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浦賀の葦鹿:「新編相模国風土記稿」より

以前「新編相模国風土記稿」の各郡の産物一覧をまとめた際には、浦賀の「葦鹿(あしか)」を「変わり種」としてごく簡単な解説を付けました。と言っても、別途引用したのは「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(2003年 神奈川県生命の星・地球博物館編)だけで、当時の実情についてこれといって掘り下げた訳ではありませんでした。そこで今回は、もう少し史料を集めて改めて解説したいと思います。


まず、「風土記稿」の各部の記述を拾ってみます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯葦鹿三浦郡西浦賀分鄕の海中、海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして、其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯葦鹿阿志加◯西浦賀分鄕の海中海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 西浦賀分鄕(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    ○海鹿島阿志加之末陸より十町餘に在、二島相並ぶ一は長十四間半、横十間許、一は長十三間横七間葦鹿常に此島に上りて午眠す、故に此名あり、享保以後浦賀奉行より同心等に命じ鐵炮をもて打しむ、此獸冬月は頗多く、寒中は其肉味殊に美なりと云、又此島に續て笠島と云小島あり、常に水中に沒す

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編と三浦郡図説の記述の違いは「三浦郡」の3文字が入っているか否かだけであり(読点の位置の違いは雄山閣版編纂時に生じたもの)、事実上完全に同一で、冬場に特にその数が増え、肉が美味であることを記しています。他方、西浦賀分郷の項では「海鹿島(あしかしま)」の項でアシカが常に休んでいる島であることからその名が生じたこと、そして享保年間以降浦賀奉行が同心に命じて鉄砲で撃たせていたことが記録されています。

和漢三才図会巻38海獺
和漢三才図会「海獺」
訓は「うみうそ」で「あしか」はない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
和漢三才図会巻38海鹿
同じく「海鹿」
こちらには「あしか」の訓がある
(「同左」)

「風土記稿」ではアシカの表記に「葦鹿」の字を宛てていますが、この表記を何処から持ってきたものかはわかりません。「和漢三才図会」では上掲の様に「海獺」と「海鹿」の2種類の項を掲げつつも、両者は実質的に同じものであることを「海獺」の絵の下や「海鹿」の書き出しの部分に記しています。また、「本草綱目啓蒙」では「海獺」の項のみが存在し、「ウミヲソ」「ウミウソ」の訓に加え、筑前で「アシカ」の名で呼んでいるとしています。以下に引用する村明細帳でも「葦鹿」の表記は用いられておらず、本草学の表記に従うことの多い「風土記稿」にあっては珍しい例と言えそうです。

浦賀道見取絵図:燈明崎付近
浦賀道見取絵図:燈明台付近(再掲)
ここで登場する「海鹿島」ですが、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では、燈明台の置かれていた燈明崎からさほど離れていない場所に位置している様に描かれています。

地形図上の「海獺島」(「地理院地図」)
ズームアウトすると西北側に久里浜港が見えてくる

しかし、現在「アシカ島(海獺島)」として知られている小島は陸地からは大分離れて位置しており、むしろ久里浜に近い海上にあります。「風土記稿」の記述でも「陸より十町(約1.09km)餘に在」と記していることからも、「海鹿島」は決して陸に近い岩礁などではなかったことは確かです。「浦賀道見取絵図」を含む「五街道其外分間見取延絵図」では、道路とその近傍のものについては測量結果を元に距離関係をなるべく忠実に反映する様に描いていますが、より遠方の目標物に関しては必ずしもその限りではなかったため、「海鹿島」については図中に収まる位置に描いたのでしょう。

「海鹿島」が久里浜村の属ではなかった点は今の町名からはやや違和感がありますが、西浦賀分郷は現在の久里浜港のある入り江付近まで拡がっていましたので、その点ではこの小島が西浦賀分郷の内にあったのはさほど不自然ではありません。「風土記稿」に「二島相並ぶ」とある点、そして最長で14間半(約26m)という特徴は大筋でこの島の特徴と合っていますが、かつてはこの小島の上で多数屯していたというアシカの姿を見かける代わりに、現在では燈台と海上の気象観測のための無人施設が設置されています

ともあれ、当時はこの島に集うアシカを撃たせていたと「風土記稿」は記している訳ですが、この裏付けとなる史料としては、東浦賀が享保18年(1733年)5月に差し出した村明細帳を挙げることが出来ます。この村明細帳は浦賀奉行の交替に際して領内の各村から提出させたものであることが表紙に記されていますが、その中に

一あしか御用付御鉄炮衆御出被遊候節、人足漁船御用相勤申候

(「相模国三浦郡の村明細帳」青山孝慈著、「三浦古文化」第13号 1973年 所収 63ページより)

という一文があります。浦賀奉行が鉄砲衆を連れてアシカ狩りを行う際に、東浦賀から船と人足を出していたというのですが、現在の地形図で見ても1km以上離れた海上の島にいるアシカを陸上から狙うのは、射程距離200m程度とされる当時の鉄砲ではまず無理で、船で射程圏内まで接近する必要があったのでしょう。特に年月や時季については明記されていませんが、冬場の肉が美味であると「風土記稿」が書いていることから判断すると、毎冬に定期的に行っていたことになりそうです。

捕えたアシカは誰が食べていたのでしょうか。「徳川実紀」の「大猷院殿御實紀卷六十六」では、正保4年(1647年)4月3日の項に

けふ葛西二の江漁人得たりとて海鹿を獻ず。(日記、紀伊記)

(「新訂増補国史大系第四十巻」吉川弘文館 480ページ下段より)

