦日(29日)769 ( 739)152 (152)911 ( 719)62 ( 61)
4月朔日〜晦日748 ( 724)106 (106)2518 (2302)318 (318)
5月朔日〜5日
22 (  19)
2 (  2)
38 (  28)
6 (  6)
合計1759 (1616)288 (285)4016 (3448)422 (419)
〔資料〕嘉永7年11月「当春異国船渡来ニ付人馬継立高書上帳」

そして、そのピークはやはり浦賀にペリーが来航した頃に来た様です。こちらの表は嘉永7年、つまりペリー来航の翌年の小坪の継立場が前年からの継立の実績をまとめて、当時所領していた彦根藩に報告したものを元に編集されたものですが、1ヶ月の人馬の往来が一気に増えたことがわかります(上記書450ページ)。この表の中では嘉永7年4月の1ヶ月間の人馬の往来が最大になっていますが、これを単純に30で割ると1日平均約84人の人足と10匹以上の馬が継立のために往来していたことになります。当然、街道を往来するのは継立ばかりではありませんから、鎌倉・浦賀道はこれ以上の人馬が往来していたでしょうが、その道が今まで見た通り「一間余り」の幅しかなかったというのですから、その分狭い道の中での「譲り合い」をしながら先に進まなければならない訳で、ただでさえ労力負荷が大幅に上がっている中では人馬ともに相当にストレスを感じざるを得ない状況だったでしょう。

因みに、括弧内に入っている「賃払い」の数字は、各村々の割り当てでは賄い切れなかった分を駄賃を出して雇った分ということで、この表で見られる様に大半の人馬が雇われていたということは、助郷組合に割り当てられた分をとうに使い果たしてしまっていたということになります。この点からも、元々考えられていた継立への負荷を大幅に越えた負担を各村々が負っていたことが窺えます。なお、同様の影響は恐らく金沢・浦賀道でもあったと思われますが、今回は上記の2つに対比できる資料を見出だせなかったので、ここでは鎌倉・浦賀道の事例だけに留めておきます。

浦賀道(鎌倉):小坪・富士見橋を下流側より見る
現在の富士見橋:江戸時代には「田越橋」(再掲)
それでいて、この道幅を拡げたり飛石渡りを解消して増大する交通量に対応しようとした形跡は、調べた範囲では見当たりませんでした。明治時代に入ってもほぼそのままの道幅で据え置かれていたらしいことは、以前「その19」で引用した「葉山町郷土史」の記述からも明らかです。恐らく、幕府側も各村々も、のしかかってきた負担を捌くので手一杯で、とてもそれ以上の普請に手が回らなかったのでしょう。それどころか、田越橋の度重なる落橋の補修に、普請の担当だった小坪村も桜山村も財政面で手が回らなくなり、挙句安政の大地震で落橋してからはしばらく渡舟での連絡で凌ぐ有様でした。


こうして、浦賀道が結果的にその規模に不相応な役割を担い、その役割を何とか果たしつつ幕末を迎えた一連の顛末を眺めるにつれ、そこに「歴史の綾」が見え隠れする気がしてきます。無論、それぞれの時代にこの道を通った人たちには、その後に待ち受けている歴史の行方は当然見えていない訳ですから、後世から見て「何故こっちじゃなかったんだろう」というのは、飽くまでも結果が知れたが故の後知恵でしかないのですが、それでも、幕末に狭い道を窮屈そうに譲り合いながら人馬がすれ違っていく様を見ながら、「何故最初からもっと…」などと思っていた奉行所の役人がいたのではないかなぁ、なんてことをつい想像してみたくなったりもするのです。

そして、三浦半島の脇往還の辿った歴史を一通り見た上で、改めて東海道を振り返ってみると、こちらは江戸時代を通して日本で最も重要な街道であり続けたという実情もありつつ、江戸に幕府を移して全国の大名を総動員して土木事業を行なっていた江戸時代初期だったからこそ、あれだけの規模を持った街道を整備出来た、という側面が浮かび上がってきます。例えば保土ヶ谷〜戸塚付近の東海道の普請を考えても、江戸という新しい中心地に向けての陸路を確保するという題目の下で、大規模な労力を投下出来なければ、街道が別の場所を通っていたかも知れない…という所でようやく東海道の話に繋がって来ました。次回からは藤沢まで来て止まっている東海道筋の話に戻したいと思います。

