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生麦のツキノワグマ:「中空日記」より

今回の投稿で、当面更新をお休みすることになりそうです。申し訳ありませんが、またお逢いする日まで。

以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。

「中空日記」の著者は香川 景樹(かがわ かげき)、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。

その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる

また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、

今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら

にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし

いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ

たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに

せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命

あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す

わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし

月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん

(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)


生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
生麦付近の東海道の海岸線との位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
生麦(現:横浜市鶴見区生麦)はこのブログでも既に何度か登場しましたが、現在は埋立地によって海岸線から若干離れてしまったものの、当時は右図の通り海沿いの漁村でした。地形的には海岸から少し入った辺りに台地が迫り出してきてはいますが山岳地形ではなく、当時もツキノワグマの出没しそうな深い森が付近にある環境ではなかったと思われます。そうした環境下にも拘らず、このツキノワグマは10年程前に捕獲した母熊の腹を割いて取り上げたものであり、その際に胎児の喉の辺りを危うく鎌の刃先に掛けてしまいそうになり、その傷跡が月の輪の模様の辺りに残っているというのです。景樹はその傷跡を見て一首詠んだ訳ですね。この子熊は茶店の主が与えた芹や柿を食べていたほか、道を行く人の手から様々な残飯を与えられて食べていた様です。

本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。



浄土宗入蔵山究竟院慶岸寺
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
ストリートビュー
この「月刊『鶴見の歴史』」で紹介されている白熊(ツキノワグマのアルビノ)の方は、芸で当たりを取ったツキノワグマに感化された別の茶店の主人によって、何らかの伝手を使ってわざわざ生麦まで連れて来られたものでしょう。しかし、最初の茶店のツキノワグマが何故生麦にやって来ることになったかについては、今のところ「中空日記」に記すところが唯一の様です。当時の生麦の茶店の主が、わざわざツキノワグマを捕獲するために遠路はるばる深い森のある山へと向かったとは考え難いものがあり、やはりよその土地からツキノワグマが生麦にやって来たと解釈するのが妥当でしょう。とすれば、この母熊はどの辺りから来たことになるでしょうか。

念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。

ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]

ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。

本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。

元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。

上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。

(上記書162ページより)


この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。

江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「本綱熊生山谷」また「按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の()」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。

とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
生麦と箱根・丹沢・小仏・相模川の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
箱根や丹沢から生麦までということになると、その間には相模川があります。まさか渡船が熊を渡すとは考えられませんので、母熊は橋のない相模川を泳いで渡らなければならなかった筈です。当時は相模川にはダムはなく、帆船が厚木付近まで遡上出来る程度には水嵩が豊富でしたから、泳いで渡るのもなかなか難儀であったろうと思われます。但し、小仏峠付近からであれば、相模川の様な大規模な河川を渡る必要はなかったでしょう。何れにせよ、母熊は数十キロに及ぶ道程を歩いて生麦まで来たことになりそうです。

また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。

何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。

もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
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藤沢飛行場の空中写真:「地理院地図」から

以前Googleマップ上に誤って表示された「藤沢飛行場」について記事を書きましたが、その後折りに触れて「藤沢飛行場」を検索してこの記事を見に来られる方が月に数名ほどいらっしゃる様です。その「藤沢飛行場」に関連してごく簡単な追記を1件。

「地理院地図」では過去の空中写真を地形図に重ねて見る機能がありますが、当初は1970年代程度までに限定されていました。その後それ以前の空中写真の掲載を進めており、最近になって関東南部の1961〜64年の空中写真も地形図上で参照出来る様になりました。これを使って現在の荏原製作所藤沢藤沢事業所付近のその頃の空中写真を見ると、まだ廃止される前だったと思われる藤沢飛行場の滑走路や格納庫と思われる建物が写っているのが確認できます。また、滑走路の中ほどを横切る街道の存在もはっきりと写っています。右側の「機能」メニューには「計測」というツールがあり、これを使って地形図上の実距離を計測することが出来るのですが、これを利用して滑走路の凡その長さを測ると900m強あることが確認出来ます。