とあり、当時の将軍であった徳川家光に対して東葛西領二ノ江村(現:東京都江戸川区二之江町他)の漁師が捕えたアシカが献上されています。同書の索引で確認する限り、アシカが将軍に献上された記録はこれ1件のみの様ですが、浦賀奉行が例年撃たせていた状況から見ても、武家にとっては「珍味」と言うべき存在だったのでしょう。また、この記録から当時は江戸の近海でもアシカの姿を見ることがあったことが窺えます。

漁師がアシカを食していた可能性についてはどうでしょうか。三崎の漁師であった湊左文という人が著した「相模灘海魚部」という書物には、相模灘で得られる海産物などをまとめた中にアシカの姿が描かれており、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」には彦根城博物館が所蔵する同書の写本の絵が掲載されています。この書物について国立研究開発法人 水産研究・教育機構 中央水産研究所の図書資料デジタルアーカイブでは「作成年不明」としていますが、彦根城博物館がこの写本を所蔵しているのは彦根藩が幕末に海防の目的で三浦郡の一部を所領とした時期(弘化4年・1847年〜嘉永6年・1853年)があったことと関係が高いと考えられることから、少なくともこの書物はその頃には写本を献上できる状態にあったと考えられます。この「相模灘海魚部」のアシカの絵について、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」では「尾が太く長く描かれているなど、不正確な絵であるが、ニホンアシカと同定される」(93ページ)と評していますが、確かに尾部の表現は実物とは若干異なっている様に見えます。

注目すべきはその右側に記された記事で、「味似伊留加(味イルカに似る)」と記されていることから、少なくとも著者の湊左文はアシカやイルカを食した経験があった様です。また、この記事の中では「魚網魚取食故漁人甚悪之」と記していることから、漁師からは「害獣」として認識されていたことがわかります。当時の実情からは漁師自ら鉄砲を持って積極的に捕獲する訳には行かなかったと思われることから、彼らの場合は漁の最中に網に掛かったりしたアシカを捕えていたのでしょうが、彼らもその様な経緯で得たアシカを食す機会はあったものと思われます。ただ、当時の漁師がどの程度の頻度でアシカを口にしていたかは良くわかりません。少なくとも、江戸時代を通じて一定数が生息していたと考えられるので、個体数を減らしてしまうほどの積極的なアシカ漁は行われていなかったのではないか、と個人的には考えています。


三崎の漁師である湊左文が、自らの漁場を離れて浦賀の近海まで乗り出していたとは考え難いので、彼がアシカを見かけていたのは洋上か三崎付近の岩礁の様な場所だったのでしょう。「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」にはこの浦賀の「アシカ島」の他に、「かつてニホンアシカが繁殖または休息のために上陸した小島・岩礁」と題した図を掲げ(93ページ)、地名から推察したと思われるかつてのアシカの生息地を列挙しています。このうち、神奈川県の沿岸では
  • 横浜市神奈川区(トド島)
  • 横須賀市久里浜(アシカ島)
  • 三浦市八浦(トドノ島)
  • 三浦市晴海町(トッド島)
  • 三浦市城ヶ島(アシカヶ入江)
  • 葉山町森戸(トットヶ鼻)
  • 葉山町森戸(トットノ島)
と、城ケ島をはじめ三浦半島沿岸の地名を多数挙げており、アシカの生息する海が多数あったことが窺えます。この中には三崎の対岸に位置する城ケ島の名前も含まれていますので、湊左文がアシカを見たりしていたのはこの付近でしょう。この一覧では他に、房総半島、伊東、伊豆大島の地名が挙げられています。


三浦市南下浦町毘沙門字八浦の位置(「地理院地図」)
「風土記稿」の三浦郡毘沙門村(現:三浦市南下浦町毘沙門)の項には

◯海 村南にあり、江戸迄海上十八里、海岸に白濱・八浦夜都宇良をそ・堂ケ島等の名あり、

(卷之百十二 三浦郡卷之六、強調はブログ主)

とあり、「トドノ島」の代わりに「をそ(獺)」の名が挙げられていることから見ると、こうした海岸の名称はその時々によって呼び替えられていたのかも知れません。

後にシーボルトが持ち帰った標本やスケッチをもとににして編纂された「日本動物誌」の中では、アシカは「Otaria Stelleri」としてその姿骨格などの図(リンク先は「京都大学電子図書館 貴重資料画像」)と共に紹介されました。シーボルトが持ち帰ったとされるアシカの標本がオランダのライデン・国立自然史博物館に所蔵されているそうですが、滞在していた長崎・出島で入手したものとされ、当時はこうした地域でも普通に見られる動物であったことがわかります。

こうした状況が変化していったのは、やはり明治時代の後期頃からであった様です。神奈川県の「レッドデータブック2006年版」では次の様に記されています。絶滅の原因については他にも乱獲駆除などを挙げることは出来そうですが、何れにしても人為的な側面が強く作用したことは間違いないところでしょう。

ニホンアシカ Zalophus californianus (Lesson)(アシカ科)

県カテゴリー:絶滅(旧判定:絶滅種B)国カテゴリー:絶滅危惧ⅠA類

判定理由:明治30年代頃までは、棲息の記録があるが、以降は全くみとめられない。

生息環境と生態:海岸部で休息・繁殖する姿が以前は認められたが、現在はない。

生息地の現状:繁殖や休息に利用していた岩礁海岸が開発と共に消失してしまった。

存続を脅かす要因:海岸開発、水質汚濁

県内分布:絶滅したため、なし

国内分布:不明

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 236ページより)


実はこの2006年のレッドデータブックのこの項では、末尾に参考文献として「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」が挙げられています。既に域内からは絶滅して久しい動物だけに、過去の記録を引き継ぐ以上に記述の厚みを増すことが出来なくなっていることが、こうした文献の参照関係にも現れているとも言えそうです。
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「毛吹草」の相模国の産物にまつわる補足

