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「津久井県北部の柏皮」補足:三浦半島の漁網染め

相変わらず、定期的なブログ更新がままならない状況にあります。図書館にもロクに出掛けることが出来ずにいるので、限られた文献を借りて来て少しずつ読み込むことしか出来ていませんが、今回は、そんな文献の中で以前書いた柏皮の記事について示唆的な記述を見つけたので、備忘的に補足を行います。


これらの記事の中で、津久井県で産出するカシワの皮が、荒川番所を経て相模川経由で相模湾に下ったり、八王子を経て房総半島方面へと運ばれ、漁網の防腐のためのタンニン染料として用いられていたことを紹介しました。ただ、相模川を下った柏皮が相模湾沿岸や相模国の東京湾沿岸の漁村で利用されていたことを具体的に示す史料などを提示することは出来ませんでした。

今回、別件で以下の文献を読み進めていたところ、三浦半島のとある漁村での柏皮の利用例を確認出来ました。

  • ものと人間の文化史106 (あみ)」 田辺 悟 著 2002年 法政大学出版会

この「第Ⅱ章 網漁具の種類/5 網具の保存法」で、著者が地元の網元にヒアリングした調査結果が紹介されています。この網元は大正10年(1921年)生まれの三浦郡鴨居村(現:横須賀市鴨居)の人ということで、浦賀に隣接する東京湾側の漁村の人ということになります。ヒアリングの時期については記されていませんが、「網漁を主に今日に至っているが、最近は漁獲量が減少したため、沖に出ることはほとんどない。」(88ページ)と記しているところから見ると、この本の出版年からさほど遡るものではない様です。

そのヒアリング結果の中で、漁網の染料については次の様に記されています。

漁網を染めるための「渋液」(染料)には各種あるが、わが国では化学染料が普及する以前には、カシワ・ナラ・クリ・シイ・クヌギ等の樹皮を煮出したものや、渋柿の実を掲きくだいて採った柿渋その他にカンバ・ブナ・ハリノキ(赤楊)・ヤマモモ・ノグルミ樹の皮およびハマナシ(玫瑰)の根を用いることもあった。

私の住む三浦半島一帯ではカシワが最も一般的に用いられていたため、カシワギで染めるための小型の専用の槽(フネ)があり、この漁網を染めるフネ(海に浮かべて使用するものではなく陸上で水や湯を入れて使用する箱形のもの)を「カシャギデンマ・カシワギテンマ」と呼んできた。

上述の話者、斉藤新蔵さんによれば、昭和五年から六年頃、まだ一四〜一五歳の頃、網元であった話者の家では、漁網を染めるために、観音崎周辺の山に出かけてカシワの樹皮を持ち帰り、餅掲き用のウスとキネを用いてカシワの皮を掲いてこまかくしたものを布袋に入れ、それをオケ(四角い箱形のフネ)に加えた湯の中につけて色を出す。こうするとタンニン成分が出るので、網をその中につけて染めたという。

(上記書91〜92ページより)


また、93ページには「カシワギブネ(柏木舟)」の写真が掲載されています。これは『三浦市城ケ島漁撈用具コレクション図録』(三浦市教育委員会編 1988年)に掲載されているものとのことで、横160cm×縦75cm×高さ32cmの外寸から、各面の板の厚みはわかりませんが恐らく300ℓ程度の容積を持つと思われ、この槽に収まる程度のサイズの漁網を染めていたことも窺えます。勿論、この場合の「フネ」は「湯舟(ゆぶね)」と言う場合の「フネ」です。

私が捜した文献もまだ微々たるものではありますが、それらの中では差し当たっては上記2例が相模国の柏皮の利用実績を示す事例ということになります。勿論、これだけでは当時の柏皮の流通や使用の実情を理解する上では十分とは言えませんし、特に上記の事例が江戸時代まで遡ると言えるかは不明ですが、幾つか気が付いた点を書き留めておきます。

