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生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
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【史料集】「新編相模国風土記稿」愛甲郡各村の街道の記述(その6)

引き続き再開が覚束ない状況です。今回も以前から書き溜めていたものをアップしますが、そろそろ在庫が途切れそうです…。

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の愛甲郡の各村の街道の記述をまとめます。今回は、愛甲郡図説では触れられなかったものの、各村には記述が見られる道筋を中心にまとめます。

今回もストリートビューの埋め込みが多いため、本文は追記に押し込んであります。

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「七湯の枝折」の「馬酔木」と「遅さくら」

相変わらず諸々停滞中です。申し訳ありません。

前回に引き続き、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から、今回は残りの2つの植物を取り上げます。以下、「七湯の枝折」の引用は何れも沢田秀三郎釈註本(1975年 箱根町教育委員会)によります。

1.馬酔木


梅園草木花譜春之部「馬酔木」
毛利梅園「梅園草木花譜」より「馬酔木」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
いわゆる「アセビ」ですが、「七湯の枝折」では「あせみ」と訓じています。右の「梅園草木花譜」の絵の脇には、各種の本草系の書物での表記などが書きつけられていますが、「馬醉木」の表記を記している「和漢三才図会」には

馬醉木/あせぼのき/あせみ

阿世美/俗云阿世保

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より。一部改行を「/」に置き換え、適宜順番入れ替え)

と記されていますので、「七湯の枝折」もこの影響を受けたのかも知れません。「和漢三才図会」では「取りつなけ玉田橫野のはなれ駒つゝしかけたにあせみ花さく」という源俊頼の「散木奇歌集」(平安時代後期)の歌を末尾に収めています。

「本草綱目啓蒙」では中国での「梫木」という表記を表題に据えた上で

梫木

アシミ萬葉集 アセボ古今通名 馬醉木共同上 アセミ古歌仙臺 イワモチ同上薩州 アセビ枕草子𡈽州 アセモ江戸 アセブ播州豊前 ヱセビ勢州 ヨシミ筑前 ヨシミシバ同上 ヨ子バ豊後 アシブ雲州 ヒサヽキ大和本草 ドクシバ豫州 カスクイ備前 ヲナザカモリ丹後 ヲナダカモリ同上 テヤキシバ長州 アセボシバ越前 ヨセブ豊前 ゴマヤキシバ藝州 シヤリシヤリ城州上加茂

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、異名一覧の改行は省略)

と、地方の呼び名を多数列挙しています。因みに「本草綱目啓蒙」では「馬醉木」の表記を古今の通称としていますが、「梅園草木花譜」では「和名抄」にこの表記例があることを記しています。

また、「大和本草」では

馬醉木(アセボノキ) 葉は忍冬の葉に似たり又シキミのはに似て細也味苦く澀る春の末靑白花開て下にさがる少黄色を帶ふ微毒あり馬此葉をくらへは死す西土の俗は此木をヨシミシバと云

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、強調はブログ主)

と、「微毒」と言いつつも馬がこの葉を食べると死に至るとしています。これに対し、「本草綱目啓蒙」では

山中に五六尺の小木多し年久しき者は丈餘に至る葉形細長にして鋸歯あり柃葉に似て薄く硬し互生す冬凋まず春枝頂に花あり色白く綟木花の形の如し穂の長三寸許多く集り埀る後小子を生す又綟木子の如し若し牛馬この葉を食へば醉るが如し故に馬醉木と云鹿これを食へば不時に角解す又菜圃に小長黑蟲を生するにこの葉の煎汁を冷して灌く寸は蟲を殺す

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、書き込みは省略、なお「煎」の足は「灬」ではなく「火」の字が用いられているが、該当する字が表示出来ないため、異体字で置き換えた)

と記し、馬が酔った様になることから「馬酔木」の字が来ていることを記すものの、馬を死に至らしめるとは書いていません。そして、鹿がこの木の葉を食べると角が落ちること、この葉の煎じ汁で農園向けの殺虫剤を作ることが出来ることを記しています。

神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)では、県内の分布について次の様に紹介されています。

アセビ Pieris japonica (Thunb.) D.Don ex G.Don

小枝は平滑、葉は厚く縁にわずかに鋸歯がある。花冠は壺型、先は浅く5裂、葯には刺状の2個の突起がある。蒴果は扁球形。本州(宮城県以南)、四国、九州に分布。県内では箱根や丹沢のやや乾燥した山地に多く、箱根神山にはアセビ林を形成する所もある。低い所では「横植誌68」に横浜市旭区上川井の植林内に、高さ50cmくらいのものが1本あったと記しているが、今はみられない。また青葉区寺家町の尾根にも生えていたが、これも盗掘でなくなった。最近、公園、庭園、街路の植栽木として、利用が増えている。園芸種に花のピンクを帯びるベニバナアセビが栽培されている。有毒植物である。