前回の記事の中で、「毛吹草」の第4巻に記された相模国の「名物」を引用しました。そのうち、「鼠大根」について「鼠の手に似ているという」と書いている点を事実誤認と言わざるを得ないと評価しましたが、ここにはこれまでこのブログで取り上げた他の産物についても挙げられていますので、今回はそれらの産物について照合した上で補足を加えたいと思います。

「毛吹草」の該当箇所を再掲します。

相模

  • 鎌倉 柴胡(カマクラ サイコ)
  • 紅花(カウクハ)
  • (ネズミ)大根鼠ノ手ニ似リト云
  • 海老(エビ)伊勢海老ノゴトシ
  • 江島 江豚(エノシマノイルカ)
  • 小田原 海雀(ヲダハラノウミスヾメ)魚也
  • 透頂香(トウチンカウ)
  • 甲鉢(カブトバチ)
  • 十間坂(ジツケンザカ) 星下梅(ホシクダリノムメ) 日蓮宗數珠ニ用之玉ニ星一ツヽ有ト云
  • 大礒 盆山 敷石(オオイソニボンサンノシキイシ)五色ノ石有之
  • 禰布川 飛石(ネブカハノトビイシ)
  • 秦野野大根(ハダノノノダイコン)

(岩波文庫 新村出校閲・竹内若校訂版 169ページより)


著者である松江重頼は江戸時代初期の京の俳人ですが、家業は撰糸商人で、その傍ら宿も営んでいた様です。他の国の「名物」の一覧に絹織物や綿織物の名前が多いのは、あるいはそうした家業故に触れることが出来た知識だったのかも知れず、そうだとすると「三浦木綿」が取り上げられていないのもそうした商人としての目での評価であった可能性もありそうです。

正保2年(1645年)に刊行された「毛吹草」は江戸時代を通じて何度も版を重ねていたことが、「早稲田大学古典籍データベース」に収められた「毛吹草」の写本や刊本の多さ(この記事を書いている時点では「毛吹草」で検索して11件ヒットします)で見て取れます。上記の岩波文庫の翻刻は、現在まで多数伝えられるこれらの写本の中から最も古いと思われるものを底本として、極力原本に近いものを再現しようとしたことが「解説」に記されていますので、上記の引用に後代の追記や改変はないものと考えています。また、「毛吹草」よりも時代が下った磯貝舟也の「日本鹿子(にほんがのこ)」(元禄4年・1691年)に掲載された相模国の「名物」を見ると

同國◯相模名物出所之部

  • 大根秦野と云野原にあり、たねをまかずして、おのれといでくる也、
  • 鼠大根かまくら邊より出る、鼠の手ににたり、よつてかく云ふ、
  • 柴胡同所よりいづる
  • 紅花同所よりいづる
  • 海老( )世にかまくらゑびと云
  • 江島江豚(イカル)
  • 小田原海雀( )
  • 同鰹の(タタキ)
  • 同粕漬梅( )
  • 同足駄( )
  • 同外郞透頂香
  • 同夢想枕
  • 盆山敷石大いそより出る、五色の石也、
  • 川村材木
  • 十間坂星下梅日蓮宗數珠に用、玉に星一ツ宛有、
  • 飛石禰布川と云所より出る、小田原近所なり、

(「古事類苑データベース」より、体裁は適宜調整)

と、選定されている品目や表記、更に「鼠大根」の「鼠の手ににたり」という表現から、明らかに「毛吹草」を参照していることが窺え、その影響の大きさを見ることが出来ます。

鼠大根」は上記の様に認識に妙な部分があるとは言え、三浦の高円坊大根について江戸時代初期に京でその名を知る人がいたことを示しています。「三崎誌」がこの大根を「鎌倉の産にもあり」と書いたのは、著者の木村伝右衛門もまた俳人であったことから、やはり「毛吹草」の記述を意識していたのかも知れません。また、「毛吹草」では「波多野大根」についてもその名を記していますが、自生していることを意識して「野大根」という名前になっており、「日本鹿子」の方はその点について解説が付されています。こうした遠方の大根がわざわざ京まで運び込まれることが当時あったとは考え難いところですが、特に大根の場合は品種が多彩であることが意識されていたために各地の品種が遠隔地でも知れ渡っていたのかも知れません。

「毛吹草」ではこの一覧の筆頭に「柴胡」が挙げられています。「鎌倉柴胡」という表記になっていることから、「日本鹿子」では鎌倉産であることを強調していますが、「毛吹草」はその点については追記はありません。江戸時代前期に遡った時に、「新編相模国風土記稿」に記されている柴胡の産地とどの程度隔たりがあったかは定かではありませんが、「風土記稿」の三浦郡図説に「北条五代記」の引用として城ケ島で鎌倉柴胡を採っていたことが記されており、産地に多少変動があることは意識されていたと思われます。また、「新編武蔵風土記稿」の根岸村の表記に「これ當國の内に生するものながら鎌倉柴胡とて世に用る所なり」とあるところを見ると、時に「鎌倉」を「相模」に近い広い地域を指すものとして意識していた面もありそうです。ただ、「毛吹草」や特に「日本鹿子」では、実際の産地の広がりについてはあまり知識がなかった可能性は高そうです。

他方、大磯の「敷石」については、延宝4年(1676年)と比較的早い時期に同地の小島本陣家が御用を承って独占的に砂利を出荷していることが史料によって確認出来、更に後年の記録に京・知恩院へ献上した実績も残されている点が気になります。「毛吹草」が大磯の砂利について名を知っていたのも、あるいは史料で確認出来るよりももっと早い時期に、大磯から京や近辺の庭園に砂利が運び込まれたことあった、という可能性について考えてみたくなるところです。根府川の「飛石」についても、その用途が「飛石」に限定されて記されているところからは、やはり同様の可能性を考えてみたくなります。無論、どちらも更に史料の裏付けが必要ですし、逆に「毛吹草」が引き金になって京の寺社が庭園用の砂利を所望する様になったという可能性も考えてみる必要がありますが、松江重頼が相模国(や他の各国)の名産についてどの様に知識を得たのか、という課題は、この一覧を考える上では検討してみるべきと思います。

