「藤沢市」タグ記事一覧

「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。

小浜藩主の居城であった小浜城址の位置
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

短信:片瀬市民センターの江島弁財天道標が移設された様です

取り急ぎ、備忘のために記録しておきます。

昨日、twitter上で全部假的さんと、こんなやり取りをしました。














片瀬市民センターの弁財天道標については、以前江島道を取り上げた際に紹介しました。ストリートビューでも何とかその存在が見えるかどうかという状態が物語る通り、駐車場の奥に置かれた道標は、予めその存在を知らなければ見逃し兼ねないものでした。


大源太公園の位置
一方、大源太公園の辺りには、こちらの記事で説明した通り、かつては境川を渡る「石上の渡し」がありました。「江島道見取絵図」を見ると、江の島に向かって左手に道標が置かれていたのに対して、大源太公園は右手に当たりますので、完全に同じ位置とは言えませんが、かつての道標が存在した場所に近い所を選んで移設されたと言えそうです。

一昨年暮頃には、藤沢市役所で保存されていた弁財天道標が藤沢橋の近く砥上公園に移設されました。今回の道標の移設もその一環で、かつての江島道を歩く人たちの目になるべく触れやすい場所に設置し直す意図がある様です。

現場を自分の目で確認する機会がなかなか得られませんが、何れまたストリートビューが更新されて、大源太公園の道標の最新の状況が反映されると思いますので、その際に改めてこちらに反映する予定です。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

藤沢飛行場の空中写真:「地理院地図」から

以前Googleマップ上に誤って表示された「藤沢飛行場」について記事を書きましたが、その後折りに触れて「藤沢飛行場」を検索してこの記事を見に来られる方が月に数名ほどいらっしゃる様です。その「藤沢飛行場」に関連してごく簡単な追記を1件。

「地理院地図」では過去の空中写真を地形図に重ねて見る機能がありますが、当初は1970年代程度までに限定されていました。その後それ以前の空中写真の掲載を進めており、最近になって関東南部の1961〜64年の空中写真も地形図上で参照出来る様になりました。これを使って現在の荏原製作所藤沢藤沢事業所付近のその頃の空中写真を見ると、まだ廃止される前だったと思われる藤沢飛行場の滑走路や格納庫と思われる建物が写っているのが確認できます。また、滑走路の中ほどを横切る街道の存在もはっきりと写っています。右側の「機能」メニューには「計測」というツールがあり、これを使って地形図上の実距離を計測することが出来るのですが、これを利用して滑走路の凡その長さを測ると900m強あることが確認出来ます。

藤沢飛行場は1964年には廃止されますので、次の1974~78年の空中写真では荏原製作所の敷地となって滑走路は消滅しています(滑走路の敷地の一部は陸上競技用のトラックに転用されています)が、この2つの空中写真を比較すると、敷地内の南北の道路は飛行場であった時代の平行誘導路がそのまま利用されていることがわかります。

なお、以前の記事で掲載した「今昔マップ on the web」上でも、右側のプルダウンメニューから「写真1961-64」を選択し、左側の「不透明度」のプルダウンメニューから「0%」を選択することで、この空中写真を表示させることが出来ますので、昭和29年の地形図と切り替えながら参照することも可能です。


1961〜64年の藤沢飛行場の空中写真(「地理院地図」より)

地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
もう少し具体的にこの空中写真の撮影年月を絞り込みたいところですが、それには右の様に「単写真」の撮影地点を表示させ、該当地点のマーカーをクリックすることで確認出来ます。初期状態では膨大な数のマーカーが表示されますが、「選択中の情報/単写真」右側のⓘボタンをクリックすると、「絞込み」というプルダウンメニューが現れますので、これを使って表示されるマーカーを年代によって絞り込むことが出来ます。マーカーをクリックした時に表示されるバルーン中のリンクから該当する写真を表示させることも出来ますので、地形図に重ねて表示されている写真が確かにその年月のものであるかを確かめることも可能です。この例ではすぐ南側の国道1号線藤沢バイパスがまだ工事中である様子が写っており、その特徴が一致すること(写真のコントラストは若干調整されている様です)から、確かにこの写真が地形図上で表示されていることがわかります。