藤沢飛行場は1964年には廃止されますので、次の1974~78年の空中写真では荏原製作所の敷地となって滑走路は消滅しています(滑走路の敷地の一部は陸上競技用のトラックに転用されています)が、この2つの空中写真を比較すると、敷地内の南北の道路は飛行場であった時代の平行誘導路がそのまま利用されていることがわかります。

なお、以前の記事で掲載した「今昔マップ on the web」上でも、右側のプルダウンメニューから「写真1961-64」を選択し、左側の「不透明度」のプルダウンメニューから「0%」を選択することで、この空中写真を表示させることが出来ますので、昭和29年の地形図と切り替えながら参照することも可能です。


1961〜64年の藤沢飛行場の空中写真(「地理院地図」より)

地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
地理院地図の空中写真の撮影年月を確認する方法
もう少し具体的にこの空中写真の撮影年月を絞り込みたいところですが、それには右の様に「単写真」の撮影地点を表示させ、該当地点のマーカーをクリックすることで確認出来ます。初期状態では膨大な数のマーカーが表示されますが、「選択中の情報/単写真」右側のⓘボタンをクリックすると、「絞込み」というプルダウンメニューが現れますので、これを使って表示されるマーカーを年代によって絞り込むことが出来ます。マーカーをクリックした時に表示されるバルーン中のリンクから該当する写真を表示させることも出来ますので、地形図に重ねて表示されている写真が確かにその年月のものであるかを確かめることも可能です。この例ではすぐ南側の国道1号線藤沢バイパスがまだ工事中である様子が写っており、その特徴が一致すること(写真のコントラストは若干調整されている様です)から、確かにこの写真が地形図上で表示されていることがわかります。

余談ですが、地点によっては撮影時期の異なる写真が隣接して表示されている箇所もあります。以下の例は小田急線高座渋谷駅東側の境川付近の1961〜64年の空中写真ですが、東側では東海道新幹線の建設中の様子が写っているのに対し、写真の切れ目から西側ではまだ工事が始まる前の様子が写っています。東側では1963年、西側では1961年の写真が用いられている様です。


建設中の東海道新幹線の軌道が東側だけ写っている(「地理院地図」より)

何だか「地理院地図」の使用法についての記事みたいになってしまいました。「地理院地図」の空中写真は更に1945〜50年のものを地形図に重ねて閲覧出来る地域を拡げていっている様ですし、また最近になって左側のメニューが刷新されるなど、かなりこまめにアップデートが図られ続けています。また何か興味深い更新が見つかったら取り上げたいと思います。

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寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで
吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。

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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その4)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は、鎌倉の宿を出る所から江戸に帰り着くまでの道筋を見ます。

前の晩に鶴岡八幡宮から帰ったあと、夕月が沈み、雪の下の通りの静まった頃には寝入った様ですが、やはり江の島や鎌倉の寺社を隈なく巡って疲れが溜まっていたのでしょうか。翌5月7日(グレゴリオ暦6月17日)の朝は幾らか寝坊した様です。

夏のよ(夜)のふ(臥)すかとすれば、暁のかねに驚き、起出て朝がれ飯(餉)たべ、案内のをとこをたのみて、「きのふ見残したるかた(たづね)ん」と別をつげて出。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 210ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


前日には江の島で案内の人を頼んでいますが、鎌倉では段葛に来たところで「さと人に、光明寺の道きゝてたどり行(203ページ)」と最初に光明寺に行く道を地元の人に訪ねていますから、ここでは案内は頼んでいないのでしょう。それに対して、この日は見残した寺を巡るのに宿で案内を頼んでいますから、この日の訪問先はこの案内を頼まれた人が選んだということになるでしょう。