「毛吹草」に記された名産のうち、残りの品目についてはまだ他の史料との照合をしていないので、後日機会が出来たら触れたいと思います。このうち、小田原の透頂香(外郎)については「風土記稿」の足柄下郡図説や山川編の産物一覧にありますので、その際に改めて取り上げます。
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2種類の蘿蔔について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻46「萊菔」
「本草図譜」より「萊菔」の図
この後複数の品種の図が複数描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


秦野市西田原の位置
東隣の東田原に飛地が多数存在する


大珠山香雲寺の位置
秦野盆地北辺の山裾に当たる
前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」に記された2種類の「蘿蔔」について見ていきます。今回は「波多野大根」について、その記録を探ってみます。

前回掲載した「風土記稿」大住郡の図説では「西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、」と記しており、「山川編」の記述でもこの件に触れています。西田原村(現:秦野市西田原)の記述では産物についての記述は見えませんが、同地の香雲寺の項に「天文中の文書」が掲載されています。

◯香雲寺 大珠山春窓院と號す、曹洞宗 下總國葛飾郡國府臺總寧寺末、…又大藤小太郎某、當寺修理の事を沙汰せし文書あり曰、先日之御返札、披見申候、宗樹長老、豆州御越之由承候、本寺を御取立候得者、一段目出度候、貴老先々其元に御座候得者、心易存候、然者先日之金子にて、早々破損之所計建立可被成候、總而葺直之事は、秋中に可被成候、先日に□□□御指金子あり次第に、今來月之中に、御普請可被成候、其内又便も候はゞ可申入候家數多御座候間、大方に被入御念に者、罷成間敷候、人足の義は、何も用次第、かし可申也、申越候間十ヶ市へ仰可被越候、便も候者、又普請樣子能々可承候、又爰元珍敷候、大根給候、賞翫申候、恐々二月十六日、太小太貞□華押、猶以此者に委敷申越候能々御念被入、御普請可被成候、大方に被成候而者、罷成間敷、我等も夏中罷下申候、さきへ飛脚可申候孫市内藏助所より珍敷大根給候、辱候由賴入候、以上、

(卷之五十二 大住郡卷之十一より、…は中略、強調はブログ主)


天文年間(1532〜1555年)としか記されていないものの、香雲寺の再興は永禄7年(1564年)のこととされていますから、この文書はそれよりも前、従って再興される前の荒れた寺の修理の相談をしていることになります。その文中で、当地の珍しい大根を賞味あれと言っている訳です。この頃は恐らくまだ栽培を行っていなかったのでしょう。

実際、「和漢三才図会」の「相摸國土產」の項に「大根(ダイコン) 秦野自然生」と記しており、正徳2年(1712年)に同書が成立する頃にはまだこの大根が自生種と認識されていたことが窺えます。また、同書の「蘿蔔」の項では

攝州天滿前相州波多野共細長者二尺許周(ハカリ)一寸半而本末(ヒトシク)(ヒモニ)糟糖香物宮前者脆/波多野硬

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、小字中の改行は/に置き換え)

と、「波多野大根」を「宮前大根」と並べて紹介しています。形状はほぼ同一で細長く、白い紐になぞらえている訳ですね。どちらも糟漬にして香物にするとしていますが、「宮前大根」の方が柔らかかった様です。因みに、この摂州天満宮の「宮前大根」が現在「守口大根」と呼ばれているものに当たります。

本草図譜巻46「はだのだいこん」
「本草図譜」より「はだのだいこん」の図
「宮の前だいこん」など数種の名前が併記されている
産地に何故か「相州鎌倉」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
「波多野大根」については他に「本朝食鑑」にも「和漢三才図会」とほぼ同等の記述が見え、更には「本草図譜」でも右の様に、細長い大根の図の脇に「宮の前だいこん」など数種の名前とともに「はだのだいこん」の名が記されています。産地の表記が何故か「相州鎌倉」とされる点は疑問点ではあるものの、恐らく「波多野大根」の姿を図に描いたものとしては数少ない一例ということになると思います。こうして見ると、「波多野大根」は江戸時代中期には比較的知名度があった大根の1つということが言えそうです。

因みに、「農業全書」の引用を前回掲載しましたが、その中には「はだ菜あり。」と記されていました。「日本農書全集 第13巻」の注では、これを「波多野大根」のことであるとしていますが、これについて秦野市史編さん委員を務めた石塚利雄氏は、「秦野だいこん雑談」(「秦野市史研究 第5号」1985年 所収)の中で、「はだな」の用例として「神前で嫁は波多奈を二本出し」「干大根はだなの前も恥づかしい」等数点の川柳を検討し、更に複数の辞典の記述を列記した上で、次の様に見解を提示されています。

以上の如く辞典の解釈もいろいろだが、Dの江戸語の辞典(注:前田 勇編 講談社刊)はすこし毛色の変った辞典である。同辞典は、寛政の頃の遊里を書いた好色本のなかに、「淫楽な娼婦がでてきて、はだなだいこの名代を出すだろう」とある大根の水分の多いことをからませた語句を参照しているが、どうも、これは当時の川柳に多くある相模下女を連想され、この相模下女と同じ相模国の波多野の呼称がはだなに類似するので、はだな大根は波多野大根とされたのではなかろうか。もっとも、面白おかしい(ママ)落や話は人々に受けるもので、呼称は類似しており、背景に相模下女のあることから、はだなを相模国の波多野に結びつける要素は多分にあると思う。

