「神奈川県」タグ記事一覧

「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。

小浜藩主の居城であった小浜城址の位置
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。
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短信:片瀬市民センターの江島弁財天道標が移設された様です

取り急ぎ、備忘のために記録しておきます。

昨日、twitter上で全部假的さんと、こんなやり取りをしました。














片瀬市民センターの弁財天道標については、以前江島道を取り上げた際に紹介しました。ストリートビューでも何とかその存在が見えるかどうかという状態が物語る通り、駐車場の奥に置かれた道標は、予めその存在を知らなければ見逃し兼ねないものでした。


大源太公園の位置
一方、大源太公園の辺りには、こちらの記事で説明した通り、かつては境川を渡る「石上の渡し」がありました。「江島道見取絵図」を見ると、江の島に向かって左手に道標が置かれていたのに対して、大源太公園は右手に当たりますので、完全に同じ位置とは言えませんが、かつての道標が存在した場所に近い所を選んで移設されたと言えそうです。

一昨年暮頃には、藤沢市役所で保存されていた弁財天道標が藤沢橋の近く砥上公園に移設されました。今回の道標の移設もその一環で、かつての江島道を歩く人たちの目になるべく触れやすい場所に設置し直す意図がある様です。

現場を自分の目で確認する機会がなかなか得られませんが、何れまたストリートビューが更新されて、大源太公園の道標の最新の状況が反映されると思いますので、その際に改めてこちらに反映する予定です。
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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)
所在地の住所は逗子市沼間1丁目
(「Yahoo!地図」より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。
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生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
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【史料集】「新編相模国風土記稿」愛甲郡各村の街道の記述(その6)

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