鴨居村周辺の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
観音崎は鴨居村の東側、西側には浦賀湊が位置する

このヒアリングでは、柏皮を観音崎周辺の山で入手したとしています。しかし、明治時代初期の迅速測図では、観音崎周辺の土地利用は「松」とされており、以後の地形図でも針葉樹林の地図記号が目立ちます。カシワの様な広葉樹林が優勢であった様には見えません。迅速測図の作成された明治時代初期の土地利用が必ずしも江戸時代まで遡るとは言えませんが、その後の地形図との比較で考えても、あまり積極的に樹種を転換していたとは考え難いものがあります。

以前の記事で触れた通り、カシワは競合種が多い場所では生育しにくく、津久井では下草を刈るなど人手をかけることでカシワ林を育てていました。こうした例を考え合わせると、観音崎周辺ではカシワが容易に入手出来る環境ではなかったのではないかという点が疑問です。カシワ以外の樹種も使用していたとされているのは、恐らくカシワの入手が困難であったために代用品を用いざるを得なかったからと推測されるものの、挙げられている樹種も何れも広葉樹で、これらも観音崎周辺で得られる環境があったのかが気掛かりです。

また、カシワを採りに入ったという林は入会地と考えられ、その点ではコストの掛からない入手先であったと言えます。つまり、津久井など遠方で産出した柏皮を購入していなかったことになります。無論、この例だけを以って三浦半島では津久井産の柏皮を使用していなかったと短絡的に結論づけることは出来ません。三浦半島の他の漁村で漁網の染料を何処から入手していたかの事例を更に集める必要があります。明治時代や江戸時代にはこの網元も遠隔地の柏皮を購入していた可能性もあるでしょう。

同じことは房総半島の各漁村に関しても言えます。今のところ、柏皮の入手先は八王子のほか、上州など遠隔地が挙げられているものの、半島の入会地の雑木林などで採取したものを使っていた村があったとしてもおかしくありません。そして、漁村によって柏皮の入手先が異なっていたのであれば、その違いはどの様な理由で生じていたのか、が問題です。

考えられる可能性のひとつは、網元の規模の大小で生じる購買力の大小で違いが生じていたのではないかということです。江戸の魚河岸まで押送船(おしおくりぶね)を使って魚を送り込む仕事をしていた網元なら、相応の購買力を持っていたと考えられるので、江戸時代には日本橋にあった魚河岸で魚を卸した後、帰路の船倉に買い求めた柏皮を積み込んで自分たちの湊へと帰る運用を行っていたと考えられます。他方、地元で消費する程度の魚を水揚げする小規模な網元では、遠方まで柏皮を買い求めに行くのは割に合わなくなってきますから、地元の入会地でカシワを捜して伐り出して使い、足りなければ他の樹種で間に合わせていた、ということになるのでしょう。

こうした運用について考えることは同時に、相模川を下ってきたり、八王子から日本橋へ甲州道中経由で運ばれた柏皮が、それぞれどの漁村へ運ばれていたのかを考えることにも繋がります。特に日本橋からも相模川河口からも相応に離れている三浦半島の各漁村が、どちらから柏皮を求めていたか、その流通範囲を考えてみたいところです。

何れにせよ、こうした課題を考えるには更に史料を探し出す必要があることは言うまでもありません。次の記録を見つける機会を待ちたいと思います。
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藤沢・四ツ谷の「海鳴り」:「中空日記」より

以前、「中空日記」(文政元年、香川 景樹著)で取り上げられた生麦のツキノワグマについて記事にしました。今回は、その「中空日記」のもう少し先に進んだ辺りの記述を見てみたいと思います。

