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「津久井県北部の柏皮」補足:三浦半島の漁網染め

相変わらず、定期的なブログ更新がままならない状況にあります。図書館にもロクに出掛けることが出来ずにいるので、限られた文献を借りて来て少しずつ読み込むことしか出来ていませんが、今回は、そんな文献の中で以前書いた柏皮の記事について示唆的な記述を見つけたので、備忘的に補足を行います。


これらの記事の中で、津久井県で産出するカシワの皮が、荒川番所を経て相模川経由で相模湾に下ったり、八王子を経て房総半島方面へと運ばれ、漁網の防腐のためのタンニン染料として用いられていたことを紹介しました。ただ、相模川を下った柏皮が相模湾沿岸や相模国の東京湾沿岸の漁村で利用されていたことを具体的に示す史料などを提示することは出来ませんでした。

今回、別件で以下の文献を読み進めていたところ、三浦半島のとある漁村での柏皮の利用例を確認出来ました。

  • ものと人間の文化史106 (あみ)」 田辺 悟 著 2002年 法政大学出版会

この「第Ⅱ章 網漁具の種類/5 網具の保存法」で、著者が地元の網元にヒアリングした調査結果が紹介されています。この網元は大正10年(1921年)生まれの三浦郡鴨居村(現:横須賀市鴨居)の人ということで、浦賀に隣接する東京湾側の漁村の人ということになります。ヒアリングの時期については記されていませんが、「網漁を主に今日に至っているが、最近は漁獲量が減少したため、沖に出ることはほとんどない。」(88ページ)と記しているところから見ると、この本の出版年からさほど遡るものではない様です。

そのヒアリング結果の中で、漁網の染料については次の様に記されています。

漁網を染めるための「渋液」(染料)には各種あるが、わが国では化学染料が普及する以前には、カシワ・ナラ・クリ・シイ・クヌギ等の樹皮を煮出したものや、渋柿の実を掲きくだいて採った柿渋その他にカンバ・ブナ・ハリノキ(赤楊)・ヤマモモ・ノグルミ樹の皮およびハマナシ(玫瑰)の根を用いることもあった。

私の住む三浦半島一帯ではカシワが最も一般的に用いられていたため、カシワギで染めるための小型の専用の槽(フネ)があり、この漁網を染めるフネ(海に浮かべて使用するものではなく陸上で水や湯を入れて使用する箱形のもの)を「カシャギデンマ・カシワギテンマ」と呼んできた。

上述の話者、斉藤新蔵さんによれば、昭和五年から六年頃、まだ一四〜一五歳の頃、網元であった話者の家では、漁網を染めるために、観音崎周辺の山に出かけてカシワの樹皮を持ち帰り、餅掲き用のウスとキネを用いてカシワの皮を掲いてこまかくしたものを布袋に入れ、それをオケ(四角い箱形のフネ)に加えた湯の中につけて色を出す。こうするとタンニン成分が出るので、網をその中につけて染めたという。

(上記書91〜92ページより)


また、93ページには「カシワギブネ(柏木舟)」の写真が掲載されています。これは『三浦市城ケ島漁撈用具コレクション図録』(三浦市教育委員会編 1988年)に掲載されているものとのことで、横160cm×縦75cm×高さ32cmの外寸から、各面の板の厚みはわかりませんが恐らく300ℓ程度の容積を持つと思われ、この槽に収まる程度のサイズの漁網を染めていたことも窺えます。勿論、この場合の「フネ」は「湯舟(ゆぶね)」と言う場合の「フネ」です。

私が捜した文献もまだ微々たるものではありますが、それらの中では差し当たっては上記2例が相模国の柏皮の利用実績を示す事例ということになります。勿論、これだけでは当時の柏皮の流通や使用の実情を理解する上では十分とは言えませんし、特に上記の事例が江戸時代まで遡ると言えるかは不明ですが、幾つか気が付いた点を書き留めておきます。

鴨居村周辺の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
観音崎は鴨居村の東側、西側には浦賀湊が位置する

このヒアリングでは、柏皮を観音崎周辺の山で入手したとしています。しかし、明治時代初期の迅速測図では、観音崎周辺の土地利用は「松」とされており、以後の地形図でも針葉樹林の地図記号が目立ちます。カシワの様な広葉樹林が優勢であった様には見えません。迅速測図の作成された明治時代初期の土地利用が必ずしも江戸時代まで遡るとは言えませんが、その後の地形図との比較で考えても、あまり積極的に樹種を転換していたとは考え難いものがあります。

以前の記事で触れた通り、カシワは競合種が多い場所では生育しにくく、津久井では下草を刈るなど人手をかけることでカシワ林を育てていました。こうした例を考え合わせると、観音崎周辺ではカシワが容易に入手出来る環境ではなかったのではないかという点が疑問です。カシワ以外の樹種も使用していたとされているのは、恐らくカシワの入手が困難であったために代用品を用いざるを得なかったからと推測されるものの、挙げられている樹種も何れも広葉樹で、これらも観音崎周辺で得られる環境があったのかが気掛かりです。

また、カシワを採りに入ったという林は入会地と考えられ、その点ではコストの掛からない入手先であったと言えます。つまり、津久井など遠方で産出した柏皮を購入していなかったことになります。無論、この例だけを以って三浦半島では津久井産の柏皮を使用していなかったと短絡的に結論づけることは出来ません。三浦半島の他の漁村で漁網の染料を何処から入手していたかの事例を更に集める必要があります。明治時代や江戸時代にはこの網元も遠隔地の柏皮を購入していた可能性もあるでしょう。

同じことは房総半島の各漁村に関しても言えます。今のところ、柏皮の入手先は八王子のほか、上州など遠隔地が挙げられているものの、半島の入会地の雑木林などで採取したものを使っていた村があったとしてもおかしくありません。そして、漁村によって柏皮の入手先が異なっていたのであれば、その違いはどの様な理由で生じていたのか、が問題です。

考えられる可能性のひとつは、網元の規模の大小で生じる購買力の大小で違いが生じていたのではないかということです。江戸の魚河岸まで押送船(おしおくりぶね)を使って魚を送り込む仕事をしていた網元なら、相応の購買力を持っていたと考えられるので、江戸時代には日本橋にあった魚河岸で魚を卸した後、帰路の船倉に買い求めた柏皮を積み込んで自分たちの湊へと帰る運用を行っていたと考えられます。他方、地元で消費する程度の魚を水揚げする小規模な網元では、遠方まで柏皮を買い求めに行くのは割に合わなくなってきますから、地元の入会地でカシワを捜して伐り出して使い、足りなければ他の樹種で間に合わせていた、ということになるのでしょう。

こうした運用について考えることは同時に、相模川を下ってきたり、八王子から日本橋へ甲州道中経由で運ばれた柏皮が、それぞれどの漁村へ運ばれていたのかを考えることにも繋がります。特に日本橋からも相模川河口からも相応に離れている三浦半島の各漁村が、どちらから柏皮を求めていたか、その流通範囲を考えてみたいところです。

