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「毛吹草」の相模国の産物にまつわる補足

前回の記事の中で、「毛吹草」の第4巻に記された相模国の「名物」を引用しました。そのうち、「鼠大根」について「鼠の手に似ているという」と書いている点を事実誤認と言わざるを得ないと評価しましたが、ここにはこれまでこのブログで取り上げた他の産物についても挙げられていますので、今回はそれらの産物について照合した上で補足を加えたいと思います。

「毛吹草」の該当箇所を再掲します。

相模

  • 鎌倉 柴胡(カマクラ サイコ)
  • 紅花(カウクハ)
  • (ネズミ)大根鼠ノ手ニ似リト云
  • 海老(エビ)伊勢海老ノゴトシ
  • 江島 江豚(エノシマノイルカ)
  • 小田原 海雀(ヲダハラノウミスヾメ)魚也
  • 透頂香(トウチンカウ)
  • 甲鉢(カブトバチ)
  • 十間坂(ジツケンザカ) 星下梅(ホシクダリノムメ) 日蓮宗數珠ニ用之玉ニ星一ツヽ有ト云
  • 大礒 盆山 敷石(オオイソニボンサンノシキイシ)五色ノ石有之
  • 禰布川 飛石(ネブカハノトビイシ)
  • 秦野野大根(ハダノノノダイコン)

(岩波文庫 新村出校閲・竹内若校訂版 169ページより)


著者である松江重頼は江戸時代初期の京の俳人ですが、家業は撰糸商人で、その傍ら宿も営んでいた様です。他の国の「名物」の一覧に絹織物や綿織物の名前が多いのは、あるいはそうした家業故に触れることが出来た知識だったのかも知れず、そうだとすると「三浦木綿」が取り上げられていないのもそうした商人としての目での評価であった可能性もありそうです。

正保2年(1645年)に刊行された「毛吹草」は江戸時代を通じて何度も版を重ねていたことが、「早稲田大学古典籍データベース」に収められた「毛吹草」の写本や刊本の多さ(この記事を書いている時点では「毛吹草」で検索して11件ヒットします)で見て取れます。上記の岩波文庫の翻刻は、現在まで多数伝えられるこれらの写本の中から最も古いと思われるものを底本として、極力原本に近いものを再現しようとしたことが「解説」に記されていますので、上記の引用に後代の追記や改変はないものと考えています。また、「毛吹草」よりも時代が下った磯貝舟也の「日本鹿子(にほんがのこ)」(元禄4年・1691年)に掲載された相模国の「名物」を見ると

同國◯相模名物出所之部

  • 大根秦野と云野原にあり、たねをまかずして、おのれといでくる也、
  • 鼠大根かまくら邊より出る、鼠の手ににたり、よつてかく云ふ、
  • 柴胡同所よりいづる
  • 紅花同所よりいづる
  • 海老( )世にかまくらゑびと云
  • 江島江豚(イカル)
  • 小田原海雀( )
  • 同鰹の(タタキ)
  • 同粕漬梅( )
  • 同足駄( )
  • 同外郞透頂香
  • 同夢想枕
  • 盆山敷石大いそより出る、五色の石也、
  • 川村材木
  • 十間坂星下梅日蓮宗數珠に用、玉に星一ツ宛有、
  • 飛石禰布川と云所より出る、小田原近所なり、

(「古事類苑データベース」より、体裁は適宜調整)

と、選定されている品目や表記、更に「鼠大根」の「鼠の手ににたり」という表現から、明らかに「毛吹草」を参照していることが窺え、その影響の大きさを見ることが出来ます。

鼠大根」は上記の様に認識に妙な部分があるとは言え、三浦の高円坊大根について江戸時代初期に京でその名を知る人がいたことを示しています。「三崎誌」がこの大根を「鎌倉の産にもあり」と書いたのは、著者の木村伝右衛門もまた俳人であったことから、やはり「毛吹草」の記述を意識していたのかも知れません。また、「毛吹草」では「波多野大根」についてもその名を記していますが、自生していることを意識して「野大根」という名前になっており、「日本鹿子」の方はその点について解説が付されています。こうした遠方の大根がわざわざ京まで運び込まれることが当時あったとは考え難いところですが、特に大根の場合は品種が多彩であることが意識されていたために各地の品種が遠隔地でも知れ渡っていたのかも知れません。

「毛吹草」ではこの一覧の筆頭に「柴胡」が挙げられています。「鎌倉柴胡」という表記になっていることから、「日本鹿子」では鎌倉産であることを強調していますが、「毛吹草」はその点については追記はありません。江戸時代前期に遡った時に、「新編相模国風土記稿」に記されている柴胡の産地とどの程度隔たりがあったかは定かではありませんが、「風土記稿」の三浦郡図説に「北条五代記」の引用として城ケ島で鎌倉柴胡を採っていたことが記されており、産地に多少変動があることは意識されていたと思われます。また、「新編武蔵風土記稿」の根岸村の表記に「これ當國の内に生するものながら鎌倉柴胡とて世に用る所なり」とあるところを見ると、時に「鎌倉」を「相模」に近い広い地域を指すものとして意識していた面もありそうです。ただ、「毛吹草」や特に「日本鹿子」では、実際の産地の広がりについてはあまり知識がなかった可能性は高そうです。

他方、大磯の「敷石」については、延宝4年(1676年)と比較的早い時期に同地の小島本陣家が御用を承って独占的に砂利を出荷していることが史料によって確認出来、更に後年の記録に京・知恩院へ献上した実績も残されている点が気になります。「毛吹草」が大磯の砂利について名を知っていたのも、あるいは史料で確認出来るよりももっと早い時期に、大磯から京や近辺の庭園に砂利が運び込まれたことあった、という可能性について考えてみたくなるところです。根府川の「飛石」についても、その用途が「飛石」に限定されて記されているところからは、やはり同様の可能性を考えてみたくなります。無論、どちらも更に史料の裏付けが必要ですし、逆に「毛吹草」が引き金になって京の寺社が庭園用の砂利を所望する様になったという可能性も考えてみる必要がありますが、松江重頼が相模国(や他の各国)の名産についてどの様に知識を得たのか、という課題は、この一覧を考える上では検討してみるべきと思います。

「毛吹草」に記された名産のうち、残りの品目についてはまだ他の史料との照合をしていないので、後日機会が出来たら触れたいと思います。このうち、小田原の透頂香(外郎)については「風土記稿」の足柄下郡図説や山川編の産物一覧にありますので、その際に改めて取り上げます。
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三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の三浦郡図説に記された「草綿」について見ていきます。前回は江戸時代の三浦郡内の木綿の生産や販売の実情を「浜浅葉日記」を中心に紹介しましたが、今回はその「位置付け」を試みます。


秦野市羽根の位置(Googleマップより)
秦野盆地北側の斜面に位置し、麓に集落があった
まず、江戸時代に相模国で木綿を栽培していたのは三浦郡だけではありませんでした。例として文書を幾つか挙げます。

神奈川県史 資料編6 近世(3)」には大住郡羽根村(現:秦野市羽根)の「年貢皆済手形」が多数掲載されています。その年の年貢をどれだけどの様に納めたかが記録されているのですが、この「年貢皆済手形」に年貢の一部を木綿で納めたことが記されています。例えば、慶長17年(1612年)の「年貢皆済手形」には次の様に記されています。