Totsuka (5765899000).jpg
歌川広重「狂歌入東海道」より「戸塚」
広重は戸塚の絵図として
大坂上の松並木の風景を繰り返し描いている
(By 歌川広重 - Flickr
The Sandiego Museum of Art collection,
パブリック・ドメイン, Link
生麦で熊を見た一行はその晩は神奈川宿で一泊し、翌日は戸塚宿を越えて藤沢宿まで進んでいます。神奈川を遅くに発ったこともあって、戸塚宿を過ぎた辺りの松並木の中で日が暮れてしまい、弟子が「あはれにもけふの命をまつかねに鳴のこりたるきりきりすかな」とキリギリスの鳴く様を詠んでいます。文政元年10月25日はグレゴリオ暦で1818年11月23日、念のため同日の月齢を計算すると24.4ですから、太陽太陰暦の日付が示す通り下弦の月も過ぎており、この日の晩はあまり明るくはなかったであろうと考えられます。藤沢宿に到着後に歌を書きつけたのかも知れませんが、道中で歌を詠んで書き留めたのだとすれば、暗い松並木の中で敢えて歩を止めて、提灯の明かりを頼りに筆を走らせたのでしょうか。

神奈川〜保土ヶ谷宿は1里9町、保土ヶ谷〜戸塚宿は2里9町、そして戸塚〜藤沢宿が2里、合計すると5里半(約22km)で、1日に10里(約40km)は進んだとされる当時の平均的な道中から考えると、この日は相当にゆっくりした道行きであったことが窺えます。歌を詠む都度歩みを止めながらの道中では、1日の行程が短くなるのも道理ではあったでしょう。

藤沢宿に到着した頃の様子は書かれていません。この紀行文では基本的に旅の途上で歌に詠んだ風景などを書いているので、宿に着いた後は体を休める方に専念していたのでしょう。翌26日の記述は次の様になっています。

廿六日、藤沢をたつ、空くもれり、しはらくきてよつやの里にやすむ

朝たちてとへはよつやとこたへけりみしかき冬の日影なるかな

海のいたくなりひゝくは、雨になるにやといへは、よねひる女ともいふ、かみ

の方にてなる時は日よりに侍り、下の方にてなるときは雨ふり侍

り、さらは今 なる声は、たゝ向ひの沖中にきこゆめり、いかゝはと皆いふ

てりくもりしくるゝ頃の海なりは中空にして定めなきかな

ひきち村をすく

かへりこん春やひきちの小松原今ひとしほの色そへてまて

(「奈良女子大学学術情報センター 江戸時代紀行文集」より)


東海道五十三次之内藤沢四ツ谷立場
歌川広重「東海道 五十三次之内」(蔦屋版東海道)中
「藤沢 四ツ谷の立場」
左端に現在も残る道標が描かれており
藤沢方面を見た構図であることがわかる
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Public domain.)
四ツ谷(現:藤沢市城南、羽鳥)は東海道から柏尾通り大山道が分かれる追分で、立場や茶店で賑わう地ではありました。とは言え、藤沢宿の江戸方の見附からでも四ツ谷までは1里(約4km)もありませんので、宿を出てからそれ程の距離を歩かないうちに、早速最初の休憩をとったことになります。幕末に描かれた歌川広重の「東海道五十三次之内」(蔦屋版東海道)の「藤沢 四ツ谷の立場には、この追分に建ち並ぶ茶屋の風景が示されていますが、一行は大山道が分かれるこの追分の風景に何か感じるところがあって足を止めたのでしょうか。ここでは大山に纏わる歌は掲げられていませんが、もう少し先の「浜の郷」(現:茅ヶ崎市浜之郷)では遠方に見える大山を題に2首詠まれています。四ツ谷で詠まれた歌が「朝たちて」と始められていることと考え合わせると、四ツ谷に到着した時点ではまだ日があまり高くない時間帯であったと考えられます。