「玉匣両温泉路気」五月七日の鎌倉での訪問先
五月七日の訪問先。括弧は前を通過したのみ
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、書き出されている訪問先を見ると、大筋で最初に鎌倉西北の扇ガ谷、源氏山、山ノ内の寺社を巡ってから、再び鶴岡八幡宮の境内を抜けて鎌倉東北の二階堂の寺院を見ていますから、恐らくこの後金沢へ向かうことに配慮して巡る順番を考えているのではないかと思われます。もっとも、前日の記述でも訪れた順番の記述に混乱があったのですが、この日の記述でも例えば次の箇所には細かい順序関係に混乱がある様です。

海蔵寺へ行て、弘法の加持の水、十六の井と云を見るに、これも矢蔵の内に五升入の鍋埋(なべうめ)たるごとく、(よつ)づゝ四ッ並べたる。「浅き溜り水なれども、早魃(かんばつ)のとしにても(つく)ることなし」と云。藤ヶ谷(ふぢがやつ)の網引地蔵の前より五丁程山へのばれば、為相(ためすけ)卿のみ墓あり。この卿は冷泉(れいぜい)為家卿の御子なれば、哥読人(うたよむひと)はたづねをがむと(こそ)きゝしか。み墓のちりもはらひて有。をがみて又来りし坂を下り、山の間の細道をゆけば、長寿山(長寿寺)と額打たる寺あり。尊氏将軍のみ像有といへば、浅茅(あさぢ)の露払つゝ入てぬかづき奉る。この寺久しく僧はすまで、狐狸(こり)などの(すみ)けん、軒端も床も(あれ)にあれて物淋し。寺の裏にこの君のみ墓也と云五輪の塔あれども、都にて世をさり給ひたれば、爰に(ある)べきやうなし。みしるしまでに立たるものか。

新居の間魔堂をみて、円覚寺へ行に…

(「江戸温泉紀行」211〜212ページより)


この順序では、冷泉為相の墓を訪れたあと、山道を抜けて長寿寺へ出たことになっていますが、この区間の道の存在が怪しい上に、その次に出て来る円応寺(新居の閻魔)と円覚寺との位置関係で考えると、この区間を行ったり来たりしたことになります。やはり円応寺を見てから長寿寺へ訪れたと考える方が道順としては自然である様です。

他にも、宝戒寺を訪れた順番も荏柄天神社と大塔宮(鎌倉宮)の間に来ているのは、やはり位置関係の点で少々不自然です。正興は途中「小帒坂(巨福呂坂)」の茶屋で休憩した際に、鎌倉の絵図を買い求めている(214ページ)ので、後で位置関係については確認する手段があった筈ですが…。

他方、宿を出て最初に

辰巳(たつみ)の荒神のみ社をがみ、刀作りて世になりたる正宗の家の()と処を過、亀谷山寿福寺に行て、実朝卿の御廟所(ごべうしょ)の前にぬかづき奉る。

(「江戸温泉紀行」210ページより)

と、巽神社の前を過ぎた辺り、寿福寺の手前に正宗の工房があったとする点については、現在も鎌倉で続いている正宗の店の位置とは順序関係が合わない様に見えるものの、そのホームページには先々代の頃に現在地に移転してきたことが記されています。実際、寛政11年(1799年)2月の「鎌倉惣図江之島金澤遠景」(石渡八十右衛門、「鎌倉市図書館デジタルアーカイブ」へのリンク、リンク先PDF)では、「立山第三/壽福寺」と「辰巳荒神」の間に「マサム子ヤシキ」が記されており、この位置関係が正しいことがわかります。


あるいはもう少し鎌倉に留まって十二社辺りのの寺社まで見て廻るつもりだったのかも知れませんが、大塔宮まで来たところで天気が崩れて雨が降り出したので、鎌倉見物はここで打ち切って金沢への道を急ぎます。