何れにせよ、こうした課題を考えるには更に史料を探し出す必要があることは言うまでもありません。次の記録を見つける機会を待ちたいと思います。
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【小ネタ】「三浦半島をぶち抜け!」「いやそれは困りまする」

前回の更新から半年近く経ってしまいました。まだ復活できそうにありませんが、比較的手軽に取り上げられそうなネタを元に何とか1本記事を仕上げたので、生存証明代わりにアップします。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には、江戸時代の交通や産業に関連する史料が取りまとめられています。その交通編では、東海道を中心とした陸上交通の他に、河川交通と海上交通にまつわる史料が収められています。河川交通の史料は大半が相模川の水運関連のもので占められていますが、その中に1点、少し毛色の違うものが含められています。「三浦郡田越川堀抜き新通船路開鑿計画につき沼間村反対願書」と題されたこの文書は、三浦郡沼間村(現:逗子市沼間)に伝えられているものですが、「神奈川県史」では「非常に興味あるできごと」と評しています(同書400ページ)。内容は次の通りです。

乍恐以書付奉願上候

一当村小前百姓共一同奉願上候儀、今般当御預所相摸国三浦郡田浦村舟越新田(より)、西浦 長州様御預所同郡桜山村多越川迄堀抜通船致候様之願人有之哉之風聞、尤右風聞之儀も三拾ケ年前ゟ是迄不得止事願望仕居候様子、既去ル丑年七月中先御領主松平大和守様御重役方、右川筋為御見分被遊御出張、右川筋引通田畑凡反別、民家居屋鋪差障凡御取調有之候処、尚又此節風聞承り候処、右川筋堀抜御上様願上候者共有之哉之旨、竊風聞承り小前一同奉驚入候、万一 御上様御用弁ニ茂相立、堀抜願之通御取上ケ御聞済可相成儀も乍恐難計、左候得、当村広地筋田畑不残川筋引通相成、左右谷合土揚場所ニ而、田畑大体荒(倒)、当村田畑反別四拾六町程も有之、内六七町山畑ニ而古来ゟ猪鹿多出、是迄年来荒し来候場所相残候哉奉存候、村方之儀東西廿町余、南北壱町程ニ而、家数五拾五軒之内五十軒入院四ケ寺程も川筋引通差障可相成と奉存、然ル上御田地御取上ケ其上民家迄も右外御取払相成候而者、百姓通外渡世無之村柄故、万一堀抜願之通被仰付候上、小前百姓共一同渡世暮方、親族・妻子之養育之手達無之、 元来田畑耕作而已ヲ以是迄渡世暮方致来候間、外渡世向無之、此後御田地御取上ケ、尚又民家立方付被仰付候上、以来村方小前共如何以渡世可致候哉、小前一同非至と心痛仕候間、何卒格別之以御慈悲小前百姓難渋之段、乍恐御恐察被成下、堀抜出来之儀御見合せ御免除被成下度、乍恐以書付村中小前一同奉願上候、右願之通り御見合被仰付候ゝ、広太之御慈悲畳重難有仕合奉存候、以上、

(上記書435〜436ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え、読み仮名のルビはブログ主)


この文書には日付がありませんが、「長州様御預所同郡桜山村」と記されていますので、海外からの防衛を担当することになった長州藩の配下に、三浦郡桜山村(現:逗子市桜山)が入った幕末の頃の文書であることがわかります。長州藩が三浦半島の防衛に当たったのは嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの比較的短い期間ですし、先代の領主であった「松平大和守様」の家来が「丑年」に現地の検分を執り行ったことも記されていますから、これらを手掛かりに大凡の年代は推定出来そうです。桜山村や沼間村が松平大和守矩典の支配に戻ったのは文政4年(1821年)のことであると、「新編相模国風土記稿」には記されています。

また、この文書には具体的な宛先も記されていませんから、恐らくは下書きとしてしたためられたものではないかと想像します。実際にこの文書が清書された上で何処かの役所に提出されて吟味されたのか否かについても、「神奈川県史」を見る限りでは不明です。

地元の方以外には、この文書に登場する地名の位置関係が掴みにくいと思いますので、地図上でプロットしてみました。

桜山・沼間・田浦の位置関係
桜山・沼間・田浦の位置関係(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「舟(船)越新田」について、「新編相模国風土記稿」には次の様に記されています。

當所は浦鄕・田浦二村の際にて昔は入海なりしが、年を追て漸く埋れる地なり、寳永の頃團右衛門と云者長島氏にて武州久良岐郡の民なり、開墾の後久く此地を進退せしに、寛政中他に譲れり、新墾の事を企海面に浪除の堤長八十二間、を築き、高三十四石餘の新田とす、田浦村の小名船越に續る地なればこれを村名とす、同五年酒井雅樂頭親愛檢地して貢數を定む、廣[  ]袤[  ]東は海、西南、田浦村、北、浦ノ鄕村村内民家なく、田浦村の民來て耕作す、今松平大和守矩典領分なり開發の後、酒井雅樂頭親愛領分、延享中松平大和守明矩文化八年松平肥後守容衆遷替し、文化四年矩典に賜ふ、

(卷之百十五 三浦郡卷之九、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、複数字の欠落を意味する長方形は[]にて表現)



迅速測図上の「船越新田」(「今昔マップ on the web」より)
今も京浜急行京急田浦駅の東側に「船越町」交差点がありますが、かつての船越新田はその東側の、海に近い一帯でした。「風土記稿」が編纂された天保年間には、この新田には全く住民がいなくなっていた様ですが、その前後には若干数の家があった時期もありました。とは言え、実質的には隣接する田浦村や浦郷村の支村の様な位置付けであったと見て良いでしょう。この文書で「田浦村舟越新田」と連名になっているのは、こうした状況が背景にあると思われます。


県道24号線沼間トンネル付近
この辺りを運河で貫くつもりだったのだろうか
ストリートビュー
見ての通り、田浦村は江戸湾に、桜山村は相模湾に面しています。この2村が船で行き来しようとすれば、三浦半島を大きく南に回り込むしかありません。この2村を結ぶ運河が出来れば江戸への短絡路となり、大きな時間短縮に繋がるでしょう。そこで、桜山村に河口を持つ田越川の流路を活かして三浦半島の付け根を東へ遡上し、その最上流で尾根筋を「掘り抜」いて東側の田浦村で江戸湾へと出られる運河を造ろうという計画をお上に願い出た、という訳です。

田越川については、以前浦賀道を取り上げた際に、その河口付近に架かる田越橋(現:富士見橋)を紹介しましたが、その付近ではかなりの川幅がありました。ここから田越川を遡上して船越新田方面に抜けるということは、現在の神奈川県道24号線(横須賀逗子線)のルートに近い位置で山を抜ける想定をしていた様です。この運河計画は30年も前から沼間村にまで風の便りに聞こえていたようですが、受理した先代の領主によって案外真摯に検討されたらしいことは、「丑年」の現地の検分が実施されたことで明らかです。

