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「福井県史」より:酒井忠直「御自分日記」に見える「成瀬醋」

引き続き、更新がままならない状況が続いていますが、生存証明がてらに以前書いた記事の簡単な補遺を掲げます。

郷土史を調べる上では、大量の郷土資料を蔵書として保有する地元の公共図書館の存在は不可欠です。私も神奈川県内の各市町の図書館や県立図書館を巡って、市町史や県史を中心に史料集などを探してきました。その際、参考にするのは当然地元に伝えられてきた史料が中心になってきます。実際は他の都府県の史料中に、地元に関係のある記述が見つかるケースも少なくありませんし、実際これまでも「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に掲載された、他の地域から出発したり別の地域へと向かう旅の記録を大いに活用してきました。

こうした道中記や紀行文、あるいは同様に旅先の様子を書き留めた日記などの史料は、探せば他にも多々ある筈ですが、流石に自県以外の郷土資料を積極的にコレクションしている公共図書館はあまり多くありません。神奈川県内では神奈川県立図書館、横浜市立中央図書館のほか、意外なことに寒川総合図書館が県外の都府県史や市史等の資料を多数所蔵していますが、よほどテーマを決めてこれらの資料を探す計画を立てない限り、その膨大な資料を探して回るのは困難です。

そうした中、福井県では「福井県史」の通史編全巻が、福井県文書館によってネット上に公開されています。この様な形になっていれば、Googleなどの検索の際にキーワードでヒットする可能性も生まれてきます。私もこのサイトには、Googleでの検索中に辿り着きました。著作権の問題などもあると思いますので、全ての都道府県史のネットでの公開を直ちに実現するのは容易ではないでしょうが、こうした試みは域外の地方史研究家の目に触れる機会を大幅に増やす、良い試みだと思います。

小浜藩主の居城であった小浜城址の位置
この中で、小浜藩(現在の福井県小浜市を中心とする福井県西部域を治めていた藩)の藩主であった酒井忠直が、江戸時代初期の延宝元年(1673年)に参勤交代で江戸へ向かう途上の様子が、同氏の日記である「御自分日記」からの引用によって示されています。道中でゴイサギの味噌漬けが贈られるなど、他の地域の記述も興味は尽きないのですが、ここでは神奈川県内の様子に絞って該当箇所を引用します。

二十一日 (ブログ主注:前泊地沼津を)卯中刻出発。箱根にて昼休み。酉中刻小田原着。小田原藩主稲葉正則より生鯛。

二十二日 卯上刻出発。酒匂川越の者へ一〇〇疋与える。藤沢にて昼休み。代官成瀬重頼より鮑・酢一樽、代官坪井良重より鮑・栄螺。両人手代衆より馬入川舟場にて「御馳走」を受ける。酒井忠綱(忠直の従弟)より薄塩鮑・真瓜・梨・葡萄。戌上刻神奈川着。松山藩主松平定長より粕漬の鯛。

二十三日 卯刻出発。品川にて昼休み。篠山藩隠居松平康信より鴨。申中刻牛込屋敷着

(上記ページよりコピー・ペーストの上、適宜整形)


中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
中原と平塚宿・藤沢宿・馬入の渡しの位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
この日記の記録は、参勤交代の途上で誰からどの様な品を贈られたかを記録することに主眼があります。このため、例えば藤沢宿到着について記した後に、それより手前で渡河している筈の馬入川(相模川)で受けた接待について記述されています。忠直が道中の位置関係を必ずしも正確に記録していない箇所があることから、他の場所の明記がない記述についても、その前後に登場する地名だけでは位置関係を判断出来ない可能性があります。例えば、忠直が従弟の酒井忠綱に神奈川宿の到着前に会ったとは、この記述からは一概に言えないことになります。とは言え、大筋ではその近辺で忠綱が忠直を出迎えたと見て良いでしょう。


一見して、贈答品に(たい)(あわび)栄螺(さざえ)といった海産品が目立ちます。これらについては後日、相模国の海産品について取り上げる際に改めて触れたいと思います(何時になるかわかりませんが…)。

そして、藤沢宿では「代官成瀬重頼より鮑・酢一樽」が贈られています。この「成瀬重頼」は当時の中原代官のひとりであり、忠直に贈られた酢は所謂「成瀬醋」ということになります。中原に本拠がある代官にとっては平塚宿が最寄りであるものの、小浜藩一行が平塚宿では休泊を取らないことを予め知って、馬入川を渡る際の休憩時に「御馳走」を供する様に手代を向かわせた上で、自身は藤沢宿まで参上することにしたのでしょう。この藤沢宿の大久保町や坂戸町も、寛文九年(1669年)に成瀬氏が検知を行ったことが「新編相模国風土記稿」に記されており(卷之六十 高座郡卷之二)、やはり中原代官の支配を受けていました。

一方、「代官坪井良重」もやはり中原代官を勤めていた人です。江戸時代初期に設置されていた中原代官では、複数人による「相代官制」が採られていました。「平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世」によれば、良重の代官在任期間は明暦2年(1656年)〜寛文元年(1661年)とされています(334ページ)ので、延宝元年には既にその任を外れていた筈ですが、こうした接待には引き続き隠居として活動を続けていたのでしょう。当時は成瀬氏と坪井氏の2名が中原代官を務めていましたが、各々が参勤交代中の大名に対して贈り物を差し出していた点に、2名の代官が対等な地位にあったことを窺うことが出来ます。

この2名のそれぞれの贈り物には「鮑」が共通で含まれており、中原代官が揃って藩主の元に出向くに際して、相互の品の重複を調整した様子が見られません。それにも拘らず、「酢」の方は成瀬氏からのみ贈られています。このことからは、中原の酢が中原代官全員の配下で作られていたものではなく、専ら成瀬氏の指示の元でのみ作られていた可能性を窺い知ることが出来ます。もっとも、今回は「御自分日記」の1件のみの事例を見ていますので、他の参勤交代時に中原代官から酢が贈られた事例がないか探して、それらが誰から贈られたかを確認したいところです。

