「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、中原御殿蹟について次の様に記しており、こちらでも中原御殿が「雲雀の御殿」の別称を挙げています。しかし、その別称の由緒について特に記している訳ではありません。無論、雲雀が産物であることを記した箇所も他にありませんので、「風土記稿」で「雲雀」を産物として明記しているのは、実質的に山川編のみということになります。
◯御殿蹟 宿の中程より西の方九十六間を隔てあり、廣七十八間袤五十六間、東を表とす、四方に堀幅六間、あり、是は古御鷹狩等の時、御止宿ありし御旅館蹟なり、慶長年中の御造營按ずるに、村内山王社傳には、元年御造營とあり、北金目村の傳へには、十四年に建させらると云、一決し難し、されど豊田本鄕村、淸雲寺の傳へに、四年二月十日此御殿に御逗留ありといへば、元年と云を得たりとせんか、當所の民、庄右衛門が先祖小川某、此邊の地理に精きを以て、御殿御繩張の時、御案内せしと云傳ふ、中原御殿と稱し、一に雲雀野の御殿とも唱へしなり、東照宮此御旅館に渡御ありし事、諸書に所見あり、…其後廢せられし、年代詳ならず、今は御林となれり、其中に東照宮を勸請し奉る、上下二宿の持、御宮の傍に、老杉一樹圍一丈五尺許、あり、御神木なり、
(卷之四十八、大住郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)
一般にヒバリは「揚げ雲雀」の季語が示す通り、春先に田畑の中に作られた巣から離れた場所まで歩き、そこから垂直に飛び立ち、周囲に良く通る声で囀りながら天高く上っていく様が良く知られています(リンク先にWikimedia Commons上の音声ファイルがあります)。江戸時代にも松尾芭蕉の「
永き日も囀たらぬ雲雀かな」(続虚栗)や小林一茶の「
うつくしや雲雀の鳴きし迹の空」(七番日記)など、多数の俳人が雲雀の鳴き様を句に詠んでいますし、「和漢三才図会」をはじめとする江戸時代の本草学の文献でも、「告天子」の別称と共にその鳴き振りを書き記したものが多くあります。以下で引用した「本朝食鑑」では、雲雀を飼育して懐かせることで鳴き声を楽しむことが出来る旨の記述があります(現在は愛玩目的での飼育は禁止されています)。
しかし、「風土記稿」に記されている通り、中原御殿は徳川家康が鷹狩に訪れた際の宿泊施設であり、別に雲雀の鳴き声を楽しみに訪れていた訳ではありません。とすれば、その御殿に「雲雀」の名前が別途付いているのも、やはり鷹狩の方に関連があると見た方が良いでしょう。では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。
現在ではいわゆる「鳥獣保護法」によって、所定の狩猟鳥獣以外は狩猟することが禁じられています。ヒバリは狩猟鳥28種のうちに入っていませんし、ましてヒバリを食べたことがあるという人も殆どいないと思われます。しかしながら、江戸時代には食用とされることがあったことが、「和漢三才図会」に食味について記されていることでわかります。
至テレ冬ニ鳥肥ヘ羽老テ脛弱シ故捕ルレ之ヲ者多シ其味甘脆骨軟ニシテ面脚共ニ可シレ食フ
(卷第四十二「鷚」、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開)
また、貝原益軒の「大和本草」では、「告天子」の項で食味については触れていませんが、その末尾に効能を記しており、やはり食用や薬用として用いられることを示しています。
更に、「本朝食鑑」では雲雀についてより詳しく書き記しています。同書では「雲雀」は「原禽類」に分類されていますが、「原禽類」の中には鷄や雉、山鳥といった、比較的食用として多く用いられていた鳥も含まれている点に、人見必大の見解が窺えます。今回も東洋文庫の翻訳版から引用します。
味は甘脆で、肪は浅く、骨は軟らかく、脛・掌も食べられる。これを上饌に具している。近世、官家では、鶴・鴈に劣らずこれを極めて重く賞しており、江都の官鷹(幕府の鷹匠の鷹)に鷙らせて、上都に奉献させている。その他は、品階に従って、順次、列侯に賜う。公家の鷹も、これを鷙って、全国四方に餽送っている。各家でも非常に賞美され、樊籠に畜養される場合もある。但、脛・掌が細弱で拆けやすいのが弱点で、そのため、籠の中に砂を盛り、艾を鋪いて防備している。もし羽の中に虫を生すと、砂を浴びさせる。鶉の場合もやはり同様にする。高さ数十尺に作った竹籠の上に、それに応じて長く設った網を張っておくと、雲雀は、能く馴れれば、舞い鳴き、網籠の中を頡頏(とび上がりとび下がり)し、終日吭をころがし円亮の声で鳴いて倦まない。それでこれは官中の翫弄となっている。
(「本朝食鑑2」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫312 240ページ、注・ルビも同書にあるものはそれに従い、一部ルビを追加。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら。以下の本書の引用も同様)