この計画に対し、田越川の上流に位置する沼間村が、許可を与えないで欲しいと願い出る意見が述べられているのが、この文書の主題です。沼間村は文書にも見える通り東西に細長く伸びた村で、その平地は田越川の両岸に展開するのみです。そして、その僅かな平地の他は谷間の斜面に何とか畑を作っているものの、鹿や猪の害に悩まされていたことが綴られています。この村の主要な生産地や住居地である僅かな平野から運河のために大々的に立ち退かされてしまったのでは、村に深刻な影響を及ぼすことになりかねない点を、この文書の筆者が懸念している訳です。

この運河の建設計画に関連する文書を他に見ていませんので、この運河を具体的にどの様に実現しようとしていたのかは定かではありませんが、考え得る可能性を検討してみましょう。運河は、荷物を積んだ高瀬舟が航行できる程度の水深(最低でも数十cm)が確保出来なければ実用になりません。それには相当量の流量が田越川になければなりませんし、更には尾根を切り開いて船越新田まで向かう運河にも同様の水量が必要ですから、その運河を満たせるだけの潜在的な水源も必要でしょう。


堰橋付近。田越川の通常の水位はこの程度
現在は治水工事によって河道が掘り下げられている
ストリートビュー
しかし、田越川の現状を見ても、この川がそれ程の水量に恵まれている様には見えません。神奈川県の資料によれば、田越川について、

田越川(たごえがわ)は、その源を逗子市沼間(ぬまま)の横浜横須賀道路の逗子IC付近に発し、逗子市内を貫流して相模湾に注ぐ、流域面積約13k㎡、幹川流路延長約3.1kmの二級河川である。河口から池子川合流付近(2.36km)までの長い区間が感潮域となっており、河口から久木川合流付近(0.56km)までは河床勾配がほとんどない。

(「田越川水系河川整備基本方針」1ページより)

と、かなり上流まで海水が入って来るものの、その上流では

堰橋地点における過去10年(平成17年~平成26年)の平均渇水流量は、約0.01㎥/s、平均低水流量は約0.02㎥/sである。

(同書6ページより)

と、ごく僅かな流量しかないことを指摘しています。江戸時代の流量が現在と同等かどうかはわかりませんが、付近の地形を見る限り、田越川の流量が現在より遥かに多くなる様な水源は見当たらないと思います。この流量ですと、幅1mの狭い水路でも水深は精々数cmに過ぎず、高瀬舟を浮かせる程の水深はとても確保出来そうにありません。実際に、現在の田越川の上流ではごく僅かな水深しかないことが上からの観察でも窺えます。まして、実用的な水運に使えるだけの幅を運河に確保するとなると、更に水量が足りないことになります。

因みに、「風土記稿」では田越川について

◯田越川太古要加波 郡の北に在り、沼間村の谷間より出て西流し櫻山村に至て海に入る、此川凡四名あり、水源にては矢ノ根川也能禰加波櫻山村に入て烏川可良須加波逗子村の界を流れて淸水川之美都加波と稱す、小坪村の界に至て始て田越の名を得夫より直に海に入る川幅源は僅二三間末は十二間に至る【東鑑】には多古江川と書し【承久記】は手越川に作る櫻山□條に詳なり

(卷之百七 三浦郡卷之一より、強調はブログ主)

と記しているものの、「風土記稿」の「川幅」は必ずしも水路自体の幅を意味しておらず、特に上流の渓谷になっている区間では谷の幅を測っています。従って、水源付近で2〜3間幅があると言っていても、この幅の低水路があったことを意味していません。


そうなると、田越川を更に浚渫して最上流まで海水が入り込む様にするしかありません。いくら田越川沿いの平地が特に平坦と言っても、最上流では標高は20mを超え、江戸湾側に越える峠付近では70m程に達します。県道24号線の沼間トンネルも標高36mほどの山腹に開口部を持っています。相模湾と江戸湾を海水路で接続しようとすれば、実質的にはこの標高の土地を海抜以下まで掘り下げることになります。これもとても現実味のある計画とは言えませんが、この文書で沼間村の平野が大きく失われてしまう心配をしているところをみると、あるいは彼らが伝え聞いた計画はこの方針だったのかも知れません。

実際にこの運河計画がその後どの様に検討され、どの様な理由で実現しなかったのかは定かではありませんが、何れにせよ、この計画が実行に移されることがなかったことは、運河掘削の痕跡が全く残っていないことで明らかです。恐らくは、内陸まで平坦な地が続くという地元の人々の素朴な感覚が、この運河計画を発想した背景にはあるのでしょうが、それを現実のものにするには、常に低いところに向かって流れる水を如何に大量に確保するかという、一筋縄ではない課題をクリアしなければなりません。当時の現実的な技術では、それは全く不可能とまでは言えないにしても、相当に高いハードルではあったでしょう。

また、幕末で海外から押し寄せてくる欧米の艦船への対応で手一杯になっている各領主にとっても、大掛かりで厄介な工事が確実なこの水路計画を、実現するだけの経済的な余裕がなかったことも、桜山村や田浦村にとっては不利だったと言えるでしょう。


JR横須賀線東逗子駅付近
東逗子駅の開業は昭和27年(1952年)
所在地の住所は逗子市沼間1丁目
(「Yahoo!地図」より)
しかし、この田越川付近の地図を眺めると、田越川に沿ってJR横須賀線が走っていることに気付きます。明治22年(1889年)に開業したこの鉄道は、逗子駅を出ると京急逗子線を潜った辺りから沼間トンネルに達するまで、田越川を数度渡りながらほぼ直線的に進みます。現在の東逗子駅からトンネルまでは勾配を登って行くのが車窓からでもわかりますが、そこまではほとんど平坦に見える区間です。

東海道線や横須賀線の開業に尽力した井上勝は長州藩の出身で、同藩が三浦郡に所領を持っていた頃に彼も三浦半島に来ていた様ですが、彼や当時の鉄道局に詰めていた長州藩の出身者が、果たして田越川を利用した壮大な水運計画があったことを知っていたかどうかはわかりません。ただ、勾配に弱い鉄路を新たに敷設するに際しては、この田越川沿いの平坦な土地は極めて都合が良かったのは確かです。

桜山村や田浦村の人々が思い描いた運河が実現することはなかったものの、その背景にあった地理的な特性は、別の形で活かされる結果になったと言えそうです。
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浦賀の葦鹿:「新編相模国風土記稿」より

以前「新編相模国風土記稿」の各郡の産物一覧をまとめた際には、浦賀の「葦鹿(あしか)」を「変わり種」としてごく簡単な解説を付けました。と言っても、別途引用したのは「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(2003年 神奈川県生命の星・地球博物館編)だけで、当時の実情についてこれといって掘り下げた訳ではありませんでした。そこで今回は、もう少し史料を集めて改めて解説したいと思います。


まず、「風土記稿」の各部の記述を拾ってみます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯葦鹿三浦郡西浦賀分鄕の海中、海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして、其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯葦鹿阿志加◯西浦賀分鄕の海中海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 西浦賀分鄕(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    ○海鹿島阿志加之末陸より十町餘に在、二島相並ぶ一は長十四間半、横十間許、一は長十三間横七間葦鹿常に此島に上りて午眠す、故に此名あり、享保以後浦賀奉行より同心等に命じ鐵炮をもて打しむ、此獸冬月は頗多く、寒中は其肉味殊に美なりと云、又此島に續て笠島と云小島あり、常に水中に沒す