一米一(俵)四合

但中綿百拾八匁て納

一米弐斗弐升四合

但下綿八拾匁ニ而

(上記書376〜377ページより、変体仮名は下付き文字で漢字・カタカナにて表記)

以下、年によって綿によって納められた年貢の多寡があったり質の変動があったりはするものの、「神奈川県史」に掲載された慶長17年から寛永8年(1631年)までの全部で8冊の羽根村の「年貢皆済手形」の大半に「綿」の記載をみることが出来ます。何れも江戸時代の最初期の年貢についての貴重な記録ということになりますが、それらの多くに「綿」が記録されているということは、江戸時代初期には既に綿の栽培が三浦郡に留まらず相模国の他の地域での栽培が始められ、例年の貢税に充てられる程に定着していたことを示しています。


愛甲郡清川村煤ヶ谷の位置(Googleマップより)
大山の北側に広がる丹沢山中の村だった
また、「神奈川県史 資料編7 近世(4)」には愛甲郡煤ヶ谷村(現:清川村煤ヶ谷)の延享元年(1744年)12月の村明細帳が掲載されています。ここには

一永弐百拾五文

綿売出

元永壱貫七拾五文弐割

(上記書540ページより)

とあり、綿の販売によって得た収益の一部を年貢として納めていたことが記されています。つまり、前回見た大田和村の「浜浅葉家」の様な経営を営んでいた農家が、この山間の村にも存在したことがわかります。同様の事例は、例えばやや時代が下りますが明治3年(1870年)4月の大住郡今泉村(現:秦野市今泉・今泉台)の村明細帳にも

秦野市今泉の位置(Googleマップより)
現在の小田急小田原線秦野駅の南側に位置する

一永壱貫百弐拾五文

綿漆運上

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」56ページより)

と記録されている例を挙げることが出来ます。

こうした例を挙げていけばキリがないのですが、最後にもう1つ「藤沢市史 第二巻 資料編」に掲載されている高座郡羽鳥村(現:藤沢市羽鳥、以前この記事で名前が出ました)の文久元年から明治2年(1861〜69年)の「種蒔帳」(584〜590ページ)を紹介しましょう。ここには各年毎にどの畑に何の種を蒔いたかが記録されているのですが、「餅粟」「大豆」「さつま(薩摩芋)」「ごま」「岡穂(陸稲)」などの作物とともに「木綿」が栽培されていることが確認出来ます。例えば文久元年には全部で6箇所の畑で木綿が栽培されています。大抵は陸稲や粟などと一緒に栽培されており、比率としてはそれほど高いものとは言えませんが、穀類や芋類の栽培の傍らで木綿の栽培のための区画を毎年一定量確保していたことは確かです。

郡名真綿(斤)繭(斤)
三浦郡22,609
鎌倉郡32,48519,686
高座郡5,90591,697
津久井郡25,784
愛甲郡9,63674,637
大住郡113,3654,145
淘綾郡30,472
足柄上郡53,089
足柄下郡58,830
相模国全体326,391215,949

※「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」所収の「全国農産表. 明治9年」の「相模国」と「同国内各郡」の項から該当項目を拾って構成

江戸時代に相模国内の木綿栽培が盛んだった地域をもう少し量的な側面から推し量るには、やや時代が下りますが、明治9年(1876年)の「全国農産表」が参考になると思います。相模国と国内各郡の生産高から「真綿」の生産高を拾って表にしてみました。比較のために併せて「繭」の生産高を併記しています。鎌倉郡を除く各郡については、「繭」の生産に注力している郡では「真綿」の生産が見られなかったり低かったりするのに対して、「真綿」の生産量が多い郡では「繭」の生産量が少ないという傾向が見られますが、これらはそれぞれの郡の地形や地質などの影響がある程度反映している様です。明治初期には明治政府が早くから紡織に力を入れていた影響もあると思われますので、この数字の傾向が江戸時代まで遡って見る際にどの程度適用出来るかは検討の余地がありますが、それでも上記の各種の文書と照らし合わせてもある程度は生産地の傾向を窺うことは出来ると考えられます。つまり、この時点の生産高で比較する限り、相模国内の木綿の生産では三浦郡は上位を占めていたとは言えず、むしろ大住郡を中心とした相模国西部が中心であったということになります。

では、全国的には江戸時代の木綿は戦国時代と比較してどの様な推移を経たのでしょうか。これについては、「苧麻・絹・木綿の社会史」(永原慶二 2004年 吉川弘文館)が次の様に解説しています。

日本木綿作の第二段階ともいうべき一七世紀=江戸前期において、事情は急速に変化する。ひとくちにいって、東海・関東の綿作・綿織は三河・尾張・伊勢をのぞいて商品生産としては目立った展開をとげず、九州でもその存在はむしろ影を薄くしてゆくようである。そして逆に、一七世紀段階の綿作・綿織の主産地は畿内とその周辺地域に集中する傾向を示すようになる。

この変化はいったい何に由来するものであろうか。ちなみに、一七世紀に発展をとげる畿内綿業も、一八世紀以降においては山陰・瀬戸内沿岸やふたたび東海・関東などの新興綿作地に漸次圧倒され、頭打ちないし衰退に向かうようになる。また畿内のうちでも大和の衰退が目立っている。そのような主産地の集中・流動は、いうまでもなく木綿作が商品生産=商業的農業としての性格を高度化するにつれて、経営上の条件差・経営格差が鋭く現われてきたことによるだろう。商品生産的性格の水準が低く、自給生産と結合しているような段階においては、経営格差はそれほど鋭い形では現われないが、商品生産としての性格が全面的に強まれば、弱者の衰退、強者への集中の進行は不可避である。

(上記書324〜325ページより)


こうした木綿の「名産地」が一部の地域に集中する傾向に、戦国時代には名を馳せた「三浦木綿」は乗ることがなかったというのがどうやら実情の様です。実際は産地として全国的に名が通っている様な地域以外でも、木綿は幅広く栽培され、一部は換金もされていたことが、前回の「浜浅葉日記」や上記の村明細帳でも確認出来ますが、少なくとも江戸をはじめとする消費地に向けて積極的に流通する様な存在ではなくなってしまったということが言えるでしょう。

「新横須賀市史 通史編 近世」第8章図8-2「産物の分布」
「新横須賀市史 通史編 近世」
図8-2「産物の分布」(p.340)
「新編三浦往來」に記された産物を
地図上にプロットしたもの(再掲
それだからでしょうか、先日「新編三浦往来」に記された産物を三浦半島の白地図上にプロットした「新横須賀市史 通史編 近世」の図を紹介しましたが、この中には「木綿」は含まれていません。「新編三浦往来」にはかなり細々とした産物まで記述されており、金谷・池上・平作・阿部倉といった棚田が開かれていたことが知られている地域では「米穀」が良く出来るといったことまで記されているにも拘わらず、綿作を取り上げずに終えたのは、著者である竜崎戒珠が三浦で出来る「木綿」をあまり高く評価していなかったということなのかも知れません。彼が増補改訂した「三浦古尋録」の様な地元の地誌でも、「木綿」について触れた個所を見付けることが出来なくなっています。