途中から食用の話から囀りを賞翫する話にすり替わっていますが、さておき、前回の「成瀬醋」の時と同様、やはり幕府の事情に触れる機会のあった必大らしく、雲雀が将軍の御鷹によって捕獲され、賞味されていたことが記されています。「本朝食鑑」では更に引き続いて
と、肉も内臓も食べられること、特に内臓の塩漬けや麹漬けがとりわけ美味であることを力説しています。肉
〔気味〕甘温。無毒。
〔主治〕久泄、虚弱。
〔発明〕今俗で一般に、「雲雀の性は平、肉は浅くて病にあたらないので、病人に食べさせてよい」といわれている。の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、肛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。しかし必大の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、脛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。これは、体は微小とはいえ、勢いの健やかな故である。そもそも、体が軽く、勢いも健やかなものは陽であって、能く昇るのである。春の気を得て長じ、冬の気に遇って衰えることから、雲雀が昇陽であることが知れるであろう。それで、気を昇提して、能く泄痢の虚極を調えるのである。してみると、気実の病にこれを食べさせると、発熱動血し、知らず知らずのうちに不治の痼を生じるであろう。気虚の病にこれを食べさせると、症に拠って治るであろう。凡そ禽類で、家に馴れ水に遊ぶものは、たとえ有毒とはいっても、烈しくはない。山に棲み、野に宿するものは、有毒ならばいよいよ熾んで、人体に害を遺すものである。
腸・肫
〔気味〕いずれも甘温。無毒。近世は腸・肫・脛・掌、および諸骨を醃」にして、醢醤とする。あるいは、麹に和する(麹漬)こともある。どちらも味は甘鹹・香膩(肥えていてかおりがよい)で、その美さは言葉で言い表わせない。世間では珎(珍)肴としている。然ども、多食すると、温毒の害があるのではなかろうか。
(同上240〜241ページより)
この東洋文庫版の「本朝食鑑」にはかなり詳細に解説が付されており、これによれば、雲雀が宮中で饗宴に供された歴史は平安時代末期まで遡ることが、「兵範記」などの史料の引用を連ねて示されています(同書242〜244ページ)。この中では室町時代末期の料理書である「大草殿より相伝之聞書」からの引用が、江戸時代に比較的近い時期の雲雀の料理や食べる際の作法について詳しく記しています。
この様な作法が細かく記されていることからは、官家で雲雀が食される機会はこの頃からかなり多かったものと思われます。ひばりのつばめもり集養の事、めしにてもあれ湯漬にてもあれ、必ず膳の中にあるべし。又二の膳にも三の膳にも中に参るなり。本膳の中にある時は、てごしさいごしうんめいのさいを喰い候て、扨箸を膳にすみちがひに置きて、雲雀の盛物右の手にて取り、左の手を添へ、いかにもかんじて扇を抜き、我が右の方へ少しひらきて竝、其の上に実雀のくはへたる足を取りて、扇の上に置きて、やがて雲雀をば前の所へ置きて、左の手を添へ、右の手にて雲雀の頭をぬきて、台のそばにも又台の下にも置く。扨箸を取りて右の手にて雲雀の身を摘みて食ふ。其の後は箸にて集養ありたきほど食ふ也。又雲雀の足は御酒二へん程参り候て、足結ひたる水引を解きて、水引をば置き、先かた足賞翫して、又片足をば左の手に持ちたるもよし、扇の上に置きたるも苦しからず、さて後に集養有りたるもよし、時宜によるべし。水引は何となく本膳に置きたるも苦しからず。又懐中してもよし。其の後膳のくだり候時も其のまま置くべき事も候。そののちあつかひあるまじく候。
(同上243ページより)
また、同じく「本朝食鑑」の解説でも引用されていましたが、以前椎茸を取り上げた際にその料理法を参照した江戸時代初期の「料理物語」では、
この様に調理法を列挙しています。今となっては具体的にどの様な料理なのか想像もつかないものもありますが、汁物にしたり串焼にしたりして供していたということになるでしょう。もっとも、ここに挙げられている鳥の多くが、今では食用とされることがないものばかりですから、今となっては具体的な料理をイメージするのが困難になっていると言わざるを得ません。〔ひばり〕汁、ころばかし、せんば、こくせう、くしやき、たゝき
(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
さて、「本朝食鑑」の記述でも雲雀が官家で供される食材であることが示されていましたが、そうした膳に供する鳥などを捕える江戸時代の鷹狩において、雲雀がどの様な位置付けにあったのか、長くなりそうなので次回はこの話から始めたいと思います。