あした(朝)より空くもり、「ふらまし」とおもひしに、北風さと吹て雨ふりきぬ。案内のをとこはこゝより戻し、をしへたる道をいそぎ行に、小川ありて橋をわたせり。道行人(ゆくひと)にとへば、「滑川(なめりがは)なり」と云。青砥(あをと)(藤綱)ぬしのふるごとおもひ出し、このあたり見まほしくおもへども、雨風強ければ、只いそぎに急ぎ行に、朝比奈(あさひな)の切通しにいたる。

切通(きりどほし)は、極楽寺・小袋坂とは違ひ、十町あまり登り、同じほど下る。登り(つめ)たる処にはふせ家あれども、麓の里より昼(ばかり)来り物うる家にて、雨風の強ければとく帰りさりしと見えて人も居ず。休むべきやうなく、杖を(ひき)つゝ、かたみ(互)にものもいはず。

(やうやう)金沢の里近く来り、をりには家もあれども、門の戸さして音もなし。(六浦藩主)米倉殿の御陣屋の前を左にして行。追手は岩山に作り道して、十杖あまりものぼりて門をかまへ、枝しげりたる松生立(おひたち)て、見こみはいとよろし。又五六丁ゆきて帆かげみゆれば、「この里の入海ならん」といよいよいそげば、道の右に海をうしろにして作りたるよき家あり。かごのをとこの来るにとへば、「こなたは千代本、つぎなるは扇屋」と云。「東屋まではいか程あり」といへば、「左の家こそ東屋なれ」と、いひ捨てゆく。

(「江戸温泉紀行」219〜220ページより)


「玉匣両温泉路記」鎌倉→金沢の道筋
鎌倉→金沢の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

朝比奈切通の頂上付近には茶屋があったものの、昼間だけ麓から人が上がってきて営業している所だった様で、雨で店じまいしていて休憩することも出来なかった様です。お互いに会話もなく金沢まで降りてきて、六浦藩の陣屋の角を左に折れて町屋まで辿り着いても、そこでもどの家も門を閉ざしてしまっていて、通りすがりの駕籠かきに「東屋」の場所を尋ねると「その左の家だ」と言って去ってしまった、という訳です。

Kanazawa8 Hirakata.jpg
歌川広重「金沢八景」より「平潟落雁」
当時の金沢はこうした干潟が多数存在する内海だった
("Kanazawa8 Hirakata" by 歌川広重.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
六浦藩の陣屋の辺りは現在は住宅街となってしまい、その一角に米倉家の子孫の方が今でも暮らしているとのことです。図ではポイントがやや北寄りになってしまいまいましたが、ここから六浦道の曲がり角辺りまでが大筋で陣屋の敷地だったと考えて良いでしょう。「東屋」は時代が下って後に明治憲法の起草作業が行われた場所ですが、現在残されている石碑に東屋の位置を「金沢八景駅から100m」と刻まれている点をヒントに、「道の右に海をうしろにして作りたるよき家」という正興の記述を手掛かりにポイントしてみました。現在は金沢付近は大きく埋め立てられて当時とは全く様子が異なりますので、当時の海岸付近の地形のヒントに「明治の低湿地」の地図を重ねてあります。肌色になっている場所は干潟(一部塩田)で、当時は現在の国道16号の脇まで遠浅の海であったことがわかります。東屋はその海を背にして建っていたことになります。

正興が何故「東屋」の名を出したのかはわかりませんが、後で「てうりも江戸にまされるとて、それがためにとひ来る人多しときけば、(221ページ)」と書いているところを見ると、前々から評判を聞き知っていたということでしょうか。ともあれ、この東屋で雨宿りすべく門を叩きます。

雨風()つよく、この家も戸ざして(ある)を、おどろかせば、はしための三たり四人出きたり、

「さぞかしなづみ給ひつらん。雨衣ぬぎ、藁沓とりて上り給へ」

(たち)さわぎ、清らかに作りたるひとまへ案内したり。ぬれたる衣ぬぎ捨、茶たう(食)べたれば、すこしこゝち(心地)は直りたれども、

「このとこやみ(常闇)をば、いかにせん。おのれ、手力(たぢから)を(男)のおほみ神にならひ、岩戸引明(ひきあけ)ん」

とたわぶれつゝ、戸少し明て見れば、弐杖斗はなれて大川ながれ、板橋ふたつわたせり。継橋ともいふべきさま也。橋の下は波高く(ながれ)早し。この流を見て水上を考るに、程ケ谷、戸塚の間を流るべきやうにおもへども、