「三浦木綿」の名前が何時頃から聞かれなくなったのかを史料から明らかにするのは、一種の「不在証明」が必要になるため、非常に難しいと思います。「苧麻・絹・木綿の社会史」では木綿の全国的な産地を推し量る史料の一つとして、正保2年(1645年)に刊行された「毛吹草(けふきぐさ)」を取り上げています。これは俳人であった松江重頼のまとめた俳諧の方式書で、俳諧の題材としての「資料集」ですが、「苧麻・絹・木綿の社会史」ではその第4巻に収められた「名物」から木綿や綿織物の名前を拾い上げて産地の傾向を推し量る、という使い方をしています。あまり厳密な史料とは言えないものの、江戸時代初期の傾向を測ることは出来るという判断で採用したものの様です。

毛吹草」に掲載された「相模」の名物は

相模

  • 鎌倉 柴胡(カマクラ サイコ)
  • 紅花(カウクハ)
  • (ネズミ)大根鼠ノ手ニ似リト云
  • 海老(エビ)伊勢海老ノゴトシ
  • 江島 江豚(エノシマノイルカ)
  • 小田原 海雀(ヲダハラノウミスヾメ)魚也
  • 透頂香(トウチンカウ)
  • 甲鉢(カブトバチ)
  • 十間坂(ジツケンザカ) 星下梅(ホシクダリノムメ) 日蓮宗數珠ニ用之玉ニ星一ツヽ有ト云
  • 大礒 盆山 敷石(オオイソニボンサンノシキイシ)五色ノ石有之
  • 禰布川 飛石(ネブカハノトビイシ)
  • 秦野野大根(ハダノノノダイコン)

(岩波文庫 新村出校閲・竹内若校訂版 169ページより)

で、この中に「三浦木綿」は含まれていません。「苧麻・絹・木綿の社会史」が指摘する様に網羅性のある一覧ではありませんし、「鼠大根」を「鼠の手に似ているという」と書いているのはどう見ても事実誤認と言わざるを得ず(こんな怖気を震う表現がどうして俳諧の題材を集めた書物の中にそのまま書かれたのかわかりませんが)、著者の松江重頼がこの一覧を書く際にどれ程の情報を手に出来ていたか、甚だ心もとないのは事実です。とは言うものの、周辺地域では武蔵の「木綿嶋」、安房の「木綿」なども取り上げているこの筆者が「三浦木綿」を取り上げていないところから見ると、少なくともこの本の刊行された江戸時代初期には、既に知名度が相当に下がってしまっていた可能性が高そうです。

「風土記稿」が「今も郡中に播殖すれど三浦木綿とて稱美する事は聞えず、」と書き記していたのは、こうした実情を指していたということになるでしょう。勿論、昌平坂学問所も文献に見える「三浦木綿」の痕跡を辿る以上のことは既に出来なかったと思われ、戦国時代末期に三浦郡でどの様に生産されていたのかを明らかにすることは、「風土記稿」編纂当時には不可能になっていたのでしょう。

もっともそれは、三浦郡の木綿栽培が衰退してしまったというよりも、江戸時代に入って木綿栽培が全国的に広がり、その中で特に名産として名を馳せる様になった他の地域の木綿の様には生産を伸ばせなかった、と考えるのが妥当である様です。またそうした中で、木綿が単に自給用作物としてのみ栽培されていたのではなく、郡内の限定された地域内では小規模ながら販売されて流通していたことは、意外に見落とされがちな事実ではないかと思います。




三浦郡の木綿は明治時代に入ってもしばらくの間は生産が続いていた様ですが、それも紡織の近代化の前ではあまり長い命脈を保つことは出来なかった様です。「苧麻・麻・木綿の社会史」ではその最後に次の様に書き記しています。

明治政府は、開港後の経済・政治情勢のなかで、産業近代化を「輸出振興」「輸入防遏(ぼうあつ)」(当時の国家的スローガン)という両面の戦略的立場から推進しなければならなかったため、綿業はその中核的戦略産業として位置づけられた。 外国綿糸・綿布の「輸入防遏」のために、綿業の近代化は火急の国家的課題とされた。

明治政府は当初、国内綿を原料としつつ、産業革命をいちはやく達成したイギリスの綿糸紡績機械と工場生産を導入して、この課題に応えようとした。 いわゆる二〇〇〇錘紡績機一〇基を買い入れ、堺・愛知・広島など、江戸時代以来の綿業中心地に、官営工場を設置したのがそれである。

しかし、結論だけをいうなら、日本の国内木綿の繊維は短いため、イギリス直輸入の機械に適合せず、官営工場は成果をあげないままに民間に払い下げられることとなった。

こうした問題をかかえながら一八八六年(明治一九)、松方正義(まつかたまさよし)の財政整理にともなう一八八一年(明治一四)以来の不況が終わり、いわゆる企業勃興期に入ると、綿業近代化の担い手たる資本家たちは、一転してインド・中国の輸入綿を原料とし、国内木綿を切り捨てる方針を選択した。 それからほぼ一〇年にわたって、国内綿作農民と綿業資本家たちの熾烈な戦いがくりひろげられ、折しも開設された帝国議会がその論議の舞台とされた。 しかし結局、一八九六年(明治二九)、議会は綿花輸入関税の撤廃を議決し、綿作農民は完敗した。

日本の国内木綿作は、これを転機に数年ならずして消滅した。

(上記書352〜353ページより)


もっとも、木綿の栽培自体はその後も自家用を中心として続けられていた様です。「横須賀市史 別編 民俗」の記すところでは、長沢・津久井・太田和の人の聞き取り調査の結果として、横須賀市域では昭和戦前期から遅いところで20年代初期まで木綿栽培が行われていたとしています。但し、最後は基本的に布団や半纏の中綿用途で、綿布生産はもっと前に廃れたものの様です(238ページ)。

同書では続いて市内から収集された木綿紡織に関する各種の道具を紹介していますが、それらのうち、「ワタクリ」(239ページ)と地機用の「(おさ)」(245ページ)には「明治廿九年」と墨書きされており、恐らくこれらの道具の製造年と思われます。丁度この年に綿花輸入関税が撤廃されたとなると、これらの道具がその後木綿を紡いだり機織りに活躍した時間は、それほど長いものではなかったのかも知れません。

因みに、同書では

なお、市域ではハマ・オカを問わず話者の多くが木綿の(しま)や無地を指してジオリ(地織り)と呼ぶ。その背景にはかつて綿布織りが盛んであったことがうかがえる。

(上記書239ページより)

と記しています。今でも受け継がれている言葉と言えるかどうかはわかりませんが、かつての木綿栽培や紡織の数少ない痕跡の1つということになるのでしょうか。

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「横野山王原遺跡」についての記事を巡って

先日twitterのタイムライン経由で、こんな記事が廻ってきました。12月19日付けの神奈川版の朝日新聞の記事です。

朝日新聞デジタル:(9)秦野の「天地返し」遺跡 - 神奈川 - 地域



記事は新東名高速道路の建設予定地で行われている遺跡発掘調査のうち、「横野山王原遺跡」についてのものです。10月17日に現地説明会が行われた際のレポートという形を採っています。当日配布されたと思われる資料がPDFの形で「かながわ考古学財団」のページに掲載されていました。