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編と三浦郡図説の記述の違いは「三浦郡」の3文字が入っているか否かだけであり(読点の位置の違いは雄山閣版編纂時に生じたもの)、事実上完全に同一で、冬場に特にその数が増え、肉が美味であることを記しています。他方、西浦賀分郷の項では「海鹿島(あしかしま)」の項でアシカが常に休んでいる島であることからその名が生じたこと、そして享保年間以降浦賀奉行が同心に命じて鉄砲で撃たせていたことが記録されています。

和漢三才図会巻38海獺
和漢三才図会「海獺」
訓は「うみうそ」で「あしか」はない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
和漢三才図会巻38海鹿
同じく「海鹿」
こちらには「あしか」の訓がある
(「同左」)

「風土記稿」ではアシカの表記に「葦鹿」の字を宛てていますが、この表記を何処から持ってきたものかはわかりません。「和漢三才図会」では上掲の様に「海獺」と「海鹿」の2種類の項を掲げつつも、両者は実質的に同じものであることを「海獺」の絵の下や「海鹿」の書き出しの部分に記しています。また、「本草綱目啓蒙」では「海獺」の項のみが存在し、「ウミヲソ」「ウミウソ」の訓に加え、筑前で「アシカ」の名で呼んでいるとしています。以下に引用する村明細帳でも「葦鹿」の表記は用いられておらず、本草学の表記に従うことの多い「風土記稿」にあっては珍しい例と言えそうです。

浦賀道見取絵図:燈明崎付近
浦賀道見取絵図:燈明台付近(再掲)
ここで登場する「海鹿島」ですが、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では、燈明台の置かれていた燈明崎からさほど離れていない場所に位置している様に描かれています。

地形図上の「海獺島」(「地理院地図」)
ズームアウトすると西北側に久里浜港が見えてくる

しかし、現在「アシカ島(海獺島)」として知られている小島は陸地からは大分離れて位置しており、むしろ久里浜に近い海上にあります。「風土記稿」の記述でも「陸より十町(約1.09km)餘に在」と記していることからも、「海鹿島」は決して陸に近い岩礁などではなかったことは確かです。「浦賀道見取絵図」を含む「五街道其外分間見取延絵図」では、道路とその近傍のものについては測量結果を元に距離関係をなるべく忠実に反映する様に描いていますが、より遠方の目標物に関しては必ずしもその限りではなかったため、「海鹿島」については図中に収まる位置に描いたのでしょう。

「海鹿島」が久里浜村の属ではなかった点は今の町名からはやや違和感がありますが、西浦賀分郷は現在の久里浜港のある入り江付近まで拡がっていましたので、その点ではこの小島が西浦賀分郷の内にあったのはさほど不自然ではありません。「風土記稿」に「二島相並ぶ」とある点、そして最長で14間半(約26m)という特徴は大筋でこの島の特徴と合っていますが、かつてはこの小島の上で多数屯していたというアシカの姿を見かける代わりに、現在では燈台と海上の気象観測のための無人施設が設置されています

ともあれ、当時はこの島に集うアシカを撃たせていたと「風土記稿」は記している訳ですが、この裏付けとなる史料としては、東浦賀が享保18年(1733年)5月に差し出した村明細帳を挙げることが出来ます。この村明細帳は浦賀奉行の交替に際して領内の各村から提出させたものであることが表紙に記されていますが、その中に

一あしか御用付御鉄炮衆御出被遊候節、人足漁船御用相勤申候

(「相模国三浦郡の村明細帳」青山孝慈著、「三浦古文化」第13号 1973年 所収 63ページより)

という一文があります。浦賀奉行が鉄砲衆を連れてアシカ狩りを行う際に、東浦賀から船と人足を出していたというのですが、現在の地形図で見ても1km以上離れた海上の島にいるアシカを陸上から狙うのは、射程距離200m程度とされる当時の鉄砲ではまず無理で、船で射程圏内まで接近する必要があったのでしょう。特に年月や時季については明記されていませんが、冬場の肉が美味であると「風土記稿」が書いていることから判断すると、毎冬に定期的に行っていたことになりそうです。

捕えたアシカは誰が食べていたのでしょうか。「徳川実紀」の「大猷院殿御實紀卷六十六」では、正保4年(1647年)4月3日の項に

けふ葛西二の江漁人得たりとて海鹿を獻ず。(日記、紀伊記)

(「新訂増補国史大系第四十巻」吉川弘文館 480ページ下段より)

とあり、当時の将軍であった徳川家光に対して東葛西領二ノ江村(現:東京都江戸川区二之江町他)の漁師が捕えたアシカが献上されています。同書の索引で確認する限り、アシカが将軍に献上された記録はこれ1件のみの様ですが、浦賀奉行が例年撃たせていた状況から見ても、武家にとっては「珍味」と言うべき存在だったのでしょう。また、この記録から当時は江戸の近海でもアシカの姿を見ることがあったことが窺えます。

漁師がアシカを食していた可能性についてはどうでしょうか。三崎の漁師であった湊左文という人が著した「相模灘海魚部」という書物には、相模灘で得られる海産物などをまとめた中にアシカの姿が描かれており、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」には彦根城博物館が所蔵する同書の写本の絵が掲載されています。この書物について国立研究開発法人 水産研究・教育機構 中央水産研究所の図書資料デジタルアーカイブでは「作成年不明」としていますが、彦根城博物館がこの写本を所蔵しているのは彦根藩が幕末に海防の目的で三浦郡の一部を所領とした時期(弘化4年・1847年〜嘉永6年・1853年)があったことと関係が高いと考えられることから、少なくともこの書物はその頃には写本を献上できる状態にあったと考えられます。この「相模灘海魚部」のアシカの絵について、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」では「尾が太く長く描かれているなど、不正確な絵であるが、ニホンアシカと同定される」(93ページ)と評していますが、確かに尾部の表現は実物とは若干異なっている様に見えます。

注目すべきはその右側に記された記事で、「味似伊留加(味イルカに似る)」と記されていることから、少なくとも著者の湊左文はアシカやイルカを食した経験があった様です。また、この記事の中では「魚網魚取食故漁人甚悪之」と記していることから、漁師からは「害獣」として認識されていたことがわかります。当時の実情からは漁師自ら鉄砲を持って積極的に捕獲する訳には行かなかったと思われることから、彼らの場合は漁の最中に網に掛かったりしたアシカを捕えていたのでしょうが、彼らもその様な経緯で得たアシカを食す機会はあったものと思われます。ただ、当時の漁師がどの程度の頻度でアシカを口にしていたかは良くわかりません。少なくとも、江戸時代を通じて一定数が生息していたと考えられるので、個体数を減らしてしまうほどの積極的なアシカ漁は行われていなかったのではないか、と個人的には考えています。