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【脇往還】金沢・浦賀道と鎌倉・浦賀道:年代の問題

前回、田浦の地形が確かに公儀の往来を遠ざける一因になった可能性はありつつ、それだけでは浦賀道の整備状況などを十分には説明できないのではないかということを指摘しました。今回は、享保5年(1720年)に浦賀に奉行所が移ってきた時に初めて浦賀道の継立が本格的に編成されたという点から、この問題を私なりに解いてみたいと思います。

街道継立場助郷組合
鎌倉・
浦賀道
小坪村桜山・山野根・逗子・久野谷・堀内・一色
下平作村木古庭・上平作・池上・金谷・不入斗・佐野・小矢部・森崎
金沢・
浦賀道
横須賀村沼間・上山口・長柄・長浦・田浦・浦之郷・船越新田・逸見・公郷・深田・中里
※「新横須賀市史」通史編・近世 236ページの表6-1より抜粋・再編
この、享保5年に継立が編成された時の最大の特徴は、三浦半島内の村々を言わばゾーニングする様にして助郷組合が当初から編成されているということです。「新横須賀市史」通史編・近世(2011年)に掲載されている助郷組合の表から鎌倉及び金沢・浦賀道の分のみを抜粋して掲載します。

継立場に対して人馬の不足が出た場合にその補佐をする役目である助郷そのものは、江戸時代において特に珍しいものではありませんが、浦賀道をはじめとする三浦半島の継立の場合、当初から半島内のほぼ全ての村々を「組合」と呼ぶグループに編成して継立を補佐する仕組みとした点が特徴的です。この点について、延享元年(1744年)の「小坪村明細帳」から該当箇所を拾ってみます。

一 浦賀御番所御用人様方、三崎御通御用人様方継合人馬之儀、近村七ヶ村ニ而高弐千三百石余ニ而割合、当村ニ而人馬継合相勤申候、尤、賃銭被下候分、則割合村〻相渡申候、
逗子市史」資料編Ⅰより引用)

公儀の往来で人馬を差し出すのはある意味では「労働税」でしたが、一定の分量を越えるとその分については公儀であっても賃金が出たので、それによって得たお金は助郷の村々と分け合っていた、ということです。

江戸時代の継立において、助郷は当初からあったものではありませんでした。東海道の場合、助郷が具体的な制度として確立してくるのは元禄年間(1688~1704年)の頃の様です。例えば、藤沢宿や小田原宿の助郷村が確定するのは元禄7年(1694年)のことです。それ以前にも各宿場が周辺各村に人馬の応援を依頼することはあった様ですが、街道の往来が増えて宿場の負担が増えるに従い、周辺の村々を組織的に組み入れなければ制度を維持できなくなっていたということでしょう。

特に東海道の場合は往来が多かったことから宿場の負担が大きく、それは助郷の村々にも波及して、負担増への抵抗や宿場と助郷間の不公平感に対する争いが時代を追う毎に増えていくことになります。


中原街道のルート
また、東海道の北側を江戸・虎ノ門から平塚・中原まで結ぶ中原道の場合は、寛文11年(1671年)に佐江戸村と中山村の間で継立を巡って争いとなり、結果的にこの時に奉行所が出した裁定書に記された小杉・佐江戸・瀬谷・用田の4ヶ村が、中原道の継立場として定着することになります。この街道の場合は記録に残る限りでは助郷が設定されたことは確認出来ないのですが、その後も継立場以外の村が勝手に馬を出して荷継に手を出してしまったことに対して戒める文書が残るなど、この道での荷馬による駄賃稼ぎに旨みがあったことが窺えます。

一見相反する動きの様にも見えますが、要するに自分の稼ぎになる分には馬を出したいが、公儀として負担が過分にのしかかってくることになるのは願い下げ、という訳です。江戸時代初期にはその負担を巡って幕府側も民間側も試行錯誤をしていた、と考えることも出来るでしょう。