「さきにかの(うまや)通りたるころ、かほどの大川(あり)とはおもはざりし」といへば、光興ぬしの、「我思ふも同じことなり」とて、通ひに出たるをとめにとへば、

「川にはあらず。橋のこなたも同じ入海にて、今引汐(ひきしほ)なれば、あなたへ流行(ながれゆく)也。あげ汐の時を見給へ、あのごとく、こなたへ流れ来る」と云。

「けふは朝より時こそしらね。何どきならん」といへば、

「まだ(ひつじ)の下り(午後三時)なれども、このさきは山道なれば、かごならでは(こえ)がたし。其かごだに、けふはなければ、早くとも泊り給ひて、雨やまば所の八景見て、明日とく程ケ谷へ越給へ」といふ。

「何さま、(かはき)たる衣又くたし、しらぬ山道、夜をこめてまよひゆかんより、爰に宿からまし」と、こゝろさだめぬ。

(「江戸温泉紀行」220〜221ページより)


この「東屋」に入って茶を啜ったところで多少落ち着いたところで、多少部屋が暗かったので光を入れようと障子を開けてみれば、窓の下に大きな川が流れている様に見え、保土ヶ谷宿を貫流する帷子川や戸塚宿と並行して流れる柏尾川の下流だろうかと考えた訳ですね。しかし、ここまでの道すがら、これほどの大きな川が流れる土地ではなかったことから、その疑問を宿に問いてみたところ、「川ではなく、引き潮の入海です」という答えが返ってきた、という流れです。

これも、前回同様に「潮汐計算」や「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」のページで潮位を計算してみました。どちらも「金沢」という項目がなかったので、比較的至近にある「横須賀」や「横須賀長浦」を選択しています。「潮汐計算」のページでは干潮時刻が15時44分、「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」では14時07分と、計算結果がやや大きく開きましたが、基本的には干潮という点では一致していると見て良さそうです。勿論、金沢は江戸時代末期以降大きく埋め立てられたり、付近では長浦で運河が開削されるなど、潮位変化に少なからぬ影響を与える地形の改変が数多く行われていますので、計算結果には少なからず影響があると考えるべきでしょう。

時刻を聞かれて「未の下り」という答えが返ってきましたが、当時は不定時法で時刻を見ますので、夏至に近いこの時期は現在の15時よりはもう少し遅い時間を指していたと見るべきでしょう。その時分になってもまだ引潮であったことになります。

まだ日が高いとは言え、雨の中を歩いてきてようやく落ち着いたこともあって、この先能見堂の辺りの山越えを夜通しで進む気にはならなかったのでしょう。この日はこのまま東屋に泊まり、称名寺の鐘を遠くに聞きながら一献を上げています。翌朝は八景を見て廻っていますが、

「案内なり」とて、「こゝにみゆるは何のけしき、かしこは何」とて、八景をしへたれども、月、(かり)、或は雪など、其をりに見るならば、けしきこと(異)ならましを、青葉しげれる時に「雪よし」といふも、ふさはしからぬ心地す。

(「江戸温泉紀行」223ページより)

確かに、夏至の近い頃に「瀬戸秋月」や、まして「内川暮雪」などと言われても、さっぱり風情が違ってしまってピンと来なかったのは仕方のないところかも知れません。

この後早めの昼食を済ませ、金沢から保土ヶ谷への道を経て東海道に復帰し、川崎で一泊して江戸へと帰り着いています。「浦島寺」に立ち寄ったのはこの日の途上でした。

ひと通り「玉匣両温泉路記」の道筋を追ってみましたが、一部には記憶違いかと思われる順序の混乱なども見られ、著者の素性がはっきりしないことも相まって、他の史料と擦り合わせて検討する必要は少なからずあると言えそうです。しかし、沿道の各地域の記述には興味深い点も少なからず含まれており、引き続き当時の地域史料の1つとして読みたい紀行文であると思います。
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「玉匣両温泉路記」より生麦付近の道筋について