三崎の漁師である湊左文が、自らの漁場を離れて浦賀の近海まで乗り出していたとは考え難いので、彼がアシカを見かけていたのは洋上か三崎付近の岩礁の様な場所だったのでしょう。「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」にはこの浦賀の「アシカ島」の他に、「かつてニホンアシカが繁殖または休息のために上陸した小島・岩礁」と題した図を掲げ(93ページ)、地名から推察したと思われるかつてのアシカの生息地を列挙しています。このうち、神奈川県の沿岸では
  • 横浜市神奈川区(トド島)
  • 横須賀市久里浜(アシカ島)
  • 三浦市八浦(トドノ島)
  • 三浦市晴海町(トッド島)
  • 三浦市城ヶ島(アシカヶ入江)
  • 葉山町森戸(トットヶ鼻)
  • 葉山町森戸(トットノ島)
と、城ケ島をはじめ三浦半島沿岸の地名を多数挙げており、アシカの生息する海が多数あったことが窺えます。この中には三崎の対岸に位置する城ケ島の名前も含まれていますので、湊左文がアシカを見たりしていたのはこの付近でしょう。この一覧では他に、房総半島、伊東、伊豆大島の地名が挙げられています。


三浦市南下浦町毘沙門字八浦の位置(「地理院地図」)
「風土記稿」の三浦郡毘沙門村(現:三浦市南下浦町毘沙門)の項には

◯海 村南にあり、江戸迄海上十八里、海岸に白濱・八浦夜都宇良をそ・堂ケ島等の名あり、

(卷之百十二 三浦郡卷之六、強調はブログ主)

とあり、「トドノ島」の代わりに「をそ(獺)」の名が挙げられていることから見ると、こうした海岸の名称はその時々によって呼び替えられていたのかも知れません。

後にシーボルトが持ち帰った標本やスケッチをもとににして編纂された「日本動物誌」の中では、アシカは「Otaria Stelleri」としてその姿骨格などの図(リンク先は「京都大学電子図書館 貴重資料画像」)と共に紹介されました。シーボルトが持ち帰ったとされるアシカの標本がオランダのライデン・国立自然史博物館に所蔵されているそうですが、滞在していた長崎・出島で入手したものとされ、当時はこうした地域でも普通に見られる動物であったことがわかります。

こうした状況が変化していったのは、やはり明治時代の後期頃からであった様です。神奈川県の「レッドデータブック2006年版」では次の様に記されています。絶滅の原因については他にも乱獲駆除などを挙げることは出来そうですが、何れにしても人為的な側面が強く作用したことは間違いないところでしょう。

ニホンアシカ Zalophus californianus (Lesson)(アシカ科)

県カテゴリー:絶滅(旧判定:絶滅種B)国カテゴリー:絶滅危惧ⅠA類

判定理由:明治30年代頃までは、棲息の記録があるが、以降は全くみとめられない。

生息環境と生態:海岸部で休息・繁殖する姿が以前は認められたが、現在はない。

生息地の現状:繁殖や休息に利用していた岩礁海岸が開発と共に消失してしまった。

存続を脅かす要因:海岸開発、水質汚濁

県内分布:絶滅したため、なし

国内分布:不明

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 236ページより)


実はこの2006年のレッドデータブックのこの項では、末尾に参考文献として「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」が挙げられています。既に域内からは絶滅して久しい動物だけに、過去の記録を引き継ぐ以上に記述の厚みを増すことが出来なくなっていることが、こうした文献の参照関係にも現れているとも言えそうです。
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島崎藤村「夜明け前」と公郷村と浦賀道

前々回の記事に対して、たんめん老人さんから島崎藤村「夜明け前」に出て来る公郷村についてコメントをいただきました。そこで今回はその補足として、「夜明け前」の題材となった公郷村の名家や浦賀道について少しまとめてみます。

「夜明け前」は幕末から明治にかけての木曽路・馬籠宿の本陣家の当主、青山半蔵を主人公に据えた小説です。藤村自身が馬籠宿の本陣家の末裔であり、半蔵は藤村の父がモデルであるとされていますが、木曽山中の宿場が主な舞台となったこの小説に相州の漁村が登場するのは、この長編小説の中で安政年間を書いた第一部第二章の中です。この本陣家を訪れた山上七郎左衛門という人物が、隣の妻籠宿の本陣に泊まった際にその2つの定紋が自身のものと同じであることに気付いたことから、馬籠・妻籠の青山家の先祖が元は三浦の山上家から分かれてこの地に移ってきたことを知り、半蔵がはるばる公郷の地まで先祖の出身地を訪れる、という筋になっています。

木曽路から江戸を経て東海道を進んだ半蔵一行は金沢まで陸路を進み、そこからは海路で横須賀へと向かい、上陸して程なく公郷村の山上家の屋敷に到着します。小説から当時の景観が参考にされたと思われる箇所を抜き出してみます。

…三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを(おも)って見ることはできた。ある(みさき)のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。

公郷村(くごうむら)とは、船の着いた漁師町(りょうしまち)から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷だ。

半蔵の前にいる七郎左衞門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衞門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。

松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衞門は浦賀の番所通いの話などを半蔵等の前で始めた。…

夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の(がけ)の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏(みゃくはく)のように、()をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。

(青空文庫版より、…は中略、強調はブログ主)


無論、小説ですから何れも氏名は変えられているのですが、この公郷の名家にもモデルが存在します。島崎家も実際に三浦一族の末裔で、同じ三浦一族の中で永嶋姓を名乗った3代目の正義の弟、正胤が木曽で島崎姓を名乗る様になったという関係にあります。永嶋家については「新編相模国風土記稿」でも

◯舊家庄兵衛 里正なり、家號を永島と云ふ、家系一卷を藏す 其略に先祖三浦大田和平六兵衛義[勝]、新田義貞鎌倉を攻るの時先陣を承りて武功を顯す按ずるに、【太平記】に… 後相模次郎時行に從ひ、足利尊氏と戰ひ又楠正成の手に屬す、…義藤の子平太郎義政故ありて家號を永島と改む、…正重後出雲守と稱す、北條氏茂に隨ひ浦奉行を勤、其子庄太郎正氏後出雲守永正十七年家を襲ぎ濱代官海賊役を勤む、永祿七年國府臺合戰に氏綱に隨て軍功あり、天正四年二月死す、其子庄司正朝母は正木兵部大輔が女なり、天文十五年より父と同じく濱代官海賊役を勤む家藏天正十三年七月、北條氏より田津濱代官に與る文書あり、此頃當所の内三十五貫二百五十文の地を與へらる家藏永祿六年癸亥十二月の文書に見ゆ、天正二年正朝左京亮となる同十八年小田原に籠城して討死す、其の子莊吾正資の時より村民となり、今の庄兵衛に至りて八代なり 松平肥後守容衆領分の頃軍船水主差配役を勤め、苗字帶刀を許さる、文政四年松平大和守矩典が領主たりし時も亦舊の如し、所藏古文書十一通あり

(卷之百十四 三浦郡卷之八 雄山閣版より、…は中略、なお[勝]については下記コメント参照のこと)

などと記されており、永年浜代官や水主(かこ)差配役といった、主に海に関係の深い役を代々務めてきた家柄であったことがわかります。上記の引用箇所をはじめ、半蔵に家系図をはじめとする文書を見せるくだりの設定にも、この永嶋家に伝えられているものが多々反映されています。