(同書39ページ下段)

その点では、「はだなだいこん」が「波多野大根」の異名として用いられた可能性はありそうですが、こうした用法は主に江戸市中を中心に広まったもので、当の生産地では用いられなかった様です。

その地元の当時の文書に記された例を他に探すと、西田原村の東隣の東田原村の元禄12年(1699年)の明細帳に次の様に複数箇所にその名が見えます。

一御年頭江戸え名主壱人宛参候。為御年玉当所柿壱束づゝ、百姓御年玉て波多野大根壱抱差上申候。路銭之義は、名主手前て請申候。送馬壱疋、年玉付馬壱疋村中より請申候。

一波多野大根壱駄づゝ霜月に御地頭様え差上申候。

一波多野大根八束指上 但壱年置、此御扶持方米壱升、五合・大豆弐升五合被下候

一波多野大根壱束     但三尺廻り納来り申候

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」115、117、119ページより、…は中略)

この村は当時「逸見領」と「鵜殿領」の相給の村であったため、記述も複数に割れているのですが、それにしても領主に波多野大根を献上する機会が多かったことが窺え、当時はそれだけ地元の産物としてもてはやされていたのでしょう。「秦野だいこん雑談」では、この頃には自生するものを採集するだけでは献上に足りないと考えられることから栽培する様になっていたのではないかと考察されています。

しかし、「風土記稿」の記すところでは、同書が編纂された天保の頃には作らなくなっていたとしています。これに対して、意外なことに箱根の「七湯の枝折」に「波多野大根」の名前が登場しており、この関係をどう見るかが課題です。「七湯の枝折」にはこう記されています。

一秦の大根 秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 71ページより)


「七湯の枝折」の産物に記された品目は、この「秦の大根」以外は何れも箱根の山中で産出するものが並べられています。勿論、箱根の外でも産するものも多数含まれており、例えば「山椒魚」の場合は大山付近で穫れるものも混ざっていたことを既に紹介しました。しかし、箱根の外から来た山椒魚が「旅魚」と称されて地元で穫れたものより値が下がることを書いていた様に、飽くまでも基本は箱根の中で産出するものがメインであったという点には変わりなかったと言えるでしょう。

そうした中で、箱根では産出しない「波多野大根」だけが敢えてこの一覧に含められたのは何故か、がまず疑問点として浮かんできます。「世ニはたな大こんといふハ是なり」と記す様に、箱根山の外から運び入れてくる食品類の中では特に当時の知名度が高かったが故に、敢えてその名を記したのかも知れませんが、ならば他にもこの一覧に記されていても良さそうな品目がある様にも思えます。勿論、「七湯の枝折」にこの様に記されていることから考えると、やはり箱根の温泉宿の膳に「波多野大根」の香物が添えられることがしばしばあったということになるのでしょう。

また、「七湯の枝折」が成立したのは文化8年(1811年)、「風土記稿」が成立するのは天保12年(1841年)でその間に30年の隔たりがあります。大住郡の稿の成立はその前年の天保11年で、「風土記稿」の中では終盤に編纂が終わっていますので、何れにせよ「七湯の枝折」からは多少時間が経っているのは確かです。とは言え、双方の記述が共に正しいとすれば、「波多野大根」の栽培はこの30年の間に急激に縮退したことになります。先述の「秦野だいこん雑談」では、「波多野大根」の生産が終了した理由を煙草の栽培の抬頭に見出していますが、比較的知名度のあった野菜の栽培を中止する程の作付の急激な切り替えがあったかどうかは、そのことを裏付けられる史料の登場を待って検討するより他はなさそうです。

ともあれ、明治10年の「第1回内国勧業博覧会」には、秦野の村々から大根に関する出品があった形跡は見当たりません。「風土記稿」の記す通りであれば、遅くともこの頃までには秦野の産物としての認識が薄れてしまっていた可能性がかなり高そうです。明治時代に入ると、その土壌の特性を活かして落花生等の近代的な作物の作付も行われる様になったため、ますます「波多野大根」が追いやられる状況に陥っていった、ということになるのでしょう。

この大根が元より自生していたということであれば、適切な生育環境を残した山野があればもしかすると生き延びている可能性もないとは言えませんが、こうした山野の多くが別の土地利用に切り替えられていることを考えると、現在の「波多野大根」の自生種を見出すのもかなり難しいと言わざるを得ないでしょう。実際、複数の研究者が現存する自生種を探索したものの、確実にこれと言えるものは見つかっていない様です(例えば「恵泉・野菜の文化史(1) ダイコン」藤田 智(園芸文化研究所)、リンク先PDF)。

因みに、小田急小田原線の「東海大学前駅」は、昭和62年(1987年)に現名称に改称する前は「大根(おおね)駅」と称していました。同地に明治22年(1889年)から昭和30年(1955年)まで存在した村名が「大根村」であったことに由来するのですが、その漢字表記からはつい「波多野大根」と関係があるのではないかと思いたくなります。しかし、これについて「秦野だいこん雑談」では次の様なエピソードを紹介しています。

秦野は煙草の産地として有名だったが、実は、ろくな調査もしないのに、煙草の前にはだいこんが有名だったと話したことがあった。そのとき、「それで秦野にはだいこん(大根)と同じ文字のおおね(大根)という地名があるんですね」といわれ、すこし面くらったことがある。

というのは、大昔はだいこんのことを「おおね」と呼称していたが、当地にある大根(おおね)という地名の起因は、だいこんとは関係がなく、地形からと推察していたからである。

(上記書36ページより)


実際、江戸時代から明治初期までは同地に「大根」の名を冠する村名はなく、周辺の村が合併して新たな村を結成する際に、「大山の根」に位置するという意味で「大根」と称する様になったとされています。その頃には既に下火になっていた「波多野大根」との類似は「偶然の一致」ということになるのでしょう。