「新編相模国風土記稿」の産物の調査が思う様に進んでいないので、再び「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)から軽い話題を取り上げて間を繋ぎます。今回は、箱根へ向かう途上、原正興(はらまさおき)一行が東海道を逸れた箇所を検討します。

同年の4月14日(グレゴリオ暦:5月26日)に江戸を発った一行は、鶴見に差し掛かった所で東海道から外れた道筋を進んでいます。そのくだりは次の様に記されています。

此駅(注:川崎宿のこと)を出はなれて十杖(とつゑ)(丈)あまりの板橋あり。是を鶴見橋と云。渡れば鶴見村也。右のもちひ(餅)うる家にて休む〔よね鰻頭(まんぢう)と云。今坂餅の如し〕。(ここ)を出て六七丁(ゆき)、右の方に、子生山と(いふ)寺(東福寺)あり。観世音の像を祭る。江都(えど)よりも(ゆき)をがむ人多し。観国院君(土岐頼布)にも御帰依ありて、をりにはみ館へ(まねか)せ給ひ、ひと日、御かちより行せ給ひしときく。おのれも「ひとたび行見む」と思ひしことなればうれしく、其道をたどり行に、五六丁にして石の作り坂あり。二十杖あまりのぼりて観世音の堂あり。額は(さき)の白川少将楽翁君(松平定信)のみ筆也。坂の半、二王門の額は出雲国松江の殿(松平治郷か)のみ筆也。かゝるやごとなき御方おかたのみ筆あれば、仏のひかりもいやまして尊くこそおぼゆれ。堂の前より生麦(なまむぎ)の海づら、見わたしをかし。寺は麓にあり。

山を下り、畑の細道わけつゝゆけば、生麦の大路へいづ。弐丁程近しと云。生麦村、(みぎは)の方に浦嶋の墓有ときゝて尋れば、膝入る(ばかり)の小寺の裏に五輸の塔あり。浦嶋と云文字のみ見えて、年の名は見えず。又弐丁程行て、右の方に、浦嶋寺と云も有。霊亀のことなどしるしたるは、水江(みづのえ)の浦嶋子に似たり。万葉集に、浦嶋子の家の跡を見て読たる長哥あり。其浦嶋は、丹波国余社郡(よさごほり)(与謝郡)墨江(すみのえ)の人なれば、こゝのとは別人なるべけれども、亀のことなど似たれば、しる人にこそとはまほしけれ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 134〜135ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
青線が旧東海道、浦島寺は現存しないので「浦島丘」の地を代わりにポイント
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「五十三次名所図会」より川崎・神奈川
歌川広重「五十三次名所図会」より
川崎(右)・神奈川(左)
川崎で描かれているのは「鶴見川」で
鶴見橋の袂の茶屋が数軒見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この部分は地図を参照して位置関係を確認した方が状況を理解しやすいでしょう。鶴見川を渡ったところで名物の「米饅頭」(「お江戸日本橋」の歌詞にも登場する)を売る茶屋で一服し、そこから「六七丁」つまり600〜700mほど行ったところで、かねてからその御利益を伝え聞いていた「子生山東福寺」へと逸れる右手の路を見つけて、この寺へと向かっています。

正興らが休憩した茶屋がどの辺にあったかは定かではありませんが、基本的には米饅頭を売る茶屋は鶴見橋の周辺にあったとされていますから、鶴見橋からの距離とさほど変わることはないでしょう。そうすると、鶴見橋から旧東海道600〜700mほど進んだ辺りを地図上で計測して探すと、現在の鶴見神社(江戸時代には杉山明神・牛頭天王相殿)の辺りで左に曲がる地点よりもう少し先に進んだ辺りに来ます。ここから山側へと逸れる道筋を進んだことになりそうです。