余談ですが、地点によっては撮影時期の異なる写真が隣接して表示されている箇所もあります。以下の例は小田急線高座渋谷駅東側の境川付近の1961〜64年の空中写真ですが、東側では東海道新幹線の建設中の様子が写っているのに対し、写真の切れ目から西側ではまだ工事が始まる前の様子が写っています。東側では1963年、西側では1961年の写真が用いられている様です。


建設中の東海道新幹線の軌道が東側だけ写っている(「地理院地図」より)

何だか「地理院地図」の使用法についての記事みたいになってしまいました。「地理院地図」の空中写真は更に1945〜50年のものを地形図に重ねて閲覧出来る地域を拡げていっている様ですし、また最近になって左側のメニューが刷新されるなど、かなりこまめにアップデートが図られ続けています。また何か興味深い更新が見つかったら取り上げたいと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

短信:リンク集に「ふじさわ宿交流館」を追加しました

リンク集に、先頃4月29日に開館した「ふじさわ宿交流館」のホームページへのリンクを追加しました。

交流館が開設された場所は、旧東海道の「藤沢広小路」と呼ばれる、遊行寺の門前で道が桝形に曲折する所です。1階に展示スペースを備える他、会議室などの施設を備え、今後イベントや地元の催し物で活用していくことを想定している様です。最近では江の島弁財天道標を目に付きやすい場所に移設したり、新たなガイドを設置したりするなど、藤沢宿周辺の観光客向けの施策が様々採られており、これもその一環と思われます。数年前には旧川崎宿でも同様の施設が開設されました。

江戸時代の藤沢宿のエリアは関東大震災はじめ様々な天災の影響などもあり、また明治時代以降も町の中心地として問屋街などに転業していった経緯もありますので、当時の建物は殆どが失われている状態です。このため、下手をするとかつての宿場めぐりに興じても寺社以外は本陣や見附などの位置を示す傍示杭を巡って終わってしまうことになりかねません。ジオラマや3DCGで多少なりとも当時の景観を見られるスペースで、そこが補える様になればと思います。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その8)

前回まで「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見て来ましたが、今回は関連する話題をもう少し取り上げた上で、ここまでのまとめをしたいと思います。

相模原市のホームページには、「大沼の土窯つき唄」という仕事唄の歌詞と音声(MP3)が掲載されています。これは大沼新田で炭焼用の土窯を築く際に音頭を取るのに唄われていたものです。


大沼新田の明治39年測量の地形図
ほとりに「大沼神社」が建つ沼が大沼、東に小沼
(「今昔マップ on the web」)
大沼新田(現:相模原市南区西大沼・東大沼その他)は江戸時代には淵野辺村の一角で、水の得にくい相模野にあって地下に宙水があり、その上に「大沼」が出来て深堀川という境川の支流の源流地となっていた地域でした。今はこの大沼も、その東にあった小沼も埋め立てられて宅地と化していますが、現在の区画の形状にはかつての沼地の存在を窺う事が出来ます。

元は境川対岸の武州木曾村との入会地でしたが、元禄年間に知行替えによって代官支配になったのを切っ掛けに新田開発が行われ、宝永4年(1707年)に検地が行われて「大沼新田」が成立しました。しかし、土地が痩せていて耕作には不向きだった様で、「相模原市史 第二巻」では大沼新田の開発経緯について各種の文書を引いて解説した上で、次の様に記しています。

…上矢部新田村に比較すると、一戸あたりの平均所有反別は約三倍以上、一名あたりの耕作反別は約二倍以上となり、嘉永三年反別書上による場合は、なおこの二倍近くになるのである。これだけを見ると、大沼新田入植農民は恵まれているようにも見えるのであるが、大沼新田の場合はすべて見取り畑なのである。土地の伝承によると、開墾当初は肥料を与えなくても作物がとれたが、いく年かたつと土地が瘠せてくるのでそこを林畑として放置し、また新たに開墾したといっている。したがって嘉永六年(一八五三)の村高書上帳にも、烏山大久保領三九九石五斗九升一合中、本村出百姓分の四一石九斗七升三合は永荒引となって年貢の対象からはずされている。このように荒地が多かった上に、地味も瘠せていて、反収麦が四斗ぐらいしか収穫できなかった。田圃は大沼の池を利用したが雨が降らないと作れず、田植をしないで、ばら蒔きをする有様であった。