この永嶋家の屋敷の長屋門が現在も残されており、横須賀市の「風物百選」に指定されています。

永嶋家赤門

江戸時代の総名主・永嶋家の長屋門。朱塗りであることから赤門と呼ばれている。門扉は江戸時代のものと推定されるが、柱や桁などは新しく何度か改修されている。

永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代は小田原北条氏の支配下にあって浜代官を努め、江戸時代には名主を務め代々永嶋庄兵衛を名乗っていた。

島崎藤村の『夜明け前』にもこの永嶋家が「公郷村の古い家」として登場してくる。赤門の脇に文久2年(1862年)の浦賀道を示す円柱形道標があり「右大津浦賀道、左横須賀金沢道」と刻まれている。以前は今と反対側の磯浜の側の聖徳寺坂下にあった。

また今は米が浜で営業している料亭「小松」はこの赤門の前にあった。

横須賀市ホームページより)



永嶋家赤門の現状。手前の石の円柱が道標
ストリートビュー
永嶋家赤門と浦賀道の位置
永嶋家赤門と浦賀道の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)

この赤門と浦賀道の位置関係を、地形図上で「明治期の低湿地」の主題図を合成して作成しました。主題図の元になった迅速測図は三角点を用いた厳密な測量を行って作図したものではないため、現在の地形図とは精確に重ねることが困難になっており、特に三浦半島域内ではその傾向が強い様でかなり大きなズレを生じています。上記の永嶋家の屋敷があった辺りに海を示す濃い青が重なっているのはその影響ですが、少なくとも永嶋家の屋敷の敷地が直接海に面する場所にあったことが直感的にわかりやすいことから、敢えてこの図を選択しました。ともあれ、この付近の海面は大正年間に安田保善社によって大きく埋め立てられ、その周辺の海面も幾度かにわたって埋立地が拡大されていきました。日の出町、米が浜通といった現在の横須賀の中心街は何れもそれらの埋立地の上に築かれ、国道134号線もこの上にありますので、現在の景観や交通がこうした埋立事業よって大きく変貌したことは確かです。


従って江戸時代当時の景観や交通事情を考える際にはこうした地形の変遷を考慮する必要がありますが、浜代官など海の要職を代々務めたとされる永嶋家の屋敷が、かつては海に面する地に存在したのは当然ではありました。

そして、「夜明け前」の描写では「公郷の古い屋敷」には「裏山」があり、その上の茶室から家主と半蔵が、崖を洗う海を眺望するシーンが描かれています。上記の地形図に重ねた色別標高図でも永嶋家の敷地に接する様にして高い崖地が存在し、門前の道がかなり深い切通を降りてくることが読み取れます。勿論、現在の切通はその後も更に拡幅されてきたものですが、切通脇の聖徳寺の敷地や門前の道の形状から、当初の地形の概略を窺うことが出来ます。

永嶋家の長屋門前に保存されている標柱型の浦賀道道標は文久2年の刻印がありますが、これは浦賀道が安浦の浜筋を通る様に付け替えられた後のものということになります。無論、それまでも永嶋家の屋敷へ通じる道が何処かしらにあった筈ですが、恐らく当初は継立の馬を通すには厳しい細くて急な道だったのでしょう。それでも船の方が至便な交通手段であった彼らにとっては、陸路が脆弱でも大した不便もなかったものと思われます。


米が浜付近の迅速測図
「米ヶ濱」の字の下の海岸に崖地を示す描写が続いているのが確認出来る
(「今昔マップ on the web」)
実際のところ、浦賀道が横須賀から内陸へと入っていく道筋を辿っていたのは、その先の米が浜から安浦にかけて、切り立った海岸段丘が海に張り出していて海沿いを進む道をつけることが出来なかったからです。龍本寺が乗るこの段丘は標高が50mほどあります。この段丘からの眺望の良さは現在もこの段丘上に位置する横須賀中央公園からの眺め(ストリートビュー)で確認出来ますが、眼下には横須賀共済病院の建物の屋根が見えています。この病院の敷地側から崖を眺め(ストリートビュー)ると、段丘崖を補強するコンクリート擁壁が病院の建物に匹敵する高さにまで直立しており、その高さを窺い知ることが出来ます。

陸路の交通量がそれほどではなかった時期には、敢えてこの段丘を削って安浦方面への降り口を付けるだけの動機を得られなかったため、金沢から浦賀へ向かう継立道は横須賀から小矢部の法塔十字路へと迂回していたのでしょう。それが、幕末になって浦賀の役割が増すにつれて、迂回路で時間をとられている訳に行かなくなったことで、浜へ降りる切通をつける動機が生まれてきた訳です。

藤村は実際にこの公郷の永嶋家にも訪れていた様で、その際に屋敷周辺の景観についても一通り把握した上で「夜明け前」のこの箇所の執筆に臨んだことが、引用した箇所の表現にも窺えます。そしてその海岸に屹立した海岸段丘の麓にあった屋敷の景観は、浦賀道の道筋の変遷を考える上でヒントを提供してくれるものである様に思います。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その2)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回はまず、「山川編」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡の炭の産地について考える上で、相模国の炭の産地が他にどの地域に分布していたのかを確認するところから始めます。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」には近世の産業にまつわる史料が集められていますが、その産業編第2部「林業と石材」中に「炭」にまつわるものを集めた項があります(846〜865ページ)。ここには全部で10件の史料が収められていますが、その表題や日付を一覧にすると次の通りです。

番号表題日付
120津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書延享4年(1747年)6月
121足柄上郡谷峨村炭焼運上等赦免につき請書寛延元年(1748年)8月
122足柄下郡米神村炭焼願につき根府川村故障無き届書天明4年(1784年)12月
123津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上寛政2年(1790年)2月
124津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願文化4年(1807年)3月
125愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳天保5年(1834年)8月
126足柄上郡仙石原村困窮につき炭焼願弘化2年(1845年)11月
127足柄上郡皆瀬川村・川村山北困窮につき平僧山にて炭焼願安政6年(1859年)8月
128駄賃付馬士不法につき足柄上郡内二十四カ村農間炭買主願書万延2年(1861年)2月
129津久井県与瀬村新規炭焼請書文久2年(1862年)10月
※「神奈川県史 資料編9 近世(6)」より各史料の見出しを拾い上げたもの。番号と日付は漢数字を算用数字に置き換え。

無論、「神奈川県史」に収録された史料は県下に伝わるものの全てではなく、県史編集者が必要性を考慮して見繕ったものが収められている訳ですから、ここで挙がっている文書の関与する土地だけが相模国内での産地として限定される訳ではありません。しかし、少なくとも主だった産地と考えることは出来るでしょう。この10部の文書の関与する産地としては、「風土記稿」で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡・愛甲郡の他に、津久井県の名前が文書番号120・123・124・129の4件で登場します。