横野山王原遺跡付近の地図(「地理院地図」より)
この資料に掲載されている地図の位置は右の通りです。秦野市横野は江戸時代には大住郡横野村であった地域で、秦野盆地北辺の山裾に出来た扇状地状の土地に畑を開いていた様です。「新編相模国風土記稿」では村内に山王社が存在することが記されています(卷之五十二 大住郡卷之十一)ので、「山王原」の地名も恐らくそこから来ているものでしょう。

遺跡自体は弥生・縄文時代から近世にかけての複数の層を含む遺跡であった様ですが、朝日新聞が取り上げているのはこのうちの近世の「天地返し」についてのもののみです。この時点では発掘調査は未了であった様ですから、遺跡の全容についての報告書が出てくるのはまだ先になると思いますが、何れまとまったものが「かながわ考古学財団」から刊行されると思います。以下は飽くまでも朝日新聞の記事を読んだ限りでの感想ということでお許し下さい。

「天地返し」についてはこのブログでも以前漆を取り上げた際に宝永噴火の復興に関して説明する中で簡単に触れました。上記の「かながわ考古学財団」の用意した現地説明会の資料に用いられた4コマの漫画は、元は山北の河村城跡の畑から発掘された「天地返し」の遺構に絡んで描かれたもので、そのわかりやすさから「天地返し」について解説する際に繰り返して紹介されているものです。内閣府防災担当の「1707 富士山宝永噴火報告書」でもこの河村城跡の「天地返し」の例が紹介され、その際にこの漫画が引用されています(114〜115ページ)。今回の「横野山王原遺跡」のものはこの河村城跡のものに匹敵する大きさがある様です。

記事中で気になったのが次の文章です。

天地返しをすると保水力が落ちた。そこで選ばれた葉タバコや落花生が秦野の特産となったという。


保水力の低下は確かに問題であったでしょう。火山灰土は基本的に透水性が高いため、これを地下に追いやってしまうと地下に「水抜き」を作ってしまうのと同じことになります。噴火前にどの様な地質であったかにもよりますが、降り積もったばかりの火山灰土では多かれ少なかれ保水力の低下は避けられなかったでしょう。

とは言え、秦野盆地での各種の作物の栽培の歴史に関して残っている史料を見て来た観点からは、宝永噴火と作物の変遷を直接裏付ける様なものはなかったというのが私の印象で、その点でこの指摘は少々違和感があります。少なくとも、波多野煙草については以前紹介した通り寛文6年(1666年)には年貢として納めていることが記録されていますから、宝永噴火の時点では既に煙草栽培がある程度定着はしていた筈です。噴火後に他の作物に見切りを付けて煙草栽培を増やした可能性はあるとは思いますが、そのことを裏付ける史料が見つかるかどうかが課題となりそうです。また、落花生栽培が開始されるのは明治時代に入ってからで宝永噴火からは1世紀ほどの年月が経っていますから、開国によって新たに入ってきた作物に活路を見出す過程で結果的に保水性の低い土地が有利になった、ということでしょう。

当時の主要な作物のうちで特に火山灰土に強いものを見出すとすれば、例えば先日取り上げた甘藷が該当しそうです。元は琉球の作物であった甘藷が薩摩藩に持ち込まれてそこで栽培に成功したものがやがて全国に広まっていく訳ですが、沖縄の多くの島も火山性の土地が多く、また「サツマイモ」の名前の元になった薩摩の2つの半島もいわゆる「シラス台地」の火山灰土の覆う土地ですから、そこで生育可能な甘藷は確かに富士山の降灰で覆われた土地に向いていそうです。

もっとも、先日見た様に「大野誌」の指摘に従うと相模国の甘藷の栽培の興りは八幡村を中心とする相模川西岸の砂丘地帯で、必ずしも降灰の被害が酷かった地域に最初に持ち込まれたのではないことになります。栽培が開始されたとする時期は享保年間と降灰の影響がまだ強く残っている時期で、その点では救荒作物の1つとして注目されていた甘藷が宝永噴火を契機に持ち込まれてきたと考えたくなるのですが、今のところはその様な関連付けを裏付ける程の史料がある訳ではない様です。今後の更なる史料の発見に期待したいところです。

朝日新聞の記事は遺跡の保全を訴える論調ですが、新東名の敷地内ということになるとかなり難しそうです。次善の策としては地層の剥ぎ取り標本(リンク先PDF)を作成することが考えられますが、今回の遺跡が果たして剥ぎ取り作業を行える状態になっているかはわかりません。

ただ、他に類似の「天地返し」の遺跡の発掘例が増えてきているのであれば、今後はそれらの遺跡相互の共通点と相違点を見出すことが必要になると思います。各地の「天地返し」の遺構に類似点が多いのであれば、それらが個々の村々が自発的に手法を編み出した結果とは考え難く、誰かによる「技術指導」があったことが考えられます(それが幕府から派遣された役人によるものか、それとも何処かの村で編み出した人がいたのかはさておき)。他方、降灰量は富士山からの距離によって多寡があり、更に降り積もった地形によっても厚みに差があったと思われますので、こうした遺跡各地点の降灰量の差が埋められた火山灰土の量に相関しているかどうか、もしそうなっていなければ、畑に降り積もった火山灰土を必ずしも全量地中に収めた訳ではないことになりますので、その場合は残りの火山灰土を何処へ持っていったのかが問題になるでしょう。今回の発掘調査を機に、こうした比較が出来るデータが出ればと思います。

この件については、後日調査報告書が刊行された際に、改めて取り上げてみたいと考えています。
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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回まで、「新編相模国風土記稿」で大住郡の産物として取り上げられた野菜や穀類について見て来ました。大住郡や相模国の代表的な産物として一覧に加えられた点については、前回見た様に多少疑問の残る点もあるのですが、一方で地質などを勘案すると、確かに主要な農産物として栽培されていてもおかしくない面もありました。そこで今回はもう少し時代を下った頃のこれらの作物の栽培事情を見てみます。


平塚小唄(ホックリ節)-上-(相州平塚芸妓連中)(YouTubeより)
「白秋全集」の第一・二(大山詣で)・五(裏町の鳥居)の連が歌われている
因みに「」で歌われているのは
第十一(火薬廠)・六(腕骨祭り)・十五(誕生池)連
(その2)戮豇(ささげ)や甘藷について紹介した際に、それらが地場の名産として歌われている俗謡を2種類ほど紹介しました。もう少し時代を下って、昭和3年(1928年)には北原白秋の作詞、町田嘉章の作曲で「平塚小唄(ほっくり節)」が作られています。YouTubeに作曲の翌年に吹き込まれたと思われるSPの再生風景を収めた動画がアップされていましたので、参考までに張っておきます。歌詞は全部で15番まである長いものですが、このうちから今回の話に関連しそうな箇所を引用します(白秋の没後から73年が経過していますのでJASRAC的にも問題無いと思いますが…)。

相州平塚(さうしうひらつか) コイナ、

つるつるおいも、ホラエ、

()かへして、

かへして、かへして、()がほきる

ほつくりほつくり、ほつくりよ、

わら()でほつくり十三()