こんな状態だから、いきおい農間余業に頼らざるを得ず、養蚕や植林からの薪炭材の伐採その他が生業の主要なものとなっていた。

(上記書276〜277ページより、…は前略)


相模原市史 第二巻」では続いて薪炭材を得るために植林が進められ、麦蒔きが終わった農閑期に炭焼が行われていたとしていますが、その炭焼で使用する炭窯の構築については次の様に記し、その過程で「土窯つき唄」が唄われたことを紹介しています。

…庭の適当なところに深さ約一メートル、縦五メートル、横四メートルぐらいの矩形の穴を掘り、その中に一・五メートル(約五尺)に二・三メートル(約七尺五寸)の楕円を描いて、それに「ごず」(炭のくだけ)を五寸から一尺の厚さに敷き(これは土地の湿度の状態によって加減する)それに茅をのせる。そしてその上に一尺二寸に切った薪を二段に積み上げ、なおそれに「なぐり」(かさま・さしこみともいう)と称する細い薪を一〇把ほど一尺二寸から三尺ぐらいの厚さに積み重ねる。それらの全体には本町田・図師辺から買って来た粘土を約五寸ほどの厚さにすっぽりとかぶせる。ただ短辺の入口には積んだ薪のおさえとして二尺四、五寸の松その他の雑木の薪を立てかけて下には土管を置いて火口とし、反対がわには煙出しにする型をはめこんで置く。そして土がまつきがはじまる。部落のものがおたがいに奉仕しあって三〇人ぐらい集まり、手製の杵を逆手にとって、「おばばなーよ、どけえ行く、三升ざるをさげて、このえんやらやあ、よめの在所へ孫だきに、えーえんやーこのえんやらやあ」と土がまつき唄を謡いはやしながら周囲をめぐって、力をこめてつき固める。

(上記書277〜278ページより、傍点を下線に置き換え、…は前略、強調はブログ主)


この「相模原市史」に掲載された「土窯つき唄」は「木炭の博物誌」にも引用されています(154ページ)。歌詞が相模原市のホームページに掲載されているものと異なり、囃子詞も合いませんので、同一の唄か否かをこれだけでは判断出来ませんが、あるいは同じ節で歌詞を替えているだけかも知れません。なお、「神奈川県民謡緊急調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課編 1981年)にも大沼の「土窯つき唄」は収録されていますが、炭窯の構築に際して唄われるとされているものは他には採録されていませんでした。

大沼新田の「土窯つき唄」の発祥を考える上では、同地で炭焼を行う様になる過程で、炭窯の築造技術がどの様に入って来たのか、特に土窯を使った炭焼が当初からのものであったのかどうかが気になるところです。ただ、前回まで見た津久井や宮ケ瀬の炭焼と比較した場合、少なくとも大沼新田の平坦な土地では横穴式土窯を掘れる様な斜面は存在しないことは明らかです。境川の河岸段丘面にはその様な斜面も存在しますが、ここは新田の地域の外にありますから、何れにしても横穴式土窯が津久井県から伝播してくる可能性は皆無だったと見て良いでしょう。他方、津久井の「ボイ炭やき」は手軽に大量に炭を焼くには良くても、単価が安くなることは避けられませんから、特に植林した林から炭材を伐り出せる様になった初期の頃にはそれほど豊富に炭材が採れたとは考え難く、あまり規模の大きくない大沼新田の炭焼には向いていなかったのではないかと思います。つまり、この地域に関しては当初から土窯を築いて炭焼を行った可能性の方が高いのではないかという気がします。それであれば、「土窯つき唄」はこの地で炭焼が開始されて早々に唄われ始めたのかも知れません。

もっとも、炭窯を造る際にはいざという時のためにも水が近くにあることが必要でしたから、大沼新田で炭窯の適地と言えるのは大沼から近い地域に限られていたことになります。「相模原市史」で炭窯が庭で造られていたと記すのも、水利の限られた土地では集落に近い場所で炭焼を行わざるを得ない事情もあったのでしょう。「木炭の博物誌」では炭窯を築く場所について「人家に近いところでは炭がまの煙が迷惑になる」(143ページ)としていますが、そこは事情を忍んで煙いのを耐えていたということでしょうか。