今のところ、当時の中原代官と小浜藩の間に格別の関係があったと考えられる事例を思い付きませんので、こうした贈答は東海道を通過する大名に対して均等に行われていたと推察するのが妥当でしょう。参勤交代時に東海道平塚宿を経由する藩はかなりの数に上り、安藤優一郎「大名行列の秘密」(2010年 NHK出版生活人新書)によれば、東海道の参勤通行大名数は146家に上るとしています(6ページ)。それらの家々に対して毎年全て酢を贈るとなれば、少なくともそれに応じられるだけの生産量を確保する必要があったことになります。この点を確認する上でも、同時期の参勤交代途上の贈答の記録を集めてみたいところです。

また、この日記では酢の樽のサイズが記されていませんが、一斗樽でも約18ℓ、四斗樽なら約72ℓということになります。それだけの量の酢が参勤交代経由で振舞われたとすれば、大名の屋敷だけでは消費し切れず、残余が払い下げなど何らかの形で江戸市中に流通していた可能性もありそうです。人見必大(ひとみひつだい)が「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)で紹介した中原の酢も、あるいはその様な経路で入手したものだったのかも知れません。「成瀬醋」の知名度を押し上げたのは、中原街道を進んだという将軍向けの献上酢だけではなく、この様な各大名向けの贈答も一助となった可能性も考えてみる必要があると思います。
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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。
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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編のみに記された中原御殿にまつわる産物を取り上げます。今回取り上げるのは「雲雀(ひばり)」です。



中原御殿蹟(中心十字線の位置)付近の地形図
数値地図25000(土地条件)」を重ねて表示
砂丘地帯の中に設けられたことがわかる
(「地理院地図」)
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」(再掲

「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、中原御殿蹟について次の様に記しており、こちらでも中原御殿が「雲雀の御殿」の別称を挙げています。しかし、その別称の由緒について特に記している訳ではありません。無論、雲雀が産物であることを記した箇所も他にありませんので、「風土記稿」で「雲雀」を産物として明記しているのは、実質的に山川編のみということになります。

◯御殿蹟 宿の中程より西の方九十六間を隔てあり、廣七十八間袤五十六間、東を表とす、四方に堀幅六間、あり、是は古御鷹狩等の時、御止宿ありし御旅館蹟なり、慶長年中の御造營按ずるに、村内山王社傳には、元年御造營とあり、北金目村の傳へには、十四年に建させらると云、一決し難し、されど豊田本鄕村、淸雲寺の傳へに、四年二月十日此御殿に御逗留ありといへば、元年と云を得たりとせんか、當所の民、庄右衛門が先祖小川某、此邊の地理に精きを以て、御殿御繩張の時、御案内せしと云傳ふ、中原御殿と稱し、一に雲雀野の御殿とも唱へしなり、東照宮此御旅館に渡御ありし事、諸書に所見あり、…其後廢せられし、年代詳ならず、今は御林となれり、其中に東照宮を勸請し奉る、上下二宿の持、御宮の傍に、老杉一樹圍一丈五尺許、あり、御神木なり、

(卷之四十八、大住郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)


百鳥図「ひばり」等
増山雪斎画「百鳥図」より「ひばり」(中央上部)
囀りながら上昇する様子を描いている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園禽譜「雲雀」
毛利梅園「梅園禽譜」
(天保10年・1839序)より「雲雀」
文字の方向に合わせ画像を回転
こちらの絵も揚げ雲雀の姿を描く
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

一般にヒバリは「揚げ雲雀」の季語が示す通り、春先に田畑の中に作られた巣から離れた場所まで歩き、そこから垂直に飛び立ち、周囲に良く通る声で囀りながら天高く上っていく様が良く知られています(リンク先にWikimedia Commons上の音声ファイルがあります)。江戸時代にも松尾芭蕉の「永き日も囀たらぬ雲雀かな」(続虚栗)や小林一茶の「うつくしや雲雀の鳴きし迹の空」(七番日記)など、多数の俳人が雲雀の鳴き様を句に詠んでいますし、「和漢三才図会」をはじめとする江戸時代の本草学の文献でも、「告天子」の別称と共にその鳴き振りを書き記したものが多くあります。以下で引用した「本朝食鑑」では、雲雀を飼育して懐かせることで鳴き声を楽しむことが出来る旨の記述があります(現在は愛玩目的での飼育は禁止されています)。

しかし、「風土記稿」に記されている通り、中原御殿は徳川家康が鷹狩に訪れた際の宿泊施設であり、別に雲雀の鳴き声を楽しみに訪れていた訳ではありません。とすれば、その御殿に「雲雀」の名前が別途付いているのも、やはり鷹狩の方に関連があると見た方が良いでしょう。では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。

現在ではいわゆる「鳥獣保護法」によって、所定の狩猟鳥獣以外は狩猟することが禁じられています。ヒバリは狩猟鳥28種のうちに入っていませんし、ましてヒバリを食べたことがあるという人も殆どいないと思われます。しかしながら、江戸時代には食用とされることがあったことが、「和漢三才図会」に食味について記されていることでわかります。

鳥肥羽老脛弱故捕者多其味甘脆骨軟ニシテ面脚共

(卷第四十二「鷚」、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開)


また、貝原益軒の「大和本草」では、「告天子(ヒハリ)」の項で食味については触れていませんが、その末尾に効能を記しており、やはり食用や薬用として用いられることを示しています。

更に、「本朝食鑑」では雲雀についてより詳しく書き記しています。同書では「雲雀」は「原禽類」に分類されていますが、「原禽類」の中には鷄や雉、山鳥といった、比較的食用として多く用いられていた鳥も含まれている点に、人見必大の見解が窺えます。今回も東洋文庫の翻訳版から引用します。

味は甘脆で、(あぶら)は浅く、骨は軟らかく、脛・掌も食べられる。これを上饌に具している。近世(ちかごろ)、官家では、鶴・(がん)に劣らずこれを極めて重く賞しており、江都(えど)の官鷹(幕府の鷹匠の鷹)に()らせて、上都(きょうと)に奉献させている。その他は、品階に従って、順次、列侯に賜う。公家の鷹も、これを()って、全国四方に餽送(おく)っている。各家でも非常に賞美され、樊籠(とりかご)に畜養される場合もある。(ただ)、脛・掌が細弱(ひよわ)(くじ)けやすいのが弱点で、そのため、籠の中に砂を盛り、(もぐさ)()いて防備している。もし羽の中に虫を(わか)すと、砂を浴びさせる。鶉の場合もやはり同様にする。高さ数十尺に作った竹籠の上に、それに応じて長く(つく)った網を張っておくと、雲雀は、能く馴れれば、舞い鳴き、網籠の中を頡頏(とび上がりとび下がり)し、終日(のど)をころがし円亮の声で鳴いて倦まない。それでこれは官中の翫弄となっている。

