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藤沢飛行場の空中写真:「地理院地図」から

以前Googleマップ上に誤って表示された「藤沢飛行場」について記事を書きましたが、その後折りに触れて「藤沢飛行場」を検索してこの記事を見に来られる方が月に数名ほどいらっしゃる様です。その「藤沢飛行場」に関連してごく簡単な追記を1件。

「地理院地図」では過去の空中写真を地形図に重ねて見る機能がありますが、当初は1970年代程度までに限定されていました。その後それ以前の空中写真の掲載を進めており、最近になって関東南部の1961〜64年の空中写真も地形図上で参照出来る様になりました。これを使って現在の荏原製作所藤沢藤沢事業所付近のその頃の空中写真を見ると、まだ廃止される前だったと思われる藤沢飛行場の滑走路や格納庫と思われる建物が写っているのが確認できます。また、滑走路の中ほどを横切る街道の存在もはっきりと写っています。右側の「機能」メニューには「計測」というツールがあり、これを使って地形図上の実距離を計測することが出来るのですが、これを利用して滑走路の凡その長さを測ると900m強あることが確認出来ます。

藤沢飛行場は1964年には廃止されますので、次の1974~78年の空中写真では荏原製作所の敷地となって滑走路は消滅しています(滑走路の敷地の一部は陸上競技用のトラックに転用されています)が、この2つの空中写真を比較すると、敷地内の南北の道路は飛行場であった時代の平行誘導路がそのまま利用されていることがわかります。

なお、以前の記事で掲載した「今昔マップ on the web」上でも、右側のプルダウンメニューから「写真1961-64」を選択し、左側の「不透明度」のプルダウンメニューから「0%」を選択することで、この空中写真を表示させることが出来ますので、昭和29年の地形図と切り替えながら参照することも可能です。


1961〜64年の藤沢飛行場の空中写真(「地理院地図」より)

地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
もう少し具体的にこの空中写真の撮影年月を絞り込みたいところですが、それには右の様に「単写真」の撮影地点を表示させ、該当地点のマーカーをクリックすることで確認出来ます。初期状態では膨大な数のマーカーが表示されますが、「選択中の情報/単写真」右側のⓘボタンをクリックすると、「絞込み」というプルダウンメニューが現れますので、これを使って表示されるマーカーを年代によって絞り込むことが出来ます。マーカーをクリックした時に表示されるバルーン中のリンクから該当する写真を表示させることも出来ますので、地形図に重ねて表示されている写真が確かにその年月のものであるかを確かめることも可能です。この例ではすぐ南側の国道1号線藤沢バイパスがまだ工事中である様子が写っており、その特徴が一致すること(写真のコントラストは若干調整されている様です)から、確かにこの写真が地形図上で表示されていることがわかります。

余談ですが、地点によっては撮影時期の異なる写真が隣接して表示されている箇所もあります。以下の例は小田急線高座渋谷駅東側の境川付近の1961〜64年の空中写真ですが、東側では東海道新幹線の建設中の様子が写っているのに対し、写真の切れ目から西側ではまだ工事が始まる前の様子が写っています。東側では1963年、西側では1961年の写真が用いられている様です。


建設中の東海道新幹線の軌道が東側だけ写っている(「地理院地図」より)

何だか「地理院地図」の使用法についての記事みたいになってしまいました。「地理院地図」の空中写真は更に1945〜50年のものを地形図に重ねて閲覧出来る地域を拡げていっている様ですし、また最近になって左側のメニューが刷新されるなど、かなりこまめにアップデートが図られ続けています。また何か興味深い更新が見つかったら取り上げたいと思います。

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【旧東海道】その8補足 「新編相摸国風土記稿」と、地誌記述のスタンス

前回の記事はお陰様でかなりアクセスを戴きまして、ありがとうございます。そろそろ次の記事を…と思いつつ、まだ十分に取材し尽くせていない部分があって、もう少し時間が掛かりそうなので、今回は前回の記事を書きながら少し懸念している点について補足しておこうと思います。

懸念している点というのは、前回次の様に書いた箇所です。

この「古相模川」という呼称は一体どの様に解釈すべきなのでしょうか。「風土記稿」に複数箇所で記されているということは、恐らくこれらの村々で共通にこの名で呼ばれていた可能性が高く、従ってこの流路が古くは相模川の本流であったと地元の住民が理解していた(実際にそうであったかどうかは別として)ということになるのではないでしょうか。


「新編相模国風土記稿」はこのブログでも既に幾度も引用をしたりしていますが、幕末の天保12年(1841年)に成立した相摸国の地誌で、昌平坂学問所地理局が編纂したものです。その編集に当たっては相摸国内の各村々から村明細帳を提出させ、その記述内容を更に実検見聞して内容を精査し、古文書などとも照合して不整合のある箇所は取捨選択や追記を加えて精度を高めています。誤記に属すると思われる箇所がない訳ではありませんが、江戸時代末期時点の相摸国内の各村々について調べる上では第一に参照すべきと言っても良い史料です。