因みに、「相模原市史」は炭窯構築に必要な粘土を境川の対岸にある武州本町田村や図師村(どちらも現:町田市)から運んでいたとしています。富士山や箱根火山が過去に噴出させた火山灰土が分厚く堆積する相模原台地上では粘土が得難いことから、粘土層が露出している地域まで台地を降りて求めに行かなければならなかったのでしょう。炭窯の構築技術の変遷を考える際には、築造に必要な素材の有無も念頭に置く必要がありそうです。



愛甲郡の5ケ村の「御炭山」について見た際に、中荻野・下荻野両村が祀っていた「東照宮」を取り上げました。これらの村が神格化した家康を祀っていたのは、炭焼そのものへ成功を祈願するものと考えるよりも、家康がこの地に齎した恩恵への謝意に基づいたものと考えるべきでしょう。その点では、炭焼に関連した信仰の事例としてはやや特殊と言えそうです。

炭焼にもう少し直接的に関係しそうな信仰としては、「津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」(津久井郡文化財調査研究会編 1988年)が記す「山の神」が挙げられるでしょう。

信仰の対象は、山の神である。山の神は田の神が収穫が終わると山にのぼって山の神となると、言われるが、田の少ない津久井ではこうした伝説はない。山の神の縁日は一月十七日で、この日には「日待(ひまち)」を行い、山仕事に従事する者や猟師は山に入ることを禁じた。現在でも「山の神日待」を実施している地域があるが、最近では自治会の会合や新年会を兼ねて一年の計画をたてるという方法に変っている。また毎月の十七日に山入りを禁じている家もある。

山入りの行事は、二本の竹筒を水引きで結び中に酒を入れて山に供える。炭焼は、初山入(火入)の日と最終日(掃抜(はきぬき))には同じ行事をして簡素な祝を行う。

(上記書95ページより)


類似の信仰について記録がないか、神奈川県内の各市町史に付属する民俗編をざっと探してみたのですが、あまり記述を見出すことが出来ませんでした。ただ、意外にも「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」に同様の記述を見付けることができました。特に、縁日に山入りが禁忌されている点に共通する点が見られます。

山仕事をする人達は山の神を祀り、山の神様に仕事をさせていただいているという心持ちであった。毎月七日は山の神の命日だから山へ入ってはいけないといい、一般の人も薪採りで山に入る事をさけた。山の神の命日を八日だとする所や一七日とする所もあり江の島では八日・一八日・二八日は山に入るなといっている。

遠藤打越の炭焼きをしていた家では山の神のオヒョウゴを掛けて山講を行った。同じ遠藤神明谷には山の神の祠があり、二月一四日にオタキアゲといって正月の内飾りを燃やし、御馳走を供えた。また春は一月一七日、秋は一〇月一七日に山講を行い、この時薪や炭の値を決めた。部落によっては山仕事をする人々で太子講を持ち、一番年長者をカシラと呼んでカシラの家で寄合いをした。

(上記書335ページより)



藤沢市遠藤・打越の地形図と空中写真
現在も笹久保谷戸を中心に雑木林が残る(「地理院地図」)

どちらかと言うと炭焼に限定せず山仕事全般の神様という側面が強く、特に江の島では流石に炭焼は出来なかったでしょうから、木を伐る場合でも薪か木材だったでしょう。それでも、丹沢山地北部の津久井と相模原台地南端の藤沢市域に共通した信仰が見られることから、その間に位置する各村でも山仕事に従事する人たちの間で幅広く信じられていたものと思われます。ただ、こうした信仰が何時頃まで遡るのかといったことも含め、今回はあまり深く掘り下げることが出来ませんでしたので、機を改めて資料を集められればと考えています。



今回は近代以降の事情については詳細に触れる余裕がありませんが、ここまでの話に関連して2点ほどエピソードを取り上げます。

1つは「佐倉炭」についてです。例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」の出品目録には、旧相模国域からは
  • 足柄上郡谷ヶ村
  • 同郡川西村
  • 津久井郡鳥屋村
  • 足柄下郡沼代村
からの炭の出品が見られますが、この最後の沼代村(現:小田原市沼代)の炭は「佐倉炭」と名乗っています。当時の神奈川県域からは他に武蔵国多摩郡桧原村の炭が同じ様に「佐倉炭」と称して出品されています。