(上記書1098ページより)


神奈川県のレッドデータブック(以下「県RDB」)ではアセビ自体は特に指定はされていません。国のレッドデータブックでは丹沢や箱根の「アセビ群落」が取り上げられているものの、県RDBでは「普通に見られる」としています。但し、「ヒメイワカガミ—アセビ群落」といった、アセビと他の植物との混群では群落の消滅が危惧されているものもある様です。何れにしても、神奈川県の山地ではそれほど珍しい存在という訳ではありません。「七湯の枝折」では、これも芦之湯に多いと記しています。

「和漢三才図会」では「多人家庭砌之以賞四時不ルヲ一レ」と、江戸時代初期にも賞翫目的で栽培する人が多かったことを記しているものの、アセビの用途については上記の様な書物にはあまり記載例が見当たりません。これに対し、「箱根細工物語 漂泊と定住の木工芸」(岩崎宗純著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版)には次の様に箱根の漆器製作時にアセビを使う事例が紹介されています。

さて、これらの箱根漆器は、用材の木目を生かした木地呂塗りという手法が用いられていた。この漆法については『明治九年調、湯本細工』で詳しく紹介されており。当時の技法を知ることできるので、紹介しておこう。

次ニ漆際(こくそ)ヲ以テ寄木面上ノ疵点(してん)ヲ精細ニ填補(てんぼ)シ、其乾定(かんてい)スルヲ()チ、薄ク(さび)を塗リ、一夜ヲ経テ白砥(はくと)及ヒ青砥ヲ似テ研キ、綿ニ一戻漆(もどしうるし)ヲ附着シテ擦漆(すりうるし)ヲ為ス、(かく)ノ如クスル事二回ニシテ蔭室(いんしつ)ニ入ル

次ニ刷子(はけ)を以テ薄ク木地呂漆ヲ塗り、一夜室中ニ入レ平面ヲ磨キ、尖角(とつかく)()キタル方一寸(ばかり)厚朴炭(こうぼくたん)ヲ以テ研キ戻漆ニテ擦漆ヲ為シ、()タ室中ニ入ル、之ヲ中塗トス

次ニ木地呂漆ヲ塗り、前ノ如ク室中ニ入レ、厚朴炭及馬酔木(あせび)炭ヲ以テ()キ、更ニ馬酔木炭ノ細ヲ[矛参]布(さんぷ)シ、其上ヲ布片ニテ擦過シ、房漆ニテ擦漆ヲ()シ、室中ニ入レ、綿ニテ菜油ヲ全面ニ抹シ、角粉ヲ[矛参]布シ布片ニテ擦過ス

既ニシテ光采煥発(こうさいかんぱつ)スルニ及ヒ、擦漆ヲ為シ、角粉ニテ研ク是ノ如クスル□□□□後、手掌ヲ以テ頻リニ擦過ス、之ヲ上塗トス、即チ第四図ニ於テ示ス所ノモノ是ナリ

(上記書116〜117ページより、ルビも同書に従う、カタカナ書き中に一部ひらがな混じるがこれも同書に従う、字母を拾えなかった文字については[ ]内にその旁を示す、強調はブログ主)


箱根の漆器生産については、以前漆についてまとめた際に取り上げました。その際に見た通り、箱根の挽物に漆を塗る様になったのは比較的遅かった訳ですが、明治初期の記事の中でこの様に漆を幾層にも塗り重ねていく途上でアセビの炭粉を使う技術が使われているのは、箱根山中に迎えられた塗師(ぬし)が齎したのではないかと考えたくなります。今のところそのことを裏打ちする史料は見ていませんが、熱海の漆器問屋から縁戚関係を組んで箱根に迎え入れられた徒弟が、熱海で使っていたものと同一の、もしくは類似の役目を果たす樹としてアセビを見立てた可能性はかなり高そうに思えます。

木地呂塗りでのアセビの利用例が他の地域でもあったのか、更には漆器製作一般にまで拡げて見た時にはどうかも興味を惹かれるところですが、「文化遺産オンライン」によれば、アセビやチシャの炭は「呂色炭」と呼ばれ、ツバキの炭と共に漆芸に用いられているとのことです。この辺りは熱海の漆芸について掘り下げる機会があれば、改めて検討してみたいところです。