(「本朝食鑑2」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫312 240ページ、注・ルビも同書にあるものはそれに従い、一部ルビを追加。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら。以下の本書の引用も同様)


途中から食用の話から囀りを賞翫する話にすり替わっていますが、さておき、前回の「成瀬醋」の時と同様、やはり幕府の事情に触れる機会のあった必大らしく、雲雀が将軍の御鷹によって捕獲され、賞味されていたことが記されています。「本朝食鑑」では更に引き続いて

〔気味〕甘温。無毒。

〔主治〕久泄、虚弱。

〔発明〕今俗で一般に、「雲雀の性は平、肉は浅くて病にあたらないので、病人に食べさせてよい」といわれている。の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、肛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。しかし必大(わたし)の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、脛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。これは、体は微小とはいえ、勢いの健やかな(ため)である。そもそも、体が軽く、勢いも健やかなものは陽であって、能く昇るのである。春の気を得て長じ、冬の気に遇って衰えることから、雲雀が昇陽であることが知れるであろう。それで、気を昇提して、能く泄痢の虚極を調えるのである。してみると、気実の病にこれを食べさせると、発熱動血し、知らず知らずのうちに不治の(ながわずらい)を生じるであろう。気虚の病にこれを食べさせると、症に拠って治るであろう。凡そ禽類で、家に馴れ水に遊ぶものは、たとえ有毒とはいっても、烈しくはない。山に棲み、野に宿するものは、有毒ならばいよいよ(さか)んで、人体に害を遺すものである。

腸・肫

〔気味〕いずれも甘温。無毒。近世は腸・(いぶくろ)・脛・掌、および諸骨を(しおづけ)」にして、醢醤(かいしょう)とする。あるいは、麹に和する(麹漬)こともある。どちらも味は甘鹹・香膩(肥えていてかおりがよい)で、その()さは言葉で言い表わせない。世間では珎(珍)肴としている。(けれ)ども、多食すると、温毒の害があるのではなかろうか。

(同上240〜241ページより)

と、肉も内臓も食べられること、特に内臓の塩漬けや麹漬けがとりわけ美味であることを力説しています。

この東洋文庫版の「本朝食鑑」にはかなり詳細に解説が付されており、これによれば、雲雀が宮中で饗宴に供された歴史は平安時代末期まで遡ることが、「兵範記」などの史料の引用を連ねて示されています(同書242〜244ページ)。この中では室町時代末期の料理書である「大草殿より相伝之聞書」からの引用が、江戸時代に比較的近い時期の雲雀の料理や食べる際の作法について詳しく記しています。

ひばりのつばめもり集養の事、めしにてもあれ湯漬にてもあれ、必ず膳の中にあるべし。又二の膳にも三の膳にも中に参るなり。本膳の中にある時は、てごしさいごしうんめいのさいを喰い候て、扨箸を膳にすみちがひに置きて、雲雀の盛物右の手にて取り、左の手を添へ、いかにもかんじて扇を抜き、我が右の方へ少しひらきて竝、其の上に実雀のくはへたる足を取りて、扇の上に置きて、やがて雲雀をば前の所へ置きて、左の手を添へ、右の手にて雲雀の頭をぬきて、台のそばにも又台の下にも置く。扨箸を取りて右の手にて雲雀の身を摘みて食ふ。其の後は箸にて集養ありたきほど食ふ也。又雲雀の足は御酒二へん程参り候て、足結ひたる水引を解きて、水引をば置き、先かた足賞翫して、又片足をば左の手に持ちたるもよし、扇の上に置きたるも苦しからず、さて後に集養有りたるもよし、時宜によるべし。水引は何となく本膳に置きたるも苦しからず。又懐中してもよし。其の後膳のくだり候時も其のまま置くべき事も候。そののちあつかひあるまじく候。

(同上243ページより)

この様な作法が細かく記されていることからは、官家で雲雀が食される機会はこの頃からかなり多かったものと思われます。

また、同じく「本朝食鑑」の解説でも引用されていましたが、以前椎茸を取り上げた際にその料理法を参照した江戸時代初期の「料理物語」では、

〔ひばり〕汁、ころばかし、せんば、こくせう、くしやき、たゝき

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

この様に調理法を列挙しています。今となっては具体的にどの様な料理なのか想像もつかないものもありますが、汁物にしたり串焼にしたりして供していたということになるでしょう。もっとも、ここに挙げられている鳥の多くが、今では食用とされることがないものばかりですから、今となっては具体的な料理をイメージするのが困難になっていると言わざるを得ません。


さて、「本朝食鑑」の記述でも雲雀が官家で供される食材であることが示されていましたが、そうした膳に供する鳥などを捕える江戸時代の鷹狩において、雲雀がどの様な位置付けにあったのか、長くなりそうなので次回はこの話から始めたいと思います。

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から、今回は山川編にのみ記された次の2品を取り上げます。

  • ◯醋大住郡中原上宿の民、造釀せしを同所の縣令成瀨五左衞門、年々公に獻ず、故に成瀨醋と稱せしとなり、後年其事廢せり、當所より江戸靑山に通ずる道に御醋街道の名今に存す、
  • ◯雲雀大住郡波多野庄邊及び糟屋庄の邊に多し、慶長の頃中原の御殿を、土人雲雀野の御殿とも稱せしと云う、

(卷之三、以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)



平塚市中原の位置(Googleマップ
平塚市御殿はこの西隣の地域
新番地表記によって江戸時代の村域とは変異がある
どちらも大住郡中原上宿・下宿(現:平塚市中原、御殿他)に縁のある「産物」ですが、大住郡図説ではこれらについては触れられていません。一方は調味料、他方は野鳥という、全く性質の異なるこれらの品を同時に取り上げる気になったのは、これらが「風土記稿」の産物一覧に収まった経緯が共通していると思われるからです。今回は先にその経緯を考えるところから話を始め、その後にそれぞれの「産物」について見ていくこととします。