「子生山東福寺」と「観音堂」について、「新編武蔵風土記稿」では「鶴見村」の項(卷之六十六 橘樹郡之九)の中で次の様に記しています。

天王院 村内海道の右がはにあり、天台宗にて同郡駒林村金藏院末光瑞山正法寺と號す、祐山といひし僧文祿三年當寺を起立し、寛永九年八月二十八日寂すと、… ◯觀音堂村の西の方小高き所あり、是海道より六丁餘も入れり如意輪觀音にて坐像二尺ばかりなり、又腹籠りに一寸八分の觀音あり、是は春日の作と云、堂は五間四方内陣の額に天地感興應とありて、白川少將定信の筆なり、大悲閣の額は備前少將治政の書なり、堂より前には丈餘の石階あり、夫を下りて前に仁王門あり、仁王はたけ一丈許にて運慶の作と云傳へたり、子安山の額あり是は出雲少將治郷書なり、此觀音は江戸より參詣のものもあり信仰の人少なからず、此堂地は古へ生麥村にありしが、その頃鶴見の村内に寺院なきゆへに此へゆつりしよし、故にこの地は今生麥村の内につゝまれて有と土人は傳へたり、緣起一卷あり、其載る所悉く信用すべからざれば此にとらず、 別當東福寺仁王門を入て左の方に木戸門あり、是を入て正面に客殿をたつ三間に八間南向なり子生山と號す、神奈川宿金藏院の末山新義眞言宗なり、開山は醍醐勝覺僧と云、堀川院の御宇寛治年中當寺を草創して、大治四年四月朔日寂せり、鐘の銘には大治年中の草創といへり、その後住持歴代等詳ならず、遙の後賢淳と云僧住せり、此人は慶長五年正月二十一日寂せりと云、是より以來連綿と住僧續けり、此賢淳當寺を中興せしにや、

(以下「新編武蔵風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、…は中略、なお一部判読の困難な文字を「国立国会図書館デジタルコレクション」にて補充)



現在の東福寺仁王門(ストリートビュー
この記述に従うと、どちらかと言うと「東福寺」よりも「観音堂」の方が江戸からの参拝客を集めていた様です。ただ、扁額や仁王像、石段についての記述は正興の記すところとほぼ合っています。

地形図で確認出来る通り、現在の東福寺は海岸段丘の上にあり、この様な地形であれば確かに正興の記す通り眺望は比較的良好であっただろうと思われます。しかし、現在は周辺にはマンションなどの大規模な建物が建ち並んでおり、更に生麦付近の海は大きく埋め立てられて海岸線が大幅に遠ざかりました。従って現在はこの地からの眺望はほぼ失われたと言って良いでしょう。


さて、気になるのは正興が寺を出て畑の中の小道を経て再び東海道に合流する際に辿った道が、「弐丁程」つまり200mほど近道と言っていることです。正興の一行は果たしてどの辺りの道を進んだのでしょうか。

正興は生麦村の辺りで東海道に復帰し、そこから程なくして「浦島の墓」があったと記しています。しかし、それに近いものを「風土記稿」から探すと恐らく

◯西蓮寺街道の往還にあり、淨土宗にて村内大安寺の末、… 浦島塚境内にあり、昔はよほどの大塚なりしが、此邊は沙地なれば年を追て缺くづれ、今は凡二畝許の塚なり、其上に五輪の石塔を建て浦島塚と題せり、

(卷之六十七 橘樹郡之十 「東子安村 西子安村 新宿村」の項より)