須賀(すか)西瓜(すいくわ)も、コイナ、

すぐ(はな)ざかり、ホラエ、

()えな、()んべか、

()んべか、()んべか、()(よめ)に、

ほつくりほつくり、ほつくりよ、

わら()でほつくり十三()

(「白秋全集30 歌謡集2」1987年 岩波書店 37、40ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、連番号は「白秋全集」の順序に従ってブログ主が計数したものを追加)



「ほっくり節」という別称はその特徴的な囃子から来ていますが、勿論これは甘藷の食感から来ていることは言うまでもありません。この囃子(段を下げた2行)は15連全てで繰り返し登場します。その他、第一連の歌詞には甘藷にまつわる様子が面白おかしく歌われています。平塚に東海道線が開業した後、駅周辺には芸妓のお座敷が多数出来たのですが、この歌もそれらのお座敷で歌われる小唄として、平塚町の料理屋組合が白秋に依頼して出来たものです。「白秋全集」の解説に引用された初出誌「若草」の白秋の小序にも、各地方からの委嘱に応じて作詞したことが記されています(504ページ)。白秋は神奈川県内では三崎や小田原に住んだ時期もありますが、平塚に直接降り立った経験があったかどうか、作詞の依頼を受けた当時に平塚についてどの程度の知識を予め持っていたかは詳らかになりませんでした。「平塚小唄」に歌い込まれた土地の名産や名所・景観については、委嘱元から多少なりとも示唆を受けている可能性は高いでしょう。そうした名産の中に、上記の様に須賀の西瓜も含まれている訳ですが、甘藷については全連で繰り返される囃子に「ほっくり十三里」と繰り返される通り、特に平塚の地と結び付けられて印象を強調されています。

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2代目歌川広重
「名所江戸百景」中の
「びくにはし雪中」
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平塚の名産となった甘藷について、(その2)でも引用した「大野誌」では

…またこの時(注:享保年間)から栽培されていた甘藷が後に八幡藷(やわたいも)と称せられ、形のよい紡錘形をし、外皮は僅かに黄色味を帯びたきれいな白色、肉は甘味多く煮沸すると黄色となつて固くしまり、口にすると「ほくほく」して、殊に大正年間から昭和のはじめにかけて東京横浜の人達や近在の人達に親しまれていた八幡種である。この甘藷は川越藷が「焼いも」として重用されたことに対し「ふかしいも」として珍重されていた。

(上記書534ページより)

と、同地の甘藷が「八幡種」として知られる様になったことを記しており、更にそれまで輸送コストの折り合いから近傍での消費に留まっていた甘藷が、明治20年(1887年)の東海道線の開業によって京浜地方に販路を確保したことから、飛躍的に作付面積を増やして行った経緯が比較的詳しく解説されています。因みに、同書では相模国に広まった甘藷の起源について、薩摩国から八幡村に持ち込まれたのが最初とする見解を紹介しています。

実際、中郡の甘藷の生産については昭和28年(1953年)にまとめられた「神奈川県中郡勢誌」(中地方事務所編)でも

作付面積は昭和十四年には一、三〇〇町歩程度であつたが、戦時中及び戦後の食糧問題解決の爲めに重要な役割を果し、國民の饑餓を救い、又家畜飼料として、或は工業方面のアルコール及びでん粉原料として新しい分野を廣げ、漸次作付面積を增加して昭和二十年には一、四〇〇町歩位迄に增加し二十三年には一、六三六町歩となり、十年前に比して四割增加し二十年前に比して二倍近く增加している。之れを町村別に見ると、大野町の二二五町歩を最高とし、國府町一〇八町歩が之れに次ぎ、神田村・大根村・二宮町等も比較的に作付が多い。

然るに昭和二十五年統制が廃され自由販賣となつてから、作付は激減して一、三八九町歩となり、量よりも質の方向に移行し優良品種の栽培、早掘甘しよの普及に力を注ぎつゝある。本郡の主なる栽培品種は沖縄一〇〇号・大白・農林一号・関東二十二号・関東二十四号等である。

(上記書132ページより)

と、第二次大戦後まで大野町を中心に盛んに栽培されていたことを記しており、この地方の産物の主力としての地位を保っていたと言えそうです。

「風土記稿」で取り上げられた大住郡の一連の野菜・穀類のうちでは、甘藷は比較的土地と結び付いて語られる側面が大きく、特に時代が下って交通の発達に合わせてその価値を認められていった作物だったと言えそうです。なお、西瓜については統計上は園芸作物の中に埋もれてしまっていた様で、名産として取り上げる記述の裏打ちとなりそうなものを見出すことが出来ませんでした。



もう1点、今度は「秦野市史 通史3 近世」に記された、秦野市を中心とした「ビール麦」の栽培の推移について、同書を引用しながら紹介します。同書では第6章第4節に「落花生とビール麦」と題を付して同市内の代表的な作物の近代の歴史を記しており、その後半が「二 ビール麦の栽培」の記述に充てられています(602〜613ページ)。

ここで「ビール麦」と称されているものは裸麦のうち特にビール醸造に適した品種を指しています。その栽培開始の経緯については秦野市内に十分な記録を見出すことが出来ないとしながらも、「神奈川県農会報」を軸に次の様に解説しています。

ビール麦であるゴールデンメロン種の大麦は明治初年に政府の手によって導入が試みられ、十年代を通じて各地の篤農家の手で試作が行われたことがある。しかしこの地の栽培は直接これらの残存物として農民の手で作られたものではない。『農会報』四四号(明治四十一年十二月刊)によれば、県農会役員がビール会社に働きかけ、買上量の契約を得て後、郡農会を通じて栽培農家を決めるという手続きを経て、明治四十年秋播種する形で始まったことが明らかである。県農会というのは明治三十三年六月公布され、翌年四月施行された農会法という法律に基づいて結成された農業者・農地所有者の団体で、町村・郡市・県・国と積み上げる形の組織を持つものの県段階の組織である。…

県農会の下山幹事と磯貝技術員は明治四十年十月一日に東京目黒の大日本ビール株式会社工場(創立明治三十九年三月)を訪ね、工場長との間に四十一年産大麦ゴールデンメロン五〇〇石を取引するという協約を結んだ。その後三日高座郡農会、五日中郡農会との間に各郡五〇〇石の取引を約束した。この結果、会社との協定を一〇〇〇石に改定している。この協定に応ずるため高座郡では四村四〇名が二〇町のビール麦の耕作をし、中郡では五村一四〇名が一七町五反の耕作をすることになったのが、会社との契約の下で、ビール麦耕作をする始めとなる。中郡五村は国府村・吾妻村・金目村・大根村・岡崎村であり、秦野市内七町村中大根村は契約栽培の第一年度から加わっており、その耕作人員四〇名、作付面積は五町歩であった。郡計一七町五反の二八・六パーセントが秦野市内に作付けられたのである。

(602〜603ページより、…は中略)


ここで名の挙がった「大根村」は明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、大住郡落幡・真田・南矢名・北矢名・下大槻(うち真田は現・平塚市、残りは現・秦野市)の各村が合併して成立した村です。従って、「風土記稿」で大麦の産地として名の挙がった下大槻村を域内に含んでいることになります。但し、この時契約を結んだ農家が大根村のどの地区に位置していたかは不明ですし、作付られた面積もそれほど大きなものではありませんでした。勿論、農家の選定に当たって「風土記稿」の記述が参考にされた可能性はかなり薄いでしょう。因みに同じく「風土記稿」で大麦の産地として名が挙がっていた上大槻村は、同年に曽屋村と合併して秦野町となっていました。