高座郡渡内村(現:藤沢市渡内)の名主家であった福原高峯が昌平坂学問所に弟子入りし、後に相模国内の徳川家康の由緒のある事績をまとめるべく天保10年(1839年)に「相中留恩記略」を著したことについては、以前玉縄の梅干について取り上げた際にも紹介しました。その「相中留恩記略」の「中原御殿蹟」の項には次の様に記されています。

中原御殿跡は中原上宿にあり。今御林となり、松樹生茂れり。長八拾間に、横六拾間程あるべし。四方に御堀蹟残れり。抑、当御殿は東照大神君様御放鷹のころ、御仮宿りに設け給ひし御殿にして、或は雲雀野の御殿とも唱へしとなり。こは此辺雲雀の名所なるを以てなり。当御殿へ度々成らせられし事は、其頃の書にも見えたり。其大略、…又、成瀬五左衛門殿、当所の御代官たりし頃、此地にて酢を醸し、江戸御城へ奉れり。其風味格別なるをもて、成瀬酢と呼び、御賞翫ありしとなり。今の江戸青山往来新道は、其ころ御酢運送ありしをもて御酢海道など呼なせリとなり。

(「相中留恩記略」1967年 有隣堂 校注編 44ページより、…は中略、強調はブログ主)


後で見る通り、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には多少なりとも記述が見られるものの、大住郡図説では取り上げられなかったこの2つの産物が山川編で「復活」したのは、この「相中留恩記略」の記述が影響している可能性が考えられます。

そこで今回は、これらの産物について現在明らかに出来る範囲で、「相中留恩記略」にどの様な点が評価されて採録されたのかを見ていきたいと思います。今回はまず、「醋」の方を取り上げます。


「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、かつて同地で醸造されていた醋について次の様に記しています。

古村民金左衛門と云者、醋を造醸せしを、時の縣令成瀨五左衞門重治、公に奉れり、故に是を成瀨醋と稱せられしと云う、何の頃か其事止て、今は造醸するものなし金左衛門の子孫今も村民たり、其家の傳へに、每年奉りし中、或年例に勝れて味美なりしかば、公より其製の例に替たると尋られしに今年は京師より製法に精き者を呼て、造らしめし由答え奉る、然るに當所の醋は、田舎の製を賞翫する所、京師の製法に倣ふは、却て賞翫を失へりとて、是より奉る事を止められしと云、今も當時造醸せし器を藏す、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)


先にここに名前が出てくる「成瀬五左衞門重治」について見ておく必要があるでしょう。徳川家康が江戸に入った後、関東の広大な所領は代官頭らによって統治されていましたが、やがて彼らの死亡や失脚に伴って代官頭が消滅すると、代って在地の代官によって治められる様になりました。うち、相模国の大住郡・淘綾郡・愛甲郡の幕領は、同地の代官頭であった伊奈忠次の没後、中原に置かれた陣屋を拠点とする複数の中原代官によって治められていました。中原陣屋は中原御殿を中心とした一帯に展開され、本陣、役所、米蔵、牢屋などを備えていました。

成瀬家はこの中原代官のひとりで、五左衞門重治は慶長16年(1611年)から中原代官を勤め、寛永10年(1633年)に亡くなっています。従って、「成瀬醋」の献上が始められたのはこの在任中の20年あまりの期間のうちの何れかということになります。

この「成瀬醋」について比較的記述が厚いのは、人見必大(ひとみひつだい)が元禄10年(1697年)に刊行した「本朝食鑑」です。原文は漢文で書かれているのですが、今回は少々長く引用したいと考えましたので、東洋文庫の翻訳版を引用します。

〔集解〕酢は、諸州の家々で盛んに造っている。大抵(およそ)水の善いものを択ぶことが先決である。昔から和泉(いずみ)酢を上としている。当今も盛んに製造して、四方に贈り、都市で販売しているが、三年以上経ったものが一番よい。その色は濃い酒のようで、味は甘くて甚だ酸い。近代では相州の中原の成瀬氏で造られるものが第一等で、駿州の吉原善徳寺で造られるもの、同州の田中の市上(まち)で造られるものがこれに次ぐ。以上の三所の酢は、いずれも泉州の醋の法に基づいて、これにいろいろ工夫を加えたものである。

中原の醋法としては、仲秋の吉日に、まだ脱殻していない早(うるち)(せいろう)で蒸し、(さらし)()し、(つき)(ふる)って上白米とし、この一斗を(やや)硬めの飯に煮て酒飯のようにしたのを用いる。麹六升と水一斗八升とを(はか)り定めておき、先ず堅炭一箇、鉄釘一箇を縛り合わせて、(かめ)底に入れる。こうするのが造醋の厭法(こつ)である。次に飯を温いうちに甕に入れ、固く()き定めて、水が()き出さぬように注意する。次いで水を差し、次に麴を入れ、厚紙で覆うて内蓋とする。その上へ、木蓋で甕の口を掩い、さらに重ねて柿渋紙で木蓋の上を覆封する。外は左索(ひだりない)の繩で七回半縛り定める。この甕を日光のあたる処に置いて、動揺させぬように、また非常の物に触れぬように、雨露が内に透過(しみこま)ぬようにして、七・八日間をおく。天気快晴の日を()ち、甕蓋(かめのふた)を開くが、内の紙蓋を開かず、気を漏らすだけである。夕方には外蓋を掩い、渋紙を縛る。翌日の午前にも、また気を漏らす。もし雨天であれば、蓋は開けない。このようにして二・三十日ねかしてから、前のように開封すると、内蓋が沈んで酸味が出るようになっている。これは酸が醸成されたためである。しかし醋が出来あがったといっても、(かす)()してはいけない。翌春の二・三月になって醋の熟するまで()って、布嚢(ぬのぶくろ)に入れて汁を()し、滓を取り去るのである。五・六月になって、また淳の生じるを()って、瓶に入れ、緩火で一・二沸煮立たせてから滓を取り去って清澄にし、その甕を屋内の涼しい処に移して、半ば土に埋めておくと、秋の彼岸のころになってすっかり熟成する。これは、大抵(ほぼ)泉州・田中・善徳寺の法とは同じであるが、就中(とりわけ)、中原は修製の妙を得て、異香・奇味がある。他の企ての及ばぬものであって、その深秘のところは人に伝えられない。