こうした事例に比べると、享保年間に成立した三浦半島の助郷組合は、ある面で江戸幕府がそれまでの街道の継立の実績や経験を元に、村々の負担がより公平になることを目指した結果である様にも見えます。三浦半島の継立自体が立地面であまり旨みが見込めない面があったため、村々の利益よりも負担が増える点を重く見なければいけなかったことも、こうした制度を選択した背景にあった可能性もありますが、他方で享保という江戸時代の中期に当たる時期には、幕府側も継立を巡って起きてくる数々の問題について、既に多くの経験を積んでいるとも言える訳ですから、その様な時期に新たに継立を編成するに当たって、その経験を元に新たな制度を模索した可能性もありそうです。

さて、この様に、江戸時代中期になって継立制度に対して見直しが入ってきたという考えることが出来るのであれば、浦賀道の他の側面についても同様の見立ては出来ないでしょうか。

江戸時代以前に、鎌倉・浦賀道や金沢・浦賀道がどの様に整備されていたのか、詳しいことはわかりません。しかし、鎌倉時代にあっては三浦氏の拠点であった三浦半島の主要な道が、更に鎌倉・浦賀道に至っては古東海道の一部と目されているとあっては、その様な道の整備状況が不十分なものであったとは考え難い面はあるでしょう。

とは言え、江戸時代初期に関して言えば、既に鎌倉の地が武家政治の中枢であった時代は遠い過去のものになっており、同地が農村化する動きが止められなかったことを考えると、三浦半島内の道に関しても「都」に達する道という役目を失っており、交通量もそれに従って減っていたと考えるのが自然なところでしょう。

上山口・杉山神社:鳥居
上山口の杉山神社(再掲)
そうなってくると、これらの道筋も次第にその役目相応の規模に「縮小」していくのが避けられなくなってきます。以前上山口の棚田を紹介した際に、同地の杉山神社の由緒が海と繋がりのあるものであることを紹介しましたが、その後もこの村は相模湾沿岸の村々との繋がりを保っていた様で、上記の継立組合の一覧では横須賀村の組合に入っていますが、同時に三崎道の秋谷村の組合にも上山口村の名前が入っています。しかし、見方を変えれば江戸時代初期には鎌倉・浦賀道は半島内陸の村々が海岸沿いの村々との繋がりを維持するための「村道」と化していた、ということも出来ます。実際、「幅一間余」の道幅は当時村同士が繋がるための「村道」の道幅なのです。

そう考えると、同地周辺に妙に「飛石渡り」が多いのも腑に落ちてきます。村内や周辺の村々の「勝手知った顔」が行き交う道ならば、少々の沢なら飛石渡りでも十分…という箇所には橋を架けなかったのでしょう。享保5年に奉行所が移ってきた時には、浦賀道がその様な「村道」になって既に久しい時期だったと思われます。

他方、享保といえばあの徳川吉宗が「享保の改革」を行ったことで知られている年であり、幕府は財政建て直しに躍起になっている頃です。実際、下田の奉行所を浦賀に移すことになったのも、江戸に入って来る物資の総量を正確に把握して、経済情勢をより的確にコントロールしようという狙いからのことで、浦賀奉行所が3ヶ月おきに報告を江戸に送っていたのはそのためでした。北回航路の開発によって江戸に直接乗り入れる船が増え、下田では江戸に入って来る船を十分捕捉できないために、江戸の水運上の入口に当たる浦賀に奉行所を移転することで「抜け漏れ」を防ごう、という訳でした。

しかし、そういう幕府には既に新たな大規模開発のための出資はなかなか出来ない状況になってしまっていました。これがもし、継立による駄賃稼ぎに十分なメリットがある土地であれば、村々の普請に任せて道を整備させることも出来たのでしょうが、陸運よりも水運の強い半島にとっては持ち出しが増えるのが必定とあれば、公儀の継立のための普請は幕府側の都合ということになってしまいます。そうなれば、村々からは「然らば何卒お力添えを御願い致したく」という声が出て来るのは避けられない所でしょう。