ただ、神奈川県がビール麦の産地として名乗りを上げた際に、最初に作付に応じたのが高座郡と中郡(明治29年・1896年に大住郡と淘綾郡が合併)であったという点は、やはりこれらの地域が麦作には向いた地域として認知されていたと言って良さそうです。また、作付に応じた村々の名前を見ても、この2郡の比較的広い範囲が適作地であったことが窺えます。

もっとも、作付開始当初の実績はあまり思わしいものではなかった様です。

…実際に受渡された数量は中郡分は、予約の五〇〇石(一〇〇〇俵)を大きく下廻っていた。八月二十六日二宮駅、二十七日平塚駅で受渡の行われた中郡分は六二一俵(三二六石九斗余)であり、高座郡分は一〇七三俵(五五〇石七斗余)である。中郡で大きく下廻った原因となったのは、大根村についての格付についての記述などを通じて、ほぼ知ることができる。大根村の出荷は予約七五石に対して三五石にすぎなかったが、これは耕作者が品質の劣ったものは不合格になると考えて、自家で消費して出荷しなかったためだとしている。そのため出荷分中の二五石五斗は一等に格付けされている。

取引は一升重による格付けの上、容量(石)当たりの価格に差等をつけてあったが、なお耕作者の間には不満があった。「ゴールデンメロンは搗き減りが少ないので、自家用に好適であるだけでなく、目方が重いので石数取引では儲けが少ない。その上に品質検査を厳重にされたのではとても引き合わない」という言葉を引いて、取引に重量取引に近づくよう手心を加えたことを記している。

この両郡の出荷不足分は予約のなかった都筑郡より七七石余を買い入れてこの年の県農会と大日本ビール会社との取引を終えている。

(604ページより)


農家の側にとってもこうした契約が初めてのものであったからか、当初の条件は農家にとってあまり有利とは言えないものになっていた様です。とは言え、売却益の利幅は一般的な市場価格に比べて大分高額ではあった様で、翌42年からは県内の他の郡でも広くビール麦の作付が行われる様になったことを「秦野市史」は記しています。

大正時代に入ると契約先に横浜のキリンビールが加わり、ビール需要の増加に従って神奈川県内全域での契約栽培量も増加を見た様です。その頃はまだ中郡の作付は神奈川県内で突出したものとはなっていなかった様ですが、昭和に入ると飛躍的に作付が伸びてきます。

昭和に入ると四年以後また『県農会報』により資料が得られるようになる。県計でみると昭和四年の一万九五〇・五石に始まり、六年一万八七三九石、七年九〇二〇石、八年一万一六九三石、十年二万二五一九石、以後十三年までほぼこれを前後する額で、十四年には三万一三八二・五石となっている。中郡の昭和四年は三六一九石であり、対全県比率は三三パーセント、大正末年の契約高の三・六倍に増加している。その後の中郡の販売高の増加は六、七年にやや減少するが、十年に一万三九六九石となり、十三年までほぼこの水準でいき、十四年には一万七〇三三・五石となっている。県の合計に対する中郡の比率は十一年にもっとも高く六二・九パーセントであるが、七年以後常に五〇パーセントを超えている。大正期には中心産地とはいえなかった中郡が昭和十年前後からは神奈川県内における最大の産地となっているのである。…

中郡内の町村別数量は同じ資料では得られないが、『横浜貿易新報』に一年度の例がある。昭和九年八月二十六日号ののせるところである。一~三等級に分けて各町村の販売量をのせるが、中郡内一四町村合計は一万二二八石七斗、この年は県農会報の数字を欠くが、八年の中郡計六三四八石五斗と十一年の一万三四三二石五斗の中間年として信頼してよい数字であろう。八年、十年の平均九八九〇石五斗よりやや多い数字である。この年、現秦野市内旧六町村は、すべてビール麦を販売している。その合計は七六一五石五斗、郡計の七四・四パーセントにあたる。昭和四年以来中郡の販売量が急激に増加するなかで、郡計の三分の二を秦野地方で販売しているのである。この量は八年、十年の平均県産額一万七〇九三・五石に対して四四・六パーセントにあたる。県ビール麦販売額の四四パーセントを秦野地方で販売している。秦野地方六町村のなかにも販売量には差がある。郡計に対する比率の高い順に町村名と比率を示すと、東秦野村三二・ニパーセント、西秦野村一七・九パーセント、北秦野村一〇・ニパーセント、南秦野村一〇・一パーセント、秦野町六・九パーセント、大根村六・九パーセントとなる。最初にビール麦作付をした大根村が最下位となっている。

(607〜608ページより、…は中略)


大麦は当時もまだ米と共に主食の1つとして盛んに栽培されており、ここに記されているのは飽くまでもビール麦の契約栽培に限っての話ですが、そうした中で秦野盆地の町村がビール麦の栽培に特化していく傾向が見て取れます。かつての下大槻村を含む地域が比率の点で下位に沈んでいったと記されているものの、総量が伸びている最中のことであれば、作付が減ったというよりはより広域に展開されていったために相対的な順位が下がっただけでしょう。こうしたビール麦の作付が広まったことで、同地の麦畑の景観は他の大麦畑とは少し変わった景観になった様です。

在来種の通常の大麦が、穂につく実が穂の稈を中心に六方向に並んで着き、穂を上方から見ると六角形にみえる。この性質から六条大麦と呼ばれる。それに多くの品種が丈が短く、稈は太い。これに対してゴールデンメロン種は、相対する二列の実だけが結実し、他の四列は退化して実らない。穂の軸から二方向だけに実がつくので、その形から矢羽根麦などともいうが、二条大麦と呼ばれる。在来大麦より丈が高く、比較的稈も細く、穂に長いのげがあるので、風に揺れやすい。収穫高中のゴールデンメロンの比率が高いだけに、秦野地方の五月から六月にかけての時期には人目をひく作物だったのである。昭和五年の農業恐慌以後急激に作付面積が増えて、畑裏作の主要作物となったのである

(608ページより)


その後、北支事変に始まる戦争激化に伴って農業生産も食用増産に切り替えられて行くのですが、「神奈川県中郡勢誌」によれば、第二次大戦後に再びビール麦の契約栽培が始められ、戦前同様に盛んに生産されていた様です。

古くより各ビール会社と契約栽培が実施されていたが、最近に至り、換金作物としての有利性が認められ、四五〇町歩の作付で戰前を凌ぐ狀態である。昭和二十六年からは、朝日ビール会社に三、八一〇石(原石)日本ビール会社に六、四一〇石の契約が結ばれ、その他每年採種圃產種子一〇〇石内外を縣外に移出し、次第に神奈川のビール麦として認められつゝある。主なる產地は、東秦野村・西秦野村・南秦野町等で、中部山ろく地帶に作付が多く、麦総作付の約九%を占めている。品種は昭和二十六年よりG六十五号に一定された。

(上記書130〜131ページより)