しかし、前回の引用で、特に今宿村や中島村の記述を良く見ると、

◯今宿村 …◯古相模川 一名筏川と云ふ、

◯中島村 …◯古相模川 東界にあり、則今宿村に云る筏川是なり、

何れも村では「筏川」と呼ばれていることがわかります。これをわざわざ別名「古相模川」とも呼んでいたと考えて良いか、ちょっと引っ掛かるものを感じます。

実のところ、可能性はもう1つあって、この箇所を記載した昌平坂学問所の編集者が、この現地を訪れて見聞した結果、この細い川を相模川の旧流と見立てた可能性もあり得るのではないか、という点が1つ懸念点です。そうすると、前回私が続けて書いた

これでは「相模川に傍たれば毎秋泛濫の患に堪」えないのは無理からぬことで、あるいはこの小さな流れを「古相模川」と呼ぶことで、それより西側は相模川の氾濫原にある以上、毎年の氾濫も止むを得ないことと納得していたのかも知れません。

は、必ずしも村々の人々の考えとは言えないことになります。

その様な懸念を抱くのには、以前別の地誌である「皇国地史残稿」で、ちょっと問題を感じた事例を目にしているからです。「皇国地史」とは、明治初期に明治政府が全国の地誌編纂を企図して途中まで編纂作業を行ったものですが、最終的な完成を見ることなく打ち切られ、東京帝国大学附属図書館に収められていた原稿も関東大震災の際の火災で燃えてしまいました。しかし、一部の原稿は別の場所で保管されていたため、これらを「残稿」と呼んでいる訳です。

その中で、かつての上飯田村(現在の横浜市泉区上飯田町)の記述の中に、こんな記載があります。

三ヶ所アリ一ハ和柳橋ト称ス保土ヶ谷往来ニ属ス本村西北西ノ方境川ノ上流ニ架ス長七間幅六尺橋下ノ水深サ五尺

一ハ飯和橋ト呼ブ村往来ニ属ス本村西ノ方同川ニ架ス長六間三尺幅五尺橋下水深サ六尺以上木製

一ハ高鎌橋ト呼ブ大山往還ニ属ス本村西南ノ方 同川下流ニ架ス長八間幅七尺橋下ノ水深サ六尺五寸土造修繕ハ三橋共ニ民費ニ課ス…

明治十二年二月編成

総閲   神奈川県令 野村 靖

編集主任 同 御用掛 中島 巌

(「神奈川県郷土資料集成 第12輯 神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌」神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 より引用、…は中略、太字はブログ主)


ここで出て来る、境川に架橋されたという3本の橋のうち、最初の2本「和柳橋」「飯和橋」は全く比定が出来ません。勿論、現在もこの様な名前の橋は存在しませんし、過去の記録からも同じ名前の橋を見つけることが出来ません。

これに対して高鎌橋(こうけんばし)は、県道22号線が境川を渡る場所に架けられている橋です。ところが、この橋が現在の位置で架橋されたのは大正3年(1914年)、上記の引用にある様にこの記述は明治12年(1879年)時点のものですから、日付の辻褄が合いません。一方、大山往還(柏尾通り大山道)が境川を渡る橋は「新編相模国風土記稿」の、対岸にあった「千束村」の項に「千束橋」として紹介されています。当時の「千束橋」は現在の「高鎌橋」より若干上流に架けられていたのですが、「大山往還ニ属ス」としている以上、本来この項目は「千束橋」と書かれなければ辻褄が合いません。それが何故かそれまで見たこともない「高鎌橋」という名前に変えられてしまっているのです。

つまり、これは「皇国地誌」の作成担当者が、独自の判断で名前を書き換えてしまっているのです。私の見立てでは、恐らく「千束橋」という一方の村の名前だけが橋の名前に反映されているのは、村境に架される橋の名前としては相応しくない、と判断したのでしょう。「高鎌橋」の名前は高座郡と鎌倉郡の間に架かっていることから来ていますが、大山道の様な主要道の橋であれば、橋の名前にも郡名から1字ずつ取るのが相応しい、と考えて新たな名前を考案して記載してしまったものと思います。勿論、残りの2つの橋の名前も「上飯田村」「下和田村」などの架橋地の村名を反映したものと考えられます(「柳」が何処から採られたかが不明ですが)。当時はあまりに多数に及ぶ全国の村々の合併が進められている頃で、その際に合併対象となる双方の村から1字ずつ取って新たな名前とすることが流行っていましたから、この橋の場合もそれが適用出来ると考えたのかも知れません。


現在の高鎌橋(ストリートビュー
橋の袂に大正3年の架橋について記したガイドが立っている
ところが、「皇国地誌残稿」は意外にも各村々が写しを保管して事ある毎に参照していた可能性があります。藤沢市の長後村で保管されていたものには、新たな道が出来たので、地誌を書き換えなければならない旨、赤字で余白に書き込みが成されており、この地誌を典拠に村の政策に活用していたことが窺えます。