(「本朝食鑑1」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫296 118〜119ページ、ルビも同書に従う。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら


和漢三才図会巻105「酢」
和漢三才図会 卷之百五より「酢」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
当時の相模国の酢が高く評価されていたことについては「和漢三才図会」でも記していますが、こちらは「中原」の名前を出していませんし、醸造法についてもごく手短にしか書いていません。それに比べると、「本朝食鑑」の記す醸造法はかなり仔細に及んでおり、しかも基本的には酢の名産地の醸造法が共通であるとしながらも、中原のそれには更に秘法が存在することを最後に書き加えています。因みに、この醸造法は現在の米酢のそれと殆ど変わりがなく、この頃には米酢の醸造法が確立していたと言うことが出来ます。

人見必大の父・元徳は徳川幕府に仕えた侍医であり、とりわけ小児科医としての名声の高い人物でした。そのため、将軍だけではなく諸大名などとも交流があり、「本朝食鑑」の出版に当たってはそうした伝手で資金援助を得ています。兄・友元も儒学者という家柄で、人見家は学者一家として高い地位にありました。こうした家柄と交流関係が、特に幕府に献上されていたという「成瀬醋」についての知識をふんだんに入手するのに有利に働いた可能性は高そうです。また、必大が「成瀬醋」をこれ程までに高く評価するのは、あるいは人見家でもこの酢を実際に用いる機会が多かったのかも知れません。


豊田付近は今でも田畑が拡がる地域
遠方に見えているのは大山
ストリートビュー
この「本朝食鑑」の記述に従えば、「成瀬醋」は基本的な所では和泉国などで醸造されていた酢の製法と大差のない米酢であったことになります。元より、酢は日本でも古代から醸造され、和泉国の酢はその頃からの歴史を有しています。その製法が時代が下って他の地域でも醸造されるようになっていたことになります。中原上宿・下宿は平塚宿周辺同様に砂丘地の上にあり、米の作付けにはあまり向いていない土地柄ですが、「風土記稿」の中原上宿・下宿の項には、北側に位置する豊田本郷の村民が中原御殿の前を開墾して移住して成立したことが記されています。この豊田本郷を中心とする一帯は広大な水田が拡がる米どころであり、醸造に必要な米はそちらから入手出来たでしょう。

但し、細部では「成瀬醋」なりのノウハウを有しており、それが独自の風味を生み出していたのかも知れません。中原の村民金左衞門が何時頃から、またどの様な経緯で酢の醸造を始めたのかは不明ですが、和泉国の醸造法と大差ないとされていることから考えると、あるいは成瀬五左衞門重治が何らかの伝手で手に入れた醸造法を金左衞門に指導して始めさせた可能性も考えられます。その後試行錯誤を繰り返すうちに独自のノウハウを蓄積したのでしょうが、何れにせよ、後に醸造を止めてしまった時にそのノウハウも失われてしまったということになりそうです。

もっとも、「風土記稿」の記すところも飽くまでもかつての醸造家の言い伝えですから、風味を改善すべく京から名人を招いたのが結果的に仇になったとする話をどこまで史実として勘案するかは微妙なところがあります。実際、中原上宿に伝わる「大住郡中原宿万覚抜書」(天保10年・1839年)という文書には次の様な記述が見えます。

一成瀬酢之事、正徳年中留り申候、「享保十八(「 」朱筆)年相留申候ト有之、

一高七百六石六斗八升四合五勺

中原村高辻

高三百七石七斗六升八合

上中原村

斎藤喜六郎御代官所

高三百八拾弐石壱斗九升四合

下中原村

同 御支配所

高拾六石七斗弐升弐合五勺

若林六郎左衛門知行所

、先年御膳御酢差上申候付、朝鮮人御用相勤不申候処、享保八年ゟ御酢相止申候付、享保十二年年ゟ平塚宿助郷役一統相勤申候得共、此度馬入川船橋御用被 仰付候得、違背可仕様無御座候間被 仰付次第相勤可申候、然共、朝鮮人御用之儀初之儀御座候得者、隣村別前被 仰付被下候様奉願上候、以上、

享保廿一年六月

中原上下役人

堀江清次郎(成真)様御手代

平尾茂平太殿

長田用八郎殿

(「相模国村明細帳集成 第二巻」青山孝慈 青山京子編 岩田書院 700〜702ページより、…は中略、強調はブログ主)


「大住郡中原宿万覚抜書」は中原上宿の名主家が備忘のために様々な文書の抜き書きなどを書き留めた覚書で、江戸時代の同地の地誌や歴史が一望に出来る史料です。ここでは2ヶ所に「成瀬醋」献上の廃止に関する記述が見られますが、最初の「享保18年」は2番目に書き写された文書の日付の関係から考えると誤りと見られます。その2番目の文書では享保8年(1723年)に「成瀬醋」の献上が停止されたことが明記されており、更にその結果として、それまで免除されていた助鄕などの役務を4年後の享保12年から新たに務めなければならなくなったことがわかります。因みにこの文書は、朝鮮通信使の江戸への通行に合わせて相模川に浮橋を架ける役務が中原上宿・下宿にとっては初めてのことであったため、どの様に対処すべきかを問い合わせている文書です。

以前梅沢の鮟鱇を取り上げた際にも触れましたが、こうした献上品が各地の大名や旗本等によって過剰な負担をしてでも幕府に届けられている実情を見て、徳川吉宗が享保7年(1722年)3月に献上品の節減を命じています。年代から見て、この「成瀬醋」もその一環で献上廃止に追い込まれたと見るのが妥当なところではないでしょうか。「風土記稿」の記す醸造家の言い伝えも、あるいは幕府側の献上廃止の動きを受けて質の向上を企てたところが却って裏目に出たということなのかも知れませんが、少なくとも主因という訳ではなさそうです。