2.遅さくら


一見、箱根にサクラの独自の種類があったかの様にも見えますが、「七湯の枝折」の記述には「大てい芳野多し」と記されていますから、基本的には平地と同じソメイヨシノなどが優勢であったということでしょう。「芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす」つまり、芦之湯の辺りでは標高の関係で開花時季がやや遅く、花も小粒になると言っている訳です。因みに「七湯の枝折」では芦之湯の入口に桜の木が数本植えられて、その傍らに制札が立てられていたことが記されています。

浴室ハ市中ありて仙液の額をかけたり書ハ日本医道の長たる半井候の筆意を震ふ一棟四壺の湯あり両側ハ皆湯宿にして凡二丁はかり所せきまで軒をきしり厦を高ふす町の入口にハ大やかなる石畳して数株の櫻を植是か傍らに領主よりの制札をかけあがむ湯主六軒其戸数あまたありて酒をかもし蕎麦をのはし野菜をひさぎ魚を商ふ髪結床紙るい呉服土弓場あり

(上記書49ページより、強調はブログ主)


以前何度か紹介した松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」では、天保5年に芦之湯の桜を見掛けて、次の様に記しています。

(注:四月)三日 陰。崇朝(すうちょう)、山輿(六百文)に乗り、蘆の湯と(こまがたけ)(ふたごやま)との間を過ぐれば、桜花は山に満つ。

四日 …

◯宮下温湯を発し、山興に乗り、蘆湯を経れば、桜花は山に満つ。まことに(かん)春なり。よって一首を口号(こうごう)す。この日にこれを録す。

吾は春の返る処を疑いしが、春は箱根山に返れり。四月の駒(嶽)攣(山)の際、桜花は(らん)として(よう)雲のごとし。千万樹を俯仰すれば、黄鳥はまさに綿蛮(めんばん)たり。五月はなお掩滞(えんたい)し、六月は岳蓮の(てん)。岳巓は花を見ず、春服は完くして羞澀(しゅうじゅう)す。八月は平地に下り、九月は(ようや)枯拉(ころう)す。十月は淵泉に臥し、(かい)(したが)って孚甲(ふこう)を養う。(しょう)として端倪(たんげい)を見ず、粛殺(しゅくさつ)六合(りくごう)(あまね)し。これより春はいずこにか在る、春は東風に向って立つ。閲暦の卦年翁、真実に春法を看る。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 87〜88ページより、ルビも同書に従う、…は中略)


4月3日に桜を見掛けた際に漢詩をそらで(そら)んじて詠んだものを、翌日に思い返して書き留めている訳です。東洋文庫版ではこの漢詩を読み下した状態のものを、一字下げて掲げています。和暦の天保5年の4月3〜4日は、グレゴリオ暦に直すと1834年5月11〜12日に当たります。桜が「山に満つ」と表現していますから、必ずしもソメイヨシノではないかも知れませんが、何れにしても平野部の花期よりは遅めの時期であることは確かです。そして、平地よりも遅れて咲いた桜を見て、春が帰っていった先はどこだろうと思っていたら箱根の山だった、と詠んでいる訳ですね。

また、「七湯の枝折」の「芦之湯」の項には次の様な記述があり、高所であることの他に風当たりの強い場所であることも、桜を始めとする木々の枝振りに影響を及ぼしていることを記しています。

◯此地深山のならひとて寒気つよく風つねに烈しけれハなへての雑樹そたちえすこせて櫻なとハ枝ぶり柘なとのことく甚た雅なる木ふりなりまた弁天山の下あじか池の汀ハ芒々たる萱野にて春の比ハわらひつくつくしすみれ等そこかしこに生し療客の心を慰む此所を芦の湯といふハ権現の下の湖水を芦のうみと号く其近きほとなれハ此名あるなるべし芦の湯又早川の庄なり

(上記書50ページより)


これは桜以外にも、先日取り上げた「米つつじ」の生育環境にも重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

最近はネット上でサクラの開花時季が速報される様になったため、場所による開花時季の違いを比較するのも容易になりました。こちらのサイトで取り上げられている箱根山中の各スポットのうち、一番標高が高そうなのは芦ノ湖畔の箱根恩賜公園ということになりそうですが、麓の入生田・正眼寺、更には大平台辺りでは見頃を3月下旬から4月上旬としているのに比べ、箱根恩賜公園では4月中旬から5月上旬と、確かに麓よりも1ヶ月近く見頃が遅くなっています。芦之湯は芦ノ湖畔よりも更に標高が高い場所に位置していますから、花期はそれよりももう少し遅くなることになるでしょう。