四ツ谷・引地の位置関係
四ツ谷・引地の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
もっとも、四ツ谷の立場の話に続いて「引地(ひきじ)村」(現:藤沢市鵠沼神明4丁目付近)で詠んだ歌が掲げられていますが、藤沢から京に向かう際には四ツ谷より先に引地を通過する筈ですので、ここは実際の順序とは異なってしまっていることになります。単に記憶違いによるものか、あるいは藤沢を発って四ツ谷に着いたと詠む歌の印象を強めるために意図的に順序を入れ替えたのか、その辺りの事情については「中空日記」の記述だけでは察するのは困難です。ただ、四ツ谷に着くまでにも引地で景色を愛でる歌を詠んでいる辺りからも、この区間でも相変わらず歩を速めることなく進んで来たのだろうという印象を抱かせます。事実、この日の宿泊地はわずか3里あまり先の平塚、翌日も5里に満たない距離を進んで小田原と、歩みは実にゆっくりです。


この四ツ谷の立場で、景樹は「よねひる女」、つまり「(よね)()る」、米糠を篩い分けていた茶屋の女性に、海鳴りの聞こえ方から雨が降るだろうか、と問いかけています。それに対して茶屋の女性たちが口々に説明したのは、「海鳴りが上の方から聞こえてくる時は日和が良く、低く鳴っている時は雨になるが、今日は中ぐらいの高さなので果たしてどうなるか」ということでした。


四ツ谷から海岸にかけての迅速測図(「今昔マップ on the web」より)

東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近
東海道分間延絵図:四ツ谷大山道辻付近(再掲)
街道の南側には水田が拡がっている
東海道分間延絵図:引地川右岸
東海道分間延絵図:引地川右岸(再掲)
こちらも水田の南に沼地の水田が見える

四ツ谷の立場は海岸線からは3kmほど隔たった場所にあります。今は国道1号線より南側は海岸線まで住宅などで埋め尽くされており、未利用地を見出すのは困難です。東海道筋にもマンションなどが建ち並び、街道筋から海を見通すのはまず無理です。明治初期の迅速測図によれば、四ツ谷の立場から海岸線の間には辻堂村の集落はあるものの、大半が松林と畑で占められていたことが確認できます。立場の標高はおよそ15m、緩やかな砂丘の上を進む東海道は周囲よりはやや高い位置を進み、水田が街道の南に拡がっていたとは言え、果たして当時も海を遠くに見ることはできたでしょうか。

ともあれ、四ツ谷の茶屋の女性たちの間では、その3kmほど離れた海から聞こえてくる海鳴りの「高さ」が当日の天気予報に使えると考えられていたことが窺えます。また、「中空日記」の記述の順序では先に問い掛けたのは景樹の方ですから、海鳴りの聞こえ方で天気を予測できるという考え方を、景樹も共有していたことになります。

「民家日用広益秘事大全」巻3「天気の善悪を見様」より
「民家日用廣益秘事大全」(嘉永四年 三松館主人著)
頭書の部分に「天気の善悪見様」が列記されている
全45項目中に音で天気を見たてるものは皆無
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この様な、音の他に雲や風などの自然現象、あるいはツバメや昆虫などの生物の行動を頼りに経験則に基づいた天気予報を行うことを、「観天望気」と言います。今でも「月に傘がかぶると翌日は雨」「山に笠雲がかかると雨」といった観天望気がよく使われていると思います。

こうした観天望気で多く用いられているのは、やはり雲や風、夕焼けといった上空の現象になるでしょう。それに対し、四ツ谷の茶屋の様に「音」によって天気を見たてるタイプのものは、それほど多いものではない様です。「天気予知ことわざ辞典」(大後(だいご) 美保(よしやす)著 1984年 東京堂出版)には数千件に及ぶと見られる観天望気の例が掲載されていますが、音によって気象を見たてるものは、
  • 227〜229ページ「音から雨を予知」:71件
  • 264〜265ページ「音による雨晴の予知」:7件
  • 333ページ「音による風の予知」:13件
など、全体でも100件を超えません。相模湾の観天望気をまとめた海上保安庁海の安全情報のページには、全部で118件の観天望気が集められていますが、この中に音によって気象を見たてるものは含まれていません。音を使う場合、音源からの距離や地形なども大きく影響することから、ローカルな言い伝えになる傾向が強く、その分伝わっている例が少なくなっているのでしょうか。なお、神奈川県下の観天望気についてまとめられた出版物は、図書館のリファレンス・サービスを活用して探した限りでは、該当するものが見当たらないとの回答を戴きました。