その様な訳で、三浦の「鼠大根/高円坊大根」と秦野の「波多野大根」では、同じ様に「風土記稿」に取り上げられていながらその後の経緯は随分と違うものになってしまったと言えます。しかし、他方でこの2種の大根には2点ほど共通項を見出すことが出来ると思います。

1つは生育環境です。「農業全書」では大根の栽培に適した土地について、

○うゆる地の事。大根細軟沙(さいなんしや)〈こまくやハらかのすな〉の地に宜しとて、和らかなる深き細沙地を第一好むものなり。河の辺ごミ砂の地、又ハ黒土赤土の肥たる細沙まじり、凡かやうの所大根の性よき物なり。

日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 216ページより、ルビは一部を除き省略

と記しています。

現在も大根の栽培が盛んに行われている三浦半島南部の台地は、「黒ボク土」と呼ばれる箱根・富士山由来の火山灰土が覆う土地で水捌けが良いのが特徴です。他方、秦野盆地の土壌も砂礫層の上に厚く堆積した火山灰土で、双方の土壌は良く似通っています。双方の大根の品種は特徴が大きく異なるとは言え、基本的には大根が生育するのに適した土地であったと言えるでしょう。実際には大根の適作地は火山灰土に限らず、例えば平塚の砂丘地帯で第二次大戦前に大根の栽培が行われていたことが「神奈川県園芸発達史」(富樫常治著 1944年)にも記されています。しかし、「風土記稿」に記された2つの大根の産地が共に火山灰土の土壌を特徴としていることはなかなか興味深い事実です。

もう1点は「風土記稿」がこの2種類の大根をその土地の産物として取り上げた理由です。「波多野大根」の場合は江戸でも知名度が高かったこともさることながら、香雲寺の文書がその由緒を語る根拠として重視されていることが、その記述から窺えます。他方、「高円坊大根」については前回記した通り、「三崎誌」や「三浦古尋録」に記述されていることを紹介しました。これらの先行する地誌を「風土記稿」の編纂に当たって昌平坂学問所が参照していたとする明確な裏付けは今のところ見出せていませんが、「七湯の枝折」に見られた参照関係の例から見ても、箱根以外の地域でも同様に既存の地誌を参照していた可能性は考えて良いでしょう。そして、そうであるとすれば、三浦郡の産品を挙げるに当たって、これらの地誌に紹介されていることが1つの目安として考慮された可能性は少なくないと思えるのです。

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2種類の蘿蔔について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物の一覧から、今回取り上げるのは蘿蔔(すずしろ)、つまり大根です。


  • 山川編:(卷之三):

    ◯蘿蔔大住郡波多野庄中に產するを波多野大根と唱え佳品なれど、今は絕て播殖せず、同郡西田原村西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、又三浦郡中に多く播殖す、高圓坊村より出るを殊に上品とす、俗に鼠大根と云ふ、其根の形鼠尾に似たり、【本朝土產略】にも當國の產物とす、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯萊菔 水蘿蔔の類にて、根細長なり、波多野大根と唱へ、波多野庄中に產するを佳品とせり、されど、今は絕て播殖せず、西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯蘿蔔郡中多く播殖す、俗に鼠大根と云、其形蕪菁に似て根の様鼠尾に似たり、高圓坊村より出るを殊に上品とす、【本朝土產略】當國の物產に鼠大根を載す

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


梅園草木花譜夏之部巻2「蘿蔔」
「梅園草木花譜夏之部」より「蘿蔔」
「大和本草」をはじめ各種の本草学等の書物での
表記が図の左に列記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
山川編」の記述と大住郡・三浦郡の「図説」の記述の間の整合性は取れています。「風土記稿」の表記では「大根」「蘿蔔(らふく)」の他に「萊菔(らいふく)」も用いられていますが、意味によって使い分けられているものとは言えなさそうです。大住郡の「波多野大根」と三浦郡の「鼠大根」は相互にかなり特徴の異なる品種の様ですが、「山川編」が1つにまとめて取り上げていることもあり、一緒に取り上げることにしました。

今では栽培されている大根の大半が「青首大根」になりましたが、それでも「守口大根」「聖護院大根」「桜島大根」の様に地名を冠する品種が数多く残っており、その地の特産物となっているものも少なくないと思います。こうした品種の多さについては、江戸時代初期の代表的な農書である「農業全書」でも
山海愛度図会「あつくしたい」
一勇斎国芳「山海愛度図会」
(嘉永5年)より「あつくしたい」
肥後大根の収穫風景が左上に描かれる
各地の名産としての大根を
取り上げた一例
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

○其種子色々多しといへども、尾張、山城、京、大坂にて作る、勝れたるたねを求てうゆべし。根ふとく本末なりあひて長く、皮うすく、水外く甘く、中実〈うつけず〉して脆く、茎付細く葉柔かなるをゑらびて作るべし。根短く末細にして皮厚く、茎付の所ふとく葉もあらく苦きハ、是よからぬたねなり。

○又宮の前大根とて、大坂守口のかうの物にする、細長き牙脆き物あり。又餅大根とて、秋蒔て春に至り根甚ふとく、葉もよくさかへ味からき物あり。三月大根あり。はだ菜あり。又夏大根色々あり。又播州津賀野大根とて、彼地の名物なり。此外蕎麦切に入、甚からきをももとめつくるべし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 215ページより、ルビは省略)

と、近畿に産するものを優れているとしながらも、他に多彩な品種が存在することを記しています。また、「大和本草」でも

◯凡大根に種類多し大大根あり是一時種蒔之力と土地の肥壌によれり又種子も別にあり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナはひらがなに置き換え)