こうして見て行くと、「七湯の枝折」で取り上げられている植物のうち、特に花を愛でるものは、以前取り上げた釣鐘つつじ米つつじ、更にはうめばちそうも含め、何れも芦之湯に縁があることに気付きます。芦之湯は箱根七湯の中では最も標高が高いことも関連しているでしょうが、更に米つつじやアセビの様に風が強く吹き付けたり、芦之湯周辺独自の生息環境に育まれている植物であるために、平地では比較的珍しいものが多いことが関係しているのかも知れません。「風土記稿」の「蘆野湯」の項には

此地は山中高衍にして、常に風烈しく、草木繁茂せず、

(卷之三十 足柄下郡卷之九 雄山閣版より)

と記されているものの、そういう環境の中でこそ生息域を見出している植物も存在している訳です。

2015年に閉鎖されてしまいましたが、芦之湯に箱根町がフラワーセンターを設けていたのも、こうした由緒と無関係ではなかったのではないかと思います。
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「七湯の枝折」の「産物」から

前回、「新編相模国風土記稿」の箱根の温泉村の記述に、「七湯の枝折」の影響が窺えることを紹介しました。折角なのでこの「七湯の枝折」に掲載された箱根の「産物」を、「風土記稿」同様一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」にも記述があるものについては「◯」を記してあります。既に別の記事で取り上げたものもありますが、今後「風土記稿」の産物を取り上げる際に改めて「七湯の枝折」も参照しながら紹介することになると思います。なお、「山川編」あるいは足柄下郡の図説のどちらかで取り上げられていれば「◯」としましたが、箱根を産地としないもののこれらの一覧に含まれている産品については括弧付きで◯を付けました。

Umebachisou.JPG

ウメバチソウ(Wikipediaより)
こうして見ると、「七湯の枝折」で取り上げられた産物のうち、主要なものは「風土記稿」にも採録されているものの、あまり代表的なものとは言えないものについては「風土記稿」では割愛されたと見て良いでしょう。例えば「一輪草」つまりウメバチソウ自体は箱根に限らず日本の山間でも比較的普通に見られるため、「風土記稿」では箱根の産物としては除外したのではないかと思われます。もっとも、「七湯の枝折」のこの産物一覧の特徴として、「太布」「すね当」あるいは禽獣類など、自然や風物に属するもので必ずしも部外に移出することを意図しているとは考えられないものも多数含まれているので、こうしたものは「風土記稿」でいうところの「産物」には当たらないと判断されて除外されているのかも知れません(はその点では「風土記稿」でも取り上げられたのはかなり異例ではあった訳ですが)。

また、「風土記稿」の産物の並びが当時の本草学で使われていた諸物の並べ方に概ね従っていたのに比べると、「七湯の枝折」の産物の並びはあまり整理されていません。特に主要なものを取り上げた前半部分はほとんど順不同といった風情になっています。以下の表では順序は整理せず出現順に並べてあります。

以前紹介した「山椒魚」がその冒頭に来て記述も特に長くなっていること、絵図が比較的大きく配置されていることから考えると、この「七湯の枝折」自体が箱根の温泉宿に訪れた上客に閲覧させて楽しませることを前提に作成されたことを示しているのかも知れません。「くさめくさ」の何とも奇妙な紹介も、その点では「山椒魚」のやや俗な感じと対をなすものと言えそうです。他方、「柴胡」は既に何度か取り上げた通りですが、他にも「石長生」「箱根蛇骨」など薬用を意識して効能を記しているものが幾つか含まれており、箱根が元来「湯治場」であることを思い起こさせられます。鹿の胎児が取り上げられているのもその一環と言えるでしょう。

その他、茶道の生花に用いる「鉈袋」が取り上げられていたり、その鳴き声から和歌の季語にもなっている「かしか蛙(カジカガエル)」が紹介されているなど、様々な興味を掻き立てられるものが含まれている一覧である様に思います。

「七湯の枝折」産物の図2「七湯の枝折」産物の図1
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色(沢田秀三郎釈註書より)

品目記述風土
記稿
関連
記事

䱱魚図
又山椒ノ魚とも書く
註4黒魚(さんせううを)

小児五疳の妙薬なり功能世人の知る所なれバ略之但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ此魚のとれる比ハ弥生の末よりう月はしめ比をさかりとす其ある所ハ溪谷清水の流れに住む或ハ丘にもあがり木なとにも登る是をとるに法あり大かた小雨降る夜なと松明をともし身ニハ蓑かさうち着て扨溪川の岩間に右の松明を本のえた杯に立かけいかにもしつかに身をひそめおれバ松明のあかりに付て魚集りよるとそ其時石をとりのけ手つらまへにして竹の筒に入れ持帰る也此竹筒といふハ節一つをこめて切りロヘ少さく穴を穿ち是へせんをさし置也右とりたる魚ハ塩をふりかけて殺し日に干し乾すなり此魚当山ニとるを地魚と唱へて形大キク功尤よろし又大山辺にてとるを旅魚とて形少サく功も又うすし求る人よくよく弁ふべし