四ツ谷の茶屋の女性たちに問い掛けた景樹も、一般的に天気の見立てを聞こえて来る音によって行えることは知っていたものの、地域によって見立て方が違うことを念頭に置いて、この様な質問を投げ掛けたのかも知れません。

四ツ谷の茶屋で言い伝えられていたこの観天望気を、現代の科学で裏付けるとしたら、どういう説明になるのでしょうか。音の伝わり方と気温の関係については、次の様な解説が良くなされます。

風も雲も無い冬の夜に、遠くの電車などの音が良く聞こえることがあります。夜は静かなので当たり前といえば当たり前なのですが、もう一つの原因として音の屈折があります。

昼間は太陽光によって地表が温められ、上空にいくほど温度が低くなります。夜になったときに風も雲も無い場合は放射冷却が起こり、地表が冷やされ、上空の空気の方が暖かくなります。暖かい空気層と寒い空気層が逆転します。(このような層を接地逆転層というらしいです)。

このため、暖かい空気中の音速の方が速いので、夜はうまい具合に屈折して遠くまで音が届きます。

(「わかりやすい高校物理の部屋」より)


瀬戸内の観天望気をまとめた第六管区海上保安本部海洋情報部のページでも、次の様に解説がなされています。

○川音が高く人声が近いと雨。<音の速さは暖かい空気の方が冷たい空気より速い。晴れた日の空気の温度は地上に近いほど暖かく、上に昇るほど冷たくなっており、音を出すと音はまっすぐ飛ばないで冷たい温度の方へ曲がって逃げる。曇りの日のように地上付近と上空の温度差が少ないときは上空に逃げず遠くまで届きやすい。)

(「観天望気(天気のことわざ)」より)


また、音の速度は湿度が上がった場合も若干ですが速くなります(参考:リンク先PDFの17ページ)。従って、湿度の異なる空気が隣接している場合にも、同様に屈折を起こす可能性があり、これも遠方での音の聞こえ方に若干ながら影響を及ぼすことになるでしょう。

ただ、音が聞こえるか否かではなく、聞こえて来る「高さ」を問題とする四ツ谷の観天望気の場合、この現象を「音の屈折」の様な現象によって科学的に説明し切るのは、かなり難しそうです。特に晴天時には高高度からの音が底高度からの音より大きくなる現象をどう説明すれば辻褄が合いそうか、調べた範囲では適切な解説を思い付きませんでした。「天気予知ことわざ辞典」に掲載されている音による観天望気でも、音の聞こえて来る高さが問題とされているものはなく、音の聞こえて来る方角が変わるものが比較的近いと言えますが、そのメカニズムについて解説されているものはありませんでした。


現在の四ツ谷の大山道標(ストリートビュー・再掲)
この観天望気が有効なのか、現地で確認してみたいところですが、今となっては、引っ切りなしに往来する自動車をはじめ、各種の騒音にマスクされて、3km先の海岸の海鳴りを四ツ谷交差点付近で聞き取るのは、殆ど不可能になっています。付近にお住まいの方であれば、深夜に車の流れが途切れ、周囲が静寂になる時間帯に遠方の海鳴りを聞くことが出来るのかも知れません。そうでなければ、四ツ谷の追分に残る大山道道標を兼ねた不知火像の前で、かつてこの付近の茶屋で遠方の海鳴りに耳を傾けながら当日の天気を相談しあったことに、思いを馳せるのが精々というところでしょう。