元は下総国佐倉藩の取り仕切る炭であった「佐倉炭」が出品されるとすれば、元来ならば明治以降の行政区画で言えば千葉県ということになる筈で、実際千葉県庁の出品物の中にも「佐倉炭」が含まれています。しかし、旧相模国域や武蔵国域で生産された炭が「佐倉炭」と名乗る例が示されている点からは、この頃には既に「佐倉炭」が地域を示すものというよりも一種の「ブランド」として独り歩きを始めていたことが窺えます。実際、時代が下って大正14年(1925年)の「愛甲郡制誌」でも

林產製造の中見るに足るべきものは所謂「相模の白炭」で古來「幕府の御用炭」と稱せられ名聲頗る高いものがあつた宮ヶ瀨村、煤ヶ谷村、愛川村等の奥山に多くを產し里山では黑炭を多く產出する、製炭法の當否は炭質の良否、燒步に深い関係のあるのは云ふまでもないことで先年白炭、黑炭(佐久良炭)の製炭法の講習を各所で開催して以來着々好成績を擧げつゝある。

(上記書208〜209ページより、強調はブログ主)

の様に、「佐倉炭」がその本来の地名から離れて表記まで変わってきている例が見られます。

「木炭の博物誌」では、現在の「佐倉炭」の産地は茨城や栃木で、特に従来からの製炭法を維持しているのは茨城県鉾田付近のみとしています(207ページ)。こうした記述からは、江戸時代に名を馳せた同地の炭焼がその後関東一円に広まる過程で、その名を引き継ぎながらも製炭法の方は更に各地で改良を受けていったものと思われます。「内国勧業博覧会」の例はその様な動きが明治初期には既に存在し、更に「愛甲郡制誌」の例は、かつて「御用炭」を産出し、その「佐倉炭」の発祥に際して技術を輩出した側の土地でも製炭法を「逆輸入」する流れがあったことを示しているのかも知れません。

もう1点は、神奈川県内の各市町史を点検する過程で、炭焼を養蚕や製茶と結び付けている記述が幾つか見られたことです。何れも相模原台地の上に位置する各市の「民俗編」に見られ、特に「座間市史」が比較的詳細に事情を書き記しています。

炭は主に商品として出荷することを目的に焼かれたが、ヤマを持つ人が材料の木材を提供し手間賃を払って炭を焼いてもらうこともあり、これを「賃焼き」といった。このような炭は養蚕の温暖育、すなわち蚕室を温めることに用いられたが、窯で一回焼くと、一年分の燃料として使うことができたという。

(「相模原市史 民俗編」74ページより、対象は旧津久井郡との合併前の市域が対象)

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、特に、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして蚕室の保温を行った。こうした意味において、養蚕とヤマとの関わりは深かったという。大正時代になると、座間宿に石炭屋が出来て、練炭を売るようになり、燃料は木炭から練炭に変わっていった。また、昭和十二年(一九三六)に陸軍士官学校が移転し、ヤマが減ってしまったため、養蚕組合では一時、麻溝台・大沼・谷口(相模原市)あたりのヤマを買って、薪炭を取りに行ったこともあったという。

養蚕組合が一番最後まで炭を焼いていたというが、炭よりも練炭の方が安く手に入るので、養蚕用の燃料も徐々に木炭から練炭へと変わった。その後、養蚕組合でも、粉炭を買って練炭の製造を始め、レンタンブチと言って、練炭を共同で作ったという。」

(「座間市史6 民俗編」219~220ページより)

家庭用の炭は、たいていはゾウキ(補注:ハンノキなどの雑木を焼いて炭にしたもの)で、良質なカタズミ(補注:クヌギ・ナラ・カシを焼いた堅炭)は、養蚕やお茶作り用に使われた。深見あたりでは、とくにお茶作り用にホイロ(焙炉)で使う炭を買いに来る人が多かったという。

炭は、農家の燃料として重要なものであったが、ことに、養蚕には欠かせないものであった。昔は、養蚕を行う蚕室には、大きな炉が作ってあり、ここで炭と薪を燃やして、蚕室の保温を行った。春蚕(はるご)の時期は、二眠くらいまでの稚蚕期には、蚕室の炉の中へ炭を伏せ込んで暖をとるため、炭の需要が高かったという。しかし、マイシン(埋薪)という、薪も一緒に伏せ込む方法が採られるようになってからは、炭の需要は減ったという。

(「大和市史8(下) 別編 民俗」434ページより、補注は同所の別の箇所を参照の上ブログ主追記)

