本来なら、この金沢・浦賀道についても鎌倉・浦賀道と同様に逐次的にご紹介すべきなのでしょうが、それをやっていると何時まで掛かるかわかりませんし(汗)、この道については(一部区間を除いて)別途紹介する機会を持ちたいと思います。
もっとも、その場合でも今回鎌倉廻りの道で「浦賀道見取絵図」を対照しながら紹介した様な手法は採れません。何故なら、江戸幕府は「五海道其外分間見取延絵図」を編纂するに当たり、残念ながらその中に金沢・浦賀道を含めなかったからです。実はそちらの方の問題が大きくて、基本になる史料が十分に存在しないので道筋を確認し切れていないのが実情です。今回はこの見取絵図の問題について考えたいと思います。
ひとまず、地元の歴史研究グループの方々が作った資料などを元に、大筋で線を引いてみたのが以下のルートです。まだこのルートにどの程度の精度があるかもはっきりしませんが、このルートを辿るとどの辺を通りそうか、その時にどの位まで登ることになりそうかを確認する程度のことは出来るだろうという判断で公開することにしました。何れこのルートにも手を入れたいと思います。
鎌倉・浦賀道の「その14」で見た通り、「浦賀道見取絵図」が描かれた頃には横須賀から法塔十字路を経て鎌倉・浦賀道と合流して浦賀へと向かっていました。その後、天保末年に大津から安浦を経て横須賀へと向かう、近くてアップダウンの少ない道が切り開かれましたが、上記のルートはその安浦経由の道を示しています。上記ルートは大津の辻までで止まっていますが、この辻から浦賀の船番所までが約1里です。
差し当たり、このルートで両者を比較すると、
- 鎌倉・浦賀道:約35km(約8里27町)
- 金沢・浦賀道:約32km(約8里)
しかし、鎌倉を経由した場合は東海道を保土ヶ谷〜戸塚間の分だけ余分に歩かなければなりません。その間は10km(約2里半)ほどありますし、しかもその間には権太坂と品濃坂の上り下りが挟まっています。その間の境木の標高は、名越の切通に匹敵するほどの高さがあり、上山口〜阿部倉間の分水界の標高よりも高い場所に登るということでもあります。
余談ですが、1里=4km弱で、これは人間が1時間に歩く平均的な距離とほぼ同じです。ですので、「道程2里半」はそのまま「2時間半ほど歩かなければならない」ということです。全くの偶然とは言え、江戸時代の道程の単位が、何故か現代の時間の単位と相関性を持っているのはちょっと面白いところですし、街道歩きでは意外に便利な面もあります。それで、上記の里程の差を加えると、江戸から浦賀に徒歩で達する際に、鎌倉を経由すると金沢を経由するよりも3時間あまり余計に掛かる、ということになってきます。
この事実が当時の幕府の関係者間で共有されていたことを示す史料があります。文政4年(1821年)5月、川越藩主が幕府の勘定奉行・道中奉行に宛てた手紙が残っているのですが、それにはこうあります。
幕末になって浦賀沖に外国船の出現回数が増えたことに対し、川越藩が緊急の際に遅滞なく浦賀に馳せ参じることを伝えている訳ですが、その際に金沢を経由することを明記しています。相州浦賀江異国船渡来之節、私在処川越ヨリ人数差出候節、夫人馬而已ニ而ハ里数も御座候事故、手間取候も可相成候と奉存候、依之川越ヨリ江戸・金沢通り浦賀迄、継人馬宿〻無遅滞継立相成候様仕度奉存候、可相成義ニ御座候ハゝ、御勘定奉行・道中奉行江御達被置被下候様仕度、此段申上候、已上、
(「逗子市史 資料編Ⅱ」より引用、強調はブログ主)
五月六日 御名(川越藩主 松平斉典)
これはその前提に、通常の江戸〜浦賀の公儀の通行には、専ら鎌倉・浦賀道が使われていたことが背景にあり、「浦賀道見取絵図」が作成されたのはその道筋を示している訳ですが、有事の事態になって一刻の猶予なく浦賀に駆けつけるために使う道としては金沢・浦賀道の方が近道であることは幕府も川越藩も承知であったからこそ、この手紙の文言に「金沢」の地名が出て来ることになるのです。浦賀奉行所を補佐する川越藩の役所が以前から浦郷にあり、「浦賀道見取絵図」でも木古庭からの道程が示されていることは「その10」でも触れましたが、当然三浦半島内の陸路の実情は熟知していたでしょう。