と記して複数の品種を紹介し、土壌の質もその多様さの一助となっていることを指摘しています。


三浦市初声町高円坊の位置
三浦半島南部中央の台地に位置している
現在でも畑の広がる地域
今回は先に三浦郡の「鼠大根」の方から見ていきます。「山川編」や「三浦郡図説」では「高圓坊村」(現:三浦市初声町高円坊)の名が挙がっていますが、同村の「風土記稿」の記述にも

此地蘿蔔に應ずるを以多播殖す里人高圓坊大根と呼ぶ

(卷之百十 三浦郡卷之四)

とあり、こちらでは「鼠大根」ではなく「高圓坊大根」の名が記されています。


この大根については、三崎の江戸時代中期の地誌である「三崎誌」(宝暦5年・1755年編)では

鼠大根  鎌倉の産にもあり。此所を最上とす。

(「古書に読む三崎」より)

と「鼠大根」の名の方を記しており、同種が鎌倉でも作られているとしています。他方、江戸時代後期の三浦郡の地誌である「三浦古尋録」(文化9年・1812年、加藤 山寿(さんじゅ)著)では

◯此村ニ生ツ大根ハ本短ク葉大ナリ味ヒ至テ美ナリ是ヲ三浦ノ鼠大根ト云テ名産ナリ近来近鄰村ニテモ作ルカ一名ヲ高円坊大根ト云

(「校訂 三浦古尋録」菊池武・小林弘明・高橋恭一校訂 横須賀市図書館 149ページ 高円坊村の項より、傍注に一部異本の表記の差異について注記あるが、文意に差異を生じるものではないと判断し省略)

と、こちらは「高圓坊大根」の名が記されています。どちらにせよ、この大根が江戸時代の初期から栽培されていたことが窺えます。

「風土記稿」はその形について「其形蕪菁(かぶら)に似て根の様鼠尾に似たり」と書いています。現在も「鼠大根」を栽培している地域が長野県坂城町にありますが、そちらの写真を見ると蕪よりはもう少し長い姿をしています。ただ、三浦郡の「鼠大根」がこれに近かったかどうか、現物を確認出来なかったのでわかりません。

この高円坊村の大根は、時代が下って明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」にも高円坊村から「蘿蔔種」が出品され、更に明治29年(1896年)の「三浦郡及神奈川県地誌」(三浦郡教育会 編 横浜製紙分社)でも

農產物には、穀類、蘿蔔(ダイコン)菜蔬(サイソ)等あり、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え)

と記すなど、この大根が明治時代に入っても同地の主要な産品の1つとして認知されていたことがわかります。しかしながら、明治13年(1880年)に三崎に新設された青物市場の2年後の会計報告では、

明治十五年一月ヨリ/十二月マデ合計

一金九百八十八円四拾五銭五厘 売上高

金弐百弐拾三円也

生柿

金百拾七円拾銭

串柿

金弐百九拾壱円九拾五銭

味柑

金五拾弐円三拾銭

黄瓜

金三拾三円弐十五銭三厘

金七拾円五銭七厘

色瓜

金九拾七円三銭五厘

西瓜

金百三円七十六銭

明治十六年六月ヨリ/八月マデ合計

一金五百六拾七円八拾五銭 売上高

金六拾円五銭

黄瓜

金七円三拾銭

白瓜

金四拾円

金百円五拾銭

色瓜

金百弐拾五円

金百拾壱円五十銭

西瓜

金百弐拾三円

南瓜

金五円五拾銭

野菜類

右之通相違無御座候也

(「三崎町史 上巻」79〜80ページ下段より、小字部分の改行は/に置き換え)

まだ市場が立ち上がったばかりで認知度が低く、主に果樹や瓜類が出荷されてきているという特殊性はあるのでしょうが、こうした市場に逸早く大根が出荷されていたのではなかったことがわかります。「神奈川県園芸発達史」(富樫常治著 1944年)の指摘するところによると、当時は近隣の横須賀市の大根の需要も三浦半島内では賄えておらず、房総半島から供給を受けていたとのことです。

こうした実情に対し、明治38年(1905年)に三浦郡農会に赴任した鈴木寿一氏が、東京近郊で当時当たりを取っていた「練馬大根」の栽培を呼び掛けます。これが後に「高円坊大根」と交雑して生じてきた幾つかの系統のうちの優良な一種が、大正14年(1925年)になって「三浦大根」の名を冠して東京に向けて出荷される様になりました。「三崎町史 上巻」では「自然交雑」と記しています(208ページ)ので、この書き方に従えば半ば偶然に出来た品種ということになります。

「目でみる三浦市史」(三浦市史編集委員会 1974年)によれば、大根の船による東京への出荷が始まるのが明治40年(1907年)頃から、更に自動車による東京への出荷が始まるのが大正8年(1919年)頃からとされています(同書130ページ)。やがて「三浦大根」は東京近郊の主要な大根として認知され、昭和45年(1970年)には国の指定野菜となっています。

この「三浦大根」の写真を見ると、長さは一般的な白首大根とほぼ同等ですが、やや下膨れになった姿をしています。坂城町の「鼠大根」の姿に一脈通じるところがあるところから考えると、あるいは「高円坊大根」もその様な姿であったのかも知れません。

「三浦大根」はその後収穫時の労力の多さや潮害などから次第に「青首大根」に切り替えられ、現在ではあまり栽培されなくなっています。とは言え、拘りを持って栽培を続けている一部の農家の方々が、最近では「DASH村」でも紹介されていた様です(残念ながら私は番組を見逃しましたが)。江戸時代初期の地誌に早くも記された大根の子孫は、形を変えつつも現代まで受け継がれていると言えるでしょう。

「波多野大根」については次回取り上げます。

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『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』の補足など

今回は以前の記事の簡単な補足を。

以前『「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について』を書いた際に、twitter上でこんなやり取りをしていました。