もっとも、その後は高度成長期の市街化や他の地域の原料に圧される形で減産し、現在はその様子を見ることはなくなりました。

色々と引用が長くなりましたが、特に甘藷や大麦についてはこの地域の主力の作物として広い地域で後年まで生産が続けられていたことは確かです。「風土記稿」の大住郡の野菜・穀類の記述も、適作地の広がりを示唆したものとしては妥当なものであったと言えるでしょう。
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大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その4)

前回まで、3回に分けて「新編相模国風土記稿」の大住郡の産物で取り上げられた穀物や野菜について見て来ました。


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
今回取り上げている町村の位置(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの作物が何故「新編相模」で大住郡の、引いては相模国の産物として取り上げられたのかを考える上で、もう1点見ておくべき史料があります。「新編相模」の編纂に当たっては、まず各村々から「地誌取調書上」という村明細帳を提出させています。今回の一連の穀類・野菜に関連して名前の挙がった村や町のうち、「地誌取調書上」が伝わっているのは平塚宿のみですが、その文政8年(1825年)5月の書上には、

一土地相応いたし候産物無御座候

(「平塚市史2 資料編 近世(1)」74ページより)

と記されています。「新編相模」の大住郡の図説や山川編では甘藷・越瓜・西瓜を平塚宿の産物として記していますが、その平塚宿からは当初、同地の産物として挙げられるものはない、と昌平坂学問所に報告している訳です。従って、図説や山川編の平塚宿の産物の記述は、「地誌取調書上」よりも後の何らかの機会に、別途情報を得て付け加えられたものであったことになります。

無論、「新編相模」には「地誌取調書上」に記されたものがそのまま採用された訳ではなく、この書上を元に各村や町を地誌探索に巡回した結果も踏まえて編集が成されています。また「新編相模」の大住郡の項が記されたのは天保11年(1840年)と、「地誌取調書上」が提出されてから15年もの時間が経っていました。ですから確かに、その間に更に追記すべき情報を昌平坂学問所が現地から得ていた可能性は充分に考えられます。

とは言え、以前も取り上げましたが高座郡福田村の地誌取調書上である「地誌調御用内改帳」(文政7年・1824年)には

一土地相応之作物 里芋・麦作之類

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 784ページより)

と記されていたのに、「新編相模」では里芋や麦が福田村や高座郡の産物として取り上げられることはありませんでした。また、地誌取調書上以外にも、例えば前回取り上げた「楳澤志」で梅沢の名物とされていた越瓜(更には梅や鮟鱇)も「新編相模」では取り上げられていませんし、足柄上郡宮城野村の産物として地元が推していた蕎麦も、村の産物の中には名前が載ったものの足柄上郡の産物としては数え上げられずに終わりました。つまり、他の郡では地元が産物として考えていたものが「新編相模」上では必ずしも記されていない例が多いのに、大住郡の野菜や穀類については逆に地元から当初報告がなかったものを後から追記するという、逆の動きになっています。それでいて、その大住郡の産物として挙げられた個々の野菜や穀類には、それに足るだけの由緒などが存在したことを裏付けることが出来ず、一体どうしてこの様な郡による扱いの違いが生じたのか、なかなか説明し難い状況にある訳です。



こうした状況が生じた事情を考える上では、「新編相模」が成立するまでの経緯を考えてみる必要があると思います。そのためにはその編集過程で書かれたり集められたりしたものについて、更に関連する史料を集めて読み解くべきなのですが、現時点ではまだその様な史料を見ておりません。ですから、以下は飽くまでも現時点の私なりの個人的な推論に過ぎません。今後の調査に向けての差し当たってのまとめということでご勘弁下さい。

まず、「新編相模国風土記稿」の性質について2つほど確認しておくべきことがあると思います。1つは、「新編相模」の中では産物に関する記述は、残念ながら主要な項目と呼ぶには余りにも文量が乏しく、むしろ傍系に属する記述であったと言わざるを得ないことです。「新編相模」の中で最も紙面を割いて書かれているのは、各村や町の「由緒」に直結するものであり、各村の寺社もその延長線上で語られています。この目的のために、村々に伝わる文書や、寺社の数多くの由緒や宝物について記すことに多大な労力を振り向けており、それらの量が多い村や町ほど文量が増えるという結果になっている訳です。

その結果として、産物の様に傍系に属する事項の記述は相対的に薄くなってしまう傾向が避けられず、恐らく調査や記述のために必要な労力も村や寺社の由緒に関するもの程にはかけることが出来なかったことが考えられます。産物の由緒にまつわる文書があれば、例えば波多野大根の際の香雲寺の文書を転記するといった形で文量を増やすといった例も見られ、特記事項があれば必ずしも簡略に留めるというものでもなかったものの、実際は大半の産物の記述が一文で簡潔に示されるに留まっており、その生産の実態などについては他の史料を探ってみなければ明らかになることが乏しいのは、これまで延々と紹介してきた産物の例を見れば明らかと思います。

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歌川広重「名所江戸百景」より「昌平橋聖堂神田川」
昌平坂学問所は湯島聖堂に設置され
孔子の生地に因んでその名が付けられている
("100 views edo 046" by 歌川広重
- Online Collection of Brooklyn Museum.
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
もう1点は、「新編相模国風土記稿」の場合、その編纂に当たった昌平坂学問所は江戸にあり、津久井県を担当した八王子千人同心も八王子に本拠があった、という点です。つまり、基本的には相模国の「外部」の人たちが相模国の地誌編纂に携わったことになります。これは、「新編相模国風土記稿」や「新編武蔵風土記稿」の編纂の切っ掛けになった「新編会津風土記」の事情と比較した場合、「新編会津」は会津藩主が命じて編纂させたもので、当地を治めている藩が統治に必要な情報を書き付けた様々な文書を直接参照できる環境にあったのに対し、「新編武蔵」や「新編相模」の場合はそうした統治に携わっていた領主とは直接関係のない外部の人間が行っている関係で、その様な統治文書の類を直ちに閲覧できる環境にはなかったという違いがあります。実際、武蔵国にしても相模国にしても、それぞれの国内はこれらの地誌が編纂された江戸時代後期には、幕領の大半は旗本に細分化されており、一部の藩領を除くと国内を統括的に治めている領主がいない中で、それぞれの領地に赴いて不案内な地の地誌を探索していたことになります。

無論、八王子からは津久井県は隣接する地域に当たり、八王子千人同心にとっても比較的近接した地区の探索ではあった訳ですし、また鎌倉郡玉縄領の梅干について触れた際に、同地の渡内村の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りしていることを紹介しました。これらの例の様に相模国に多少なりとも縁があったり土地勘があった人が関わった例がなかった訳ではありません。しかし、全体としてみればこうした事例はむしろ例外的であったと見て良いでしょう。

さて、「新編相模」の成立については、以前より何度か紹介している首巻・凡例に記されている次の年代が1つ手掛かりになると思います。
新編相模国風土記稿相模国図
「新編相模国風土記稿」山川編に収録された「相模國圖」(再掲)

一高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首巻・凡例より、雄山閣版より引用)

これに従えば、大住郡は「新編相模」の中では淘綾郡ともども一番最後に手掛けられたことになり、その前には愛甲郡と足柄上郡・足柄下郡が手掛けられています。また、高座郡や三浦郡については大住郡の編纂と同じ頃に改訂が施されています。