ならば、「浦賀道見取絵図」が作成された時に併せて金沢・浦賀道の絵図が作られなかったのは、公儀の往来に使われていなかったから…で話が済めば良いのですが、そう考えると不思議なのは「江島道見取絵図」の存在です。以前見た様に、この絵図は「江の島」の名前を含んでいながら肝心の江の島へは向かわない道筋が描かれており、巻末の文言から窺える様に鎌倉・浦賀道の支道的な位置付けで作成されています。
前回「江島道見取絵図」を取り上げた際には触れませんでしたが、幕末には小田原藩が川越藩と共に浦賀の海防に参画することになるものの、小田原藩の名前が浦賀に具体的に登場してくるのは絵図の完成よりは後のことです。小田原から浦賀に向かうのであれば確かに江の島道を経由してくるであろうとは考えられるものの、小田原藩が海防に参画する以前から川越藩と同様に浦賀奉行所の支援を行なっていたという記録は見当たりませんし、仮にあったにしても、それが「江島道見取絵図」作成の理由になるのであれば尚のこと、川越藩が浦郷への往来に使ったであろう金沢・浦賀道の絵図が作成されなかった理由がわからなくなってしまいます。
では、金沢・浦賀道は鎌倉・浦賀道に比べて、整備状況に差があったという可能性についてはどうでしょうか。これについては、少なくとも鎌倉・浦賀道が必ずしも十分な状態ではなかったことをこれまで回数を掛けて説明してきたばかりです。そうなると、余程金沢・浦賀道が酷かったのでしょうか。
「新編相模国風土記稿」で金沢・浦賀道の沿道の各村々について、これまで同様に道幅の記述を洗ってみましたが、明記されていたのは2箇所のみでした。うち、「浦ノ郷村」には「幅二間」とあり、「田浦村」には「幅一間餘」と記されています。浦郷は金沢よりは浦賀寄りに位置していますが、川越藩の役所があったことが効いているのか、この記述通りなら道幅は脇往還としては十分だったことになります。一方、田浦の道幅は十分とは言えないものの、少なくとも鎌倉・浦賀道と同等の道幅ではあったことになります。
また、寛政九年(1797年)の「東海道名所図会」には金沢道(金沢・浦賀道のうち保土ヶ谷〜金沢の区間)について「程谷」の項に以下の様に記しています。
わざわざ「道よし」などと記した意図が何処にあるのか、当時金沢に向かう際に神奈川宿から舟を雇ってしまうケースが後を絶たず、海上を通過されてしまう保土ヶ谷宿が禁止を求めて訴え出るなどということが起きていましたので、これも陸路への誘導策なのかも知れません。それでもこの金沢道は元は鎌倉街道下道の支道として開かれた道としての由緒もあり、何より江戸時代には「金沢八景」として知られた名勝地への道ですから、戸塚から鎌倉までの区間同様に往来の賑わいを十分期待できた道筋でもありました。その点で、この「道よし」は字義通りに受け取っても差し支えなさそうです。…これより金沢・鎌倉へ行く道筋右の方にあり、金沢能見堂まで三里余なり。道よし。
(「新訂 東海道名所図会[下]」ぺりかん社刊より引用)
とすれば、鎌倉・浦賀道に比べて金沢・浦賀道の整備状態が悪かった、と考えるのはやはり当たっていない、と言わざるを得ないでしょう。更に別の説明を探す必要があります。
なお、最近では梅の名所として知られる様になった田浦の梅林が開かれたのは昭和9年のことですから、それまでは金沢の先まで物見遊山の客が入って来ることはなかったと思われます。
鎌倉・浦賀道が選ばれていた理由として、金沢・浦賀道は近道ではあるが、田浦の辺りに極端に険しい区間があり、これを回避するために鎌倉・浦賀道へと迂回している、という説明が成されているものもあります。これは上のルート図をクリックしてルートラボ上で標高グラフを見て戴ければお分かり戴けると思いますが、現在のJR田浦駅の辺りから内陸へと入っていくと同時に上り坂となり、「十三峠」や「三浦安針塚」の辺りで標高130m近くまで登ります。鎌倉・浦賀道の名越の切通よりも更に40m程も登らなければならないことになります。因みに、金沢道の区間では能見台の辺りに標高90mほどの地点がありますが、この辺りは大々的にニュータウン開発が行われているため、江戸時代当時の地形からは大きく変わっている点は考慮する必要があります。
しかし、そのためにわざわざ鎌倉まで遠回りなのか?そもそも、この田浦周辺の道筋からして随分と遠回りな…という辺りから次回は考えてみたいと思います。
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