この際のツイートが一昨日になってリツイートされたりtogetterでまとめられたりしたのを切っ掛けに、私も改めて以前書いた自分のブログの記事を読み返しました。この記事をまとめた折にはまだ「第1回内国勧業博覧会」の出品目録が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているのに気付いていなかったので、引用した文献の内容をソースに当たってみるという作業をしていなかったのですが、今回読み返すに当たってはそれら出品目録もチェックしてみました。

該当する箇所を書き出してみます。
  • 礦石 (一)相摸國足柄上郡谷ケ村 ◯砥石 (二)靑色 
    (平山村 古瀨左十郎
  • 陶土 (一)薄靑色、大住郡戸川村 (二)白色 (三)アヅキ色 ◯砥石 (四)薄靑色 
    (仝村 桐山金藏
  • 砥石 (一)荒砥、武藏國多摩郡五日市村 
    (仝村 平山藤吉
  • 砥石 (一)淡黑色相摸國愛甲郡小野村 
    (仝村 小瀨村三司
  • 砥石 (一)剃刀砥、津久井郡吉野驛 
    (仝驛 吉野十郎
  • 砥石 (一)荒砥小淵村中村榮助 
    (仝村 中村吉間多

(以下出品目録引用は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、強調はブログ主)


この出品目録は出品者単位でまとまっているにも拘らず、掲載順序が出品物によって分類されており、同一人物が複数の出品を行った場合に、そのうちの最初の1つに合わせて分類されるという順列になっており、特定の出品物に関して出品者を探そうとすると、他の場所も探しに行かなければならないという、少々厄介な構成になっています。ただ、神奈川県から出品された砥石については、その後の追加分も含めて確認した限りでは、この6点ということになりそうです。

これに対し、以前の記事で引用した文章では「秦野市戸川、厚木市小野、相模原市藤野町、山北町谷ケ、川崎市中原区」と一覧が記されていました。このうち、津久井郡吉野駅と小淵村はどちらも相模原市藤野町(当時、現:相模原市緑区吉野・小渕)に属していますので、最初の4地点については上記の引用中の5町村と照合出来ます。しかし、最後の「川崎市中原区」に該当する村(何れも橘樹郡に属する小杉村、上丸子村など約20ヶ村)からの出品は記載されておらず、代わりに現在東京都あきる野市域に当たる「多摩郡五日市村」の出品が記載されています。

この点について、引用した記事を執筆された生命の星・地球博物館学芸員の田口公則様にメールで確認させて戴いたところ、御自身でもこの一覧を確認されて疑問を持たれたものの、私信でやり取りをした際に中原区の名前がとある文献(失念されたとのこと)に掲載されていたと指摘を受けて、引用した様な表記とした旨のご回答を戴きました。

この出品目録は限られた期間に受け付けた出品物をかなり限られた時間内に出版物とするために、後日に補遺を2度にわたって出版し、更に正誤・出品取り消し等の修正一覧を最終巻にまとめるなど、相当に慌ただしい編集を経て世に出たものです。従って、目録に出品物の遺漏のあった可能性がないとは言えないのですが、その出典が果たしてどの様な性質のものであったのか、砥石が出るのが珍しい土地であるだけに気掛かりです。


五日市の位置(「地理院地図」より)
五日市ということであれば、ここは秋川渓谷の麓に当たる地であり、奥多摩の山地南部に当たります。この地域の地質図(リンク先PDF)ではこの地域の地質は砂岩や凝灰岩の地層から成っている様です。「内国勧業博覧会」の出品目録では五日市村の砥石に「荒砥」と記されていますが、これには目の粗い砂岩や凝灰岩が主に用いられることと考え合わせると、確かに地質の特徴と合いそうです。


これだけでは物足りないので、「内国勧業博覧会」出品目録から別の話題を取り上げてみます。

こちらのページの左上には「銕砂」という表記が見えます。
  • 銕砂 (一)三浦郡金田村(二)秋谷村 
    (金田村 菱沼三郎兵衛
  • 銕砂 (一)鎌倉郡極樂寺接地七里ヶ濱 
    (大鋸町 森小十郎
  • 銕砂 (一)公鄕村字猿(島誤植ヵ) ◯白土 (二)字馬門 
    (仝村 石渡忠八

この一覧で「銕砂」が何のことかお気付きになった方もいらっしゃると思います。砂鉄のことですね。七里ヶ浜の砂浜が砂鉄を多く含んでおり、かつてはこれを研磨剤に使っていたことは以前紹介しました。


横須賀市秋谷の位置

三浦市南下浦町金田の位置

「内国勧業博覧会」ではこの七里ヶ浜の他、三浦半島の金田村(現:三浦市南下浦町金田)、秋谷村(現:横須賀市秋谷)、そして猿島(現:横須賀市猿島)からも出品されています。これらの出品者が具体的に何処で砂鉄を採集したのかは不明ですが、何れも海岸に砂浜が伸びる地であり、七里ヶ浜とも近いこともあって何らかの相関性を考えたくなるところではあります。確かに今でも三浦半島の砂浜では砂鉄が多い箇所が多く、砂浜が黒っぽいのが七里ヶ浜と共通する特徴となっています。

この相模湾や東京湾岸の砂鉄については、1950年代の研究論文がPDF化されて公開されているのを見つけました。その後の研究が存在するのかどうかは不明ですが、これに従えば、比較的近い地域から海岸付近に運ばれ、それが海岸付近の湾流や風の作用で砂浜に堆積したものということになる様です。こうした作用が古くから存在したのであれば、七里ヶ浜がかつて砂鉄の供給地であったのと同様、三浦半島に点在する砂浜も、あるいは中世には同様に砂鉄の供給地として機能していたのかも知れません。
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