1/2

筥根草ノ図
石長生(はこねさう)

筥根山中に生すすへて湿瘡るいニ此悼を煎じて蒸しあらヘバ邪毒を去りかわかすとぞ茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく至て美事也是をすきや箒木に結ハせて用るに甚タ雅なる者也

1/2

一輪草図
又梅草梅花草ともいふ芦の湯に限り生す
(うめばちさう)

此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら(コト)ことくかゝえひらく但し秋草にて仲秋の比をさかりとす近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也

明礬
芦の湯明凡山より出ル

芦の湯明ばん山の半腹に明ばんわき出ル所あり其近辺の小石ニ花のごとくまとひ付てあり色ハ少し黄にして青白こもこも交り其製別に出ス

1/2

釣鐘つゝじ

枝葉ハ常の註5躅躑のことく花形つりかねのことく皆下に向てひらく是も又芦湯ニ多し

筥根蛇骨(硅華)

底倉より多く出ル功能血をとゝめ湿瘡なとに麻油ニて解付てよしとす

湯の花
芦ノ湯産也

他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく

山梨
筥根山の産なり

是を塩ニつけて貯ふニよく酒毒魚毒ヲ解ス或ハ註6硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也

木葉石
色赤し姥子ヨリ出ル

他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

虎班竹

筥根山中生ス是太細ありといへとも大概烟管竹位のふとみなり甚奇竹也

鉈袋大小あり

藤かつらにてあみたるものなり樵夫是ヲ腰ニつけて鉈をいれ山路を往来ス茶人此中へかけ筒して花活ニ用ゆ甚タ雅也

くさめくさ

是ヲ干してもみ鼻ニ入るゝにくさめ出ること妙也

砥石袋

樵夫の具也繩ニてあみたるもの也

太布(タフ)

猟師の着物也藤にて織れるもの也是を着して山ニ入るに茨棘も通す事あたわず至て丈夫なるもの也染色大てい鼠多し

すね當

猟師の用るもの也右の太布打着し上ニすねの所へ是ヲつくり観世より又ハ熊の皮ニて作る

◯植物類

註7[酋阝]躅

明ばん山ニ多く生ス

馬酔木

あせみといふ葉ハ茶の葉のことく花ハ至て白く花ひら五ツあり芦の湯辺殊二多し

遅さくら

芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす大てい芳野多し

◯薬品類

細辛/柴胡

筥根山中より出ル功能謄疾をのそく薬店是をかまくら柴胡といふ

1/2

胡黄連

味苦く小児疳症註8驚風を治す

(後日注:「せんぶり」のこと)

神代杉

千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

火打石瓦

宮城野辺より出る石質かたく色黒し火の出る事常の石より多しくらまの火打石卜同物也

◯魚虫類

鱒魚

箱根湖水より出ル他国より大キクして味ひよろし

腹赤

同断

()

かしか蛙

堂ケ島の谷川ニアリ其声ひぐらしのことし

ほたる

底倉尤よろし形大キク光至てつよし

(◯)

()

◯禽獣類

鶯 時鳥 雲雀 山鴫 鹿 猿 兎 鷹

右之類いつれも沢山なり取わき鹿の註9腹篭ニ上品あり

◯野菜類

秦の大根

秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(◯)

註10狗脊

筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

1/2/3

同じく宮城野辺多し

1/2/3

「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 (1975年 箱根町教育委員会)68〜72ページより、くの字点は適宜置換え、字母を拾えなかった漢字については[]内にその旁を示す

[註]:何れも同書より

  1. 黒魚(さんせううを))とあるは後人の補筆なり。以下(石長生(はこねさう))(うめばちそう)(桂華)も同じ。
  2. 躅躑=躑躅(つゝじ)。
  3. 硯ぶた=口取りざかなを盛るひろぶた。
  4. [酋阝]躅=躑躅(つゝじ)。
  5. 驚風=小児脳膜炎の類。
  6. 腹篭=胎児の意で薬用に供すか。
  7. 狗脊=ぜんまい。

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「七湯の枝折」の一輪草(うめばちそう)