荒川番所の位置(再掲)現在は津久井湖の水面下
「新編相模国風土記稿」卷之123太井村「荒川橋之図」
「風土記稿」卷之百二十三より「荒川橋之圖」
夏場には船渡しだが冬場で仮橋が架けられている
図の中央の大型の建物が荒川番所
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当図部分のみ抜き出し)
その最初の「津久井県村々生産炭・木材等荒川番所五分一運上定値段定書」(以下「値段定書」)は、荒川番所に納める運上金の価格を改定した際の文書です。荒川番所については以前も登場しましたが、「風土記稿」では

◯荒川番所 五分一運上取立の番所なり六畝廿一歩の地を除す相模川に臨て立てり、凡材木炭薪船筏ともに五分一の貢賦を此所にて收む、御代官手代一人、下役二人こゝに居て其事を掌どる、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八 太井村の項、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と紹介されています。相模川を舟運で下る荷物に対して賦課される運上金を取り立てるのが彼らの主な役目ですが、その対象品目の中に「炭」が含まれています。「値段定書」ではその筆頭に炭が取り上げられていて、相模川を下る品目の中でも主要な地位を占めていたことが窺えます。

この文書の中に「蓑笠之助」の名前が登場しますが、この人は富士山の宝永大噴火の後、酒匂川の土砂災害の復旧に義父である田中休愚とともに従事し、後に南町奉行所に取り立てられて幕臣となった役人です。工事の完了後の享保19年(1734年)に津久井県の大半が所領として与えられたため、それ以後荒川番所の管轄も彼の支配下に入ったことになります(寛延2年・1749年まで)。この「値段定書」はそれまでの運上金取立の運用を周辺の市場での価格動向に照して見直して勘定奉行に報告し、認可された結果が村方に通達されたものです。

その冒頭には「白炭」が2項目記されています。因みに「白炭」とは炭焼の最終過程である「ねらし」で一旦高温に曝して炭の純度を高めたもので、この行程で灰を被せて火を消すために炭が白っぽくなることからこの名で呼ばれます。タイミングを間違えると炭が灰になってしまうなど高い技量を要求される行程ですが、出来上がった炭は火持ちが良いことから高級炭とされます。

相州津久井県村〻五分一運上定直段左之通奉伺候

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚五拾文宛

但定直段

鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・中野村・与瀬村・三井村・太井村ゟ出シ候白炭五分一定直段、前〻八貫目入壱俵付七拾文相極取立来候処、江川太郎左衛門(英彰)支配所之節ゟ四貫目入ニ而出之候間、八貫目入半滅三拾五文之積百姓共相願候得共、御吟味之上四貫目入壱俵五拾文定直段相極取立可申旨、御証文引付を以取立候付、猶又此度市場町〻問屋共方ゟ相場付取之吟味仕候処、直段難相増御座候間、是先御証文之通、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積、

一 白炭 五俵

但壱俵四貫目入

此五分一運上炭壱俵

此代鐚四拾文

但定直段

青根村・牧野村弐ケ村ゟ出シ候白炭、五分一運上之儀、右両村山奥ニ而外村ゟ道法弐里半余遠ク、至極難所附出候得共、只今迄外村之通鐚五拾文宛取立候処、右之通難所附出候付、貫目軽ク仕出、市場払方も下直候間、先格之通拾文引之積運上相納度由相願申候付、此度吟味仕候処、壱俵四貫目入と申名計りニ而、実三貫弐百目ならて無之段、相違無御座候、右弐ケ村之義古証文も外村ゟ拾文引之積り御座候、依之向後貫目之無差引四貫目入相定、壱俵鐚四拾文ツヽ之積り、荷物出次第書面之定直段割合ニ而取立候積り、

(上記書846〜847ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


「〜荒川番所五分一運上定値段定書」に登場する白炭の産地
この文書の「白炭」の項に登場する村々の位置
赤が50文/5俵の村、青が40文/5俵の村
(「地理院地図」)
同じ「白炭」の運上金の項が2つ出て来るのは、村によって金額が異なるからですね。ここで登場する村々の位置を地形図上でプロットしてみましたが、確かに青根村と牧野村は荒川番所から大分離れた場所に位置しているため、運び出す労力負荷が過大になることを配慮して手心を加えていることがわかります。前回も見た通り、それでなくとも炭の陸運には困難が伴う実情がありましたから、距離が延びればそれだけ積み荷の炭が輸送時の振動で損傷を受ける度合いが増えてしまうことになり、その不利は勘案しなければならないという共通認識が領主側にもあったことが窺えます。

とは言え、この文書の説明によれば、元は1俵が8貫(約30kg)で運上金が70文であったものが、韮山代官であった江川太郎左衛門の支配であった時(享保16年頃)に半分の4貫匁の俵に変更されています。その意図は良くわかりませんが、その際に運上金も半分の35文でという村々の願いは叶わず、50文になってしまった訳ですから、この時に運上金を吊り上げられたことになります。村方の願いが聞き入れてもらえなかったのは、白炭の取引価格が相応に上がっているのだから、という理屈でしょう。蓑笠之助はその運上金の価格が妥当であるかを最新の市場の動向と照して確認し、その定めの通りで今後も取り立てると決めた訳です。

「値段定書」では白炭に続いて「鍛冶炭」の運上金が定められ、荒川番所に近い村々は8貫入りの俵5俵につき(びた)86文、青根村と牧野村は白炭同様の手心を加えられて10文引きの76文となりました。なお、鐚86文の村は「鳥屋村・青野原村・青山村・寸沢嵐村・千木良村・三井村・又野村・太井村」と、白炭とは若干顔ぶれが異なっています。千木良(ちぎら)村は今の相模ダムの下流左岸、与瀬の東側に位置する村で、又野村は中野村の北側に位置しています。これらの村からは鍛冶で使う低廉な炭だけを産出していたことになります。地形面で他の村々と異なる、炭焼に不利な環境があったとは考え難いので、白炭の炭焼技術が不足していたということになるでしょうか。

文書は更に薪の運上金を定めていますが、ここでは青根村や牧野村の名前はなく、「三ケ木村・中野村・寸沢嵐村・三井村・若柳村・長井村・根小屋村・中沢村」に対して、やはり運上金を500束に対して永200文に据え置くことが定められています。一部の村は白炭を出している村と重複しているものの、こちらにのみ名前が記されている村々では炭焼を行っていなかったことになります。また、薪は大量に伐り出しても安くなってしまうので、相模川から遠い青根村や牧野村では険しい山中を長距離に亘って運び出す労力に見合わず、商品価値のある炭にしないことには割が合わなかったということになるでしょう。

実際、文書番号129「津久井県与瀬村新規炭焼請書」では、村内の御林の雑木を見立てて6貫の炭俵にして100俵分ほどの炭が焼け、金1両当たり炭21俵の価格になる見込みを報告し、御林の役人宛てに炭焼の用命を求めている文書です。無論、御林の木々は村方の一存で自由に伐ったり出来ないものでしたから、これは役人の方から求めがあって見積もりを出したということになるでしょう。山で稼ぐ村々にとっては、炭は現金収入に繋げやすい産品であったことが窺えます。