木古庭・不動の滝-3
木古庭の不動の滝(再掲)
付近を古東海道が通っていたと
されている
それでも、定期的な奉行所の報告を江戸で受け取るためには公儀の継立の編成は不可欠のものでしたから、そのための経路を確保しようと考えれば、既存の道筋で比較的状態の良い道を選ばざるを得なかったのではないでしょうか。そして、その道は結果として昔からの由緒の強い方を選ぶことになりました。勿論、金沢・浦賀道の田浦付近の地形を避け、より緩やかな道筋を持っていた鎌倉・浦賀道を選んだ方が、地形が険阻でない分村の普請の負担も少なくなりますし、内陸の村々にとってみれば、海沿いで船を頼れる村とは違い、道で海と繋がっていることが大事になりますから、その分だけ道を維持する必要性が高かったという面はありますが、こうして選ばれた道筋が古東海道であったとされる道と重なるというのは興味深いことです。

しかし、結局その様な「村道」としての規模の浦賀道でも、江戸時代中期から後期の負荷であれば耐えられる水準であったのでしょう。そのことが結果として、脇往還としては不十分に見える道幅や、飛石渡りや、継立場のまま、「浦賀道見取絵図」の描かれる江戸時代後期まで維持されることになったのではないでしょうか。

さて、それならば浦賀に移る前の下田奉行所に至る道はどうだったのか。江戸時代初期に設けられた下田の奉行所に向かう道筋がもしも細いものであったとすれば、ここまでの見解はおかしなことになります。

そこで、江戸から下田奉行所に向かう道筋であった下田街道について調べてみたところ、次の様な記述を見つけました。

しもだ-おうかん 下田-往還 …①三島宿から狩野川沿岸を南下し天城峠を越え、下田へ通じる往還路。…慶長12年(1607)、大久保長安によって天城越えルートの整備が指示されていることから、これ以後、現在知られている下田往還のルートが拓かれるようになったと考えられる。…道幅は嘉永3年(1850)「田京村地誌御調書上帳」(『大仁町史 資料編二近世』3-11)によると、幅2間とある。南條〜宗光寺間にある横山坂切通しの横断発掘調査を行った結果、幅2間と1尺の排水溝をもっていた(『宗光寺村誌』)。…
(「伊豆大事典」NPO法人伊豆学研究会 伊豆大事典刊行委員会編 より引用、…は中略、太字は見出し以外はブログ主)

下田に奉行所が設置されるのは元和2年(1616年)のことですから、大久保長安の指示は勿論奉行所への往来のためのものではありません。当時伊豆では金が産出したので、長安はそこに目を付けて輸送路の確保を目指した様です。従って、単に奉行所が出来ただけでは街道の整備に結び付いたと言えるかどうかは不明ですが、とは言え大久保長安は江戸時代初期に八王子に陣屋を置いて同地の開発や甲州道中の整備に力を発揮した人物であり、こうした人間が動いたことで下田への道の整備が進んだという点では、やはりこうした脇往還の整備は江戸時代初期に特異なことと言える面があったと思います。

また、ここに記されている道幅は何れも2間、脇往還の道幅としては標準的な幅ですが、下田街道全域に適用して考えるにはサンプル数不足で、これだけでは一概に判断出来ません。鎌倉・浦賀道も鎌倉以北は十分な幅があった訳ですから、区間による差があった可能性は当然考えなければならないと思います。しかし、横山坂切通(静岡県伊豆の国市)がかつては相応の幅を持っていたらしいという発掘調査結果を見ると、山中であっても道幅を維持しようとしていたことの現れとも考えられます。その点では、下田街道が脇往還としての水準を保っていた可能性は高そうです。

まとめると、江戸時代中期に継立が成立した浦賀道の場合、
  • 幕府側が緊縮財政への方向転換した後であった → 江戸時代初期と違い、大規模な普請は行われなかった
  • 鎌倉を失った浦賀道は交通量が減っていた → 江戸時代中期までに「村道」の規模に縮小していた
ことが相俟って、既存の道筋をそのまま取り立てて公儀に用いざるを得なくなっていた
…ということが言えるのではないでしょうか。その点では、勿論地形上の問題から迂回を強いられた面もありますが、江戸時代初期に成立した街道とは異なる時代背景が大きく作用したのではないか、というのが私なりの見解です。



本年はこのブログにお越し戴きまして、ありがとうございました。なるべく写真や絵図などを入れてわかりやすく…と思いながらなかなか果たせない部分もあり、読みにくい箇所も多々あったのではないかと思います。来年はもう少し改善できれば…と願いつつ、今年最後の更新を締めたいと思います。

来年もまたよろしくお願い致します。良いお年をお迎え下さい。

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