なかなか復帰に向けて状況が改善しませんが、差し当たり書き上げたものをアップします。

「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から、前回は「米つつじ」を取り上げましたが、今回は「一輪草(うめばちそう)」を取り上げます。


「七湯の枝折」産物の図2
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色
右側に「一輪草(うめばちさう)」
(沢田秀三郎釈註書より・再掲)
「七湯の枝折」の産物の図では、山椒魚箱根草に続いて「一輪草(うめばちさう)」が挿画とともに紹介されています。その挿画の大きさも「山椒魚」や「箱根草」と同等のものとなっており、以降の産物についてはもっと小振りな挿画になっていることから、それだけ当時の箱根では注目されるべき草花と考えられていたことが窺い知れます。但し、この花が見られるのは「芦の湯に限り生す」と、箱根七湯の中で最も標高の高い(標高850m前後)場所に位置する芦之湯のみであることが記されています。

もっとも、「近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也」と記していることからは、この花が箱根だけではなく、他の地域でも賞翫されていたことが窺えます。以下で引用する「大和本草」の記述も、そのことを裏付けています。

Anemone nikoensis 5.JPG
イチリンソウの花
(By Qwert1234 - Qwert1234's file,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
Umebachisou.JPG
ウメバチソウの花
GFDL, via Wikipedia

ただ、気になるのはその表題に「一輪草」という表記と「又梅草梅花草ともいふ」あるいは「うめばちそう」という表記が共に記されていることです。確かに「イチリンソウ」と「ウメバチソウ」の花は御覧の通り大変良く似ていますが、現在ではこれらは別の種の植物であり、更には植物分類上も別の科に属していることが知られています。従って、「七湯の枝折」のこの表記を、現在「イチリンソウ」あるいは「ウメバチソウ」として知られている植物と、どの様に関連付けて解すべきかが課題と言えます。


そこでまず、「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)から「ウメバチソウ」と「イチリンソウ」の記述を抜き書きしてみます。

  • ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb.(上記書798ページより)

    花茎は高さ10〜15cm、葉は円い心形で円頭、花は9〜11月、白色、仮雄しべは15〜22裂する。北海道、本州、四国、九州、東北アジアに分布、県内では丹沢、箱根の草原や湿地に生える。かつては丘陵地にも生えていたようで、古い標本では、川崎市多摩区登戸(1951.8.26 大場達之 KPM-NA0020550)、青葉区鉄町(1953.9.27 出口長男 KPM-NA0081124)、横須賀市須軽谷(1966.10.7 小板橋八千代 YCM10406)がある。また1984年に横浜市港南区舞岡町の谷戸(標高70m)で生育地が確認された(田中徳久 1911 FK(30): 301)。中山周平(1998 柿生 里山今昔 朝日新聞社)は1946年10月に川崎市の柿生(片平の中提谷戸)で写真撮影やスケッチをしたが、そこは1996年に学校建設により消滅したと記している。「神植目33、神植誌58、宮代目録」では低地の生育地に横浜や大船をあげている。県内の低地に分布していたものは絶滅したものが多く、「神奈川RDB」では減少種とされた。

  • イチリンソウ Anemone nikoensis Maxim.(上記書698ページより)

    根茎は横にはい、所々少し肥厚する。根生葉は長柄があり、1〜2回3出複葉、小葉は長さ2〜5cm、根生葉を出さない根茎の先に花茎を立てる。総苞葉は有柄で1回3出する。花茎は20〜30cm、花は1個、萼片は5個、早春に現われ、初夏には枯れる早春季植物。本州、四国、九州に分布、林縁や林床に生える。県内では丹沢、箱根、三浦半島を除く地域では広く分布するが少ない。


ウメバチソウ、イチリンソウの分布図はそれぞれの記述の次のページに掲載されています。これらを見ると、ウメバチソウの場合は箱根・丹沢・三浦半島に分布を示す記号が付けられているのに対して、イチリンソウの場合は丹沢・箱根には分布を示す記号が付けられていません。こうした現在の分布からは、箱根で見られるのは「ウメバチソウ」の方であって「イチリンソウ」ではない可能性が高くなります。

箱根町のサイトでも「ウメバチソウ」は紹介されていても「イチリンソウ」は紹介されていません。その他、箱根の植物をまとめた幾つかの書物でも、「ウメバチソウ」は掲載されていても「イチリンソウ」が掲載されているものは探した範囲では見当たりませんでした。江戸時代まで遡った時には「イチリンソウ」が生息していた可能性を完全には排除できませんが、これらの地域に過去にイチリンソウが生息していたことを裏付ける史料は今のところ見当たらないので、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちそう)」は「ウメバチソウ」の方を指している可能性の方が高いと考えておくのが妥当でしょう。