もっとも、文書番号124「津久井県牧野村運上炭焼出し赦免願」では、牧野村内の御林(「風土記稿」では全部で6箇所の御林が存在したことが記されている)の材木のうち不要になった分を炭に焼いて江戸で売り捌いて運上金を収める様に求められたものの、石窯を使って焼いたところが炭が多く粉になって売り物にならなくなってしまい、見込みよりかなり目減りしてしまったため、目論見通りの運上金を収められなくなってしまったことへの詫び状となっており、古くから白炭を焼いてきた筈の村でも必ずしも求め通りの炭を焼けるとは限らなかった様です。最初の荒川番所の文書は、そうした炭焼の技術の有無という観点から読むことも出来るのではないかと思います。因みに、この文書は下書きのためか後付けがなく、誰に対して宛てて出す予定であったかは不明です。

こうした村々がどの様な種類の木を炭に焼いていたかが窺い知れるのが、文書番号123の「津久井県鳥屋村奥野山稼出し炭・材木等書上」です。これは鳥屋村の名主・与頭・百姓代が領主・江川太郎左衛門の手代の求めに対して報告したものですが、どの様な事情があってこうした問い合わせを受けたのかは不明です。この文書では炭にする樹種の他に、板材にする樹種(4種)と、下駄に使う樹種(5種)が記されていることから、その使い分けに関心を寄せる様な動きが何かあったのでしょう。以前「椎茸」を取り上げた際に同じ鳥屋村の寛政5年の文書を取り上げましたが、年次が近いことから考えると、あるいは3年前のこの頃から既に打診があったのかも知れません。

この文書によれば、「白炭焼出稼来候木品」として「すろの木/ふなの木/もみじの木/はいた木/かしわ木/白ゑひす木/あらは木/ふじ木/ならの木/くぬき木/なたくま木/みねはり木/さくら木/うりの木/なゝかまと木/かつら木/はんの木/あつま木」と、全部で18種類もの木が書きつけられています。およそ丹沢山中の雑木林に生えてくる樹種は一部を除いて白炭にされていたと言って良さそうです。これに対して「鍛冶炭焼出稼来候木品」には「かつの木/すきの木/いも木/うつ木/なへくた木」と5種が書き付けられるに留まっており、白炭に比べて意外に樹種が少ないのが興味深いところです。何れにせよ、鳥屋村に限らず津久井県の他の村々が炭に焼いていたのも多かれ少なかれこれらの樹種であったと考えて良さそうです(以上、上記書853〜854ページ)。

これらの文書から窺える様に、津久井県の炭焼もかなり大掛かりに行われ、荒川番所を通じて領主への主要な貢税の対象とされていたことがわかります。「風土記稿」では津久井県を炭の産地として挙げていませんが、その取捨選択がどの様な判断に拠っているのかは良くわかりません。



相模国内の他の郡域はどうでしょうか。そこで気になってくるのが、「風土記稿」の三浦郡上山口村の項に、次の様に「炭竃」という小名が記録されていることです。

◯小名 △三頭美可志羅◯… △三國峠當村・櫻山・田浦三村に跨れる小山なり △石登以之能保利 △間門末加度 △正吟之也宇[糸巳]無 △唐木作加良紀左久 △新倉仁比久良 △蚫塚山安波比都可也末 △粟石 △寺前 △大澤 △星山 △高塚 △炭竃

(卷之百十 三浦郡卷之四より、…は中略、字母の拾えない漢字は[ ]内に旁を示した)



三浦郡葉山町上山口の位置(Googleマップ
確かに上山口村は以前取り上げた通り浦賀道の途上あり、南北に山が連なる内陸の村でした。南側の山の斜面には棚田が広がっていましたが、北側は森林になっていましたから、こうした所から産出する雑木を使って炭焼が行われていたとしても違和感はありません。

ですが、関連する史料を探してみたものの、この「炭竃」に該当する場所が上山口村の何処に該当するのか、そして実際に炭焼がそこで営まれていたのかを確認することは残念ながら出来ませんでした。「風土記稿」には地名が転訛して如何にも炭焼を行っていそうな村名に変わってしまった例も載っていることもありますし、また何らかの地形を炭窯に見立てた比喩表現である可能性も含めて考える必要があり、これだけでは同地で炭焼が行われていた痕跡と判断するのは困難です。強いて挙げれば、やや時代が下った明治初期の「皇国地誌残稿」の上山口村の項に

地勢

北及南ニ山ヲ負ヒ東西田圃ニ連ナリ運輸不便ナレドモ山林居多ニシテ薪炭乏シカラス

(「神奈川県郷土資料集成 第4輯 神奈川県皇國地誌残稿 上巻」1963年 神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 167ページ上段より)

とあるのがその可能性を窺わせるものの、「皇国地誌残稿」の地勢の項を眺めていくと多くの村で「薪炭」と書いていて具体的に炭焼を行っていることを書いていない村が多く、飽くまでも原木となる雑木林が多いことを表現しているだけかも知れません。もう少し他の裏付けが欲しいところです。



横須賀市秋谷の位置
江戸時代の「秋谷村」はこの他に同市子安を含む地域
Googleマップ
ですが、「新横須賀市史 通史編 近世」の283ページには、三浦郡秋谷村(現:横須賀市秋谷)の名主家であった若命(わかめ)家の「安政三辰年十二月」の日付を持つ文書から編成された表が掲載されています。ここには、当時この村から炭や薪が村の外に向けて販売されて幾らかの現金収入を得ていたことが示されています。この表の元になった文書から該当箇所を引用します。

一、炭六百俵

但 金壱両

代金拾二両

五十俵替

一、薪壱万七千五百把

但 金壱両ニ付

代金五十両

三百五十束

右之品々村方ニ而遣払之余り、右書之通他所売出仕候、…

(「相州三浦郡秋谷村(若命家)文書 上巻」横須賀史学研究会編 213ページより、…は中後略)


もっとも、基本的にはこれらの生産は村内での消費分が主で、外販分は飽くまでもその余剰分と書いています。貢税の対象とされることを警戒していたものと思われますが、基本的には漁業を主体に生計を立てる村では、農林産物にかけられる労力にも制約があり、山稼ぎを主体とする津久井県の様には大規模化することが難しい側面もあったと言えるかも知れません。因みに、同地では現在でも炭焼を続けている家が存在していますが、「三浦半島の史跡みち: 逗子・葉山・横須賀・三浦」(鈴木かほる著 2007年 かまくら春秋社)では現在の炭焼技術は明治時代初期に伝えられたものとしています(237ページ)。とは言え、若命家の文書からは同地の炭焼自体はそれ以前から続けられていたことがわかります。

こうした自家消費中心の炭焼が当時どの程度の村で行われていたのか、史料で裏付けるのは難しいところですが、必要に応じて伐り出して来た薪材の一部を炭に焼くといったことは幅広く行われていたのかも知れません。高座郡の相模野の一角を開墾した大沼新田・溝境新田・淵野辺新田でも、その乏しい産物を補うために雑木林を作り、一部を炭に焼いていた例もこちらに数え上げることが出来るでしょう(同地の炭焼については後日改めて取り上げます)。

次回は「風土記稿」山川編の記す足柄上郡や足柄下郡の炭焼について、その記述の問題点を取り上げる予定です。

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