このうち、足柄上郡と足柄下郡はその大半を小田原藩領が占めていたのに対して、他郡では旗本や相模国外の藩に細かく分掌された村が大半を占める地域が多く、比較的まとまった地域を一手に掌握する行政機関が足柄上郡と足柄下郡以外には存在していなかったという点が特徴と言えます。江戸時代初期には中原代官の様な地方を包括的に統治する組織もあったのですが、時代が下ると中原代官が解体されてしまい、所轄としていた幕領が旗本などに振り分けられてしまい、「新編相模」の頃には地域を俯瞰的に治める統治者がこれらの地域からいなくなっていた、という事情があります。大住郡の統治の移り変わりについては、平塚市博物館の「ひらつか歴史紀行」に図が掲載されています。


個人的には、こうした統治の実情の違いが「新編相模」の編纂に影響を与えた可能性があるのではないか、と考えています。小田原藩は以前漆について紹介した際に見た通り、「国産方」という地域の特産となるべき産品の開発に多大な労力を注いでいました。当然ながら、その過程で藩領内でどの様な産物が存在しているのかについては少なからず情報を集めていた筈で、藩を治める観点から有望なものを見極める作業も行っていたでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第2巻今井村御陣場跡図
雄山閣版「新編相模国風土記稿」今井村の御陣場図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
こうした小田原藩が統治のために持っていた情報を、昌平坂学問所がどの程度参照したのかを裏付ける史料はまだ見ていません。ただ、足柄下郡の部が成立したのと同じ天保7年(1836年)9月に、当時の小田原藩主であった大久保忠真の手によって、天正18年(1590年)の小田原戦役の際の徳川家康の陣場に石碑が建立されています(小田原市による紹介)。「新編相模」の今井村の項(卷之三十三 足柄下郡卷之十二)でこの陣場跡について絵図2枚と共にかなりの紙数を割いて紹介していること、そして建立の年と足柄下郡の部の編纂の年が符合するという事実からは、小田原の地誌編纂事業を目の当たりにして忠真も刺激を受け、家康の足跡を記念し世に広めるものを残すべきと考えた可能性を考えたくなります。そうであれば、忠真も昌平坂学問所の求めに応じて少なからず協力する様に指示を出していた可能性は高くなるでしょう。

そのためか、足柄上郡や足柄下郡の産物の記述には、それまでに完成されていた諸郡に比べるとかなり豊富な品名が並びました。これらの中には、蛤石など津久井県で見出されたものが手掛かりとなっていたと思われる品目もあるものの、寧ろ先行して提出された津久井県の産物を手掛かりに他の産物を探る上では、その地域に精通した人の手引が有効であった可能性もあります。山岳地帯では水田や畑を開き難い分、山で採れるもので生計を立てる村が多く、産物の多様さはそうした地形に根差した土地利用を反映した側面も少なくないとは思われるものの、各村からの報告をまとめる上では、より上位の統治機構である藩からの情報が大いに手助けになったのではないでしょうか。

こうした足柄上郡や足柄下郡の編纂を終えた後では、引き続き行われた愛甲郡や大住郡、淘綾郡の産物の一覧が当初あまりにも「貧弱」なものに見えたのかも知れません。このうち淘綾郡の場合は村数が極端に少ない上、土地が痩せているという認識が強調されていたので、産物の点数が少なくなるのも止むを得ないと考えたのかも知れません。しかし大住郡の場合は村数も多く、比較的広い郡域を抱えている上に、

土地平坦にして、西北の隅にいたりて山嶺あり、所謂大山・堀山等なり、されば村落をなすに便ありて、空閑の地少し、土性は野土黑眞土砂交れり、水田少く、陸田多し、水田、二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田、四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、

(卷之四十二 大住郡卷之一 雄山閣版より)

と、一帯の開墾が比較的早い時代に行われていたことを記しており、こうした土地の割に産物の記述が乏しいのは問題だと考えたのではないか、という気がします。そこで、改めて大住郡の幾つかの村に問い掛けをする機会を得て、その結果回答を得た品目を大住郡の一覧に書き加えたのではないでしょうか。

そういう目で見てみると、足柄上郡と同時期に編纂されていた愛甲郡についても、「新編相模」以外の記録がなかなか見出せない椎茸が記されており、その点に同様の傾向を読み取ることが出来そうです。但し、その愛甲郡田代村から提出された「地誌取調書上」(文政9年・1826年3月「愛甲郡田代村地誌御用取調書上帳」)には「蚕・麦・小麦・粟・稗芋」が記されていたのに、「新編相模」にはこれらは同村の産物として取り入れられておらず、この点では大住郡とは産物の扱いが異なっています。因みに愛甲郡には一部小田原藩やその支藩である荻野山中藩の藩領もありましたが、田代村は旗本領の1つでした。

また、既に完成していた高座郡や三浦郡、更に鎌倉郡についても同様の疑問が持たれたことから、多少手を入れようと考えたのかも知れません。しかし、こちらについては追加の調査はあまり成されなかったのか、また地誌取調書上を見返して一旦却下された産物を「復活」させることは考えなかったのか、結局福田村の様な例でも産物の記述が戻ることはありませんでした。一方、鎌倉郡の部については特に記述が分厚くなっていることもあってか、これ以上追記がなされることはなかった様ですが、それでも山川編の段階で更に何か付け加えようという動きがあり、その結果として「鎌倉椿」や「」が追加されたのかも知れません。

その結果、全体として見ると、相模国の産物の取捨選択の基準が郡によってまちまちになってしまったのではないかと思います。無論、それぞれの村々の中ではこれらの品目が比較的積極的に生産されていた可能性は高い見て良いのでしょう。しかし、その一覧を統一的な基準で整理されたものとするには、昌平坂学問所の立ち位置や、「新編相模」の編纂にかけられる労力のバランスの範囲内では、なお十分に吟味し直す余裕を持てなかったのではないかと思えるのです。

もっとも、他方では編纂に掛けた時間の長さから、担当者の世代交代が影響した可能性も考えてみる必要もありそうです。「新編相模」の首巻の凡例の終わりには、総勢で27人の名前が記されていますが、その一覧の前に

一本州編纂開局より竣功まて、前後事に預りしもの、年次に随ひ、其姓名を左に擧ぐ、

(雄山閣版より)

と記されていることから見ても、年次によって携わった人々が入れ替わっていったと見るのが自然でしょう。であれば、担当者によって産物の取捨選択の基準が変わってしまった可能性を考えることも出来ると思います。

また、「新編相模」に先行する「新編武蔵」でも、武蔵国内には川越藩・忍藩・岩槻藩といった藩が存在しており、特に川越藩は比較的多数の村々を所領としていましたから、これらの藩が「新編武蔵」の編纂に影響を及ぼすことがなかったのか、今後「新編会津」共々読み進める機会を持った暁には、そうした観点から「新編相模」と記述面の比較を行う必要があると考えています。この辺りは相模国の域外のことになりますので、着手するのはかなり先のことになりそうですが…。


次回、明治時代以降のこの地域の甘藷や西瓜、大麦の生産について記してまとめとする予定です。

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