そうなると、江戸時代には「ウメバチソウ」や「イチリンソウ」はどの様に認識されていたのか、「七湯の枝折」上でだけ混用されていて、当時の人たちにもこれらが別の植物であったことが良く知られていたのか、それとも当時の人々には両者の違いがあまり理解されていなかったのかが疑問点として浮かんできます。この点を考えるのは容易ではありませんが、差し当たって幾つかの本草学の文献に当たってみることにしました。

まず、「大和本草」にはこの2つの植物についてそれぞれ次の様に記されています。磯野直秀氏によれば(リンク先PDF)、この「大和本草」が「うめばちそう」について記された初出ということになる様です。
  • 梅バチ(卷七)

    小草にて花白し好花なり盆にうへて雅玩とすへし花のかたち衣服の紋につくるむめばちのことし叡山如意カ嶽にあり攝州有馬湯山に多し俗あやまりてこれを落花生と云落花生は別物なり

  • ()(卷七)

    葉はツタに似て莖の長二寸はかり冬小寒に始て葉を生じ立春の朝花忽ひらく一莖に一花ひらく花形白梅に似たり夏は枯る他地に植ふれは花の時ちがふ

(何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名・地名を除いてカタカナをひらがなに置き換え)


ここでは「一花草(いちげそう)」という名称になっていますが、その解説の内容から見て現在のイチリンソウを指すと見て良さそうです。どちらも梅に似た白い花をつけるものの、花期が異なることを記しています。「梅バチ」は比叡山や有馬温泉に多いとしていますが、関東の分布について触れられていないのは著者の貝原益軒が基本的には西で活躍した本草学者だったからかも知れません。

注目されるのは、どちらもその欄外に「和品」と記されていることです。実際はウメバチソウは日本以外でも北半球に広く分布していますから、必ずしも日本の固有種ではない筈なのですが、益軒としては漢籍にこの植物に該当する記述を見つけられなかったということになるでしょうか。他方のイチリンソウの方は本州・四国・九州に分布しており、こちらは日本の固有種です。

一方、「和漢三才図会」には「梅鉢草」の項があり、そこには次の様に記されています。

梅鉢草(むめばちさう)

俗稱(  )本稱未詳

今以梅花衣服之文ンテ梅鉢故名

△按梅鉢草四五寸葉略團厚少シテ而靑色帶ミヲ三月開白花單葉ニシテタリ梅花風樓草夏雪草梅鉢草一輪草之花皆似タリ一輪草葉似風樓草葉三月開單白花

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


ここでは「一輪草」と花が良く似ていることが記されています。言い換えれば、著者の寺島良安も「梅鉢草」と「一輪草」が別の植物であることを認識していたことになります。しかし「和漢三才図会」にはこの「一輪草」に該当する項目がありません。「一輪草」については「梅鉢草」の項目の末尾に簡略に示されているのみということになります。そして、「本称未詳」と記されているということは、「和漢三才図会」が手本とした「三才図会」は勿論、それ以外の漢籍、つまり中国の文献に該当するものを見出せずにいたことを示しています。

これら2つの書物の記述からは、江戸時代初期には既に「うめばちそう」と「いちりんそう」が、それぞれ秋と春に花をつける別の植物であることを識別していたことが窺えます。但し、「うめばちそう」が漢籍に該当するものがない、あるいは該当するものが見つからないでいるという見解をもっていたことになります。「七湯の枝折」でも「但し秋草にて仲秋の比をさかりとす」と記しており、その特徴からはやはり「うめばちそう」と呼ぶべき植物であったことになります。

これらに対し、「大和本草」や「和漢三才図会」よりは時代が下る「本草綱目啓蒙」では、ウメバチソウに該当しそうな項目を見出すことが出来ません。イチリンソウに該当しそうな項目としては、訓に「大和本草」でも取り上げられた「いちげそう」を含んでいる次の項目を挙げることになります。実際、イチリンソウが「本草綱目啓蒙」に掲載されているとしている植物図鑑のサイトも存在しています。

佛甲草

總名マン子ングサ ツルレンゲ イツマデグサ ステグサ丹波 イハマキ同上 ノビキヤシ雄泉州/雌大和本草 子ナシグサ雄大和本草/雌勢州 ハマヽツ雄紀州播州/雌豫州 イミリグサ雄豊後/雌豊前