上飯田村の場合も同様であれば、現在の「高鎌橋」の名称はこの「皇国地誌残稿」に従って命名された可能性が高くなります。結果として、記載に現実の方が影響される形で整合性が取れる、ということが起こった訳です。

高鎌橋の名称そのものの良し悪しはともかくとして、地誌の編纂事業として一連の顛末を考えた場合には、これはやはり問題があったと考えざるを得ないでしょう。少なくとも現代に地誌編纂事業を行う場合、「かくあるべし」という個人的な見解を織り込まず、まずは現状をそのまま記載することが求められるでしょう。明治時代初期の地誌編纂についての考え方や、「皇国地誌」編纂に当たっての編集方針などが不明なので、当時はそれで良かれと考えたかも知れないのですが、少なくとも実態を判断するに当たっては「皇国地誌残稿」に書かれている内容を他の資料と照合する必要はあると思います。

他方、最初に掲げた「新編相模国風土記稿」についても、こうした私的な判断がどの程度入ったのか、大抵の場合は「按ずるに」といった連語で始められているので区別が付くのですが、この「古相模川」のケースは果たしてどうなのか、他の史料に出典が求められれば裏が取れるのですが、今のところはその点で留保を付けておかないと不味いかな、とも思っています。

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【武相国境】境木→阿久和

武相国境のシリーズ、前回に引き続き、今回は少し先を急ぎ、阿久和川の源流地が見える辺りまでを辿ります。



阿久和川の西隣を流れているのは和泉川で、ここまで来てようやく柏尾川の支流の分水嶺を辿り切ることになります。和泉川も柏尾川も等しく境川水系に含まれているのですが、柏尾川は縄文海進の頃は藤沢から大船付近まで入江になっていたと言われており、別の流域と考えても良いくらいに流域の特徴が異なっています。柏尾川の方は多摩丘陵南部に広い流域を持っており、しかもその支流が極めて近い位置で合流するのが大きな特徴になっています。

柏尾川vs.旧東海道概念図
柏尾川vs.旧東海道概念図
地図上だけではなかなか分かり難いので、図式化してみることにしました。

この図では武相国境を境木付近の一角しか描いていませんが、実際は柏尾川の流域界を東から北にかけてなぞっています。柏尾川の支流は、かつての戸塚宿の吉田大橋の上流で大半が合流しており、残りは㹨川と鎌倉市北部から流れ出す小河川群のみです。因みに、煩雑になるので省略しましたが、名瀬川や阿久和川には更に細かい支流が幾筋も合流しています。

差し当たってこの様な地形が出来た理由についてですが、図に描き込んだ辺りに「秦野―横浜構造線」と呼ばれる沈降帯があり、ここを境にして南側と北側が相対的に隆起しているのだそうです。
 相模堆積盆地 岡 重文(PDF)
こちらのPDFでは「秦野―横浜沈降帯」という名前で呼ばれていますが、意味する所は一緒です。専門用語が多いですが、ひとまず該当する箇所を引用します。

この沈降帯は,相模川の西方にある秦野盆地から,東方の横浜市戸塚区まで東西にのびている.秦野盆地と大磯丘陵を境にする渋沢断層から,大磯丘陵の北側を流れる金目川に沿って東にのび,相模川を新幹線の南側で横切り,戸塚駅の東方までつづいている.最近の調査によると,沈降帯は,秦野盆地から横浜まで連続的には続かずに,相模川で南と北に約5km位ずれているようである.また,沈降運動は,造盆地運動の始め頃から現在まで続き,沈降量は相模川の河床付近で最も多く,東の方ではすくなくなる.沈降帯を挾んで,南と北とでは地殻変動の様子がことなっている.約13万年前位までは全体的に沈降地域であったが,約13万年前から約6万年前にかけては運動形態に変化がみられ,沈降帯の北側では,沈降地域から安定地域にかわり,南側では沈降地域―安定地域―隆起地域にかわっている.このように沈降帯は,造盆地運動に対して重要な位置を占めている


こうした地殻変動が柏尾川の流域を洪水の起きやすい姿に変え、武相国境を際立たせたものにしたと言えそうですが、そういう中を江戸時代の東海道は通過していたことになります。何故この様な道筋が選ばれたのかについては、旧東海道の話がもう少し先に進んだ所で改めて取り上げたいと思います。

品濃の平野部
品濃の平野部
清水谷戸トンネル
清水谷戸トンネル
写真は武相国境を潜るJR東海道線の清水谷戸トンネルと、その周辺の現在の風景です(昨年2月撮影)。現在では東戸塚駅付近の開発が進み、マンション群が非常に多くなりましたが、この付近では開発される前の農地が広がっていた川上川周辺の風景が、僅かながら残っています。この日は清水谷戸トンネルの上を通る武相国境の道筋も歩いていますが、木々が邪魔をして線路を覗き込むことは出来ませんでした。

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