この「西蓮寺」(明治時代初期に廃寺)の「浦島塚」ということになりそうです。実際、塚の上に五輪塔があったとする点は合っていますし、「江戸名所図会」の「浦島塚」の後背に海が描かれている点と、正興が「汀の方に」と書く点も合致します。しかし、この西蓮寺があったのは「風土記稿」の記述では子安の地ということになり、その点は正興の記述と合いません。
江戸名所図会五「浦島塚」
「江戸名所図会」より「浦島塚」の図
塚の後背は海になっている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸名所図会五「観福寿寺」
「江戸名所図会」より「観福寿寺」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

また、その先約200mほど進んだ所から右手に入った所には「浦島寺」があったとしています。これは当時の「観福寺(または観福寿寺)」を指しており、「風土記稿」では

觀福寺 西側なり、大門前數町の間は年貢地なり、淨土宗宿内慶運寺末、歸國山浦島院と號す、昔は眞言宗にて檜尾僧都の開闢なりと云、されどそれはいとふるきことなれば詳なる故を傳へず、後白旗上人中興せしよりこのかた今の宗門に改めしとなり、當寺を浦島寺といひて緣記あり、その文にかの丹波國與佐郡水の江の浦島が子のことを引て、さまざまの奇怪をしるせり、ことに玉手箱など云もの今寺寶とせりいよいようけがたきことなり、

(卷之七十 橘樹郡之十三 「神奈川宿 並木町」の項より)

と、神奈川宿の中の記述になっています。この辺りはその位置関係について、正興の記憶違いの部分もあったのかも知れません。


明治39年測図の地形図より「東福寺」付近
(「今昔マップ on the web」より)
その様な訳で、正興の記述には位置関係の点で多少疑問もあるものの、恐らく一行は生麦村の西端に近い辺りか、更にその先の子安村の域内に入った辺りで東海道に合流したものと考えられます。実際、旧東海道の道筋と東福寺の位置関係からは、鶴見付近から子安にかけてほぼ一直線に進めば多少なりとも短い距離で通り抜けることが可能である様に見えます。しかしながら、「迅速測図」や明治期の地形図を見ても、その様なショートカットになりそうな道筋はこれといって見当たりません。「迅速測図」の頃には既に鉄道が通されていたことを考慮しても、東福寺の乗る丘陵地と東海道の間は引き続き畑になっており、特段の区画整理が行われた様にも見えないことから、道筋が消えてしまう様な要因が特に見えない中で、正興一行が進んだ道筋が果たしてどれなのか、特定するのは難しそうです。

因みに、現在鶴見駅前に広大な境内を擁する総持寺がこの地に移転してくるのは明治44年(1911年)のことですから、江戸時代に正興が東福寺に向かう途上で辿った道筋の一部は、恐らくは現在は総持寺の境内の中であろうと思われます。

なお、往路では浦島寺に立ち寄らなかった正興一行は、復路で改めてこの寺を訪れています。

Keiunji -03.jpg
慶運寺前。「うらしま寺」の字が見える
("Keiunji -03"
by Aimaimyi
- 投稿者自身による作品.
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)

大路は雨のなごり(注:前日に雨が降った)も見えず(かはき)たれば、足もすゝみ、神奈川の駅を過て、生麦(なまむぎ)村にかゝる。「行とき見残したる浦嶋寺を見ん」と、左へ三丁程行。すこし山をのばりて観世音の堂あり。浦嶋のゆゑよし、きかまほしけれども、堂守だに見えざれば、空しく爰をいでゝ鶴見にいたり、もちひうる家にて休み、川崎の駅につきしは入相(いりあひ)近きころ也。

(「江戸温泉紀行」227〜228ページより)


やはり正興はこの「浦島寺」が生麦村のうちにあると認識していた様です。境内に浦島伝説についての案内を頼める人が誰もいなかったというのは、この頃にはあまり賑わっていなかったということなのでしょうか。

この寺は幕末の騒擾の中で焼け落ちてしまい、残った浦島関連の宝物は、本末関係にあったよしみからか慶運寺に引き取られて現在に至ります。慶運寺が現在「浦島寺」と呼ばれているのは、その様な経緯によるものです。

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