また、この文書から「成瀬醋」の献上が中原上宿・下宿にとっては役務の免除という便益と結び付いていたことがわかります。こうした便益はかつての中原御殿を預かっていた中原陣屋・中原代官と関係が高いと見られ、それが「相中留恩記略」への採録へと繋がっていったと見ることが出来そうです。「風土記稿」編纂時には既に生産されていなかった「成瀬醋」を敢えて山川編の産物には含める判断がされたのも、やはり同じ理由からでしょう。

一方、成瀬家をはじめとする中原代官はその後子孫が世襲していましたが、元禄の頃には代官家は何れも没落などによって廃されており、享保の頃には既に代官職からの献上という裏付けを失っていたことも、献上廃止の背景として考える必要があるかも知れません。以前見た愛甲郡の5村からの炭の場合は、献上が廃止された後も諸役御免の方は幕末まで堅持されており、こうした扱いの差が生じた要因を考える上では、その酢に結び付けられて語られている中原代官家の存在が大きい様に思えます。


中原上宿付近の一里塚跡付近(ストリートビュー
右の電柱の脇に一里塚跡を示す標柱が立っている
「御酢街道 一里塚跡」碑
標柱の向かいの民家の塀の裾に埋め込まれた
「御酢街道 一里塚跡」の碑(2007年撮影)


中原道のルート(ルートラボ)
さて、「風土記稿」の方には記載がありませんが、「相中留恩記略」には献上に際して中原道を使って江戸まで運んでおり、その由緒からこの道が「御酢街道」の別名で呼ばれていることを記しています。平塚から豊田へ向かう南北の道沿いに展開していた中原上宿の中途で東に分かれる道筋が中原道ですが、その分岐点から程近い場所にかつては一里塚があり、現在はその場所の民家の塀の裾に目立たない形で「御酢街道 一里塚跡」と刻まれた石碑が埋め込まれています。既に製法を失った「成瀬醋」を再現することは望むべくもない今となっては、「風土記稿」にも記されている醸造に使ったという甕(現在は平塚市博物館蔵)と、この街道の別称が、かつて名を馳せたこの地の産物の数少ない証ということになるのかも知れません。


次回は「雲雀」について取り上げる予定です。

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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その6)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に引き続き、愛甲郡の炭焼について、特に家康の由緒に関してもう少し掘り下げてみます。

前回は三増村の「御炭山」の位置が「三増峠」の東にあることを示したところで終わりました。「風土記稿」に引用された「甲陽軍鑑」の記述によれば、この辺りは小田原北条氏の頃には芝山になっていたとしており、その後国境の峠の見通しが良いのは軍略上は拙いとする徳川家康の指摘に従い、雑木林にするべく植樹されたとする「大三川志」や古老の言い伝えを引用しています。実際は三増峠は「風土記稿」にある通り愛甲郡と津久井県の間にあり、甲相国境にある訳ではないので、この点は家康が位置関係の誤認を前提にして指示を出したことになりますが、何れにせよ家康の命によって一帯が林になったという訳です。

「風土記稿」で引用されている「甲陽軍鑑」は口述を主体としていることから、細部の記述を史料として扱う場合に問題があることが良く指摘されています。また、「大三川志」も家康没後100年以上経った後の編纂で、「甲陽軍鑑」を参照し得る位置付けにあることが気になります。「徳川実紀」にも

甲相の境なる三增峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せし め。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)

(東照宮御實紀附錄卷五、「J-TEXTS 日本文学電子図書館」より引用)

と記されているものの、この「常山記談」もまた後年の編であり、史料としては「大三川志」と大差ない位置付けということになります。

三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
中原道は後年の道筋で
天正18年時点のものと同一と言えるかは不詳
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「大三川志」は家康が天正18年(1590年)7月29日に鷹狩をしながら三増峠を見たとしていますが、これは家康が小田原を陥れた後に江戸へと移動中のことであったことになります。この時の家康の移動ルートの詳細は不詳ですが、後に家康が好んで鷹狩を行うのは中原周辺の豊田から田村の渡しにかけての地域で、この時もその道すがらで鷹を放ったと仮定しても、この辺りから三増峠までは20km以上も離れています。三増峠の現在の標高は約320mあり、標高10m程度の中原周辺から見た時に、その間には三増峠の眺望を阻害しそうな標高の山はなさそうなので、地形上は見えてもおかしくはないと言えます。もっとも、夏の湿度の高い盛りに江戸に向けて移動している点からは、よほど視界良好でないと見えなかったのではないかという懸念もあります。

ただ、家康がこれだけの遠方から三増峠を見通せたとするのが事実ならば、遠目でも峠の位置が視認出来る程度に、かなり広範囲にわたって柴山になっていたことになるでしょう。その場合、後に「御炭山」となる三増峠の東側も、位置関係から見てこの頃はまだ柴山であったことになり、とても炭を出せる状態ではなかったことになります。因みに、「甲陽軍鑑」の記述通りであれば「三増峠の戦い」が起った永禄12年(1569年)には既に一帯が柴山と化していたことになり、家康が同地を目撃したとする天正18年時点でも引き続き森林にはなっていなかったとするところから、20年以上同地が柴山として使い続けられていたことになります。つまり、これらの書物の記述の通りなら、前回見た煤ヶ谷村の例ともども、これも小田原北条氏の治政下でかなり広範囲にわたって森林資源に強い負荷がかけられていたことを裏付ける景観ということになるのかも知れません。

また、この記述の通りなら、この地が「御炭山」として使われる様になるには柴山が雑木林になってからということになりますので、相応に年月を経てからということになりますが、慶長年間(1596〜1615年)には炭の産出が可能な状態になっていたとすれば、10年程度で炭焼用の炭材を出せるだけの雑木林への転換を果たしたことになります。これは戦国時代末期に既にそれだけの造林技術を家康一行が持っていたことを意味するのですが、上記の様に史料としての位置付けに課題があることから、更に裏付けとなる史料を探す必要があると思います。「風土記稿」に引用された一連の文献は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、「御炭山」を含む相模国の山林の変遷を考える上では非常に気掛かりな記述であることは確かです。



さて、「風土記稿」の三増村の項では、「又左衞門、三郎左衞門、市右衞門」という3人の農民を家康の旧領から連れてきてこの地に住まわせて炭を納めさせたとしており、その子孫に伝わる文書が掲載されています。家康は関東へ転封される以前には三河や駿河、遠江などを所領としていましたが、以下で取り上げる文書の記述からは三河国の農民であった可能性が高そうです。では、何故彼ら3人をこの地へ移住させる必要があったのでしょうか。