雄名イチゲサウ大和本草 テンジンノステグサ藝州 ステグサ紀州 シテグサ豫州 ツミキリグサ筑前 チリチリ南部 タカノツメ勢州龜山 ホットケグサ同上山田 ホトケグサ同上内宮 子ナシカズラ和州 江戸コンゴウ防州 ミヅクサ阿州 セン子ンサウ讚州 ヒガンサウ泉州 マムシグサ伯州 イハノボリ同上 ナゲグサ越後 マツガ子江州彦根 カラクサ同上守山

雌名イチクサ三才圖會 マンネンサウ同上 コマノツメ勢州 イチリクサ津輕 フヱクサ秋田 コヾメグサ防州

路旁陰處林下水側に多く生す雄なる者は苗高さ六七寸叢生す葉細くして厚く末尖り長さ八九分黃緑色三葉ごとに相對す莖を切り捨て枯れす自ら根を生す四五月梢に花を開く五瓣黄色大さ三分許多く枝に盈て美し苗は冬を經て枯れず

(後略)

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種命以外のカタカナをひらがなに置き換え、書き込みは原則省略、強調はブログ主)


もっとも、この「仏甲草」については中国語では「マンネングサ」を指すことになる様なので、小野蘭山がこの項に日本国内で見られる、そして「大和本草」が指摘する「いちげさう」を宛てた点については少なからず疑問の余地があります。その様なこともあってか、イチリンソウを「仏甲草」と表記した例は今のところ他に見出すことが出来ません。実際、黄色の花が咲くとしている点もイチリンソウの特徴とは合っていません。また、雄花と雌花がある様にまとめているなど、この項目での「いちげさう」以外の日本国内各地の和名のまとめ方についても、果たしてこの通りに解して良いかは検証が必要と思います。

「畫本野山草」より「一里ん草」
橘保國「畫本野山草」より「一里ん草」(右)
次のページに解説があり
「梅花草」と似ていることが記されている
但し「梅花草」は「畫本野山草」には採録されず
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
因みに、江戸時代初期の花譜である「花壇地錦抄」(伊藤伊兵衛(三之丞) 元禄8年・1695年)には、「うめばちそう」と思われる項目は掲載されていないものの「いちりんそう」については

一りん草 花しろし小草なり一本ニ一りんつゝ花咲

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、合略仮名は仮名に展開)

と記されており、「大和本草」の記述ともども江戸時代初期にはその存在が知られていたことがわかります。

こうして見て行くと、江戸時代には「うめばちそう」と「いちりんそう」を、花期の違いで識別するだけの知見が存在していた可能性の方が高そうです。とすると、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちさう)」という表記の混乱は、箱根山中での呼称一般に生じていたものが反映し、それを後で訂正したものか、あるいは「七湯の枝折」上でのみ表記を取り違えたことになりそうです。ただ、実際はそのどちらであったのかは、まだ明らかではありません。箱根について、特に芦之湯について書き記された他の史料に、この植物が登場する例があるかどうかを探す必要があり、今後の課題ということになります。

箱根七湯志より梅草
「箱根七湯志」より「梅草一名一輪草」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
コントラスト強調)
なお、幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)には「うめばちそう」について

梅草一名は一輪草ともいへり莖一つに花一つなり形花梅花のごとし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と記した上でうめばちそうの線画を載せています。しかし、この線画は「七湯の枝折」の挿画と良く似ており、恐らく「七湯の枝折」を参照して筆写したものと考えられます。線画周囲の空白の大きさからは、永好自身がウメバチソウを見ていれば何らかの追記が試みられたのではないかとも思われるものの、彼自身がこの花を見ることは叶わなかったのかも知れません。

「ウメバチソウ」については現在は神奈川県の2006年版レッドデータブック上で絶滅危惧ⅠB類に指定されています。県内で見掛けるのはますます難しい花になりつつあるのは確かな様です。

ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb. (ユキノシタ科)

県カテゴリー:絶滅危惧ⅠB類(旧判定:減少種 V-H)

判定理由:神植誌88および2001の調査では14地域メッシュで採集された。このうち11地域メッシュからは1995年以後の確認がない。地域メッシュ単位で79%の減少と考えられる。定量的要件Aより絶滅危惧ⅠB類と判定される。

生育環境と生育型:湿地や湿った草地に生える多年草

生育地の現状:不明

存続を脅かす要因:自然遷移、草地開発

保護の現状:県西のものは国立公園、国定公園、県立自然公園内

県内分布:(横浜市青葉区、相模原市緑区、箱根町、秦野市、南足柄市、川崎市多摩区、山北町、横須賀市、湯河原町)

国内分布:北海道、本州、四国、九州

(上記書103ページより、県内分布については地域を示す記号を市町名に置き換え)

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