炭の用途は火鉢などの家庭用と、養蚕での部屋の保温や茶揉みに使うものがあった。中心は養蚕用でああったため、蚕が始まる前は忙しかったという。

(「綾瀬市史8(下) 別編 民俗」137〜138ページより)

炭焼きもまた冬から春にかけての小遣い取りの仕事であったが、大正時代の養蚕の盛んな頃には需要も多く、七、八月を除いてどこでも冬の間だけでなく一年中焼いていた。その頃には年平均三〇俵位は必要だった。それ程養蚕をしなくても、製茶には一俵位必要だし、普通年に一五俵もあれば充分だった。」

(「藤沢市史 第七巻 文化遺産編・民俗編」332ページより)


高座郡は明治時代に入って神奈川県内でも特に養蚕の発展が著しかった地域の1つです。同郡の村々は江戸時代には冬場の農閑期に炭焼を行っており、相模国西部の山間の様に年間を通して炭を焼いていた訳ではありませんが、こうした地域が寧ろ明治時代以降の養蚕の隆盛に伴って、その下支えとなる燃料として炭を自給する様になる傾向を示したことになります。「相模原市史」の場合だけ少し傾向が異なりますが、これは大沼新田の雑木林がこの頃には広大になり、外販用の炭焼が盛んになったことが背景にあります。「座間市史」の記述には、同時期に廉価で入手出来る様になってきた石炭との競合が指摘されていますが、石炭の場合は閉鎖空間での燃料として用いるには脱硫したものを使う必要があることから、その加工の手間で必要となる労力や経費を合わせた時にはまだ自前のヤマで焼く炭にも分があったということでしょう。「大和市史」では堅炭を養蚕などに用いる傾向があったことを記していますが、これは長時間蚕室を暖める必要があるために火持ちの良い炭が必要だったからだろうと思います。

近代に入って化石燃料の利用が増えていった中でも、炭は家庭用としてだけではなく、産業用途としても引き続き使われる局面が多々あり、そうした背景の下でなお盛んに炭焼が続けられていた、ということになるでしょう。



当初は4回程度でまとまるかと想定していましたが、思った以上に書くべきことが増えてしまい、今回を含めて8回になってしまいました。改めて、ここまでの記事の一覧を掲げます。


「風土記稿」が愛甲郡の各村の炭焼を取り上げたのは、明らかに小田原北条氏や「御用炭」の由緒を重視したものと言って良いでしょう。山川編で取り上げられた足柄上郡や足柄下郡の炭焼は、相模国全体で炭焼の盛んだった地域を考えると必ずしも地域の選択が妥当であったとは言い難い側面もありますが、相模国も山岳地域を中心に江戸の膨大な炭需要を下支えする地域の一角であったことは確かです。特に穀類の生産に乏しい山間にあっては、炭が村の稼ぎの主力となっていた地域が多く、荒川番所や川村関所でも貢税の対象として重視されていました。

その炭焼も白炭と黒炭に大別され、更に「御用炭」の様に将軍の茶の湯に用いられるものや、鍛冶炭の様に当時の産業用途のものといった種類に応じて炭が焼き分けられていたことも、伝えられている文書類によって明らかです。宮ケ瀬で発掘された「横穴式土窯」や、同地で行われていたと言い伝えられる「ボイ炭やき」の存在からも、相模国で焼かれていた炭が単一なものではなく、必要に応じて炭焼の方法を変えていたことを窺わせます。ただ、現状では当時のその具体的な技術を明らかにするには、史料がまだ充分とは言えない様です。

また、小田原の旅籠・小清水からの発注に見られた様に、炭焼では一度に生産される量が膨大となり、その運搬に必要となる労力も大きく膨れ上がる傾向にありました。つまり、当時の物流にとっても主要な運搬品目のひとつであったことがわかります。その様な品目が「日本木炭史」が指摘する様に運搬し難い性質を持っており、足柄上郡24ケ村が駄賃稼ぎの横暴を訴えた際の文書からも、炭の運搬が陸運にとって「難題」となっていた状況が垣間見えます。江戸時代当時の物流や交通事情を考える上では、こうした荷物の性質についても勘案する必要があると言えます。

江戸時代の相模国の炭については今回でひとまずの区切りとします。後日何か追記すべきことがまとまったら改めて取り上げたいと思います。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