「御炭山」に指定された5ケ村は、戦国時代に炭の産地であった煤ヶ谷村からさほど隔たっている訳ではありません。戦国時代に炭焼の実績が多々あった煤ヶ谷村からも、江戸時代初期には江戸城に御用炭を納めていました。例えば同地には寛文元年(1661年)12月の請書が次の様に伝えられています。これによれば、明暦元年(1655年)から3ケ年で合計330俵の御用炭を江戸城が確かに受け取ったと証されています。

請取申上納炭之事

合三百三拾俵   但壱俵三歩入

右是明暦元未之歳ゟ酉之年迄三ケ年分、前々ゟ煤ヶ谷村ゟ引付ニ而上納仕由、当丑年請取御本丸御用遣申者也、仍如件、

御賄勘定役人

寛文元年十二月十日

木村藤左衛門(印)

(他4名連署略)

坪井次(右)衛門殿   長谷川藤右衛門(畏守)(印)

(「神奈川県史 資料編6 近世3」529ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


しかし、煤ヶ谷村には5ヶ村の様には諸役御免の特権は与えられませんでしたし、「風土記稿」もこの「御用炭」については何も触れていません。これに対して5ケ村には敢えて旧領から人を連れて来て炭を焼かせ、その炭に対して特権を与える格差が存在したことになります。

これについては、相模国内での炭焼に何かしらの不足を感じ取ったために、それを補わせる役目をこの3人に担わせた、と考えるのが妥当なところでしょう。当時の相模国の炭焼技術について具体的に記述した史料が見当たらないので、実際にどの様な技術がこの時に伝えられたのか、またそれまで同様の技術が相模国になかったのかは明らかになりません。飽くまでも史料上に伝わる人の動きから技術の動きを類推する以上のことは出来ませんが、武士が帰農したのではなく農民をわざわざ連れてきたと記すことからも、そこに特定の技術導入の目的があったと見るのが自然な流れです。

そして、この炭が茶の湯の席で使われたことと考え合わせると、やはり茶道の「炭点前(てまえ)」に耐えられる炭を焼く技術を持ち合わせた人間を連れて来たと見るのが一番筋が通りそうです。茶の湯において当時から炭の形・質・組み方・火相などが観賞の対象となっていたことは、最初に「日本木炭史」を引いて紹介しました。上記の三増峠の件と併せて見た時には、山林の資源管理技術を持った人間を入植させた線も考えられるのですが、それであればこの3名が炭に特化して名が伝えられることもないと思いますので、やはり炭の質に関しての技術を導入する方に主眼があったのだろうと思われます。

その際に気になるのが、小田原には一時的にせよ、千利休の高弟である山上(やまのうえ)宗二が来ていたことです。豊臣秀吉の怒りに触れて高野山経由で逃れてきた宗二が身を寄せた先が小田原であり、その著書「山上宗二記」にも炭の点前に使う「炭斗(すみとり)」が記されていることからも、彼が小田原の北条氏政・氏直親子の前で茶を点ててみせていれば、炭点前について知らせる機会はあったものと思います。

Hondō of Sōun-ji.jpg

箱根・早雲寺本堂
この地で惨殺された山上宗二の追善碑がある
(By 立花左近 - 投稿者自身による作品,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
ただ、宗二が高野山に逃れてきたのが天正16年(1588年)頃、小田原に入るのはそれ以降で、翌々年の天正18年には小田原包囲に際して箱根湯本の早雲寺で秀吉と再び面会するも、改めて秀吉の怒りを買って惨殺されてしまいますから、宗二が小田原にいたのは僅か2年足らずのことです。それでなくても小田原は秀吉との応対に追われている頃であり、茶の湯炭のために新たな炭焼技術を導入する様な余裕は、時間の面でも労力的な面でも到底なかったでしょう。少なくとも、家康が改めて炭焼技術を導入しようとしていることからは、それ以前に宗二をはじめ小田原を訪れたであろう茶人たちが炭点前に耐えられる炭焼をもたらした可能性は薄いことになりそうです。

ところで、「御炭山」5ケ村の由緒の委細について、「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収の史料番号125「愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳」の冒頭に次の様に書き記されています。因みにこの文書は、天保5年(1834年)に下荻野村で御炭山の支配について争議が起きた際に山中役所に提出されたものですが、5ケ村ではこうした争議などが起きる度に「御炭山」の由緒について繰り返し書き記して関係する役所に都度報告してきたことがわかります。

御炭山御由緒之義、乍恐

権現様三河国ゟ御入国之節、又左衛門・三郎右衛門・市右衛門申者御供仕、三増郷住居仕、三河国御吉例ヲ以、三増郷最寄三増村・上川入村・荻野村三ケ村ニ而山見立、御茶湯炭焼立、右三ケ村ニ而炭六百俵

御本丸御上納仕候御由緒ヲ以、慶長八卯年八月伊丹利右衛門(勝重)様・木部藤左衛門(直方)様ゟ黒印の御書附、三増郷千石之処、御鷹飼之廻り大、惣別諸役御免之御書附被下置候、

御炭山焼場之義、 三増村又左衛門・上川入村三郎右衛門・下荻野村市右衛門焼場由御座候、然ル処、三増村・上川入村・下荻野村右三ケ村共、文(禄)元年辰五月ゟ中原御代官成瀬五左衛門(重能カ)様御支配相成、慶長八卯二月御検地御縄入相成申候、

(上記書856〜857ページより、、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)



これによれば、「御炭山」で焼かれた炭600俵は「御本丸」へと送られたとしていますから、主な送付先は江戸であったことになります。基本的には江戸城での茶の湯の席でこれらの炭が用いられたことになるでしょう。


豊田本郷・清雲寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之43大住郡豊田本郷村清雲寺銚子杯之図
「風土記稿」卷之四十三 大住郡卷之二
豊田本郷の項より清雲寺・銚子杯之図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所を切り抜き)