ところで、景樹はここで「中空にして定めなきかな」と詠んでいますが、奈良女子大の解題(レポート)では、「中空日記」という題との関係について、次の様に解説しています。

 ところで、この『中空日記』という作品を何度か繰り返して読んでいるうちに、ある一つの疑問がふくらんできた。――「中空」という語に景樹が込めた心情は何だったのか。

このタイトルが示すところのものは、何なのか、ということである。この日記のなかには「中空にして定めなきかな」と歌に詠んでいる箇所と、「夢路は中空にそたとるへき」と綴られた箇所の二回きりしか「中空」という語は出てこない。

 景樹よりも前の時代の先人たちは、和歌の中でどのように「中空」という語を使っているのか、『新編 国歌大観』を開いてみた。すると、「中空」には大きく分けて二種類の使われ方があるようで、“情景をありのままに詠んでいる”場合と、“心情を歌に詠み込んでいる”場合の二つに分けられる。前者の方は、「中空」という語が単に「空」としての意味を果たし、季節(特に秋)の情景や、月について等を和歌に詠んでいる。それに対し、後者は単にそれだけではない、含みのある使われ方がなされており、「雲」や「煙」などが詠まれ、「心の日かげ」・「ものおもひ」・「むなしき夢」・「かたぶきてゆく」・「ただよひて」、そして「身は浮雲」の如く、たよりなく、はかなげ、といった具合に、辛い心情や物憂げな気持ちを「中空」という語に託している。

香川景樹の『中空日記』本文を締めくくっている、「なほ夢路は中空にそたとるへき」という一つの文句が非常に印象深いのは、酷なまでの反対勢力の景樹批判に遇い、江戸歌壇制覇の望みも叶うことなく、失意のうちに江戸を発つこととなった景樹の心情が、この文句に凝縮されているからではないだろうか。

上記サイトより)


四ツ谷で詠んだ歌の「中空」は、解題で紹介されている2通りの使われ方のうち、「情景をありのままに詠んでいる」方に近いと言えるでしょう。もっとも、この歌を「定めなき」という言葉で結んでいる辺りに、何かしら移ろいやすい心情的なものを暗に含めたいと思ったのかも知れないとも感じさせます。この日は結局天気は下り坂で、日が暮れる頃には雨が降り始めるのですが、あるいはこうした下り坂の空模様に、末尾で再び「中空」が登場する際の雰囲気を、先取りして重ね合わせて見せたのかも知れません。
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「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。

小浜藩主の居城であった小浜城址の位置
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。
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短信:片瀬市民センターの江島弁財天道標が移設された様です

取り急ぎ、備忘のために記録しておきます。

昨日、twitter上で全部假的さんと、こんなやり取りをしました。














片瀬市民センターの弁財天道標については、以前江島道を取り上げた際に紹介しました。ストリートビューでも何とかその存在が見えるかどうかという状態が物語る通り、駐車場の奥に置かれた道標は、予めその存在を知らなければ見逃し兼ねないものでした。


大源太公園の位置
一方、大源太公園の辺りには、こちらの記事で説明した通り、かつては境川を渡る「石上の渡し」がありました。「江島道見取絵図」を見ると、江の島に向かって左手に道標が置かれていたのに対して、大源太公園は右手に当たりますので、完全に同じ位置とは言えませんが、かつての道標が存在した場所に近い所を選んで移設されたと言えそうです。

一昨年暮頃には、藤沢市役所で保存されていた弁財天道標が藤沢橋の近く砥上公園に移設されました。今回の道標の移設もその一環で、かつての江島道を歩く人たちの目になるべく触れやすい場所に設置し直す意図がある様です。

現場を自分の目で確認する機会がなかなか得られませんが、何れまたストリートビューが更新されて、大源太公園の道標の最新の状況が反映されると思いますので、その際に改めてこちらに反映する予定です。
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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)
所在地の住所は逗子市沼間1丁目
(「Yahoo!地図」より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。
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