他方で、家康が相模国で鷹狩を楽しむ際は中原御殿を使うことが多かったのですが、御殿の造営前は豊田本郷の清雲寺が宿泊に用いられていました。中原御殿造営後もこの清雲寺に鷹狩後に立ち寄って茶を点てていた様です。「風土記稿」では造営後の由緒の方が記されていますが、地元の名主家に伝わる文書からは、それ以前から利用されていたものの様です。

◯淸雲寺 豊年山と號す、臨濟宗、鎌倉壽福寺末、開山樂林妓、文明十三年七月十一日卒、本尊釋迦、慶長四年二月十日、東照宮中原御殿御逗留ありて、此邊御放鷹の時、當寺へ入御あり、境内の井水、淸冷なりとて御茶の水に召上られ、是より當寺を御茶屋寺と稱せり、其時寺領十石の御朱印を賜はり、旦銚子杯を賜りて、今に寺寶とす、其圖左の如し、

(卷之四十三 大住郡卷之二 雄山閣版より)


中原周辺は水田地帯で林が少ない景観ですから、点前に必要な炭は多少なりとも山間から取り寄せるしかなかったでしょう。後に御殿周辺で御林が多数造営される様になったものの、これらは何れも建材として利用する目的の松林で炭焼用の雑木林ではありませんでした。「御炭山」の属する各村が後に中原代官の所領となった際に檢地を行ったことが上記の文書に記されていますが、恐らくは中原での家康の茶の席で用いる炭もこの「御炭山」から供給されたのではないかと思われます。

後に「佐倉炭」が相模国の炭焼に学び、江戸時代の東の茶の湯炭としての地歩を固めていくのも、恐らくはこの「御炭山」の系統の炭焼技術だったのでしょう。残念ながら、この「佐倉炭」にしても、「木炭の博物誌」によれば現在では「技術を失った」(117ページなど)とされていますので、当時の技術の実態を明らかにすることは困難になっている様です。

なお、上記文書で見られる様に中原代官であった成瀬家の預かる地となったこの5ケ村については、その後中原代官が廃止されると元禄年間から越智清武(上野館林藩)や牧野成貞(下総関宿藩)の所領となり、その後も所領が転々と交替します。「御炭山」からの炭の貢上が廃止されて代永銭を領主に納める様になったのは、幕領から私領に切り替えられて以降の元禄11年(1698年)の頃からで、直接的には幕領ではなくなったことが代永への切り替えの理由とされています。

しかし、「日本木炭史」に見られる様に、この頃には江戸での炭の消費が既に飛躍的に伸びていたことから、幕府でも増大する炭の需要を確保することに腐心しており、元禄の頃には既に「天城炭」を始め関東各地の炭が流入する状況になっていました。そうした中では相模国の「御炭山」から産出される炭の地位も相対的に下がってしまい、幕府の「御用炭」としての役目を終えてしまったことも、代永への切り替えの背景にはある様に思えます。

その一方で、炭貢上による助郷や鷹飼人足などの諸役御免はそれ以降も幕末まで堅持されました。「厚木市史 近世資料編(5)」には、これらの村々が享保年間以降に免除された諸役の一覧が挙げられていますが(422ページ)、周辺各村が助郷の負担に苦しむ中で一貫して人足や役金の負担を免れていたことが窺え、「御炭山」を擁する各村に齎した恩恵は小さなものではなかったと言えるでしょう。



さて、「風土記稿」の中荻野村と下荻野村の項では、この「御炭山」に「東照宮」を祀っていたことが記されています。神格化された家康が現地で祀られていた訳ですね。中荻野村に2体、下荻野村に1体の石祠であったとしていますが、このうち下荻野村の1体については天保5年(1834年)5月の日付を持つ「下荻野村公所・子合持御炭山東照宮絵図」という文書が伝えられています(「厚木市史 近世資料編(5)」423ページ所収)。ここには寛政12年(1800年)4月に奉納された「権現様石宮」の正面図が描かれ、「惣丈弐尺三分」(約69cm)間口「壱尺」(約30cm)奥行「壱尺七寸」(約51cm)その他屋根部などの細部の寸法が記されています。そして、名主、組頭、百姓代2名の名前が刻まれていたことが記されています。この絵図には更に木製の鳥居・石灯籠2体(それぞれ文化2年と文政11年の奉納日が刻まれる)、そして他の社地に設置された石碑等の正面図が併せて記され、この東照宮がかなり手厚く、また長期にわたって祀られてきていることがわかります。因みに、この文書が作成された天保5年は上記の下荻野村の争議の年に当たっており、この絵図は恐らくその争議に際して下荻野村の「御炭山」の由緒を代官宛てに明らかにする一環で記されたのでしょう。


厚木市上荻野・荻野神社(ストリートビュー
これらの「東照宮」が現在に伝えられているか、「厚木市文化財調査報告書第42集 厚木の小祠・小堂」(厚木市教育委員会 2003年)の荻野地区の小祠の一覧を確認したところ、1体だけ「東照宮」と呼称されている小祠が現存することが記されていました(222ページ)。それによると、現在は荻野神社の境内に安置されており、総高81cmと石祠としては比較的大形のものです。右側面に「中荻野/馬場中」、左側面に「元和八年(1622年)壬戌建立/嘉永四年(1851年)辛亥再建」と刻まれており、徳川家康が亡くなった元和2年から6年後には祀られる様になり、その後恐らくは幾度かの更新を経てきたその最後の石祠ということになるでしょう。ただ、掲載されている平成12年撮影の写真などから窺える限りでは、これが「東照宮」であることが確認出来るものが付属していない模様で、この石祠については荻野神社を訪れた方々のネット上の訪問記でも話題にされていない様です。荻野神社はかつては「石神社」と呼ばれ、上荻野・中荻野・下荻野3村の鎮守であったことから、この「東照宮」をかつての「御炭山」から遷すことになった際に荻野神社の境内が選ばれたのでしょう。

「厚木の小祠・小堂」では、荻野地区の「東照宮」と記された石祠が1体しか記載されていないため、残りの2体の行方については明らかに出来ませんでした。ただ何れにせよ、これもかつての「御炭山」の存在を現在に伝える史蹟と言えそうです。

次回は、かつての宮ケ瀬周辺で大量に発掘された江戸時代の炭窯跡を取り上げる予定です。

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